2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第十章

「姉は、とても特殊な能力を持ったエクソシストでした。何故なら、肉体を持たない――つまり、死者だったからです。小さい頃に自動車事故で亡くなり、しかしあの世に帰ることはせず、ずっと私のそばで、私を支えてくれていました」

 再び塔に視線を戻したミラージュは、立ち上がりつつ、語る。

「ただ、姉が特殊だったのはそれだけではありません。姉は、人の想念を読み取ることが出来たんです。人が表面意識で何を考えているか、どんな思いを放っているか、それを即座に知ることが出来る。だから、評議会からは大変評価され、重宝されていました。ですが、今から考えると……きっと、この時のための布石だったのでしょう」

 ミラージュが、目前の巨塔を見つめる。

「六年前のあの日……私と姉とカズト君は、ここにやって来ました。驚きました。久しぶりに訪れた故郷が、まるで要塞都市のように様変わりしていたんですから。カズト君は、そんな驚く私の手を取って、山を登り始めました。当時は、あんな便利な連絡橋はなかったんです。だから……二時間くらいは登ったと思います。この塔が突如視界に現れて……それが起こりました」

 そして、ミラージュは視線を塔から外した。しかし、今度は俺たちの方へは振り返らない。巨塔の奥。その向こう側の空間に視線を這わせる。

 やがて……俺にも見えてきた。

「久しぶりだね、サキ。少し……痩せたかな?」

 そこには、一人の男性が立っていた。

 壮年の東洋人。髪は白。顔中に刻まれた皺と傷跡から、彼の人生の壮絶さが滲み出している。ひと月前。訓練場で出会った、13SSの分隊長だった。

「カズト君は、嫌な顔になったね。まるで、物語に出てくる死神みたい」

 そしてその分隊長に、ミラージュはそう返した。彼のことを……『カズト君』と呼んで。

「仕方ないよ。俺は死神そのものだから。俺のせいで――」

 ミラージュのその返しに、分隊長――キリュウカズトは泣きそうな顔で微笑んだ。

「五十億の人が死んだんだ」

「カズト君……」

 その一言を聞いて、ミラージュもカズトと同じくらい泣きそうな顔をする。けれど……

「ねぇ? ……なんでなの?」

六年もの間、迷子になっていただろう彼女の想いが、堰を切ったように零れだす。

「なんで、こんなことしたの? 私たち、世界を守るために戦ってきたよね? ずっとずっと何年も……仲間を沢山失っても……大切な人を犠牲にしてでも。それでも……それなのに……」

それはもう、ほとんど慟哭だった。

「ねぇ……なんでなの!?」

 ミラージュの叫びが、空気を震わす。

俺は今まで、こんな感情的なミラージュを、見たことがない。

「みんな……みんな死んだんだよ!? 私たちがずっと守ってきた人たち、みんなが!」

 気付くと、ミラージュの瞳からは涙が流れていた。子供のように顔をくしゃくしゃにして、縋るようにカズトに言い募る。

「お姉ちゃんのこと、愛してくれたよね!? 私のことも、あんなに大切にしてくれたのに……なんで!? なんでみんなを……私たちを裏切ったの!?」

「お前たちを……守るためだ」

 しかし――

返ってきたのは、そんな一言。ミラージュの魂からの慟哭に、カズトが返したのは――

「評議会からお前たちを守るには、もうそれしか方法がなかった。彼らが望む、この『偽りの理想郷ユートピア』を建国する。それ以外に、もう選択肢は残されていなかったんだ」

