2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第八章
「お二人とも、ご苦労様でした」
その日の夜。俺とアリスは、レジスタンスの本部ビルにいた。ミラージュは、まず俺たち二人にそう声をかけると、次に気遣わしげな視線を俺に向ける。
「ただクロードは、悪趣味なアクシデントに巻き込まれたようですね。大丈夫ですか?」
アリスも心配そうな顔で俺を見る。だから、無理にでも笑顔を作った。
ジルへの悪魔憑依と、その結果執行された制裁。自責の念が湧かない訳がなかったが、それを彼女たちに悟らせ、心配させたところで、何一つ得るものはない。今の俺たちに、瑣末かつ不可逆的な事柄に思いを割く余裕など、決してありはしないのだから。
「大丈夫です。確かに、ショックが無かったと言えば嘘になりますが……それでも、引き摺るほどではありませんから」
「そうですか? なら……良いのですが……」
未だミラージュは心配そうな表情を浮かべていたが、これ以上触れ続けるべきではないと思ったのだろう。話を本題へと進めた。
「お二人の献身のお陰で、無事に作戦は成功しました。基地司令が戻ったと聞いた時はヒヤヒヤしましたが……結果的には、最良の結果が得られたと思います」
そう言いながら、ミラージュは机上のタッチパネルを操作する。するとスクリーンに、一つの写真が映し出された。
「これが……」
アリスと共に、息を呑んでその写真を見つめる。恐らくドローンによって高高度から撮影された写真なのだろう。山々や草原、湖のようなものが写っている。だが、それ以上に――
「何ですか……この巨大な建造物は……」
あまりに巨大で、その正確なサイズは分からない。ただ、隣に聳える山と並んで、決して見劣りしない存在感。恐らく、全長十キロでは収まらないだろう。
「詳細は現在解析中ですが、この建造物はDC-Aを外敵から守るために造られた、巨大要塞のようです。コードネームは『タテミナカタ』。ただ、DC-A自体はこの中になく、その先――隣に聳える山の中腹に設置されています」
言われて、目を凝らす。すると、タテミナカタの存在感の陰で見落としていた、小さな建物が見えてきた。
「これが?」
「えぇ」
ミラージュが頷く。
「タテシナ山――スワの富士山として親しまれてきたこの霊峰に、それがあります。辿り着くためには国土の半分を縦断し、このタテミナカタを突破しなければなりません」
その説明で理解する。思った通り、DC-Aは日本にあったのだ。だからこそ、日本はあらゆる記録から姿を消した。DC-Aを守護するためだけに存在する、夢幻の大地とするために。
「データの解析と対策が済み次第、すぐに出発します。時間が経てば経つほど、データと現実の乖離が大きくなりますから。だから……出発は、三日後。それまで、各人でコンディションを整えておいて下さい」
その宣告を聞いて、アリスと共に頷いた。
ミラージュはその反応を確認した上で、今度は俺だけに視線を向けて言う。
「ただクロードは、開発した能力の確認をする必要がありますから、明日はこちらに付き合って貰います。一応、13SSと戦闘した時の報告は受けていますけれど、この目で実際に確認しておきたいので」
それは、予想していた展開だった。俺がこのレジスタンスに勧誘された経緯とその後の取り組みを考えれば、当然のこと。
「はい、分かりました。それは全然構いません。ただ……」
日中に行われた13SSとの実戦演習を振り返る。確かに、以前に比べて予知できる未来の数は爆発的に増加し、更にその処理速度も、慣れることで随分早くなった実感はある。お陰で、霊装を身に付けた13SSの隊員相手でも、善戦することが出来た。でも……
