2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第九章

 日本への移動には、船が用いられた。

 地中海を経由してスエズ運河を渡り、インド洋を横断して日本を目指す。他の大陸との通商が完全に途絶え、物資輸送のほぼ全てが鉄道に、人員の輸送が航路に集中している今日。帝国による監視の目が最も薄くなっているのは、間違いなく海路だ。現役の士官候補生の俺から見ても、妥当な選択だと言えた。

 ただし、足は遅い。航空機だと十数時間で済む道程が……およそ四日。これでも、一般的な船舶とは比較にならないほど高速ではあるものの、時間がかかるのは確かだ。

 それでも、その空き時間を有効に活用して、何度もミラージュに訓練をつけて貰えたのは幸いだった。ちなみに、そこには勿論アリスもいて。実戦演習を通して、彼女が所有する霊装の存在、そしてその威力を知ることになったのだが……

 この作戦が無事に成功したらきっと、そんな一幕も、楽しかった思い出になるに違いない。


「こんなところにいたのね」

 夕闇に暮れる列島を視界に収めつつ、取り留めもない物思いに耽っていると……すっかり聞き慣れた声が後ろから降ってきて、俺は振り返った。

「……アリスか」

 俺がいる甲板を一階とすれば、その二階部分。食堂のテラス席として使われている展望ラウンジの柵に寄りかかったアリスが、こちらを見下ろしていた。

「もしかして、もう囮は終わりか?」

 囮――それは、列島への上陸に当たって編み出した、苦肉の策だった。船で接岸するしかない以上、確実に相手に捕捉されるが、それで強行出来るほどの戦力は当然ない。故に、囮。

 自らを囮にしミサイルで撃沈させ、その直前に船底から脱出する。数キロを水中で遊泳する必要があるが、生身であるため探知される心配はない。撃沈された船を調査すれば、いる筈の人間がそこにいないことはバレるが……その頃には、既に目的を遂げているだろう。

 そのため、こうやってわざと岸から見える場所で身を晒している訳だが……案外、補足されるのが早かった。ステルス機能が施された船だから、もう少し時間がかかると思っていた。

「違うわ。ただ、何となくあなたを探していただけ」

 だが、それは思い違いだったようだ。アリスは俺の早とちりを否定すると、唐突に柵に足をかけ、次の瞬間にはこちら側に飛び降りていた。優に五メートル以上はあっただろうが、恐らく霊気で身体を覆っているのだろう。すました顔で、俺の目の前に降ってくる。

「それで? 念願の日本を目にした感想はどう?」

 隣に来たアリスは、眼前の列島に視線を向けながら、そう問うてくる。俺は肩をすくめた。

「別に何も。祖母の実家だって言う神代神社に行けば、また違うのかもしれないけど。遠くから日本の岸を眺めて感動するほど、俺はノスタルジックじゃないよ」

「ふふっ……それもそうね」

 微かに笑い声を漏らしたアリスは、もうそれ以上は何も言わず、目の前の風景を穏やかな顔で見つめる。

 夕焼けのせいだろうか? 白さが目立つアリスの横顔が、今は仄かに赤らんで。時折流れる風にそよぐ、綺麗なブロンドも眩しく輝いていて。

 恐らく、本当の意味で〝美しい〟とは、こういう光景のことを言うのだろう。

「ねぇ、死亡フラグって知ってる?」

 不意に、その美しい光景が変化し、アリスの顔がこちらに向く。風にたなびくブロンドが消え、代わりに綺麗な碧眼が俺を射抜いた。

「死亡フラグ?」

 そのことに、残念なような、それでいて嬉しいような奇妙な感傷を抱きながら、しかしそれをおくびにも出さずに首を傾げる。事実、それは初めて聞く言葉だった。

「昔、日本出身のレジスタンスメンバーに聞いたの。生死がかかる決戦の前に、絶対に言ってはならない言葉なんだって。丁度、今みたいな時ね」

 眉を顰める。

「それは……日本の呪いか? 確か、あの国の呪術は強力だったと、昔聞いたことがある」

 かつて得た知識を披露する。アリスは、大きく頷いた。

「えぇ、恐らくそうでしょうね。多分、特定のワードに呪いのトリガーを仕掛けてるんだと思う。だから術者には、そのワードをそれと気付かせることなく、対象者に話させる技量も求められる」

「なるほど……呪術の技量だけでなく、誘導話法のテクニックも問われる訳か。面白いな」

「でしょ? でももっと面白いのは、最も多用されていたトリガーワードが何かって話よ」

 そう言うと、アリスは突然キリッとした顔をして、おもむろに、そのワードを口にした。

「俺……この作戦が終わったら……結婚するんだ」

「…………?」

 思わず、耳を疑った。

「それがトリガーワードか?」

「そう。面白いでしょ?」

 やや興奮した様子で、アリスが同意を求めてくる。その様子を見て、ようやくこの言葉の真意を理解し、戦慄した。

「もしかして……ハニートラップか?」

「その通り!」

 アリスが、満足そうに頷く。

「恐らく、戦場で活躍する若くて優秀な戦士をターゲットにしていたのでしょうね。彼らは自身に強力なプロテクトを掛けているが故に、そもそもワードにトリガーを仕掛けることも困難。でも……」