 そんな要領を得ない、けれどどうしようもなく、残酷な言葉の連なりだった。

「……意味が……分からない」

 だからこそ、その答えを聞いて、ミラージュは声を震わせる。

「意味……分かんない!!」

 そして、叫んだ。同時に、カズトに向かって飛び込む。片手に持った日本刀の切っ先を、真っ直ぐに彼へと突き入れて。

「分かる必要はない。これは、訪れなかった未来の話だ」

 けれど、その切っ先は届かない。いつの間にか、カズトの右手にもまったく同じ見た目の日本刀が出現し、迫りくる刃を抑えたのだ。

ミラージュが、顔を歪める。

「それじゃ分からない!! カズト君はいつもそう!! なんで何も教えてくれないの!?」

「意味がないことを知っているからだ。たとえすべてを話しても、結果は何も変わらない」

「そんなの、分からないじゃない!!」

「分かる。俺はもう、その未来を幾度も体験してきたのだから。あらゆる未来を体験し、その結果選び取ったのが、今の現実なんだ」

 ミラージュが、唇を噛む。それは、カズトの言葉が決して嘘ではないことを知っているからだろう。カズトの権能――過去改変。俺と違って、過去に干渉する術を持った彼ならば、あらゆる未来を体験したうえで、望む現在を選び取ることが可能だ。でも、それなら――

「だったらなんで……なんで! こんな『今』にしたの!?」

 そう。神の如き権能を持った彼ならば、ミラージュたちと共に歩む未来だって選べたはずだ。

「言ったはずだ。他に選択肢が無かったと」

 しかし、カズトはその考えを否定した。

「俺は過去を変えられる。それでも、決して全能ではない。変えた先の未来で、お前たちが無残に殺されることを止める術は、何一つ持ち合わせていないんだ」

「――ッ! それでも!!」

 しかし、ミラージュは引かない。一層強い光を、瞳に灯し――

「それでも私は、二人と一緒が良かった!!」

 心からの願いをカズトにぶつける。

 世界のために、みんなのために――それは決して嘘でなくとも、しかし同時に、止めることのできない彼女の願い。

「あなたとお姉ちゃんが一緒なら私は、たとえ死んでも良かったのに!!」

 その慟哭は、聞き流すにはあまりに重く、そして苦しい。

 でも、だからこそ……

「…………俺も――」

 カズトも、自分の願いを口にすることにしたのだろう。

「俺も……同じだったよ、サキ」

 あぁ……それなのに……

「お前たちと一緒に生きられるなら……せめて、お前たちと一緒に死に逝けるなら……そんなことを、幾度願ったか分からない」

俺は、こんなにも悲しそうな表情を他に知らない。

こんなにも苦渋に満ちた願いを、他に知らない。

「でも、無理だったんだ」

 こんなにも絶望に彩られた言葉を……他に知らない。

「俺の目の前で……サキ、お前が磔にされた」

 語られる言葉は、確かに実在した、未来の欠片。

「ある未来では両腕を切り落とされ、炎の中に投げ込まれたこともあった。両眼を抉られたお前の生首が送られてきた時は、涙が枯れるほど泣いた。それに……あぁ……今でもはっきりと思い出せる。溶けた鉄を口から流し込まれたエニシが発する、身の毛もよだつあの悪臭を。足先から徐々に潰され泣き叫ぶエニシの、耳を覆いたくなるあの悲鳴を。今でもはっきりと……思い出せるんだ」

 その未来の断片は、聞くだけで吐き気を催す歪な欠片。聞いただけで気分が悪くなるほどの、未来の数々。無関係な俺でさえ、これほどの不快感を抱くのだ。ならば、愛する人がそんな目に遭う瞬間に幾度も遭遇したカズトの苦しみは、もはや想像することすら烏滸がましい。

 が、故にこそ……それがどうしようもないくらいに、答えだった。

心からの願いを否定して、『今』という現実を選んだ、ただ一つの、けれどこの上ない理由。

「だから俺は、この世界を選んだ。絶望の未来から目を背け、エニシの封印あんそくの上に成り立つ、この『偽りの理想郷ディストピア』を選んだんだ」

 カズトの独白が終わる。最後にそれは、一つの問いで結ばれる。

「そしてその世界では、サキ。お前は自由に生きられるはずだったんだ。評議会も、お前にはもう手出しをしないことを約束してくれた。けれどお前は……その道を選ばなかった。だから最後に、俺からも聞かせてくれ。何故だ? 何故、エニシの犠牲を無駄にした? エニシは昔から、おまえが〝普通の人〟として生きられる世界を願っていたのに」