「一番の目的だった、過去の事象を改変する力。正直、これの手応えはまったくありませんでした。だから、戦闘面ではお役立ち出来るでしょうが、〝やり直し〟については、あまり期待しないで下さい」
変に期待されても困るので、予めそう釘を刺しておく。
「そうですか……」
ミラージュは、思案げに顔を俯かせた。当然のことながら、やはり期待していたのだろう。
思わず頭を下げる。
「すいません。お役に立てなくて……」
「え? あぁいえ、そうではないのです」
だがミラージュは、俺の謝罪に顔を上げると、わしゃわしゃと手を振って否定した。
「少し私の認識に疑問が生じたので、それで物思いに……クロードが悪いわけではありません」
「でもそれは……俺が能力本来の力を発現出来なかったからでしょう?」
カズトが操ったという過去改変の力。それが頂である以上、そこに到達出来なかったのは事実なのだ。
「いえ……」
しかし、ミラージュは首を振る。
「その前提が、実は間違っていたのではないかと。つまり……貴方の力は事象改変ではあっても、カズト君の事象改変とは種類が違うのではないか……」
「? どういうことです?」
以前ミラージュからは、この力は祖母であるマナからの遺伝であり、それを最も色濃く引き継ぎ完璧に使いこなしたのが、カズトだと聞いていた。そしてその彼が用いたのが、事象改変の最終形――過去改変であると。
「今俺が使える他の世界線を覗く力は、本来の力の断片。だからそれを鍛えれば、本来の過去改変が使えるようになる。そう理解していたのですが」
「はい。確かに私はそう説明しました。でも実は……そうではなかったのかもしれない。そう思い込まされていただけで。実は……違った? フジセマナの力は、世界線全てに干渉するもので、それが同一世界線に特化したのがカズト君……でもクロードの場合はその対象が……別の世界線だった?」
後半はほとんど呟きみたいなもので、俺に対しての回答ではなくなっていた。聞き取れたのもそこまでで、それ以降はブツブツと言葉にならない声が、聞こえてくるだけだ。
「……どうしようか?」
仕方なく、隣のアリスに問いかける。アリスは……首を振った。
「こうなったミラージュは、多分しばらく自分の世界から帰って来ないと思うわ。だから……今日はもうお開きね」
「……良いのか?」
「だって……仕方ないでしょ?」
そう言って、アリスがミラージュを一瞥する。釣られて俺も視線を向けるが……
「そうだな……帰るか」
これ以上の会話は難しそうだった。アリスと顔を見合わせ、立ち上がる。
「クロード」
だが去り際、思いがけずミラージュに呼び止められた。
「能力確認はまた明日、追って連絡します。今日はイレーネの所に行って、FVの最終チェックだけ済ませて下さい。以上です」
それだけ言うと、再びブツブツを始めてしまう。俺とアリスは、再び顔を見合わせて……
「はい、分かりました」
静かに苦笑を交換すると、そう一言だけ答えて、部屋を後にした。
大分夜も更けていたため、イレーネの研究室へは、俺一人だけで向かった。
幸い、ミラージュからは話が通っていたようで、イレーネは快く俺を迎え入れてくれる。
「少し準備してくるから、そこにかけて待っててね」
イレーネは、自分の執務室らしい部屋に俺を通してソファを勧めると、部屋を出て行く。どうやら、いくつか薬品を持ってくるらしい。
しばらくの間手持ち無沙汰になった俺は、その時間で部屋のインテリアを見て回ることにした。この部屋はまるで小さな博物館みたいに、世界中の骨董品で溢れていたからだ。
どれもこれも、初めて見るものばかり。ある程度使用目的が分かるものから、一体何を想起して作られたのか分からないものまで。人によっては単なるガラクタに過ぎないのだろうが……それがここまで所狭しと並ぶと、中々に圧巻だ。
