2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第七章
どんな困難な状況下においても、時間は必ず平等に流れ去り、そして時間は、大概の物事を解決へと誘う。初日こそクラスメイトへの対応や、授業の受け方やらで苦労した俺たちだったが、二日目以降は自分たちも、そして周囲も慣れたのだろう。特筆すべきアクシデントにも見舞われず、比較的穏やかな日々が続いた。始める前は、〝あり得ない〟とばかりに思っていた『七十七センチ圏内共同生活』だったが、今では意外と……居心地が良いまでになっている。
「アリス、起きろ。もう五時だぞ」
声を掛けつつ、すやすやと気持ち良さそうに眠るアリスの身体を揺する。
これが、ここ最近の朝一番の仕事だ。この生活を始めて数日間は、俺よりもアリスの方が早く起きていたのだが、四日目を超えたあたりから、それが逆転した。
どうやらアリスは、実は朝が弱いようなのだ。本人から聞いたわけではないが、恐らく、最初は頑張っていたのだろう。だが慣れるに従って、本来の彼女に戻っていき、今ではこのスタイルがお決まりになっている。
「むにゃむにゃ……」
創作物でしかまず聞けないような声を出しながら、アリスはゆっくり身体を起こす。瞼を擦りながら、「ふわぁ」と大きな欠伸をした。そして、ジッと目の前の俺を見つめる。ここも含めて、いつものやり取り。彼女の次の動きを予測して、片手を彼女の右横に添える。
「…………やす……み」
案の定、聞き取れないほど微かな声で「おやすみ」と宣った彼女は、そのまま横様に倒れた。だがその身体は、ベッドには到達しない。俺の手が、それを受け止めていた。
「……む。固い」
不満そうな声を出して、アリスが目を開いた。今の刺激で、彼女はようやく、半分覚醒している。
「……あなた、寝込みを襲うなんて良い度胸じゃない。どうやら、次に会うのは拘置所になりそうね」
俺の手に身体を預けながら、口を尖らせるアリス。目がまだ若干トロンとしているため、全く怖くない。
「いや、せめて法廷って言え。自分を襲った相手に面会を求めるな。そして、いい加減このやり取りはスキップさせてくれ」
しかもこのやり取りは、既に片手の指では足りないくらいは繰り返している。もはやここまで含めて、朝の挨拶だと言えなくもない。
だが……これもいつも通り。半覚醒状態のアリスには、それが分からない。
「??」
と、あどけない表情をして首を傾げると、思いっきり伸びをした。
これで、アリスは完全に覚醒する。
「ふわぁ……おはよう、クロード。今日も目覚まし時計の仕事、お疲れ様」
とは言っても、覚醒してもこんな調子で、相変わらずのマイペースさだ。人を起こしてこんな労い方をされたのは、帝国広しと言えど、俺だけだろう。
「……せめて、もう少し労いの言葉は普通に出来ない?」
溜息と共に、そんな言葉が漏れる。すると彼女は、少しだけ考える素振りを見せると……
「…………見る?」
肩口が僅かに覗く程度にはだけていた服を更に引っ張り、肩全体を完全に露出させた。綺麗な鎖骨が露わになって、目に眩しい。
「おまえ……時々とんでもないことするよな」
目を逸らしつつ言うと、アリスが悪戯っぽく答える。
「あなたが初心なだけよ。胸を見せるとかならともかく、肩なんて普通の服でも出てるじゃない。もしご希望なら、今からオフショルダーのワンピースでも着てあげましょうか?」
一瞬想像して、心が動く。よく考えると、彼女のちゃんとした私服は見たことがなかった。いつも外では、学校かレジスタンスの制服を着ているし、自分の家ではラフな部屋着だ。
「……それよりも、早く準備しろ。今日は遅れるとヤバいだろ?」
だが俺は、そんな甘い妄想を振り払って、やるべきことに意識を向ける。
