2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第十一章
「聞こえますか?」
その声に導かれるように、混濁していた意識が、ゆっくりと覚醒していく。
浮かび上がる自我。自分が何者で、何をしていたのか。それらが次第に、焦点を結ぶ。
「あ……起きましたね」
開いた視界の先に、その少女はいた。
「……ミラージュ?」
思わず、俺はそう問いかけていた。それくらい、目の前の少女は、ミラージュにそっくりだった。違うところがあるとすれば、彼女が〝少女〟という点だけだろう。
「間違ってはいませんが、正しくもありませんね。私は確かにミラージュですが、あなたの認識におけるミラージュではありませんから」
条件反射のようなその問いに律儀に答えた少女は、体を引いて俺から離れる。そのお陰で、少女以外のものも視界に入ってきた。
「……神社?」
確信はなかったが、きっとそうだと思った。振り返ると案の定、石造りの鳥居。
「はい。神代神社にようこそ」
そんな俺を、少女はニコニコとした顔で歓迎するが……訳がわからない。
「神代? どうして……ここはDC-Aがあるホールの筈で。そもそも、他のみんなは――」
「ここは、心象領域と言います」
俺の言葉を遮って、少女は答えを示す。
「私が、私の意思で作り出した擬似空間ですが……そうですね……分かりにくければ、夢の中――とでも、思っていて下さい」
「……夢の中?」
「はい、そうです。ですから、あなたはまたすぐに、現実世界に帰らなければいけません。残してきた問題が、まだ山積みでしょう?」
その言葉で、思い出す。
(あの後……アリスはどうなった?)
「アリスは、あなたがすんでのところで助けました。まだ、生きていますよ」
すると、まるで俺の考えを読んだかのようなタイミングで、少女がそう答えた。
「〝まるで〟――では、ありません。私は本当に、人の思念を読み取ることが出来るんです」
再び、少女は先回りするようにそう言って……それでようやく気が付いた。ミラージュにそっくりで、おまけに人の思念を読むことが出来る人物。
「まさか……フジセエニシか?」
少女――いや……エニシは、満面の笑みで頷いた。
「はい。私の妹が、いつもお世話になっています」
正直、理解が追い付かない。それともこれは夢だから、こんなこともあり得るのだろうか?
「そう考えてくれて構いません。それより、少しお話をしましょう?」
そう言うと、エニシは軽く指を振る。可愛らしい二脚の椅子が出現した。
「どうぞ」
勧められるがままに、その片方に座る。どうせ夢なら……と、半ば流れに身を任せていたところもあるのだろう。
(とにかく、今やるべきは……早く夢から醒めて、カズトを倒すことだ)
「カズト君を本当に倒せると思いますか?」
唐突……と言って良いだろう。今までの優しげな雰囲気が嘘のように霧散し、刺すような厳しさを孕んだ視線が、俺を射抜いた。
その視線を受け止め、見つめ返す。フジセエニシ……キリュウカズトの想い人だったと聞いている彼女が俺に向ける、その視線の意図を推し量ろうとして。
だが……俺の考えが読まれてしまうのとは対照的に、彼女の思考はまるで、濃霧の中の交通標識のように捉えどころがない。果たして彼女が何を考えているのか……想像は出来ても、何一つ確かな実感を持つことが出来なかった。
「愚問ですね」
だから、それ以上の詮索を放棄する。彼女の意図も、思惑も無視して、ただ心の赴くままに。思ったままを口にする。
「俺たちは、成せる自信があるから為している訳ではないんです。〝成す必要があるから為す〟。そこに、勝算の有無は関係ありません」
「それでも……勝算が皆無なことに挑み続けるのは、想像以上に辛いものですよ?」
素早い返答だった。俺の考えを読んだ故なのか、それとも予想の範疇内だったのか……いずれにせよ、その返しはあまりにも的を射ているように思われて。堪らず、苦笑してしまう。
「そうかも……しれませんね」
肯定せざるを得ない。勝ち目がないのに続けるのは、きっと不毛なのだろう。もしかすると、時間の無駄遣いなのかもしれない。理性的な人間がすることでは、ないのかもしれない。
「でも……」
エニシの言葉に一理を認めつつ、やはり俺は思うのだ。ほんの僅かな時間でもミラージュの下にいて、そして、イレーネから彼女の物語を聞いたからこそ……思う。
「信じたものを捨ててまで、生きやすさに逃げるような、そんな卑怯者にはなりたくないんです」
ミラージュが生きてきた人生は、平坦ではない。幼い頃に両親と姉を亡くし、その後は悪霊悪魔と戦い続けた。更には人間同士の紛争にも巻き込まれ、その過程で、出会ってきた上司・同僚・部下のほとんどは戦死し、遂には最愛のパートナーを二人とも失った。そして最後には、そのパートナーの裏切りによって、彼女の人生を費やして守ってきた人たちの魂――五十億が消滅したのだ。