 いつの間にか、カズトの表情から感情が消えていた。苦渋に満ちた表情は消え失せ、『最後』という宣言通り、無感情のままこの邂逅を終えようとしている。

 だから……だろうか? ミラージュも――ゆっくりと、刀を降ろした。

「……当たり前だよ」

 そして言う。涙を拭って、顔を上げて、真っ直ぐにカズトを見据えて。

 いつも通りの、ミラージュの表情で。

「私はエクソシストだから。愛する人を失っても、愛する人に裏切られても、大切な世界を壊されても、それでも私は、エクソシスト《悪魔を祓う者》なの。だから私は人の善性を信じるし、その善性を汚そうとする悪魔を、決して許さない」

 見つめ合う。二人の視線が交錯し、二つの想いが火花を散らす。

「あぁ……そうだな。お前なら、そう言うだろうことは、分かっていた」

 先に目を逸らしたのは、カズトだった。

「そしてエニシも、きっとおまえと同じことを言うんだろう。それが、お前たちだ。そんなお前たちだからこそ、俺はあの日、教室の片隅で一人静かに座っているお前に話しかけたんだ。お前たちを守れる存在になろうと、心に誓ったんだ」

 ミラージュは答えない。じっと、カズトの言葉を待つ。

「だから俺は、その誓いだけは守り抜く。愛する人を失っても、愛する人を裏切っても、大切な世界を壊しても……それでも俺は、エクソシスト《誓いに殉ずる者》だ。故にこそ、最後まであの日の誓いを遵守する」

 カズトが、刀を構えた。ミラージュも、刀の切っ先をカズトに向ける。

「だからサキ。ここでお前は、俺が殺そう。評議会に囚われる前に、お前の魂をこの世界から解放しよう。そうすれば、ようやく俺は、あの日の誓いを果たすことが出来る。それが俺の最後に残った唯一の存在理由であり、そして、そのためになら、俺は……」

 その刹那――

「――!?」

 カズトが…………消えた。


「神の摂理をも、敵に回そう」


「―――――」

 一瞬だった。

 視界から消えたカズトがミラージュの背後に突如現れ、同時に辺り一面が真っ赤に染まる。

「流石だ、サキ。今ので、急所を逸らすか」

 その真っ赤な世界の中心で、日本刀から滴る血飛沫で地面に半円を描いたカズトが、ポツリとそう呟いた。その背後では、背中から血をまき散らしたミラージュが、音もなく崩れ落ちる。

 俺は……声を出すことも出来ない。

「すまない……すぐ、楽にする」

 その間も、しかしカズトは止まらない。一瞬だけ顔を悲しそうに歪ませると、ゆっくり刀を振り上げる。その刀の行先は、ミラージュの首筋。振り下ろされれば、まず助からないだろう。

「…………やめろ」

 その現実を前にして、ようやく俺は動くことを思い出した。神速の斬撃を前に働くことを忘れていた力が、ようやく本来の役目を思い出した。

 取るべき未来の道筋が、脳裏によぎる。


 ――キンッ!