「ベッドの中でなら、その警戒も弱まるか……しかも、結婚という祝い事。人に話したくなる心理も巧みについている。これなら、戦場では無双の男であっても、殺すことは容易い」

 だが、そこで気がつく。

「でも……なんでそんな手間のかかることを? ハニートラップが成功してるなら、ベッドの上で殺せば良いだろう?」

 すると、アリスは不敵な笑みを浮かべた。

「そこにすぐ気付くとは流石ね。私も、随分頭を悩ませたわ」

 その口振りから、どうやらアリスには答えが分かっているようだった。期待して待つ。

「見落としてはならないのは、この呪いの目的はターゲットを殺すことだけでなく、戦況を優位に進めることだということよ。つまり、ベッドの上よりも戦場で殺すことで、敵の戦術をより致命的に混乱させることが可能に――」


「はぁ……何馬鹿なことを言い合ってるんですか……あなたたちは」


 不意にすぐ後ろからそんな声が聞こえて、俺とアリスは飛び上がった。

「ミラージュ!? いつからそこに!?」

 まったく気が付かなかった。いつの間にか、呆れ顔のミラージュが立っていた。

「日本の呪いがどうこうって話している辺りからです。作戦前に独自に対策を練っているのかと感心してみれば……それ、死亡フラグの話ですよね?」

「!? ご存知なのですか?」

 驚いてから気付いたが、ミラージュも日本人だ。死亡フラグについて知っていても、何ら不思議ではない。

「ご存知です。そして、死亡フラグは呪いでも何でもありません」

 だが、次の瞬間ミラージュから出てきた言葉は、俺たちの理解を超えたものだった。

「……? もしかして……呪いとはまた別の魔術――」

「違います。単なる〝お約束〟です」

「――お約束?」

 俺とアリスは、揃って首を傾げる。

「漫画やアニメといった当時流行っていた創作物で、物語の伏線として多用された台詞のことです。ですが、あまりに多用されすぎて最早暗示的な機能を消失し、逆に次の展開――この場合は、『口にした者の死』を明示するようになりました。故に、死亡フラグです」

 その解説に、愕然とする。勿論、アリスは俺以上だ。

「そんな……馬鹿なことが?」

「それはこっちの台詞ですよ」

 ミラージュが「やれやれ」と首を振る。

「だから、別に特別な効果はないので、好きに口にしてくれて結構ですよ。むしろ変に意識して、死を身近に感じてしまうことの方が問題です」

 ミラージュはそれだけ言うと、サッと身を翻した。

「あれ? 何か用があったのでは?」

 まさか『死亡フラグ』の真相を教えてくれるためにここに来た訳ではないだろう。俺とアリスに、何か用があると思ったのだが……

「様子を見に来ただけですよ。気にしないで下さい」

 しかし、ミラージュは肩越しにそう答えると、本当にこの場から立ち去ってしまった。

「……何だったんだろ?」

 ミラージュが出て行ったドアをぼうっと眺めながら、ポツリとこぼす。

「ミラージュはあなたと違って、浸るべきノスタルジーが沢山あるのよ。だから私たち……きっと、邪魔をしてしまったわね」

 アリスは、俺の言葉にそう答えた。少しだけ、申し訳なさそうに眉根を寄せて……でもすぐに、悪戯っぽく微笑んでみせる。

「でも死亡フラグに実効性がないのなら、この言葉も大丈夫かしら? 例の日本人の友人は、それを口にして死んだらしいのだけれど」

 そんな不穏な言葉と共に、アリスはそっと、俺の耳に口を寄せた。

「二人で……必ず生きて帰りましょう」

 直後、アリスはタタっと、後方へステップを踏む。

「私たちは、ツーマンセルなのだから。少なくとも、この作戦が終わるまではね」

 背に手を回し、上目遣いに俺を見つめる。そんな彼女を夕陽が包み込み、今度こそ、全身を真っ赤に色づけた。きっと俺も、同じように色づいている筈だ。

「あぁ……分かってるよ。俺はおまえを殺させないし、おまえは俺を殺させない」

 だから俺たちは、これ以上夕陽が濃くなる前に、この場を後にした。

 日没前のゴールデンアワーが、すぐそこにまで迫っている。それは、美しく輝く黄金のような時間。同時に……来るべき、避けようのない紫黒の序章。

 今の俺たちにはまだ、それはどうしたって、早すぎるのだから。


***


 ニイガタ港跡地には、夜陰に紛れて侵入した。

 ここ日本には、既に人は住んでいない。よって原住民に遭遇する可能性は皆無なのだが、それは決して、無人であることを意味しない。中心にあるタテシナ山を囲うように形成された、何十もの監視網。主要街道に転々と設置された関所という名の要塞。多くはAIによって管理されているが、多少は人間も常駐しているようだった。

 かつては、ISSAのエクソシストとして日本に派遣されることを夢見たりもしたが、現状において、それはもはや悪夢だろう。外界から完全に隔絶されたこの国土は、既に一つの巨大な牢獄だった。