それは、熾烈を通り越して苛烈。人間に絶望し、神を呪っても不思議ではない因果。早々とそうしてしまえば、どれだけ楽だったか分からない。
しかし……それでも彼女は信じることを止めなかった。何を? ……〝人の善性を〟だ。
どんな悪人にも、善性が宿っていることを信じた。どんな不幸も、幸福のための試石であることを信じた。それが成就するまでにかかる途方もない時間を、神が許容する世界を信じた。そしてその信念を、俺は美しいと思った。自分の生命を捧げても良い理想だと、そう信じた。それはきっとアリスも。レジスタンスのみんなも……
なら俺たちが諦めるのは、信じた理想に届かなかった時ではない。信じることを止めた時だ。理想と現実のギャップに負けて、卑怯者に成り下がった瞬間だ。
「卑怯者にも、卑怯者なりの理由があるんでしょう。卑怯者になるしかなかったと、そう言い張る理由もあるんでしょう。でも……事実は一つ。卑怯者は、卑怯者です」
思いの外強い言葉が出てきて、自分でも驚く。
何故だろう? と考えてみるが、その理由はすぐに、エニシによってもたらされた。悲しそうに微笑んだ……エニシによって。
「……そうですか。強いですね、信じるものがある人は。愛する誰かを持つ人より、ずっと強い」
愛する誰かを持つ人――それが誰なのか、すぐに思い至った。
「それは……キリュウカズトのことですか?」
「……はい」
エニシは、誤魔化さなかった。
「カズト君は、私たちを愛してくれました。でもだからこそ……狂ってしまった。私たちの最期を知った時、彼は自身を捨てたんです。彼にも信じる理想はあった筈なのに……その理想より、私たちへの愛を取ったんです。それが……誰も幸せにはしないことを知りながら」
そしてエニシは、問う。どこまでも、真剣に。
「あなたは……どうですか? 愛する人よりも、信じる理想を選ぶ覚悟はありますか? 将来、この選択を迫られた時……涙の谷を渡る覚悟はありますか?」
一瞬、アリスの顔が脳裏をよぎる。
正直、彼女を愛している自覚はない。それでも、その顔が消えることを想像した時に、胸がチクリと痛んだのは事実で……きっと、その顔が永久に消え去った時、感じる痛みは今の比ではないのだろう。
「……分かりません」
だから、そう答える。その未来を考えた時、未来の自分の選択に自信など持てる訳もない。
「いざその岐路に立ってみなければ、その問いには答えられません。俺は自分の感情を完全には制御しきれていないし、その時の自分の正義が、信じた正義と一致すると、断言することも出来ませんから」
「……そうですか」
小さな声で、エニシは答える。寂しげな笑みを、その顔に浮かべて。躊躇いがちに、目を伏せる。
「でも――」
そんな彼女の俯き顔に、その接続詞を投げかける。驚いた顔で、再び彼女が、頭を上げた。
「今、俺の頭の中に浮かんだ女性は、気の強い奴なんです。だから多分、俺は彼女を選べない。選ぶことを、許してくれない。何故なら、彼女も同じ理想を信じているから。俺よりも、ずっと長い間、その理想のために生きているから。だから、もし俺がその理想じゃなく彼女を選ぶなんて言ったら、烈火の如く怒られると思います」
少し……正直過ぎたかな、と思う。でも……うん。口にしたら、存外しっくりきた。愛する者に、アリスを当てはめたことも含めて。
「――クスッ」
それにしても、変な回答だったと思う。だから、エニシがビックリした顔をした後に、可愛らしく小さく噴き出したのも、まぁ当然だと思う。
「怖い女性を好きになりましたね。将来が大変です」
一回噴き出しただけでは治らなかったのか、震えたままの声でそう言うと、目尻に浮かんだ涙を片手で拭う。そして――
「でも、本当に素敵な女性だと思います。だから……ここに来たのが、あなたたちで良かった。サキの側にいてくれるのが、あなたたちで良かった」
呟くようにそう言うと、エニシは俺から視線を外し、背後の空を見つめる。釣られて、俺も振り返ると――
「……亀裂?」
空に、大きな亀裂が入っているのが見えた。亀裂の向こうは、漆黒の闇。
「そろそろ、時間です。あなたの魂をここに繋ぎ止めるのも、もう限界」
「じゃあ……ようやくこの夢も醒める?」
「フフッ。そうですね。でもその前に……するべきことがあります」
エニシはスッと椅子から立ち上がると、俺の前で膝をついた。
「現実世界であなたは、カズト君に斬り裂かれ死亡しました。その結果、魂が身体から遊離した。その瞬間が、今です。肉体から切り離された衝撃で、あなたの魂から自我の障壁が消失したその隙に、あなたの魂をここに引き寄せました」
「……はい?」
彼女は……いきなり、何を言っている?