 その未来像通り、そんな甲高い金属音を残して、カズトの刀が空中を飛んだ。

 アリスの矢がカズトの手の甲を突き破り、俺のナイフが刀を吹き飛ばしたのだ。

「……驚いた。優秀なんだな」

 飛んで行った刀を目で追いながら、カズトは言葉とは裏腹の口調で呟く。

「母さんの負の遺産は言わずもがな、そちらのお嬢さんもかなりのものだ。流石は、生きてここまで辿り着いただけのことはある」

 カズトの視線が、初めて俺たち二人に向けられる。底冷えするほどの、冷たい視線。

「それに、かなり美しい。本当なら、モーニングタイムを一緒に楽しみたいところだけれど」

 直後、心臓を鷲掴みにされたような痛みが、全身を駆け抜けた。

「今は忙しいんだ。後にしてくれないか?」

「――ッ!?」「かはっ!?」

 気付くと、床に膝をついていた。視界一杯に薄汚れた灰色が広がり、あっという間に意識が歪む。

 ドサッ――

 だが、隣から聞こえてきた鈍い音で、俺の意識はすぐさま現実へと引き戻された。

「アリス!?」

 動かない身体を叱咤し、起き上がる。

 隣では、アリスが苦悶の表情を浮かべて倒れていた。口元には……吐血したのだろう。大量の血液が付着している。

「アリス!!」

 もう一度彼女の名前を叫んで、その身体を抱き上げた。

「かつての友人に教えて貰った責苦の呪いだが……どうやら彼女には、出来損ないながらも既に掛かっていたようだな。図らずも、重ね掛けになってしまったか……」

 その間にも、アリスは幾度も吐血を繰り返していた。すぐに、俺の服が真っ赤に染まる。

「くそ……どうすれば……」


「カズト君を殺しなさい。それで呪いは、無効化される」


「!?」

 突然聞こえてきたその声に、振り返る。すると、そこには……

「……イレー、ネ?」

 変わり果てたイレーネの姿があった。全身が血に塗れ、右手も付け根から無くなっている。

「流石はイレーネ。13SSの初代メンバーは伊達じゃないな。俺も部下をもっと教育しないと」

 けれど、そんな変わり果てた姿など意に介さないとばかりに、イレーネの登場にカズトが感嘆の声を上げ、次いで、嬉しそうに微笑む。

「でも良かった。これで、イレーネも俺の手で殺せる。あなたにはお世話になったから、ちゃんと恩返しをしたいと思っていたんだ」

「悪い冗談ですね。でも、もし少しでも私に恩義を感じているのなら、アリスにかけた呪いを今すぐ解きなさい」

 言いながら、イレーネは片足を引き摺りながら俺たちに近づき、そっとアリスの額に手をかざす。直後、アリスの吐血が止まった。

「やはり……精神に干渉するタイプの呪い……しかも、シジョウとサクライの合作か。これじゃ、大した時間稼ぎにもならない」

「重宝してるんだよ。お陰で、ホクシンの守りは随分頑強になった。まぁ今回は……それでも突破された訳だけど」

「意外でしたか?」

「いや、想定内だ。そもそも、ここまで辿り着いて貰わないと困る」

 その言葉で、イレーネが唇を噛んだ。

「やはり……そういうことでしたか。少し……偶然が過ぎると思っていたんです。北京のデータセンターの障害と、タテミナカタに関するデータをフランスに……それも、パリ特別士官学校の生徒が訪れるザンヴァリッド駐屯地にバックアップする。その情報自体も、13SS相手にしては随分簡単に引き出せましたし……もう少し、警戒するべきでした」

「警戒しても、動かない選択肢はなかったでしょう? それはあなたたちにとって、喉から手が出るほど欲しい情報だった筈だ。それに……13SSが不甲斐なかったのは、俺の仕込みではなくて、彼の功績だよ。彼が事前にジルの心をへし折っていたからね」

 カズトの視線が、俺に向く。

「君たちに情報を渡すついでに、母さんの負の遺産の実力でも見ておこうと思っただけだったんだけど……まさか、ジルを倒してしまうとはね。アレには少し驚いたよ。更に、君がレジスタンスに参加していて二重にびっくりだ」

 母さんの負の遺産――先程も聞いたそのフレーズで、確信した。

 カズトは元々俺を知っていた。そしてあの日、訓練場に現れたのも……どうやら偶然ではなかったらしい。

「それは重畳です」

 その時、イレーネが立ち上がった。どうやら、今の間に応急処置は済んだらしく、少しだけ、アリスの呼吸が穏やかになっている。

「ではカズト君。驚くついでに、もう一つ驚かせてあげます」

 立ち上がったイレーネは、そんな不敵な言葉を投げ掛けると、俺とアリスの前に出る。残った左手からは、目に見えるほどの霊気が噴出していた。

「驚かす? 残念だけど、イレーネの技は――」

 そんなイレーネの言葉を、カズトは苦笑まで浮かべて否定するが……最後まで言い切る前に、その声は遮られた。

 まるで地面から生え出てきたように、一本の刃がカズトの右手を貫通したのだ。

 それは、ミラージュの起死回生の一撃。恐らく、イレーネがカズトに目眩しをかけたのだろう。カズトなら決して逃れられない速度では無かったと思うのだが、ミラージュの刃は確かに、カズトに到達していた。だが……

(軌道を……逸らされた?)