「? これは……」
そんな風に、ゆったりと壁に沿って見て回っていた時だ。角側の一画に見覚えのある物を見つけて、思わず立ち止まった。
刀だ。ヨーロッパではまず見かけない特徴的な形をしたそれは、恐らく『日本刀』と呼ばれる武器なのだろう。確証はないが、以前ミラージュが使っていた霊装と同じもののように思えた。少なくとも、見た目は瓜二つだ。
「それと……デジタルフレームか……」
刀の前に、まるで展示プレートのように置かれている一台のフレーム。そこには、いつかアリスの部屋で見た、キリュウカズトとミラージュのツーショット写真が表示されていた。
「……」
思わず、手が伸びる。何かの意図があった訳ではないが、どうしてか、そのフレームを手に取ろうとする意志が自然に働いて……
結果――写真が動き出した。
「動画だったのか……」
持った拍子に、サイドにある再生ボタンにでも触れてしまったのだろう。静止していた写真が動き出し、同時に、当時の音声が流れ始める。
『カズト君。少し、エニシ様に寄り過ぎではないですか?』
イレーネの声だ。少し呆れ気味な色を含んではいるものの、二十年近く前の映像であるはずなのに、その声は今とあまり変わらない。
『いや、俺もそう思うんだけど……さっきから、無言の圧力が……』
次に聞こえてきたのは、キリュウカズトの声だった。高校生と思われるその年齢から考えれば当たり前なのかもしれないが、想像していたよりも、かなり若々しい声をしている。顔にもまだまだ子供っぽい幼さが残っていて、近い将来、『最強のエクソシスト』として名を馳せるほどの人物になるようには、到底見えなかった。
『サキにあまり寄り過ぎると、エニシに怒られるんだよね……』
そんなことを考えながら画面を見ていると、困ったような顔でキリュウカズトがそう零し、そのまま口を閉ざしてしまう。
それから、数秒間の不自然な沈黙。一瞬、動画が停止したのかとも思ったが、画面に映っている二人は僅かに動いているから、そういう訳でもないらしい。
『…………カズト君……あなた一体、何をしたんですか?』
不自然な沈黙が終わって、再びイレーネの声が聞こえた。さっきよりも更に呆れの度合いを増したその口調は、今の沈黙の時間に何か新たな情報がイレーネにもたらされたらしいことを伝えてくるが、動画を見ている俺にはさっぱり分からない。もしかしたら、画面外で何かがあったのかもしれない。
事実、その情報はキリュウカズトにも与えられていたようで、慌てた様子で弁解を始めた。
『別に変なことはしてないからね!? 普通にサキの写真撮ろうとしただけで』
言ってから、キリュウカズトの視線が左隣にいるミラージュへ向く。そして――
『ね? サキ』
ミラージュに対して、そう呼びかけた。
(……サキ?)
それは、どこかで聞き覚えのある名前だった。だが、咄嗟に思い出すことができず、むしろ『その名前が何を表すか』ということに、より強く俺の関心は持っていかれた。
(サキ……もしかして、それがミラージュの本名か?)
考えてみれば、日本人であるミラージュの本名が、そのまま『ミラージュ』であるはずがない。ならば、『サキ』という実に日本人らしい名前の方が、ミラージュの本名としてよほど相応しいだろう。
事実、若かりし日のミラージュは、キリュウカズトの呼びかけに言葉を返した。
『ん……そう……なのかな?』
けれど、その口調には違和感があった。どこかぼうっとしたような……なんとなく、ミラージュらしくない、そんなふわっとした口調。
そのままの雰囲気で、ミラージュが続ける。
『カズト君が、記念に写真撮ろうって。なんか細かく、ポーズとか指定された』
(……?)