今日は、作戦の二つ目。ザンヴァリッド駐屯地に見学へ赴く日なのだ。集合時間は七時。普段に比べると、それほどゆっくりしていられる時間はない。
「……分かってるわよ」
それでも、アリスは俺の反応が不満だったのだろう。不機嫌そうな顔をすると、サッとベッドから降りる。俺は用意していたバスタオルを手渡した。
「……ありがと」
不機嫌な様子は変わらなかったが、それでもちゃんとお礼は言って、浴室へと歩き出す。少しペースを遅めに、俺がついてくることを計算した速度で。
「アリス」
だから……なのだろうか? 普段はあまり気にも留めないのだが、何故か今日に限って、そんなアリスの気遣いが妙に嬉しくなってしまって……次の瞬間には、口を滑らせていた。
「さっきの労いの話、背中流してくれるとかでも良いぞ?」
しかし滑らせたと言っても、それは冗談の範疇を超えない。恐らく、ジト目のアリスと二、三言葉を交わすことになって、それで終わり。それ以上のことは起こらないし、逆にそれで関係が悪くなったりもしない。それくらいの、俺たちの関係性。
「あぁ……そういうのがお好み?」
と、思っていたのだが……
「良いわよ。でも、今日は時間もないのだし、少し急ぎましょう」
アリスの口から出たのは、了承の言葉だった。
丁度横にあった物干しから、二人分の水着を外すと、その一つを俺に投げて寄越す。
「じゃあ先に入って。私の方が、着替えに時間がかかるから」
清々しいまでに男らしい。思わず、確認してしまった。
「……正気か?」
「もちろん」
アリスは、気負うことなく頷く。
「ていうか、お風呂はずっと一緒に入っているんだし、背中を流すくらいそんなたいしたことじゃないでしょ? もちろん、身体で洗えとか言われたら、張り倒すけど」
「いや……流石にそんなことは言わないけど」
「そ。なら良いじゃない。それに、この生活も今日で最後なんだから、それくらいのサービスはしてあげるわ。もしお望みなら、湯船にも一緒に浸かる?」
一瞬想像して、頭を振る。ここの湯船は普通に一人用だ。二人で入るとなると、体操座りで肩を寄せ合うか、恋人同士のように身体を重ねる以外に方法がない。
「お湯を貯めてる時間もないし、今日は遠慮するよ」
「そう。〝今日〟はね」
悪戯っぽく微笑むアリスを見ないように、顔を背けて浴室の扉を開ける。
こんなにドキドキするのは、初めて一緒にお風呂に入った時以来だった。
「痒いところはありませんか?」
背中を、泡立ったタオルが行き来する。タオル越しにアリスの熱が伝わって、何とも言えない心地よさがあった。
「ないなぁ……てかこういう時、絶対にここが痒いなんて言えないなぁ」
最初こそ、緊張で固くなってしまっていたが、アリスの絶妙な力加減のお陰で、今はすっかり寛いでいた。往復するタオルの感触に身を委ねながら、アリスと会話する。
「あぁ……分かる。美容室行った時ね。まぁ私の場合は、人に髪を触られるの嫌いだから、そもそもあまり美容室に行かないけれど」
アリスも二つ返事でOKしただけあって、特に緊張してる風もない。普通に雑談を続ける。
「え? じゃあ自分で切ってるの?」
「えぇ。余程抜本的に髪型変えようと思った時以外はね」
そこで、アリスが思いついたように俺の背中を叩いた。
「あ、どうせなら、髪も洗ってあげましょうか?」
意外な申し出……でもないのかもしれない。今のアリスの機嫌の良さを考えれば、それくらいのサービスは全然ありそうだった。
(……いや、違うか)
アリスの手がシャンプーを手に取り、後ろで泡立てる音を聞きながら、思い直す。
(機嫌が良いんじゃなくて……)
アリスが作り出した泡が、頭を包み込む。
(高揚してるんだ)
何故なら、待ちに待った日を迎えたから……
「クロード、上手くやりましょうね」