 確信は無かったが、ミラージュの刀はカズトの腹部を狙って放たれていたように見えた。しかし、結果的に刺さったのは腕。

 嫌な予感がして、慌てて未来を見る。

 ミラージュは、カズトの背後にいた。いや、もしかすると現実世界でも、既にそこに移動していたのかもしれない。彼女の動きは早過ぎて、今の俺では正確に捉えるのは難しい。

 いずれにせよ、カズトの背後に回り込んだミラージュは、その背中に掌底を打ち込む。刀が手元に無いが故の選択だろうが、それでも、威力は十分だ。骨を粉砕し、内臓を破壊するだけの力はある。だが――

当たらなければ、意味がない。

「駄目だ!!」

 その次の展開を垣間見た俺は、間に合うはずもないのに、叫んだ。

「良い連携だ」

 だが、返ってきたのはその言葉。BGMは、吹き飛んだミラージュが壁に激突する鈍い音と……イレーネの身体を、ミラージュの刀が貫通する粘着音。

 俺はただ立ち竦み、その様子を見つめることしか出来ない。と言っても、未来視で見ていなければ、何が起こったかすら、分からなかったろう。

 カズトは、背に左手を回して掌底を受け止めると、あり得ない方向にミラージュの腕を捻った上で、ホールの壁に向けて投げ飛ばしたのだ。しかもその間に、口で右手に刺さった刀を引き抜き、それをイレーネに向かって投擲している。

 もはや、人間の所業ではなかった。

「お休み、イレーネ。今まで、サキをありがとう」

 そして口にする、別れの挨拶。

 その言葉が終わるのを待っていたのか……イレーネに突き刺さった刀が、音もなく消失した。更には、まるでそれに支えられていたとでも言うように、イレーネもその場にドサっと倒れる。腹部からはおびただしい量の血が溢れ、瞬く間に、辺りを血の海へと変えていく。

「さて……あとは、君だけか」

 カズトの身体が、俺へと向いた。

「……」

 答えられない。確認するまでもなく、カズトの言葉通りだった。

 ミラージュは、壁に血の跡を残したままピクリともせず、イレーネは血溜まりの中で息もなく、アリスは半眼のまま、浅い呼吸を繰り返している。

 この広いホールの中で、立っているのは、俺とカズトだけだった。

「運命だな。血を分けた俺たちが、物語の最後の幕を下ろすか……」

 演劇の台詞のように、されど、ただただ自嘲気味に、カズトは言う。

「クロード。やはり君には、少しは力が流れているようだね。今の反応、未来を見ていたとしか思えない。俺とは、また違ったタイプの力だ」

「……あんたのは、過去改変だったか?」

 慎重に相手の動きを見ながら、その会話に乗る。もう後がない以上、時間稼ぎこそが、今の俺には最も必要なことだった。

「その通りだ。だが……残念なことに、俺の魂は既に摩耗し切っている。だから……もうこの力は使えない」

「良いのか? そんな弱点を晒すようなことを言って」

「構わないさ。だって――」

 カズトが、わざとらしく肩をすくめてみせる。

「君たちを相手にするだけなら、それでも……お釣りが来るからね」

 否定したいが、目の前の光景がそれを許してくれない。確かに、ついさっきまで、それは紛れもない事実だった。だから――

「あんたらの……動画を見たよ」

 だからこそ俺は、今しばらく会話を続ける。時間稼ぎを続ける。

「動画?」

「日本を発つ直前に撮った動画だ。仲の良さそうな……三人が写っていた」

「あぁ……あの動画か……」

 カズトが、懐かしそうに目を細める。

「イレーネが撮ってくれたんだ。思えばあの時が……人生で一番幸せだった」

「なら、何故やり直さない? ミラージュの手を取る。それだけで、あんたは失った物の半分を取り戻せる」

 時間稼ぎではあったが、今のは本心からの疑問だった。確かに、彼はエニシを失ったのかもしれない。しかし、まだミラージュはここにいるのだ。

「愚問だよ、クロード」

 しかしカズトは、首を振る。

「エニシを一人、人柱にしてノウノウと生きる。そんな未来は選択肢にもならない。それに何より……俺は『誰かが愛した億の命』を捨てて、『自分が愛した二人の命』を選んだんだ。その選択をした俺には、逃れ難い罪と責任がある」