「さて……まずは移動しましょう。今のところ、ここは監視網の穴に位置しますが、あと二十分でそれも変化します。それまでに、所定のルートに移動しなければなりません」

 ミラージュが、全員が上陸したことを確認して指示を出す。現在地は、西海岸の旧第一突堤。そこからまずは南下し、旧県道の464号に入る必要がある。

 ちなみに、移動は足。と言っても、行程三百キロ近くに及ぶ大遠征だ。拙速が肝である今回の作戦では、悠長に歩いて進軍している余裕はない。故に、俺たちの足には今、『スケート・ウェポン』という装備が取り付けられている。分かりやすく言えば、反重力システムを採用した電動スケートで、最高時刻は八十キロ。どんな悪路でも走行可能。小型の銃器が付いているため、攻撃にも使用出来る優れもの。今回の作戦では、欠かせない装備だった。

「では、まずは私が先行します」

 かつてドイツ陸軍の大佐を務めていたというカールハインツ大佐が、スケート・ウェポンの起動確認を終えた部下五人を率いて前進を始める。この部隊は、全員が元軍人で構成されているらしく、隠密性が最も高い。そして彼らには、この作戦に欠かせない一つの重要な役割を果たしてもらうことになっている。

 尚、他に部隊は三つ。一つ目は、イレーネが率いる部隊。旧ISSAのメンバーで構成されている。数は七人。

 二つ目は、今回の作戦にあたって南シナ海で合流した部隊。レジスタンスの最大拠点があるオーストラリアからの応援で、すべて元日本人で構成されている。道案内は、彼ら頼みになるところも多いだろう。部隊長は、ワシオコウセイ。数は四人。 

 そして三つ目が、本隊。ミラージュが率いる部隊で、俺とアリスはここに属する。一応、精鋭部隊であるらしい。数は、五人。

 この総勢二十一名が、今回の作戦に集められたメンバーだった。決して多くはないが、隠密を旨とする以上これが限界だ。それに練度で言えば、これ以上望むべくもない。大規模な戦闘にでも巻き込まれない限り、必ずや目的を果たせるだろう。


「カール、皆さん。この作戦の成否は、あなた方陽動部隊の行動にかかっています。必ずや、やり遂げて下さい。ご武運を祈ります」

 ミラージュの激励が飛ぶ。

 敵に捕捉されることなく、旧ナガオカ市郊外にあるスワ神社まで前進した俺たちは、ここで次のプラン――本隊と陽動の二手に別れて進むべく、一時停止していた。

 ここから先、通常の敵の配置では、どうしても監視の目を誤魔化せない箇所が出てくる。故に、陽動部隊による撹乱を利用して、その配置を崩す手筈だった。

 緊急時の即応マニュアルを見る限り、グンマ方面に対応力を超える異常が発生した場合、ジョウエツ方面から援軍が出ることになっている。その対応後の配置に、穴が出来るのだ。

「時には、無理を通すことも必要でしょう。ですが、無謀な無茶はしないで下さい」

 勇ましい言葉の後、ややトーンを落としたミラージュは、激励をその言葉で締め括る。本当なら「必ず、生きてまた会いましょう」くらいのことは言いたかったに違いないが、この作戦は、自分の生存を勘定に入れて良い類のものではない。進んでその作戦に身を投じた彼らに、生存を期するような言葉をかけるのは、逆に不名誉を与えることになりかねなかった。

 だから、ミラージュはただ、それだけを言う。

カールハインツ大佐も、それはよく分かっている。

「分かっております。無駄死などいたしません。軍人にとっては、それこそが最大の不名誉ですから」

 戦場に似つかわしくない明るさでそう答えると、

「せめて敵に、一秒でも長く、一人でも多く、一バイトでも大きいリソースを注ぎ込ませてから、盛大に散るつもりです」

 四人の部下に言い聞かせるように、はっきりとした口調でそう宣言した。部下たちも、その言葉に勇ましく頷き、その顔には少しの悲壮感もない。代わりに、首から下げている十字架が全部で五つ。深夜にも拘わらず、綺麗な白色の輝きを放った。