その考えを裏付けるように、アリスは俺の背中に身体を寄せると、耳元でそう囁いた。
「もうすぐ終わるわ。この作戦が上手くいって、DC-Aを破壊出来たら……ようやく、ミラージュの願いが叶う」
ミラージュの願い。それは、人の本質が善であることを否定する、監視システムの破壊。人の手によって歪に変えられた、旧来世界の復権。それは決してゴールではないだろうが、しかし立たなければいけない、人類のスタートラインだ。
「あぁ」
短く答え、鏡越しにアリスと顔を見合わせる。そんな俺にアリスは静かに微笑みかけると……俺の背中から身体を離し、髪を流すべく、シャワーへと手を伸ばした。
***
作戦は、単純だ。
ザンヴァリッド駐屯地見学におけるクライマックス。その最終到達点である司令室にて、コンピューターにハッキング用のUSBを取り付けるのだ。セキュリティレベルにも拠るが、所要時間は二~三分。ディスプレイ上には何も映し出されないため、USBが挿さっていることを隠し通せれば勝ちとなる。一人だと結構厳しいかもしれないが、幸い今回は二人だ。陽動役と実行役に別れれば、比較的容易に事は済むだろう。
と言ってもその成否は……陽動役であるアリスにかかっているのだが。
「可愛らしい女の子……ね。まぁ多分、大丈夫。少しだけ色仕掛けも混ぜ込めば、二、三分なら視線を釘付けに出来るでしょ」
頼もしいお言葉だった。確かにアリスほどの見た目なら、男たちの視線を集めるのはそれほど難しくはないだろう。
「それに、今の時期はあの『女の基地司令』もいないしね。補佐官も付き添いでいない筈だから、司令室に女性はいない筈」
そう。それが今回の作戦を遂行する上で、最大の好材料だった。
ザンヴァリッド駐屯地名物と言って良い、女性基地司令。個性的な人物という話だが、女性でそこまでのし上がった程だ。かなり優秀なのは間違いない。しかもアリスと同性である以上、色仕掛けが効くとも思えない。彼女の不在は、作戦の成功に大きく寄与するだろう。
「でも、これはあなたの能力テストでもあるんだから、ちゃんと頑張ってよね。私が、あんなに身体を張ったんだから」
だがアリスは、そう釘を刺すのも忘れなかった。アリスが言うように、実は今回の作戦にはそんな一面も含まれている。俺の未来を見る能力。三週間に及ぶアリスとの生活を経て、それがどの程度進化しているか……現場でそれを確認することも、大事な目的の一つだった。
ザンヴァリッド駐屯地が、パリ特別士官学校の成績上位者の見学先に選ばれている理由は、たった一つだと言って良い。
13SS――同校の生徒にとって憧れの配属先であるその分隊が、この地に駐屯しているからだ。故に、見学者のうち何人かは必ず、近い将来この駐屯地に、今度は13SSの制服を着て戻ることになる。配属先が予測しにくい士官候補生にとって、ここ以上に身になる見学先は、他にないと言って良いだろう。だが……
それが今回は、思わぬ形で裏目に出た。
「君は……あの時の……」
見学も順調に進み、食堂で休憩がてら昼食を摂っていた時だ。俺たちが座るテーブルの横を通り過ぎた男性が、不意に立ち止まり、その視線を俺に向けてきた。
「あ…………あの時は……どうも」
咄嗟に、そんな言葉しか返せない。一度の面識しかなかったが、僅か三週間前のことだ。流石に忘れない。その男性は、実戦演習の時に倒してしまった13SSの隊員だった。
「まずいわね……」
横に座っていたアリスが、そうポツリと呟く。確かに、これはイレギュラーだ。しかも、この次の予定は司令部の見学。タイミングは最悪だった。
「まさか、こんな所で会えるとは。でも、確かによく考えたらそうだよね。君が、成績優秀者に名を連ねてない訳がない」
相変わらずのキザったらしさでそう言う男の背中を、仲間と思われる男が小突く。