やっぱり、ミラージュらしくない。ミラージュはもっとこう……快活で、明るい感じだ。感情表現も豊かで、コロコロと変わるその表情が、ミラージュの魅力の一つでもある。
でも、この動画の中のミラージュは……口調は平坦だし、顔もほとんど無表情。感情がないとは言わないけれど、それが表面に出てきていない。ジャンル分けするなら、ダウナー系不思議女子といったところ。今のミラージュとは、はっきり言ってしまえば別人だ。
『? ポーズって、なんです?』
けれど、動画の中のミラージュは、そのままのキャラで動き続ける。イレーネの問いかけに対して、口調を変えることなく返事をした。
『右手を身体の前に突き出して、左手をピースの形にして顔の横に置いて……』
そして、無表情のままその言葉通りのポーズをしてみせる。
率直に言って……とても〝痛い〟ポーズだった。
『あと、腰を横に突き出して、その拍子にスカートを風にはためかせて……』
しかも、まだ終わらない。
『その後は、今度はそこで片膝立ちになって、右手で目を半分覆い隠すようにしてから、左手を横に突き出すの』
どうやら、何かの決めポーズなのだろうということは、薄々分かってくる。とはいえ、まともな神経を持った人間がやる動作だとは、俺には到底思えなかった。もし身近でこんなポーズで写真を撮っている奴がいたら、間違いなく正気を疑うだろう。
(文化か、時代の違いなんだろうか……)
『カズト君……』
だが、イレーネの次の言葉を聞く限り、少なくとも時代の差は関係ないらしい。
『サキ様に、一体なんてポーズさせているんですか……それ、サキ様の部下だったかつての同僚に見せたら、きっとみんな卒倒しますよ……』
どうやらイレーネの感想は、俺と大差ないらしい。
『――――――』
そして、また沈黙。次いで、キリュウカズトが誰もいない空間に向けて話し始める。
『日本のアニメだとこんな感じのポーズが流行ってるんだって! てか俺としては、やっぱりエニシとサキの双子姉妹に一緒にやって貰いたいっていうか――』
『――――――』
『いやいや! 絶対絵になるって!! 超美人双子エクソシスト姉妹の中二病コスプレ写真。勿論、鍵垢にして俺だけの観賞用にするから。だから、今一度、再考の機会を!』
『――――――』
騒がしく、熱弁を奮うキリュウカズト。そして、それに答えているかのように挿入される不自然な沈黙。まるで、幽霊と会話でもしているようなその奇妙なやり取りに、多少の興味は惹かれたが……それ以上に気になったのは、この単語だ。
「双子……姉妹」
キリュウカズトが口にした『エニシとサキの双子姉妹』という言葉。言葉に解釈の余地はほとんどなく、そして『サキ=ミラージュ』だとする俺の推論が正しければ、ただ一つの事実のみが明示されていることになる。だがその事実は、少しばかり……妙だ。
「少なくとも……レジスタンスにはいないよな?」
そう。ここに来てから一月近くが経つが、ミラージュに姉妹がいるなんて話は、聞いたこともなかった。単なるメンバーならいざ知らず、リーダーの双子姉妹で、かつミラージュと同じエクソシストともなれば、組織の幹部クラスなのは間違いない。にもかかわらず、その存在を聞いたことがないとすれば……
(敢えて、隠されているのか。それとも……)
「既に……亡くなっているか……」
どちらかと言えば、後者と考えるのが妥当だろう。災厄の日曜日以降のあの混乱の中で、多くの殉職者の一人になったのだ。
この動画の中で無邪気に笑う、キリュウカズトのように……
「不正解ではないけれど、多分、君の想像とは少し違うわね」
「!?」
だが唐突に俺の思考に答える声があって、思わず、その場で飛び上がりそうになった。物思いに耽っていたせいで、背後から近づいていた人の気配に全然気が付いていなかったのだ。
振り返ると、すぐ後ろに、薬瓶を両手に持ったイレーネが立っていた。
「イレーネ……すいません、勝手に動画を見てしまって……」
なんともバツが悪くなって、咄嗟に謝罪を口にする。が、イレーネは軽く微笑んで、ただ首を振った。
「構わないわ。見られて困るようなものでもないし、そもそも、そんなものを応接室に置いておくはずもないし。それに、なにより……」