「でもさっき、ここは夢みたいなものだって……死んだら、夢は見ないだろう?」
「えぇ。だからここは……私の夢の中です」
狼狽える俺を優しく包み込むように、そう微笑んだ縁は、そっと俺の手を取る。
「でも、大丈夫。私はあなたをこのまま死なせません。あなたはもう一度、自分の為すべきことを成してください。信じる道を往ってください」
顔は、微笑から笑顔へ。そして、決意を固めた女性の顔へ。
「クロード・フィヨン。あなたはまだまだ未熟です。真に人を愛したことがないあなたは、まだきっと、愛を知らない。でも私は……信じることにしました。共に、同じ理想に生きるあなた方を。あなたたちならきっと、私たちのような失敗はしない。ただ、それだけを信じて……私は私の、最後の約束を果たします」
直後、エニシの体が輝く。握るその手を通して、温かい光が流れ込んでくる。だが……それを感じたのも束の間。まるで麻酔でも打たれたかのように、スーッと意識が遠のいていく。
「カズト君。私は、あなたを……絶対に許しませんからね。だから……」
もう目は見えない。けれど、どこからともなく優しい声だけが風に乗って流れてきて……
「さようなら。最期まで……愛していました」
そして……何も、聞こえなくなった。
***
カズトの刃が振り下ろされる直前、アリスは本能的に顔を伏せた。
動物的な防御反応の現れなのか、それとも憎き仇の顔を見ながら死にたくなかったのか、それは分からない。それでも、彼女が刀の軌跡から目を逸らしたのは確かで……故に、彼女は見逃した。
代わりに、耳がそれを捉える。頭上から降って来た金属同士が奏で合う高音が、想像もしていなかった何かが起こったことを、彼女に告げる。
アリスは、ゆっくり顔を上げた。
「アリス……もう大丈夫だ」
耳が、再び音を捉える。だがそれは、高音ではない。
聞き慣れた低音。今まで何とも思ったことのないその波長は、今の彼女にはこれ以上ない安心感を運ぶ。強張った彼女の心を優しく撫でる。
一本のナイフが、一本の刀を受け止めているのを知ったのは、その直後のことだった。
「嘘……なんで?」
譫言のように、アリスは言う。自分の言葉を確認するように、視線を下へと落とす。
死んでいた筈のクロードが、確かに目を開いていた。
「クロード?」
彼の下半身にも目を走らせてみる。
カズトの刀に引き裂かれ、千切れかかっていた下半身。今は……傷一つない。
「クロード……」
本当は、疑問に思うべきだ。その理由を、考えるべきだ。でも、今のアリスにとって、そんなことはどうでも良かった。心底、どうでも良かった。
だから、再び熱を取り戻した彼を抱きしめる。その衝撃で、涙が溢れる。
「おい……いきなりどうした?」
困惑したクロードの声が、耳元をくすぐった。だが、離さない。離せない。
「……何が起こった?」
そんな彼女を現実に戻したのは、皮肉なことに、仇の声だった。
クロード以上に困惑した……いや、狼狽した声。自分たちをここまで追い詰めた敵のものとは思えないその激しい狼狽に、思わず視線を上げる。
「事象……改変なのか? いや……でもこんな……」
信じられないものでも見たような顔で、カズトが一歩後退さった。まるで、寄り添う彼らの様子を、俯瞰しようとするかのように。だが――
「!?」
突然、鳴り響き始めた警報音。次いで聞こえる、警告音。
『フジセエニシの存在をロスト。フジセエニシの存在をロスト。Dependent Co-Arising――緊急停止します』
「馬鹿な……」
驚愕の表情を浮かべたカズトが、ふらつきながら塔に近づいた。更には、まるで縋りつくように、塔にその全身を預ける。
「エニシ……まさか、本当に? この男に魂を……すべてを捧げたのか? エニシ……」
幾度も首を振り、そして、塔を仰ぎ見る。
「何故だ? そうさせないために、俺は……そうならないために、俺は……」
その様子はあたかも、愛する人の死を嘆き悲しむロミオの如く。
なんびとたりとも立ち入ることを許されない、彼らだけの悲劇の時間。声を掛けるどころか、近づくことさえ躊躇われるほどの、濃縮した絶望のベール。だから、きっと。
今の彼に近づけるのは……