その光は、日本の宗教施設の中ではやや異彩ではあったが……彼らの神は、海をも越える。恐らく、最期まで彼らの側にいてくれることだろう。

「頼みます。カール、皆さん……あなた方が、主と共にあらんことを」

 彼らの覚悟を改めて感じたのだろう。ミラージュはもうそれ以上のことは口にせず、ただ、彼ら流の挨拶を付言するだけに留めた。

 そんなミラージュの言葉に彼らは敬礼し、颯爽と踵を返す。

 数秒後には、彼らがここにいたことを示唆するものは、何一つ無くなっていた。

「では、私たちも行きましょう。私たちが急げば急ぐほど、彼らの生存率は上がります」

 彼らがいなくなり、初めてその生存について言及したミラージュは、すぐに部隊を整え、カールハインツ大佐たちとは違う道路へと足を向ける。

 先頭は、ワシオコウセイ率いる元日本人。旧ホクリク自動車道を通って大きく迂回しながら、目的地であるタテシナ山に向かって、一心に進み始めた。


 初めての戦闘は夜間。旧ニイガタ・ナガノの県境――湖沿いの草原で起こった。

「ミラージュ、かなりの数の陰陽師がいる」

 先行していたワシオコウセイが戻ってくるなり、そう告げる。

「しかも、どうもシジョウの術式と同じものを感じる。だとすると、その探知網は広い。こちらの存在は、既にバレていると考えた方が良い」

 ミラージュが、一瞬気遣わしげに眉を顰める。だがすぐに、

「……撒けますか?」

 その感情は奥に引っ込み、リーダーの顔で問いかける。ワシオコウセイは、ゆっくり頷いた。

「そのつもりだ。だが、そのためには囮がいる。だから、ここでお別れだ」

 言いながら、ワシオコウセイが手を振った。直後、湖上に浮かんだ監視塔が爆発する。

「俺たちはノジリ湖を突っ切って、カンエツ自動車道を伝って撤退する。出来るだけ目立つように動くから、恐らく、ナガノ県内は大分手薄になる筈だ。案内役を一人残すから、そいつを頼って欲しい」

 話している間にも、何とも言えない不快な音が辺りに響き、イレーネの部下が一人、横様に倒れた。

「イレーネ! 広範囲に精神干渉! 敵の戦意を奪いなさい! ……それは駄目。いくらコウセイでも、三人で敵の攻勢を受け止めるのは無理がある」

 横目で戦況を確認して指示を出しつつ、ミラージュは答える。だが、かなり余裕がないのだろう。いつもの敬語がなくなっている。

「ただ撤退するだけだ。何とかなる」

「無理。あとでルリに、私が怒られる」

 ワシオコウセイの主張を、その一言で切って捨てたミラージュは、振り返って俺たちを見る。その後の決断は早かった。

「アルバーノ、ランベルト。コウセイの部隊へ。ゲリラ的に戦いつつ、ニイガタ方面への撤退を援護しなさい」

「「は!」」

 俺の右横から答えが返る。本隊に配属されていた、残る二人のメンバー――アルバーノとランベルトだ。

「……良いのか? そっちが手薄になるぞ?」

 破壊した監視塔から出てきた敵を、どんな霊術を使っているのか……遙か後方に吹き飛ばしながら、ワシオコウセイは眉根を寄せる。

「構いません。それに、あなた方を攻撃部隊の本隊と錯覚させるなら、それくらいは必要でしょう。あなたにお貸しする二人は、ゲリラ戦の専門家ですから」

 いくらか余裕が出来たのか、再び元の口調に戻ったミラージュはそう説明すると、もう話を切り上げる。

「それより、早く我々に隠遁の術を。その後、速やかに戦場を移動しなさい」

 ワシオコウセイも、それ以上反論はしなかった。

「了解」

 言葉少なく返事をすると、この場に残る全員に人形ひとがたの紙を手渡した。

「それを両手で包んで、出来る限り一箇所で身を寄せ合え。多少は動いたり声を出してもバレないが、感情と霊気の放出には気をつけろ。出来る限り、自分の内に抑え込め」

 そう指示をすると、素早く身を翻す。その直後――

 俺たちがいる場所を切り取るように、縦横無尽に炎が駆け巡った。それは、的確に敵の部隊を寸断し、かつ、俺たちがいる場所への進路を断つ。

「流石は、シジョウの系譜に連なる麒麟児。やりますね」

 ポツリと、ミラージュがそんな言葉を溢したような気がしたが、聞き返す余裕はない。集まってきた敵の攻撃により生じた閃光と爆発音が、俺の五感を狂わせていく。そんな中、心を平静に保つことは、かなりの精神的集中を強いた。


「……やっと、収まりましたか」

 恐らく、十分以上はそうやって蹲っていただろう。まだ遠くで爆発音は響いているが、目に見える範囲で新たな火災が発生しなくなった頃、ミラージュはそんな言葉と共に立ち上がった。

「イレーネ。損害は?」

「敵の呪いで心停止を起こした者と、自害した者が一人ずつ。計二人が死亡しました」

「あの僅かな間で二人も……クロードとアリスは大丈夫ですか?」

 ミラージュが、気遣わしげに俺たちを見る。俺が頷くより先に、アリスが答えた。

「問題ありません。それより、早く先に進みましょう。敵が、こちらの作戦に気付くより前にタテシナ山に着かないと」

 アリスらしい、気丈な言葉。だが……きっと、その顔は青褪めていた。闇夜で表情が分からずとも、彼女から伝わる気配が、静かに震えている。

「……そうですね。先を急ぎましょう」

 それに気付いているのかどうなのか。ミラージュはアリスの言葉を肯定すると、さっとこの場を離れ、次なる指示へと向かう。

「フォローする。辛くなったら言え」

 離れるミラージュには聞こえないように、アリスの耳元で囁く。アリスが、ビクッと身体を震わせた。

「……気付かれたかしら?」

 強がるでもなく、甘えるのでもなく、アリスが口にしたのはその言葉――『今は、ミラージュに心配をかけたくない』

「大丈夫だろ。少なくとも、確証は持っていないはずだ」

 そう答えて、素早くアリスの目を覗き込む。

「瞳孔が少し開いてるな……それに、瞳孔不同も起こしてる」

 想定よりも悪い容態に、目の前がスッと暗くなる。だが、アリスに動揺を見せてはいけない。あくまで冷静に、最初に脳裏に浮かんだ、想定される中で最悪で、かつ最もありそうな原因を口にする。