不意に、イレーネが少しだけ口ごもる。けれどすぐに、その口は再び開かれた。
「本当は……君には知っておいて貰いたいって、そう思っていたから。カズト君の血縁者で、彼と同じ顔を持つあなたには。彼らの記憶を持つ者が、この世界から消え去ってしまう前に」
そんなことを口にしたイレーネは、俺の手の中にあるフレームへと視線を注ぐ。釣られて俺もそちらを見るが、いつの間にかもう動画は終わっていて、元の静止画に戻っていた。
屈託ない笑みを浮かべているキリュウカズトと、はにかんだように笑う、若かりし頃のミラージュが収められた、一枚のツーショット写真に――
「違うって……言ったのはね」
少しだけ陰鬱とした気分になっていた俺は、再び聞こえてきたイレーネの声で、顔を上げた。
「きっと君は、エニシ様が亡くなったのは災厄の日曜日以降って考えたんでしょうけど、そうではないってことよ」
その言葉に、俺は思わず首を傾げた。
「え? じゃあ……その前に?」
「そう。その……ずっと前に」
「ずっと……前?」
奇妙な表現だった。ミラージュの年齢から推定して、この動画が撮られたのは災厄の日曜日が起こる数年前だ。普通に考えて、『ずっと前』なんて表現が、使われるほどの年月ではない。
「エニシ様が亡くなったのはね、この動画を撮った時より、更に十年近く前のことなの」
「……は?」
そして俺は、言葉を失う。イレーネが語った内容は、『ずっと前』という表現を使った説明としては極めて妥当に思われたが、理解して納得するというその一点だけで見れば、この上なく意味不明な説明だったからだ。
「いや、だって……じゃあ、あの動画の中の会話は何です?」
彼らの会話はどう考えても、エニシが〝そこにいるもの〟として交わされていた。そもそもかくいうイレーネ自身が『エニシ様に寄り過ぎではないですか?』と、カズトに対して苦言を呈していたではないか。
「…………あれ?」
しかしそこで、違和感に気が付く。〝ようやく〟と言ってもいいくらい、今頃になって。
「エニシは……どこにいたんです?」
名前は出ていた。そこにいるように扱われていた。しかし、動画には彼女の姿も声も、まったく映っていない。
「あの場に……いたんですよね?」
「ずっといたわよ。カズト君の、右隣に」
言われて、もう一度フレームの中の写真を見返す。
やはり、エニシは映っていない。
「カズト君の右隣、ひと一人分の空間が空いているでしょう?」
呆然とする俺に、イレーネが諭すように繰り返した。そしてそれは、事実だった。
正面にキリュウカズト。その左隣にミラージュ。そして、確かに……右隣には、二人だけを写すには不自然としか言いようのないスペースが空いている。
「これで、分かったかしら? エニシ様は既に亡くなっていて、でも確かに、あの場にもいたの。霊体だから、写真や動画には残らないけれど」
耳を疑うとは、多分、こういう時のことを言うのだろう。
「霊体って……霊体のまま、地上に残っていたんですか?」
俺も、エクソシストを目指していた人間だ。そしてこの世界では、DC-Aに殺された人間の霊体はISSAが処理することになっている。だから霊体自体は、それほど珍しくない。それでも、死後も霊体が地上に残って自由に活動できるなんて話は、一度も聞いたことがなかった。
「地縛霊じゃ……ないですよね?」
地縛霊になって地上で迷っているということなら、まだ分かる。むしろ、エクソシストの領分だ。けれど会話の内容を思い出す限り、とてもそうとは思えない。
「もちろん。エニシ様はあの動画の段階で、既に世界屈指のエクソシストの一人よ。事実私も、エニシ様とサキ様の部下として働いていた時期があるわ」
「……どういうことです?」
まったく分からない。俺が持つ常識では、到底理解できそうにない。
「エニシ様はね、六歳の頃に、自動車事故で亡くなったの」
混乱する俺に、イレーネはゆっくりと語り始める。
「その自動車事故で、不幸なことにご両親も一緒に亡くなってね。結果的に、サキ様だけがこの地上に残された。だからエニシ様はサキ様を一人にしないために、この世に留まることを選んだの。勿論、君が言う通り、普通はそんなことは不可能なのだけれど……やっぱり、フジセ家は特殊な家系なのでしょうね。エニシ様は、そんな奇跡のようなことを実現させてしまった」