世界中で、彼女しかいない。
「カズト君。お姉ちゃんは、約束を果たしたんだよ」
ミラージュが……
フジセサキが……
カズトが愛した女性の妹が……
そして――
カズトのことを愛していた彼女が、そこに立っていた。
「俺のことを許さないでくれ――六年前のあの日も、カズト君は言ったよね。だからお姉ちゃんは、その約束を果たしたの。私も……その約束を果たします」
覚悟を決めた表情の下には、一本の日本刀。この絶望の影を切り裂くためだけに生まれて来たような、輝かんばかりの見事な
「クロード。いけますね?」
その声に、アリスはハッとして我に返る。
気付くと、横たわっていた筈のクロードがいつの間にか立ち上がり、両の手にナイフを手にしていた。その二本からは荘厳な輝きが放たれて、一目で、霊装であることが分かる。
「……えぇ、勿論」
クロードは静かに頷き、ミラージュも頷きを返す。姉の魂を受け取り、その約束を引き継いだ部下と、確かな意思を交換する。
「あぁ……そうか……」
そんな二人の姿を見て、カズトはフラリと立ち上がった。
「エニシは……こいつに託したのか……理想を、夢を、あの日の俺たちの約束を……」
カズトも、その手に日本刀を持つ。
「それならば……良いだろう。これが、最終幕だ。俺たちが歩んだ二十年の、最後の一幕」
日本刀が、黒く、黒く、染まっていく。
「だから……俺を踏み越えてみろ。この一幕を、新たな序幕とするために。俺たちが届かなかった理想に、手を伸ばしてみろ」
それが、最後の言葉。開幕の狼煙。
アリスが疾駆し、クロードがカズトに迫り、カズトはその場で迎え撃つ。
三つの点が、一つに交わった。
キリュウカズト――史上最強のエクソシストとしての彼の評判を、アリスは何度も耳にしていた。それは、一人の人間の行いとしてはあまりにも誇大に過ぎたから、武勇伝にありがちな、誇張交じりの話なんだろうと今まで考えていたのだが……どうやら、それは過大でもなんでもなく、事実そのものであったことを、アリスは身に染みて痛感している。
目の前では、死闘が繰り広げられている。
それは、天才と名高いアリスから見ても、常軌を逸した戦闘だった。
ほとんど、視認することも出来ない。かろうじて、残像が視界の中に残るだけ。アリスが知る限り最強の戦士であるところのミラージュをもってしても、その速度についていけていないことは明白だった。本来なら、即座に勝負が決してしまっていてもおかしくない状況だ。
にもかかわらず……未だに、死闘は続いている。何故なら――
(本当に……クロードなの?)
彼女の瞳に映じる彼が、キリュウカズトの攻撃すべてを凌いでいるからだ。まさに、電光石火と表現して差し支えない速度の一撃を、完璧に無駄のない動作であしらっていく。その姿は、もはや彼女の良く知るクロードとは重ならない。
速すぎるのだ。
クロードが、未来予知とも呼べる異能を持っていることは、アリスも把握している。しかし、それにしても……
(もう、人間に許される限界を超えている……)
本当なら、アリスも手を貸すべきだろう。この激闘に参戦し、少しでも勝利が近づくべく努力をするべきだ。けれど……
どこから、どう参戦すれば良いのか……そんなことすら、もはや見当もつかなかった。目の前の戦闘は、他の介在を許さない、一個の完成した永久不滅の芸術品のようにさえ見えた。
「――ッ!?」
が、永久に続く事象など存在しない。どんなに完全に見えたとしても、時の流れの中で必ずその状態を変化させる。故に、この戦闘もその帰結を辿るのは当然のこと。
目の前で、クロードの右腕が血飛沫と共に宙を舞ったのだ。
「クロード!!」
悲痛な叫びを、アリスが上げる。しかしその悲鳴は、虚しく一人、宙を漂うばかりだ。
同じく宙を舞っていたはずの腕が、その時にはもう、跡形も無くなっていたのだから。
「え?」
言葉にならない。反射のように出てくる疑問形が、ただ口から零れて消えていく。
いつの間にか、クロードの右腕が甦っていた。
「どうして……」
確かに、腕を切り裂かれたはずだ。胴から離れ、虚空にその身を躍らせていたはずだ。
でも……実はそれも、目の錯覚だったのだろうか?