「……呪いか?」

「多分ね」

 自覚はあったのだろう。アリスの返答は早い。

「でも、今のところ大丈夫。動けなくなるほどではないから」

 その言葉に、きっと嘘はない。そこまでの重症ならば、隠した方がミラージュの迷惑になる。恐らく、殺傷が目的の呪いではなかったか、その罹り方が不完全だったのだろう。

「……俺が気にかけるようにする。さっきも言ったが、辛くなったら言え。無理をするな」

「えぇ……ありがとう」

 普段に比べて随分素直だったが、状況が状況だ。それに、アリスはもう覚悟している。

「もし私が変な行動を取り始めたら、すぐに殺してね」

 呪いには、色々な種類がある。中でも厄介なのは、精神を支配するタイプの呪い。精神干渉に似ているが、その人格から完全に歪めてしまう分、圧倒的に質が悪い。

「そうはさせないさ」

 だが俺は、肯定の代わりにアリスの手を握る。

「いざとなったら意識を奪ってでも、担いで持って行く」

「馬鹿ね。いつ目が覚めるかも分からない敵を、無防備に背負うなんて」

「馬鹿はおまえだ。約束しただろう? 俺たちはツーマンセルで、二人で一緒にあそこに帰る。俺はおまえを殺させないし、おまえは俺を殺させない」

 真正面から、アリスの目を強く見つめる。

「だから、余計なことは考えるな。必要なだけ、俺の背中を貸してやる。その方が、俺も今までの借りが返せて有り難い」

 それだけ言うと、アリスから身体を離す。そろそろ、部隊が動き出しそうだった。

「歩けるか?」

「……もちろん」

 アリスは、幾分か強張りが取れた顔で頷くと、しっかりとした歩調で歩き出す。俺は、不自然にならない程度の距離感で、その隣に並んだ。

「……ありがとう、クロード」

 小さな声が、空気を震わせ鼓膜に届く。俺はただ頷くことで、彼女の気持ちに応えた。これ以上声を出すことで、心の内に押し隠した恐怖が、外に漏れ出てしまわないように。


***


 ワシオコウセイの陽動は、完璧に作用しているようだった。そもそも、カールハインツ大佐のお陰で、敵戦力の多くは旧ニイガタからグンマ方面に向かっている。ただでさえ少なくなった戦力が、ワシオコウセイの撤退部隊を追って北上すれば、戦場の後方に位置するチュウシン地方が手薄になるのは、自明の理だった。

 ただし、それも眼前まで。タテシナ山の門前に広がっているスワ湖を視界に収める頃には、最後の難所が見えてくる。

 コードネーム――『タテミナカタ』。

 タテシナ山へと繋がる全ての道、果ては斜面に至るまでもが完璧に遮断されている中で、それは唯一残された交通路であり、同時に、複数の街を覆い尽くす規模で要塞化された、異形の建造物。ここを通らなければ、DC-Aの中枢に辿り着くことは出来ない。

『正々堂々、正面から押し入っては確実に負けます。搦手を狙いましょう』

 事前の作戦会議では、ミラージュはそう言っていたが……この威容を目の当たりにしてしまうと、搦手から攻めても、結局焼け石に水なのではないかと思えてしまう。

 だが勿論、そんなことは言っていられない。手始めに、西へと迂回する。目指すは、モリヤ山麓。巨大なタテミナカタの側面中央部分に当たり、すぐ下にはスワ湖の湖面が広がっている。

 ……それだけだ。湖と、その向こうに要塞の壁面。この方面から見た景色には、見事にそれしか映らない。タテミナカタには、その内部に入るために三つの門が設置されているが、ここにはそれもない。文字通り、蟻の這い出る隙もない。

 が……だからこそ、警備は手薄だ。ここからの敵の接近はそもそも考慮されていないのか、必要最低限の警備網しか、このエリアには敷設されていない。今回は、それが幸いした。

「行きましょう。絶対に、湖の水を飲み込まないように。腹痛になっても、知りませんよ?」

 少しだけ冗談っぽく、しかし目の前の湖面の色を見る限り、恐らく誇張なしと思われる警告を口にしてから、ミラージュがスワ湖の中へと姿を消した。俺たちも酸素マスクを取り付けると、すぐにその後に続く。目指すは、海面深くに開けられた人工の穴。

 排水管――それこそが、俺たちが侵入経路として選んだ入り口だった。

 思えば、これほど無防備な設備はない。水を排出する関係上、一定の大きさが必要で、そして必ず施設内部へと繋がっている。しかもここタテミナカタでは、その点検用の設備も充実していて、万一に備えて排水管内に入れる制御室も存在していた。そして当然、この制御室も内部へ……それも、DC-Aに到達するために必ず通らなければならない『オミワタリ』と呼ばれる連絡通路のすぐ近くに通じているのだ。勿論、制御室の出入り口にはパスワードが設定されており、許可なく人が立ち入れる構造にはなっていない。が、ご丁寧にも、ハッキングしたデータには、このパスワードまでもが記載されていた。