 カズトの目から、全ての感情が消え去った。

「全ての犠牲の上に成り立つこの世界を、俺は護る。そしてその道がサキの道と交わらない以上、俺に出来ることは……彼女がこれ以上苦しまないように、俺の手で殺してやることだけだ」

 直後、カズトの殺気が爆発した。

「喋り過ぎたな……そろそろ、終わりにしようか」

 その言葉が終わると同時に、またもや、カズトの身体が消えた。

 そして……やはり見えない。俺の動体視力では、本気になったカズトの動きは捉えられない。その事実は、変わらない。だけど……ギリギリ。

 ギリギリで、時間稼ぎが間に合った。

 ナイフを虚空に走らし、次の瞬間、そこに現れた日本刀を受け止める。

「ほぉ……止められたこともそうだが、よく日本刀で来ると分かったな……」

 カズトが、意外そうに目を見開く。

「未来を読むその能力……明らかに、最初の頃より精度が上がっている。どうやら、最適化は済んだらしい」

 そう……カズトの言う通り。今の時間稼ぎの間に、俺は何度も未来との邂逅を繰り返し、莫大な数のノード(未来の事象)の組み合わせを試行していたのだ。お陰で、兆を超える組み合わせの中から、最も可能性の高い未来を導き出せている。計算方法の最適化も完了したため、再計算に必要とされる時間も僅かだ。

 今なら、その動きは認識できずとも、カズトの攻撃についていくのも不可能ではない。だが……ついていくだけでは駄目だ。こちらから、攻めなければ。

 未来の映像に意識を向けながら、第一手目を放つ。敵は当然避けるから、次は右から二手目。ナイフを受け止めた敵の刀を四十度横に倒し、出来た隙間に、ナイフを投擲して三手目。次に、四手目は……と、ノードを一つずつ潰していき、戦闘終結までの道筋を辿る。

 だが十二手目で、可能性は高くないと踏んでいた未来――敵の反撃が来た。

 こちらの攻撃を飛び退いて避けたカズトが、今度は跳躍し、上段から刀を叩き込んでくる。

 『受けられない』

 未来の俺が、冷静に結果を伝えてくる。俺は上空のカズトに向けて、ナイフを投擲した。

 結果、ナイフが刀の威力を殺し、かろうじて払える程度のものになる――筈だったが、カズトの身体が空中で横滑りし、ナイフの軌道から外れた。

(チッ……化け物が!)

 今のは、完全に予測外の展開だった。慌てて、頭の中に構築していた行動予測のネットワークを十七層ほど戻してやり直す。

 間一髪、間に合った。

 カズトの刀が、俺の服を切り裂きながら通り過ぎていく。俺は床を一蹴りし、五メートルほど後退した。

「及第点だ」

 対してカズトは、飛び退く俺を追走したりはしなかった。まるで試験官のようにそう言うと、クルリと刃先を斜め下前方に向ける。

「ただし、経験不足だ。戦場では、あらゆるものが、戦局を決定づける転機になり得る」

 その言葉で、ようやく気がついた。その刃先の示す先――俺の前方、そしてカズトのすぐ前に、一体誰が倒れているのか……

「――ッ!?」

 見落としていた。あまりにも多数に上る敵の攻撃手に対応するのが精一杯で、俺以外を攻撃対象にしたその一手を見逃していた。何よりも見逃してはならない、その一手を。

(――間に合え!!)

 考えるより前に、身体は前に飛び出している。

 しかし……ここからの距離は、約四メートル。対し敵からの距離は……僅か一メートル弱。

 最悪の未来が、すぐそこにあった。


     ***


(……身体が、動く?)