「おい。もしかしてこの学生が、ジルを負かしたって奴か?」
途端に、男性――ジルが、顔を顰める。
「アルマン、それは違う。僕は負けてない。少し、油断しただけだ」
「ハハッ! ジル、往生際が悪いぞ? 隊長も、アレはお前の完敗だと言っていただろう?」
「う……それは……」
「それにおまえ、この間の襲撃の時もやらかしているからな。お前だけだぞ? 敵に拘束されたのは。俺がすぐに助け出してやったから良かったものの……もし俺と隊長がいなかったら、お前は間違いなく殉職者の仲間入りだ」
「…………」
ジルは、顔を真っ赤にして押し黙る。どうやら、あの日の二連続の失態は、彼のプライドを著しく傷つけたらしい。別に謝る気などは無いが、その両方の顛末を知っているだけに、少しだけ可哀想になってしまった。それに、彼が情報を漏らしてくれたお陰で、俺たちの今の作戦があるのだ。彼にはそんな自覚全くないだろうが、心の中で感謝と同情くらいはしても、罰は当たらないだろう。
「……もう一度だ」
「あ?」
だが、それは要らぬ同情だった。俯いていたジルがポツリとそう溢し、勢いよく顔を上げる。
「おい学生! もう一度だ。もう一度、実戦演習をさせてやる!」
「は?」
アルマンと呼ばれたジルの仲間が、唖然とした顔をする。
「実戦演習って……今は隊長不在なんだぞ? それなのに、勝手にそんなことをして良いわけないだろ」
「隊長不在時は、ある程度の自由裁量権が与えられている。学生に訓練をつけるくらいは、問題ないはずだ」
「無茶言うなよ……それに、この学生は見学中だぞ? 隊長がいなくとも、せめて基地司令には話を通す必要がある。だが、基地司令は今――」
と、アルマンが仲間の愚行を諌めようとした――その時だ。
「面白そうですね」
そんな声が食堂に響いて、アルマンの声は呆気なく掻き消された。
「いつも同じ内容の見学ばかりでは、面白味がないと思っていたんです。都合良く、口うるさい隊長殿はいらっしゃいませんし、余興として丁度良いのでは?」
「…………基地司令殿……」
誰かが、そう呟いた。恐らく、この場にいた全員が、自分の目を疑っていただろう。俺も、唖然として声も出ない。
(何故……基地司令が?)
そこにいたのは、いる筈のない女性だった。不在にしていた基地司令が、三人の女性補佐官を引き連れて、そこに立っている。
「司令……いつ、戻られたのですか?」
今の言葉は、今日ずっと俺たちに付き添ってくれていた担当官のものだ。
「ついさっきです。13SSを負かした学生が、見学者の中に含まれているという話を聞いて。ひと足先に、予定を切り上げて帰ってきたんです」
「一体……誰がそんな情報を基地司令に……」
担当官が、誰にも聞こえないようにポツリとこぼす。それに呼応するように、いくつもの溜息が周囲から聞こえた。そんな中で、ジルだけはまったく違う反応を示す。
「基地司令。それは全くの誤解です。私は、彼に負かされた訳ではない。ハンデを与え過ぎただけなのです。確かに、学生だからと侮り過ぎていたのは事実ですが、彼の実力が分かった以上、その心配もない。理想的な実戦演習を提供してご覧に入れましょう」
恭しく頭を下げるジル。基地司令は面白そうに手を打った。
「それは素晴らしい。期待していますね、ジル」
「はい、必ずやご期待に応えましょう」
誰一人、口を挟む隙もなかった。先程は抗弁してくれていたアルマンも、基地司令が認めた以上どうしようもないのか、呆れた顔のまま何も言わない。
「では、そういうことで良いかしら?」
基地司令が、俺の方を見た。一応、俺にも選択権は与えてくれるらしい。
だが……どうする? 立場上、断るのは非常に難しい。さりとて、ここで実戦演習を受ければ当然、司令部への見学には参加できない。そうなれば、アリスがすべての負担を受け持たなければならなくなる。ただでさえ、予定とは決定的に食い違ってきているのに……