 まさに、今回の作戦のためにあるような穴。しかし、難点もある。それは、排水管という名前が示す通り、施設から出た排水を流す施設であることだ。しかも、どうやら浄水処理もたいして施されてはいないようで、その排水が流された湖面は黒く澱んでいる。恐らく、この汚水の中ではブラックバスですら、生存は難しいだろう。

「クロード……ちょっと、肩を貸して」

 だから当然、人間が本来泳いで良い水質ではない。それも、アリスのようにただでさえ消耗している人間であれば、尚のこと。酸素マスクのお陰で、汚水を飲み込むようなことはなかっただろうが、それでも、かなりキツかったようだ。元々青褪めていた顔が、制御室に辿り着くころには〝真っ青〟という形容詞が相応しいほどに、血の気を失っていた。

 急いでアリスの身体を支えて、熱を測る。思った通り、ゾッとするほど冷め切っていた。

 予想以上に……呪いが進行している。

「くそっ……大丈夫か?」

 つい、声が大きくなる。そんな俺に、アリスは薄く微笑みかけた。

「大丈夫、心配しないで。休めば……大丈夫だから。だから……」

 そして、アリスは口にする。その顔に微笑みを浮かべたまま、俺を愕然とさせる言葉を。

「私は……後からついていくわ」

「――!? 馬鹿……そんなこと、出来るわけないだろ」

 今、この制御室は安全だが、施設内部に侵入すれば、退路であるここは確実に敵に占拠される。今は沈黙しているセキュリティシステムも、稼働を始めるだろう。どう転んでも、無事で済むはずがない。

「大丈夫よ。言ったでしょ? 後からついて行くって」

 しかし、アリスはそう繰り返す。本当に、馬鹿な話だった。

「アリスが罹ってるのは呪いだ。時間を置いたら、悪くなっても良くなることはない。分かってるだろ?」

 すなわち、アリスが俺たちを追って来るという未来は、百パーセントあり得ないのだ。ここに残したら最後、敵に討たれる以外の道はない。

「分かってるわ。だからよ」

 それなのに、アリスの口調は強くなる。すべて分かってると、その目が語る。

「これから、私は確実に重荷になる。だからせめてここに残って、一人でも多くの敵を片付けるわ。あなたたちの背後が、少しでも安全になるように」

「だから……俺たちはツーマンセルだ 約束した通り、俺が絶対にアリスを守る」

「馬鹿ね……あなたはその前に、ミラージュの部下でしょ? だからあなたは――」

 途中で、アリスが咳き込んだ。慌てて手を差し伸べるが、アリスによって払われる。

「自分のするべきことを果たして。私の仕事は、味方の背後を守ること。あなたの仕事は、ミラージュと共にDC-Aを破壊すること。それが、今の私たちの――」

 再びアリスは咳き込む。咳き込みながら、ポケットから何かを取り出し、俺の手に置いた。

「これ……折角だから使わせて貰うわ。何でも言うことを……聞いて貰える権利」

 俺の手の中には、いつかアリスに渡したペンダントが置かれていた。

ペンダントから手を放したアリスは、俺を真っ直ぐ見つめたまま告げる。

「私を置いて、先に行って……DC-Aを破壊しなさい」

 彼女の顔を見つめ返し、再びペンダントへと視線を落とした。既に人質としての効力を失ったそれは、鈍い光を静かに放っている。

「……本気なのか?」

 手が震える。その手を、色を失ったアリスの手が、優しく握る。顔を上げると、アリスがただ静かに俺を見つめていた。

説得のための、すべての言葉を失う。

「……ミラージュに指示を仰ぐ」

 その上で、吐き出すように出た言葉。

決して、悪足掻きではない。何故なら、ミラージュは作戦に私情を挟まないから。アリスが俺たちについて来れないと知れば……きっとこの選択に、異論は挟まないだろう。

「ありがとう」

 アリスも、当然そのことは分かっていて――

短い返答。交わされる視線。応酬される覚悟。

 アリスを置いて……俺はゆっくりと立ち上がった。

「この先で待ってる」

 無意味な言葉だとは分かっていても、言わないではいられなかった。アリスも、俺に合わせるように頷く。

「えぇ。そんなに、待たせるつもりはないから。安心して、先にい――!?」

 唐突に途切れる、アリスの言葉。まだ話の途中だったが、聞こえたのはそこまでだった。

 三度、彼女が咳き込んだわけではない。今度は、息を呑んだのだ。

 だが……仕方ない。構っている余裕はない。なにせ、俺自身が、考えるよりも前に行動している。何が起こったのか理解するよりも先に、アリスの身体を床に押し倒している。

 結局……状況を理解したのは、その直後。幾重もの断末魔が部屋を満たし、肉が焼ける嫌な臭いが、辺り一面に充満して、ようやくだった。

 顔を上げる。視線の先には、タテミナカタ内部へと続く隔壁。先程までは固く閉じられていたその壁が、今やその口を大きく開いている。

「……嘘だろ?」

 その時、どこからか、そんな呟きが聞こえた。それが、誰のものであったか分からない。だが恐らく、俺含め、この場にいた生き残り全員の心境の代弁であったろう。何故なら……

 俺たちの侵入は、まだ露見してはいない筈だったのだから。

 おあつらえ向きに開けられた穴から、誰にも察知されず内部に侵入し、あわよくばこのまま、無事にオミワタリを渡り切る。それが、今後の予定された展開だった。

(何だ……これは?)