「!?」
しかし、その事象は繰り返される。
今度は、左腕が吹き飛んだのだ。
しかし、その一瞬後。左腕はまるで何事も無かったかのように、彼の左半身に鎮座している。
いや……何事も無くでは……ないのかもしれない。
「もっと速く……なっているの?」
そう。さっきまででも充分速かったが、更に一段、クロードの速度が増している。腕を立て続けに切断された事実からも分かるように、神速とは言え、まだ――
(キリュウカズトの方が速かったのに……)
しかし今は、二人の力は拮抗しつつあるように見える。つまり、
(クロード、あなた……斬られる度に、強くなっているの?)
理解を超えた、限界を超えた者同士の戦いが今、終局を迎えようとしている。
***
(不思議だ……)
突き出されたカズトの刀を二本のナイフで受け止めつつ、思う。
夢の中でのエニシとの邂逅。あの時流れ込んできた輝きは、夢から醒めた今でも、俺の中に確かに残っていた。そしてその輝きは、俺の魂を優しく包み込み、今なお力を与えている。
今やこの能力は、以前とはまったくの別物だった。
『他の世界線に存在する、自身の身体能力のトレース』――それが、この輝きによって増強された、俺の新しい能力。使い方も……まるで隣でエニシが教えてくれているかのように、何の違和感もなく理解する。
とはいえ……
カズトは強い。それも、とんでもなく。能力を使えなくなって尚、史上最強のエクソシストの名は伊達じゃない。元々劣勢だったミラージュは言うに及ばず、能力を拡充した俺であっても、優勢を確保することはとんでもなく困難だった。恐らく、本当なら既に何度か殺されているだろう。でも――
右腕を斬られれば、近場の世界線から無傷の右腕を見つけ出し、その構造を分析して身体に複写する。すると、腕が回復するだけでなく、その腕が持っていた力まで、俺のものとなって返ってくる。つまり……俺は、斬られる度に強くなるのだ。
故に――
この帰結は、必然。時間を味方につけた俺の攻撃は、無傷で残っていたカズトの片腕を遂に切り裂き、握力が弱まったその手から、日本刀を弾き飛ばした。
「惜しかったな」
だからこそ、カズトにそれを言われた時、すぐにはその意味が分からなかった。
理解したのは、いつの間にか膝が折れ、カズトの前で頭を垂れた後だ。
「――ガハッ!?」
猛烈な心臓の痛み。どこかの内臓から血液が逆流し、口から勢いよく溢れ出る。身体中から力が抜け、倒れないだけで精一杯だ。
「力の使い過ぎだ」
そんな俺に――頭上から、カズトの声。内臓の痛みを堪えつつ、顔を上げる。
「何度も言うが、事象改変の力は魂を摩耗させる。俺とは種類が違う力だが、その本質は変わらない。これから……何度も使うことになる力だ。それくらい、覚えておけ」
ゆっくりと紡がれる言葉。そこに高揚はなく、安息もなく、失意もない。
それはただの言葉。何の感情も籠らない事実の羅列。
だからこそ、頬を伝う鮮血の感触が無ければ、視界に映る状況をそのまま受け入れることは、困難だっただろう。
「それにしても……流石はサキだな。サポートをさせれば……右に出る者はいない」
それでも、カズトの言葉は続く。だが今度は、俺に向けたものではない。
背後。カズトの背中に、身体を寄せるように立っているミラージュに向けられたもの。
彼らは、一本の刀によって繋がっている。