「行ってきなさい」
しかし、悩む俺にアリスが言ったのは、そんな一言だった。俺の耳に口を寄せ、小声で必要なことだけを素早く言う。
「基地司令がいると、作戦成功率が下がる。実戦演習を出来るだけ引き伸ばして、基地司令を司令部から引き離しなさい。それが、あなたの仕事」
(あぁ……なるほど)
アリスの意図を理解して、内心で頷く。確かに、この基地司令を司令室から引き離せれば、あとはアリス一人でも何とかなる……かもしれない。
「……分かりました。ですがどうせ演習をするのなら、是非基地司令にも観て頂き、アドバイスを頂きたいのですが」
あくまで基地司令の覚えを良くしたい学生の風を装って、そう提案する。基地司令も、アレほど乗り気だったのだ。断る筈も無かった。
「勿論、構いませんよ。うちの補佐官たちは目が肥えていますから、彼女たちにも意見を言わせましょう。それに、もし学生諸君の中にも興味がある人がいれば、司令室見学の代わりに、こちらに参加して貰っても構いませんよ?」
その言葉には、ドキリとした。もし全員が、司令室よりもこっちを観たいと言えば、司令室に行く学生はアリス一人になってしまう。そうなれば、見つからずにUSBを抜き差しするのは、流石に不可能だ。
「う……そっちも興味はあるけど……」
だが、それは杞憂だった。基地司令の言葉を受けてパラパラと手は上がるものの、全体の半数程度に過ぎない。
「では、早速移動しましょう」
基地司令の号令で、食事を終えた俺たちは一斉に立ち上がる。食堂を出て、左に行けば司令室。右に行けば訓練場。俺とアリスの行先は、ここに来てはっきりと、二分された。
「じゃあ、しっかりやりなさい」
「アリスもな」
別れ際、俺とアリスは密かにそう言葉を交わして、次の瞬間には別々の方向へと歩き始める。その刹那――アリスがポケットから一枚の
当然、頭痛はない。『ギリギリまで、霊気を注ぎ込むように』とミラージュに言われ、それ故に託されていた形代を破った今、既に七十七センチの呪縛はなくなっている。
レジスタンスとして、ここからが本番だった。
「あの日以来、この時を待ち望んでいたよ」
訓練場で向き合うなり、ジルが酷薄な笑みを浮かべながらそんなことを口にした。
「本当に、あの日は悪夢のような一日でね。思えば、君にやられてから調子が狂いっぱなしだった。人のせいにするのは好きでないけれど、それでも、恨まずにはいられなかった」
イレーネから、ジルへの精神干渉が上手くいった理由は、俺に負けたことによる精神的ダメージのせいだと聞いていた手前、その言葉を否定出来ない。かと言って、ジルの性格からして、本当に謝られれば侮られたと判断して、烈火の如く怒るだろう。流石にそれは、本意ではない。だから――
「そんなことより、そろそろ始めましょうか。私も、本気のあなたともう一度やり合いたいと思っていたんです」
再戦を促す。そこには、リップサービス的な表現も織り交ぜていたが、しかしかと言って、あながち嘘という訳でもなかった。アリスとの三週間を経て、開発された能力。それを試すのに、13SSとの戦闘ほど、うってつけの機会はない。
「良いだろう。見せてあげよう、帝国最強の一角を担う、僕の力を」
俺の言葉に、ジルがそう嘯く。そしてその数秒後、その言葉に偽りは無かったことを知る。
「おい……お前、マジかよ……」
ここまで付いてきていたアルマンが、呻くように溢す。その声と呼応するように、どよめきがギャラリーの間を広がった。
それもその筈。ジルの武装が変化したのだ。金色の装飾と羽型のアクセサリーが施された黒色ブーツ。何処からともなく現れたマントと、極め付けは両手に嵌ったメリケンサック。一目見て、それが帝国陸軍ではSS隊員のみに許された、霊装の類だと分かった。