 だからこそ、俺たちは凍り付いていた。開いた隔壁の向こう側から現れた、幾つもの銃身。先程の一幕から、それはどう考えてもレーザー銃のそれであり、巡回兵が普段携帯するような、軽武装の類ではないことは明らかだった。

 彼らは明らかに、本格的な戦闘行為をするためだけに派遣された、重装歩兵だ。

(ヤバい……早く起き上がらないと)

 次の瞬間、そう思った。敵は、俺たちを殺しに来ている。こんな状況を許した原因なんて、今はもう関係ない。対応しなければ、ここで一人残らず殺される。

 しかし……どう考えても、初動で出遅れていた。敵の出現と仲間の死によって、呆然とした数拍の時間。更に俺は、アリスをレーザーから守るため、床に身体を横たわらせている。これから挽回するには、あまりにも決定的なタイムロス。

 敵の……第二射が迫る。


 シュッ――


 だが、一陣の風が駆け抜けた。

 俺たちが次の動きに入るよりも遥かに早く、敵が第二射を装填するより尚早く。

 ミラージュが部屋を一直線に駆け抜け、敵の身体に刃を走らせたのだ。

 一撃。

 ターンして、二撃。

 跳躍して、三撃、四撃。

 旋回して、五撃、六撃、七撃――

 瞬きほどの間に、七人の敵に七刀を浴びせかけ、この場に現れた敵を一人残らず血溜まりに沈める。

「イレーネ! 背後の敵を!! あとの者は……走れ!!」

 だが、ミラージュは敵を倒した直後に、そう叫んだ。慌てて背後を振り返ると、俺たちが利用した排水管の出入口から、敵が次々と姿を見せ始める。

「アリス!」

 咄嗟にアリスを抱え上げると、ミラージュが切り開いた隔壁の向こう側へと駆け抜ける。途中、振り返り様に携帯銃を何発か乱射するが、恐らく牽制程度にしかならないだろう。

 敵の装備に対して、火力が弱すぎるのだ。敵が使ったようなレーザー銃があれば話は別だろうが、今回の遠征において、そんな大掛かりな装備を携帯することは不可能だった。

(イレーネを信じよう)

 だからこそ、現状における有効打は物理的制約を超えた力のみであり、イレーネが得意とする精神干渉は、多数を相手取った戦闘においては、無類の力を発揮する筈だった。

 俺たちは隔壁を超えて、タテミナカタ内部へと侵入を果たす。想定とは、あまりに乖離した状況。こうなれば、あとはひたすらオミワタリまで……そして、DC-Aの中枢部があるタテシナ山中腹まで、駆け抜けるしかないだろう。

「降ろして」

 だが、まだ数歩も行かないうちに、アリスがそう言って俺の腕から逃れた。

「置いてけって言ったのに……足手纏いにはなりたくないの」

 アリスはふらつきながらも立ち上がり、背後を振り返る。

「追手は私が止めるから。あなたは、早くミラージュを追って、DC-Aへ」

 言いながら、アリスは手を振るう。するとそこには、一対の弓矢。アリスの霊装だ。

「ミラージュの指示は、走れだ」

 だが俺は、アリスの肩を掴んで強引に振り向かせる。

「背後の敵は、イレーネが止める。俺たちは、ただ前に進めば良い」

「……だから私は、このままだと足手纏いに――」

「もう事態は、想定されたものではないんだ。なら、破綻した想定に基づいてアリスがここで敵を足止めすることが、最適解だと何故言える?」

「それは……」

 アリスが口籠る。俺は、アリスの両肩を掴む。

「誰よりも実戦経験が豊富なのがミラージュだ。そして、彼女は俺たちのリーダーだ。イレギュラーな状況だからこそ、そんな彼女の言葉に即応するのが、俺たちにとっての最適解だ」

 ほんの少しだけ、睨み合う。だがその直後、前方で悲鳴がいくつも上がって……

「分かった。進みましょう」

 それで、アリスの瞳が定まった。決断すると、動きは早い。スケート・ウェポンを起動させたアリスが、俺を置いて前へと飛び去る。

「……なんだ。意外にいけるじゃんか」

 分かっている。霊装の力を借りて、無理矢理身体を動かしているに過ぎない。霊力が尽きたら終わるし、身体への負担が限界を越えれば、それでも終わりだ。普通に考えれば、最後まで保たない。

「でも……」

 スケート・ウェポンを起動し、身体が数センチ、宙に浮く。

(今は前に進む。一メートルでも長く、一人でも多く……)