 呪いを受け昏倒していたアリスは、先ほどまで襲い掛かってきていた酷い激痛が薄れ、再び身体が制御下に戻っていることを自覚した。

(理由は……分からないけれど、でも……)

 激痛によって前後不覚になっていたせいで、アリスはイレーネが呪いを緩和してくれた事実どころか、彼女が登場したことさえ知らなかったが、それでも再起のチャンスが来たことだけは理解した。

 とは言え……〝絶不調〟という言葉がまだ生温いと思えるほどに、アリスの身体が満身創痍なのも、また事実だった。恐らく、立ち上がることにさえ危険が伴う。

 しかしアリスは、少しずつ五感を元に戻しながら、足腰に力を入れた。果たして、今がどんな状況なのか、戦いの趨勢がどうなったのか、それを知る必要があったからだ。

(いや……知るだけじゃ駄目)

 勿論だ。戦わなければならない、彼と共に。

 何故なら、アリスは約束したから。アリスは彼を守り、彼はアリスを守ると。だから――

「……大丈夫か? アリス」

 遂に上体を起こし、顔を上げたアリスを彼の声が迎えた時、本当なら「大丈夫」と、そう一言答えて、微笑みたかった。

 そして「今度は私の番ね」と、そう悪戯っぽく囁いて、彼の隣に立つべきだった。

 それなのに……

 彼女の目の前には、刃先があった。その先端からは、ポタポタと真紅の血液が床に垂れて……その血液の跡を辿って、視線を少しずつ上げていく。

 でも本当は……見たくなかったのだ。

 しかし見なければ、今頭の中に浮かんでいる馬鹿げた妄想が現実なのだと、自ら認めてしまうようで。それはきっと、耐えられない気がしたから……

「ク……ロード?」

 あぁ……でもやっぱり、見なければ良かった。いつだって、現実こそが馬鹿げている。そんなことは、分かりきっている筈なのに。

「クロード。君なら、そう動くと思っていた」

 彼の向こうから、そんな声が聞こえた。

「君には力がある。それは、人智を超えた力だ。他の誰もが、持ち得ない力だ。しかしその力も、更なる超越者の前では、何の助けにもならない。愛する人一人、守ることすら難しい。俺が……そうであったように」

 直後、刀が振り払われた。

 刀は、クロードの身体を二つに引き裂き、血溜まりの上に投げ捨てる。

「だからせめて、彼女に苦痛がないように。苦痛を味合わせないように。それだけしか、俺たちには許されていないんだ。君が、彼女のために生命を投げ打ったのは、つまり、そういうことだろう?」

「……クロード?」

 声は、なにやらまだ続いていたが、アリスの耳にはもう入ってこない。

 アリスは、血溜まりを這って進む。それは、健常者からすればとても些細な動きに過ぎなかったが、今の彼女には、大変な苦痛を強いた。それでも彼女は、一瞬たりとも止まりはしない。自分を守ってくれた彼の許に。一刻も……早く。

「クロード、ねぇ……」

 ようやくクロードの上半身に取り付き、アリスは彼の顔に触れる。既に体温を失いつつある、彼の顔に。

「しかしそこまでして尚、本当に彼女から苦痛を取り除けたのだろうか? 例えば俺が今、再び刀を振るえばどうだろう? 君の選択は無意味に終わるに違いない。では……助けなければ良かったか? いや、それも違う。その選択の上でも、当然のように彼女は刀に貫かれることになるだろう。つまり……分かるか? 八方塞がりなんだ。俺には、何度やり直しても、どれだけ考えても、あの袋小路から抜け出す手段は存在しなかった」

 顔を上げる。先程から訳のわからないことを話し続けている、敵の顔を睨みつける。

 絶対に、許さないと思った。彼を殺した敵を。こんな風に、彼を切り捨てた敵を――

(私は絶対に、許さない)

「エニシ、サキ……本当にすまない。俺に……もっと力があれば……」

 しかしカズトは、そんなアリスのことは一瞥もせず、天を仰ぎ見て、そして、巨塔にその目を向ける。そんな無意味な行動を間に挟んで、遂に、刀を振りかぶった。

 その刃先の目指す先は、間違いなくアリス。その生血を吸うことをもって、その仕事を終えようとしているのだろう。

「せめて……俺を許さないでくれ」

 刀から流れる、血の涙。

 一雫、二雫、三雫――アリスの顔についた赤い斑点が、妖しく揺れて……

 カズトの刃が一直線に、そこに向かって振り下ろされた。

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