「基地司令……流石にアレは……」
基地司令に従っていた補佐官の一人が、眉を顰める。しかし基地司令は、笑顔を崩さない。
「良いではありませんか。彼らは実戦では霊装を使うのです。であれば、実戦演習においてもそれを使用するのは理に適っています」
「……適っていますか?」
補佐官は呆れ顔で疑問を呈するが、それ以上、抗弁する気はないのだろう。一つ溜息を吐くと、唖然としていたアルマンに近付き、何事かを耳打ちした。アルマンは、これまた『仕方ない』という顔で頷くと、俺たちの方に歩いてくる。
「霊装の許可は降りた。だが、立会人は俺が務める。少しでも危ないと見れば、その段階ですぐに止めるから、そのつもりでやれ」
「勿論、構わないよ。僕としても、学生を教練するのが目的なのであって、怪我をさせるのは、本意ではないんだ」
自分の勝利を信じて疑わないのだろう。余裕の表情でそう答えると、再度、俺に向き合う。
当然だ。ただでさえ、学生と13SS。しかも霊装ありとなれば、それはもう赤子と大人くらいの差があって然るべき。いくら先日の演習で番狂せがあったとは言え、今度も同じになる可能性は、ほとんど皆無と言って良い。そしてそれは、本人だけでなく、この場にいる全員の共通認識でもあった。今この場における関心事は、勝敗の行方などではなく、俺が怪我をさせられないか、はたまたジルがどう上手く教練するかに移っているのは、明らかだった。
「はい。胸を借りさせて頂きます」
だが俺は違う。俺の目的は一つ。ここで出来る限りの時間を稼ぐこと。
そして、興味はただ一つ。どれだけ俺の能力が進化しているのか……
それを確かめるために、今回は、俺から動くことにした。
一歩を踏み出しながら、視覚を閉じた。まずは他の世界線を覗く力がどの程度進化しているか、確かめる必要がある。だが――
(……マズいな)
脳裏をよぎった数百のイメージに晒されて、初端から途方に暮れることになった。今までは、精々十秒間の未来が、何パターンかに分けられて浮かぶだけだった。でも今は……何がどうなっているかすら、よく分からない。
(取り敢えず、首を逸らしつつ、後退)
辛うじて、直前まで迫っていた未来の像を一つ掴むと、そこに移っていた映像から逃れるように身体を動かす。紙一重で、メリケンサックが頬のすぐ横を流れる。
風圧で、小さな裂傷がついたのが分かった。
(違うな……俺の能力が上がっただけじゃない。想定される敵の行動パターンも、爆発的に増えてるんだ)
ジルが繰り出す攻撃の速さと威力。それは、先日の演習の時とは段違いだ。間違いなく、霊装の効果だろう。
(しかも、経過時間でそのパターンが幾何級数的に増えていってる。これは、前みたいに十秒後の未来を見るだけでも一苦労だぞ)
確かに、俺の能力は上がっているようだ。以前の俺では、ここまで膨大なイメージを見ることは不可能だった。だが如何せん、処理能力がついていけない。故に、時間方向における解像度の増加についていくだけで、精一杯だった。予測可能時間の射程についても、従来と同じ十秒でも心許ないのだから、それを超えた限界を試すことなど、夢のまた夢だ。
(さて……どうしようか……)
考えながら、閉じていた目を開けて、相対する敵の顔を見る。ジルの瞳には、爛々とした闘志が宿っていた。
「やはり、君はそれを避けるか。霊装を付けた僕の一撃を」
愉しそうにそう呟くと、呆然と立ち竦むアルマンに顔を向けた。
「どうだ? 僕がただの学生に負けた訳じゃないことは分かっただろう?」
その言葉で、アルマンは我に返ったようだ。答える代わりに、俺に向かって問いかけた。
「君は……本当に学生か?」
ただ、肩をすくめる。正直、彼の相手をしているだけの余裕はない。