 重心を倒し、俺も前へ。同時に、足のホルスターからナイフを二本取り出すと、まだ誰もいない通路に向かって投擲する。そのナイフはアリスの横を通り抜けると、突然現れた敵二人の首筋に突き刺さった。アリスのような霊装ではないが、霊力を込めた特別製。かろうじて、現代技術の武装くらいは貫く。

 俺は、血を噴き出す彼らの横を駆け抜け様に、首の中でナイフを二本ともスライドさせ、最後には引き抜いた。大事なナイフを、こんなところで二本も消費出来ない。

 再び前を見ると、アリスは未だ速度を落とさず、通路を疾駆していた。遥か先で敵を蹴散らしているミラージュに、一刻も早く追いつこうとしているのだろう。

(急げ。アリスを一人で戦わせるな)

 速度を上げ、アリスの横に並ぶ。アリスはこちらをチラリと見るが、何も言わない。いや……きっと、何か言う余裕なんてない。

 その時、前方の敵がこちらに向けて、レーザーを放ってきた。俺とアリスは咄嗟に身体を逸らして躱したが、背後からは、誰かが倒れたような音が聞こえてくる。だが俺とアリスは、速度を緩めない。視線を前方に向けたまま、一瞬のうちにお互いの予備動作を終えると……

 敵に向けて、同時にナイフ(矢)を放った。


***


 果たして、いつからオミワタリに入っていたのか分からない。とにかく、ミラージュの後を追って遮二無二走り、現れた敵を排除して、倒れそうになるアリスに肩を貸して……それでも何とか、ここまで来た。永遠に続くかと思われた長い長い通路が、遂に目の前で終わっている。

 そしてその先、開けた視界の向こう側に、ミラージュが一人立っていた。

 俺は、少し前から自力で立つことも難しくなっていたアリスの身体を、改めて支え直す。

 正直――舌を巻いた。『自分を置いていけ』と、そう言ったあの段階で、ほとんど限界だった筈なのだ。それなのに、遂にここまで倒れなかった。

 勿論、最後は俺も手を貸した。そして衰弱し切っていたアリスは、もうその手を振り払うことも出来なかった。それ故の結果ではあるのだろうが、それにしても驚異的なのは変わらない。

(でも……)

 恐る恐る、後ろを振り返る。後を追ってくる者はいない。耳を澄ますが、音も聞こえない。敵も、そしてイレーネも、途中までは並走していたはずの仲間たちも、現れる気配はない。

「……クロード」

 その時、呻くようにアリスが囁いた。

「あぁ」

 小さくそう答えると、再び、彼女と共に前へと向かう。ミラージュのもとへ――その目の前に聳える、巨大なオブジェへ。

「これが……DC-Aか……」

 外見は、SF小説に出てくる塔のようだった。直径五メートルはありそうな円柱が天井に向かって直立しており、頂点では、まるでイソギンチャクのように不規則な枝が、四方八方に伸びている。

「えぇ……ようやく、ここまで辿り着けました」

 ミラージュが手を伸ばして、その円柱に触れた。いや……よく見てみると彼女が触れたのは、円柱に取り付けられた一枚のプレートだった。

 俺は、目を凝らす。

「開発コード……『縁』?」

 そこに書いてあったのは、見慣れぬ文字だった。

 『縁』――縦横斜め線が複雑に合体することで構成された、その一つの文字。言語学者でない俺には勿論読めないが、しかし、それが何であるかくらいは、流石に知っている。

 漢字だ。

 古来中国で発祥し、日本においては五世紀頃から本格的に使われ始めた文字の一種。

 アリスを見る。もしかしたらアリスなら、この漢字を読むことが出来るかもしれないと思ったから。だが……さしものアリスも、首を横に振った。いくら天才と言えど、交流皆無の東洋の文字までは理解の範疇外のようだ。

「エニシと……そう読みます」

 きっと、そんな俺たちの困惑が伝わったのだろう。ミラージュが、プレートを撫でていたその手を止めて、呟いた。

「Dependent Co-Arising――DC-Aの正式名称は、漢字で『縁起』と表記しますが、それは、この『エニシ』という開発コードからの連想で名付けられました」

 ミラージュが、淡々と説明する。そこには、もう特別な感情は見出せない。ただ、事実を説明している。それだけにしか見えない。だから……

 気付くのに、少しだけ時間を要した。

「……エニシ?」

 記憶の扉が開き、その単語と符合する場面が浮かび上がる。

 そう。俺はその言葉を、何度も聞いたことがあった。最初は、ミラージュとイレーネの会話の中で。次は、イレーネの執務室で。

「フジセ、エニシ……」

 それは……ミラージュのお姉さんの名前だ。

「え?」

 隣で絶句する声が聞こえる。恐らくアリスも、エニシという名前は聞いたことがなくても、フジセという苗字が誰のものであるか、知っていたのだろう。

「良く……ご存知ですね」

 ミラージュも、隠そうとはしなかった。

 まるで吐き出すように……けれど穏やかに。それでいて、懺悔するように……

エニシとは……私の姉の名前であり、そして――」

 ミラージュが、振り返る。今にも泣き出しそうな……そんな悲しい表情で。


「DC-Aの正体は……私の、お姉ちゃんです」


 残酷な真実を、口にした。

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