イレーネが、遠い目をして懐古する。
「その後二人は、最初は日本の神社本庁所属の神主に預けられたようだけど、稀有な霊的素養を見出されて、当時のISSAに引き取られたの。肉体を持つサキ様は対人戦闘で、霊体であるエニシ様は対霊戦闘で、それぞれ才能を見出され、特に〝人の想念を読み取る〟という唯一無二の力を持っていたエニシ様は、他と比べても異次元の強さを誇っていた。だから二人は、中学生に上がるより更に若い時分から、エクソシストとして重要な役職を歴任していたの。私が彼女たちの部下として働いていたのもその時期ね。年齢は、私の方が十以上は上だったけれど」
語るイレーネの言葉を聞きながら、俺は改めて映像の中のミラージュを思い浮かべた。そして、姿や声こそ聞こえなかったものの、そこにいた筈のエニシのことも。その上で……
率直に、こう思う。
「この映像からは……正直、そんな風には見えませんでした。ミラージュは確かに、今とは全然違ってクールな感じでしたけど、それでも制服を着て、普通の学生みたいで……会話の内容も、こんなこと言うと失礼かもしれませんが、なんの深刻みもない、馬鹿話ですよね?」
そう言うと、イレーネがフッと笑みを零す。
「本当にね。エニシ様もサキ様も、〝禁忌を犯したエクソシスト殺し〟をしていた頃とは、まるで違う。仲間のエクソシストから『冷酷なる執行者(Ruthless Enforcer)』とまで呼ばれて恐れられていたお二人が……まさか、日本のアニメのキャラクターの決めポーズを真似て写真を撮っているなんて……本当に、誰が想像したか」
苦笑いを浮かべているが、きっと、幸せな記憶なのだろう。いつになく、イレーネの表情が優しく柔らかくなっている。
そんな彼女に向けて、俺は今の映像から感じたことを言葉にした。
「それは……キリュウカズトの影響なんですか?」
「……えぇ」
控えめに、でも確かに、イレーネは頷いた。
「あの映像の半年前――十六歳の時にカズト君と出会って、それから二人は、とても人間らしくなったわ。サキ様は特にそれが顕著で……そもそも、ずっとエクソシストとして生きてきたサキ様とエニシ様には、同世代の親しい人なんていなかったから。だからこそ、カズト君の存在はとても大きなものになったんだと思う。かつての二人を知っていたからこそ、その新しい三人組を見ているだけで、私まで一緒に幸せになれた」
しかし、そこまで楽しげに話していたイレーネの顔が、唐突に暗く曇った。そして、まるで懺悔するように、次の言葉を紡ぐ。
「それなのに、私は手を差し伸べてあげられなかった。私だけは、最初から彼らの近くにいたのに。三人の行方を見守っていられる立場にいたのに。それなのに、カズト君の苦悩を見逃した。彼が過去改変を繰り返していたことにすら気付けなかった。三人が遂にバラバラになってしまったその日まで、私は気付く事も出来なかった……」
イレーネが天を仰ぐ。
「でもその後悔は、私なんかよりもサキ様の方がずっと強く抱いたのでしょうね。カズト君がエニシ様を愛していたことを、誰よりも深く理解し応援していたのが、サキ様だったのだから。だからこそ……二人を失ったサキ様はすっかり塞ぎ込まれてしまって。IR-ENE Sysから解放されて、数年ぶりに再会した彼女は……まるで別人のようになっていたわ」
「……別人?」
「そう」
イレーネは続ける。
「あなたもさっき言ったけれど、映像の中のサキ様はクールだったでしょ? あなたの知るミラージュとは、まったくの別人みたいに見えたはずよ」
確かに……そうだ。顔はそっくりでも、発する言葉や口調、醸し出す雰囲気は、今のミラージュとは似ても似つかない。
「サキ様は元々ね、ああいう物静かな方だったの。言葉少なく、感情は外に表さず、クールに冷淡に、淡々と仕事をこなしていく……映像にあった通り。あれが本来の、サキ様なのよ」
「あれが本来の……」
改めて、思い出す。感情の見えない、かつてのミラージュの無表情を。そして――
「なんで……」