俺の脳裏には、既に、突っ込んでくるジルの姿が、何重にも被って見えていた。
***
(ここが……指令室……)
アリスは、予想よりも遥かに大きな空間と、その中で無数にひしめくコンピューターの一群に圧倒されて、思わず息を呑む。一緒に来た学生たちも一人残らず、その壮観な光景に目をキラキラと輝かせた。しかし――
「おい……何者なんだよ、あいつは……」
正面に設置されたモニター群。その中の一つに群がっていた軍人たちの声が、学生たちの興味をかっさらった。
「ちょっと……学生が見学に来てるんです。持ち場に戻りなさい」
案内役の担当官が呆れを通り越して、もはや怒気をその顔に湛えてそんな軍人たちを注意する。けれど軍人たちは、それでも持ち場に戻ろうとはせず、担当官に逆にこう言い返した。
「いや、ミリアム。それどころじゃないんだ。ちょっと見てくれよ。学生が、あのジルの攻撃を凌いでるんだ」
担当官――改めミリアムが、それを聞いて深々と溜息を吐く。
「彼も、13SSなんです。学生相手に本気は出しませんよ。きっと、組み手をしてあげている感覚なんでしょう」
「いや、それが違うんだ。ジルの奴、霊装を使っているんだよ」
「……は? そんな馬鹿な……」
ミリアムが、目を見開いてモニターに駆け寄る。その後ろに、学生たちも我先にと続いた。
霊装を持たない学生でしかないクロードが、霊装を使っている13SSの攻撃を凌いでいるなんて、自分の目で見なければとても信じられない。
「マジだ……あいつ、マジでやりやってる」
だが、自分の目で見た以上、それはもう明確な事実だった。視認するのも難しい速度で繰り出される攻撃を、クロードがまるで踊り子のような身軽さで次々と躱している。ミリアムも、もはや息をするのも忘れた様子で、じっとモニター中の戦闘に魅入っていた。
そんな異様な空気が漂う空間で、アリスだけがモニターに張りつかず、ポケットからそっとUSBを取り出して、手近のパソコンに挿入する。誰も、気付く素振りすら見せない。
(クロード……あなた、ちょっとやり過ぎじゃない? 楽過ぎて、張り合いないんだけど)
アリスは、チラッと自分の胸元を見る。この日のために、可愛らしい見せブラを用意してきたのだが……
(なんだか……女として負けた気分)
僅かに顔を顰めたアリスは、背を伸ばしてモニターを後ろから覗き見る。
「――!?」
そこでは、そんなアリスですら言葉を失うくらいの激しい戦闘が、現在進行形で繰り広げられていた。
***
右、左、右、右、上、左、右――
紙一重で、全ての攻撃を交わす。どの攻撃も、必殺の一撃。しかも、攻撃すればするほど勢いが増していくようで、その鋭さは止まるところを知らない。流石は、帝国最強を謳う特務分隊。もはや、普通の人間がジルの姿を捉えられているのか、それすら疑問に思うほどだ。
それでも……
(慣れてはきたな)
何事も慣れは重要だ。初めは敵の行動パターンの多さに圧倒されていたが、それらの組み合わせを分析し、その可能性の高低を読めるようになってくると、パンクを起こすほどではなくなる。未だ紙一重ではあるものの、敵の攻撃を避けるのに全力を傾ける必要は無くなってきた。
(でも……)
試しに、敵のジャブを掻い潜り、懐に一歩飛び込む。だが次の瞬間、敵の蹴りが眼前に迫り、後退を余儀なくされてしまった。
(敵の方が速いな……攻撃が通らない)
そう。防戦一方なら、敵の動きを把握して対応可能だが、攻撃しようとすると途端に、想定される敵の行動パターンが増えるし、何より相当早く動き出さないと、敵に先んじることができない。決定的な身体的劣性だった。
攻めきれず、戦いあぐねる。だが、それは敵も同じ……いや、どうやら俺以上のようだった。
「何故だ……何故、一発も攻撃が入らない?」