「慣れているからね。カズト君がアタッカーで、私がサポーター。ずっとそうだったでしょ?」
砕けた口調。温かい響き。今、目の前でクロードを刺し貫いている女性は、紛れもなく、俺の知らないフジセサキだった。
「あぁ……そうだな。それで……エニシが、レンジャー」
「そう。三人でワンユニット――それが、ウィステリア・ミラージュ[藤色の蜃気楼]」
黒と赤。異なる色の同じ液体で身を飾った二人が、楽しそうに笑い合う。まるで、悪戯をして全身に絵の具を被った、幼い子供たちのように。
「サキ。一人で……大丈夫か?」
久しぶりに笑い合い、満足したのだろうか。心配そうにカズトは首を巡らし、背後から己を刺す、ミラージュを見つめる。
「うん、大丈夫だよ。今の私にも、仲間がいるから。それに私は……忘れないから、絶対に」
そんなカズトに、笑いかけるミラージュ。片目からは、一雫の涙が流れ落ちる。
「そうか……そうだな……」
その涙を見送って、カズトは穏やかな顔で小さく頷くと……ゆっくりと、腹部から伸びる刀に手を添えた。
直後、消える刃。ミラージュが一歩離れ、カズトは身を翻し……流れる血液で、床に一本の線を描き出す。それは、数十メートルの曲線を成し、その終点に巨塔を結ぶ。
DC-A――既にエニシの魂はなく、抜け殻となった建造物。そこにカズトは五本の指を走らせて、あたかもキーボードを操作するように、何かを打ち込み始めた。
一分ほどの時間が、流れただろうか。
「……これで、日本にあるセキュリティシステムはすべて停止させた」
塔から手を離したカズトが、ミラージュの方に向き直る。
「ここの自爆装置のロックは外したから、俺があと一回タップすればこの施設も崩壊する。そうすれば、もうセキュリティが回復することはないだろう。自爆までは……そうだな。二時間もやれば、十分か?」
「うん、それで良いよ」
ミラージュの返答は、ただそれだけ。カズトも、もう言葉は発さず、ただ静かに頷いた。
ミラージュは、踵を返す。
「クロード、アリス。動けますか?」
「……はい、大丈夫です」
アリスが答え、俺は試しに足に力を入れる。幸い、既に身体の自由は戻っていた。
「俺もいけます」
答えつつアリスに駆け寄り、立ち上がろうとしていたその身体を支える。まだ若干ふらついていたが、顔色はだいぶ良くなっていた。恐らく、既に解呪されたのだろう。
「では、急ぎましょう。制限時間は、二時間です」
そんな俺たちの様子を一瞥したミラージュは、いつものように指示を出すと、スケート・ウェポンを起動させた。身体が数センチだけ、ふわりと宙に浮く。
「さよなら、カズト君」
走り出す刹那、ミラージュは掌に花を咲かせた。
それは、藤色の可愛らしい桜花。風に乗ってふわりと宙に浮く様は、まるで本物の蜃気楼のように幻想的で……
その蜃気楼は空中で三回転すると、導かれるように空を走って、カズトの足元へと飛んで行った。
だが、最終的な行き先は、誰にも分からない。
見届けることなく踵を返したミラージュは勿論。その後ろ姿についていこうと、慌ただしく滑り出した俺とアリスにも、後ろを振り返る余裕など、ある筈もなかった。
でも……
声は聞こえた。
その声は、とても小さな囁き。既にホールから姿を消していたミラージュにも、俺のすぐ前を走っていたアリスにも、きっとそれは、聞こえなかっただろう。
(あぁ……果たして彼は、何を言ったのだろう?)