同時に湧き上がってくるのは、逃れがたい一つの疑問だ。
逆なら、分かる。塞ぎ込んだ結果、あの無表情になったと言うなら、納得できる。でも現実は……
「そう。サキ様は、以前とは別人みたいに明るくなった。感情が豊かで、優しくて、頼りになって、みんなから信頼される我らがリーダー。でもね……あの姿は本来のサキ様ではなく――」
イレーネが、辛そうな顔で目を伏せる。絞り出すように、続く言葉を口にする。
「今のミラージュはね……〝エニシ様にそっくり〟なのよ。明るく元気なところとか、いつも誰かを気にかけているところとか……あと、誰に対しても敬語を使うところなんかもそう。だからね」
目を伏せたまま、押し殺した声で、苦しそうに唇を震わせて……言う。
「サキ様はあの日以来、〝エニシ様になった〟のよ。今はいないお姉さんの影を追って。あるいは、その影がこの地上から消えて無くならないように……だからサキ様は、名前もミラージュと改めた」
言いながら、イレーネは左手を差し出す。その掌にはいつの間にか、一輪の花が置かれていた。藤色の、小さく可憐な花。どことなく……桜の花にも似ている。
「サクラソウという種類の花よ。名前は……『シンキロウ』って言うの」
「シンキロウ?」
初めて聞く言葉。外国の言葉だとすぐに分かる。
「日本語よ」
間髪入れず、イレーネが説明してくれる。
「シンキロウっていうのは光の屈折現象の一つで、肉眼では見えない遠くの景色を、まるですぐそこにあるかのように見せかける現象のこと。英語だと……『ミラージュ』ね」
「ミラージュ……」
その単語を、口の中で転がす。最近、随分口にすることが増えた、彼女の名前を。
「この花は、エニシ様とサキ様のために、二人のお父様が買ってこられた花なの。そしてカズト君は二人のことを、よくこの花に例えていたわ。まるで二人は……シンキロウみたいだと」
「それで……ミラージュ?」
「えぇ」
俺の理解を肯定し、更に一つの過去を語る。
「もっと言えば、この三人――エニシ様とサキ様とカズト君のスリーマンセルは、いつからか『ウィステリア・ミラージュ[WM]』と呼ばれるようになったの。だから、『ミラージュ』は二人を指す言葉であると同時に、三人の代名詞でもあって……本人に聞いたわけではないから、確かなことは言えないけれど、それが『ミラージュ』を名乗っている理由なんだと思う。今でも、サキ様の中には二人がいるの。今でもサキ様は、三人一人であろうとしているの」
イレーネの紡ぐ言葉たちが、深い寂寥と共に心に届く。輝かしかった三人一緒の時代。それを知っているイレーネにとって、今の〝一人〟は、きっと見ているだけで心が痛いのだろう。そして何より――
〝その一人〟にとって、この悲しさは……言語を絶するに違いない。
(あぁ……そういうことか……)
その事実に思い至った時、俺はようやく理解する。
何故この三人の写真が、段ボールの片隅で埃を被っていたのか。飾ることは勿論、捨てることも出来ず、まるで隠すように仕舞われていたのか。
きっと……眩し過ぎたのだ。
この写真は、幸せ過ぎる。笑顔を浮かべたミラージュとキリュウカズト。そして恐らく、エニシも。きっとみんなが、幸せそうに微笑んでいて……
心からの幸福が、そこにはあった。大切だったものの全てが、その一枚に詰まっていた。でもだからこそ……その一つとして今や残っていないという無情なまでの現実を、冷酷無比に突きつけていた。
故に……眩し過ぎる。
まるでイカロスだ。その光は圧倒的熱量で蝋を溶かし、必死で押し固めた天使の翼を無惨にも空中で解体させる。そうなったら最後。向かう先は希望の大地ではなく、暗く澱んだ大海だ。
(そしてミラージュは、感情に任せて海に堕ちることを、自分に許したりはしないから)
でも……それでも……
厄介なことに、ミラージュにとってその輝きは、捨てることが出来ないほど大事なモノなのだ。名前を変えてまで、自らをミラージュと名乗っているのが、その証拠。つまり……
輝きから目を背け、しかし輝きの残滓をその身に纏う。その矛盾こそが、ミラージュという女性を形作っているものの正体なのだ。