だから俺は、走りながら、それを思う。
俺の知らない言語。聞いたことのないフレーズ。聞き慣れない奇妙な音階。
どこか懐かしくも感じる、ある種独特なその響きは、きっとすぐに耳から滑り落ち、跡形もなく消え去ってしまうことになるのだろう。
でも、もし仮に。帰った後も、それを覚えていることが出来たなら。
気まぐれに、この時のことを思い出すことがあったなら……
「常闇に 蜃気揺らぎて むげん舞い……草はみながら あはれとぞ見る」
いつかミラージュに……伝えたいと思う。
十二
オーストラリア大陸北東部のクイーンズランド州は、比較的雨が多い。特に、レジスタンスが全線基地を設けているここケアンズは、湾岸都市かつモンスーン気候ということもあって、高温多湿だ。
それでも、今日は珍しく雲一つない青空が広がっていて……まさに、神が今日という日を祝福してくれているようだと、そんな風に思う。
「はぁ……こんなところにいたの」
突然、背後から呆れたような声が聞こえてきて、俺は振り返った。
「アリス……お迎えか?」
「違う。〝お目付け〟よ」
言いながら、ジトリとした目を俺に向けてくる。
『降参』という意志を込めて、両手を上げた。
「分かった、悪かった。もう戻るよ」
今は、戦勝記念の祝賀会の真っ最中。帝国の根幹システムたるDC-Aを壊した功労者である俺は、望むと望まぬとに関わらず、この会の主役の一人だった。だからこそ、同じ主役の一人であるアリスが、抜け出した俺を呼びに来たのだろう。
「だから、お迎えじゃなくてお目付け。てことで、まだ戻らなくて良いわ」
しかし、どうやらそうではなかったらしい。そんなことをすまし顔で言ったアリスは、サッと俺の横まで来ると、そのまま隣に陣取った。
推測するに、アリスもあの場の空気に耐えられなくなって、抜け出してきたのだろう。
「いる?」
アリスは柵に背を預けると、俺に向けて、グラスを掲げた。ちなみに、逆の手にはもう一つのグラスが握られているため、ここで俺が受け取らなければ、アリスは二つのグラスに交互に口をつけることになる。
「貰うよ」
流石に、そんな状況で誘いを断るほど野暮じゃない。素直にグラスを受け取って、彼女のグラスと、軽く触れ合わせた。
「「乾杯」」
二人で挙げる、小さな祝杯。
今日一日で、既に何十回も祝杯を挙げてきたのに、まだアリスと二人では挙げていなかったことを思い出して……心が温かくなる。
そんな気持ちを代弁するように、ぐいっと煽った液体が心地よい熱を俺に伝えて、すぐにそれは、喉から胃、そして全身へと広がった。
「喉、乾いてたの?」
そんな俺を可笑しそうに見つめたアリスが、チビチビとグラスを傾ける。その動作は、別段特別なものではなかったが……何故だろう? 今はそんなことでも、とても美しく見える。
「あぁ、そうだ……」
不意に、アリスが思い出したように口を開いた。
「本土――ユーラシアから連絡が入ったわ。DC-Aが機能を停止して、異常に気付き始めた人が多くなってきたみたい。軽く、混乱状態になっているそうよ」
「そうか……」
目を細める。
結局、あの作戦の生還者は、俺たち三人を含めても七人だけ。カールハインツ大佐の部隊は一人も戻らず、タテミナカタに突入した他の仲間も、皆死んでしまった。特にイレーネはレジスタンスの中核メンバーの一人だったから、その衝撃は大きい。
でも……
その成果は、確かにあった。帝国をユートピアに仕立てていた楼閣は崩れ去り、ディストピアとしての顔が、覗き始めている。
恐らく、人々も薄々気付いていたのだ。悪に蓋をして得られた善は、しょせん偽善であり、更には蓋をした者の、独善にしか過ぎないということを。
「これから……混乱は大きくなるでしょうね」
だが、両手を上げて喜ぶことも、また出来ない。仮に虚飾でも、善が剥がれ落ちれば悪が顕在化するのは自明の理。きっとこれから、大変な時代が来る。
ただ……それでも……
「あぁ……だけど俺たちは、それでも乗り越えられると信じてる」
なぜなら、知っているから。
「悪によって苦しめられることがあっても、逆に悪に魅入られることがあっても、それでも人は、成長できる生き物だから」
どんな苦難や困難も、それは一つの経験だ。人は経験を叡智に変え、更に一歩前へと進む。
「だから大丈夫。どれだけ掛かるかは分からないけど、人はいつか、必ず本当のユートピアに辿り着く」
人の善性を信じよう。善に向かおうとする、その本能を信じよう。その信念さえ失わなければ、夢の未来は、必ず開く。
「そうね。明けない夜は……無いのだから」
アリスも、その言葉に小さく頷くと、優しい微笑を浮かべ、俺の肩に頭を預けた。
「少し……酔い過ぎたみたい。酔いが覚めるまで……このままで」
愛しい声が鼓膜を震わし、芳しい香りが、鼻腔を満たす。
見上げると、満天の青空が、俺たち全員を包み込んでいた。太陽から降った光が、地上の生きとし生けるものを、美しく輝かせている。
(あぁ……本当に……)
だから俺は、思うのだ。
たとえ何があっても。どんなことが起こっても。
どんな悪や理不尽が、目の前に山と積まれたとしても。
それでも……
世界は今日も、静かに回っている。
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