しかも彼女はそんな状態で、強大な敵に立ち向かい、周囲には笑顔を向け続けている。彼女のその異常とも言える精神性に……もはや尊敬よりも、恐怖を覚えた。
そう……俺は、甘かったのだ。
分かっているつもりで、まったく彼女のことを分かっていなかった。彼女が語る『人の善性を信じる』という言葉の持つ重みと覚悟は、抽象的かつ客観的な方法論で理解することなど不可能だったのだ。イレーネの言葉で、俺はそれを完膚なきまでに思い知らされた。
「……教えてくれませんか?」
だから俺は……顔を上げる。
「え?」
驚くイレーネの顔を、正面から見つめる。
「三人のことを。楽しかった時代のことを。輝かしかったその軌跡を……俺に、教えてくれませんか?」
美しいと思った、ミラージュの理想。だがその理想を理解するには、俺はあまりに無知すぎる。単なる推測では、抽象的な一般論では、感情の介在しない客観論では、俺はそれを理解出来ない。ミラージュの理想を追い続けることなど出来ない。そして、そんな中途半端な状態では、きっと最後の作戦は乗り切れない。
この理想に、全てを預けることなど、きっと出来ない。
「……長く、なるわよ?」
暫しの沈黙。その後の、イレーネの問いかけ。
「はい。ありがとうございます」
俺は、居住まいを正す。これから語られるのは、単なる昔話ではない。それはミラージュの原点であり、彼女の血肉であり、同時に、逃れることを許さない永遠の呪縛。そして……
遠大な理想の、その根拠。
「この映像を撮ったのは、お二人がカズト君に出会った年の暮れ。評議会の要請に従って、カズト君をベルンにある『黒薔薇の館』に連れて行く直前のことだった」
イレーネが、ゆっくりと語り出す。最初は明るく、楽しかった頃の思い出を。
「エニシ様とサキ様は、お二人とも本当に猫が大好きで……空港に降り立つたびに、カズト君とサキ様は近くの書店を回って、猫の写真集を買い漁っていたものだわ」
その物語の主人公たちは、無邪気で、明るくて、何よりもお互いを信頼していて。
「いつもカズト君が、ちょっとエッチな悪戯を二人にするの。すると、サキ様は相変わらずの無表情で辛辣なことを言って。エニシ様は、呆れた半眼でツッコんで……」
クールなサキと、明るくツッコミ上手なエニシ。そして、煩悩まみれだけど優しいカズト。
そんな個性豊かな三人が織りなすその物語は、一言では言い表せない様々な事象と感情に満ちていて……
「最初はただの高校生にしか過ぎなかったカズト君だけれど、事象改変の力を使いこなすようになってからは、向かうところ敵なしだった。未来から現在、そして過去へと自由に行き来し、あらゆる敵の狙いを挫いて、すべての攻撃を破砕する。三人だけで、最新鋭の装備を持った先進国の軍隊一個連隊を足止めしたことすらあったわ。WMは、元々はエニシ様を主体にしていたパーティだったけれど、いつしか、カズト君をその中心に据えるようになっていったの」
その話は長く、刻々と夜は更けていく。俺は時を忘れて、聞き惚れる。
次第に暗さを帯びるようになっていくその語り口に、呼吸をすることすら忘れてしまう。
「明るい笑顔の陰で、その瞳は暗く淀んでいった。そのことを、サキ様も随分心配されていたけれど……何よりも、カズト君を信じていたから……」
最後は、涙によって締め括られる物語。
十四年の長きに渡って紡がれたその物語は、悲劇という形で唐突に終わりを迎える。
崩壊していく世界。簡素な小屋で一人泣くフジセサキ。そこに駆け付ける生き残った戦士たち。彼らの要請を聞いて、涙を拭いて立ち上がった彼女は遂にミラージュとなり、彼女たち――WMのシンボルであった日本刀を掲げて宣言する。
『許されざるこの因果を、我らの手で断ち切ります。もう一度、みなさんの命を、正義のために捧げて下さい』
安置された日本刀を見つめながら、レジスタンスが設立された当時のことを話し終えたイレーネは、遂に口を閉じる。それでようやく、俺も視線を巡らせるという動作を思い出して、彼女から視線を外して窓に目を向けた。
いつの間にか、明るくなっていた外の世界。一条の光が、部屋の中に差し込み始めていた。
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