もう、ジルの顔に余裕の笑みはない。額からは汗が吹き出し、焦りのためか、頬はピクピクと痙攣している。
「悪魔相手でも、僕の力は通用するのに……あの襲撃の時といい、一体どうなって……」
虚ろに呟いたジルが、頭を一度大きく振ってから、俺に向けて突進してくる。
それは、今までの技巧を凝らした攻撃とは打って変わって、速さに重点を置いただけの、単調な攻撃だった。
(……ここに来て、焦りか出たか。やっぱり、あまり精神は強くないな)
持久戦に持ち込まれていれば、身体で劣る俺にとっては不利だった。けれどジルは、きっとその緊迫感に耐えられなかったのだろう。あるいは、学生相手にいつまでもてこずるなんて、彼のプライドが許さなかったのかもしれない。だが、いずれにせよ――
それは俺にとって、決定的な反撃チャンスだった。
「攻撃が、単調になっていますよ」
「!? グッ……」
初めて、俺の攻撃が通った。ジルの突きにカウンターを決め、腕を払いつつ腹部に痛打を加える。苦痛に顔を歪めたジルが、身体を一瞬前のめりに折り、しかしすぐに後退した。だから俺もこのチャンスを逃すまいと、追撃をかけるべく足に力を入れる。が……
後退したジルの顔を見て、それ以上動くことが出来なくなってしまった。
「あり得ない……あり得ない……」
うわ言のようにそんな言葉を繰り返し、震える瞳で俺を見つめる。
その二つの瞳には……見たこともないほどの、強い失望が宿っていた。
「僕は……弱いのか? 学生よりも……霊装を使って尚……エリートであるはずの、この僕が?」
「おい……ジル?」
その異様な様子に、何か危険な気配を感じたのだろう。審判をしていたアルマンが、眉を顰めてジルに呼びかけた。しかし、ジルの耳には届かない。
「弱い僕に、存在価値なんてない。勝たなければ、勝たなければ。でなければ、僕は……」
次第に、目が虚ろになっていく。アルマンは慌てた様子で、今度は怒鳴りつけるようにジルの名前を呼んだ。
「ジル!!」
「――ッ!?」
すると、ようやくその声が届いたのか。ジルは一瞬目を大きく見開くと、アルマンへと視線を向けた。そして――
「アルマン、聞いてくれ。僕は…………」
頬をひくつかせ、縋るようにアルマンへと手を伸ばし……
「僕は…………弱くないんだ」
その言葉の直後、闇が噴き出した。ジルを包み込むように噴出したその闇は、瞬く間に広がると、立ち竦むジルの姿をぼやかせる。同時に、彼の手からメリケンサックが消え、更にマントやブーツも元の姿に戻る。
「あぁ……やばい!」
目の前の光景に色を失くしたアルマンが、慌ててジルに駆け寄ろうとする……が。
「――ガハッ!」
その前に、ジルが吐血した。
「馬鹿な……どうして……」
呆然としたジルの呟き。それを、基地司令の声が掻き消した。
「ISSA展開。13SSは速やかに、ジルに憑依した悪魔を消滅、もしくは放逐せよ」
何が起こっているのか分からない。あまりの急展開にまったく事態を飲み込めず、ただ呆気に取られて周囲を見渡す。いつの間にか、ISSAの制服を着た人間が、四方を囲っていた。
「アルマン、仕事だ」
その中から一人――異なる制服を着た男性が、俺たちの方に進み出て、アルマンに話しかける。13SSだった。
「おい……これはどういうことだ? お前は確か……今日は非番で……」
「基地司令に呼び出されてな、必要になるからと。まさか、その内容がジルの処理だとは思わなかったが」
ジルは、既に血溜まりの中に倒れていた。一目で、DC-Aに殺されたのだと分かる。
「くそ……本当に……最悪だ」
アルマンはそう毒づき、しかしすぐに戦闘態勢に移行する。ジルが死んだことで、彼を包んでいた闇――悪魔が、その身体から離れつつあった。
「学生さん。あなたは、こちらへ避難を」
気付くと、補佐官の一人が俺の隣に立っている。だが俺は……動くことが出来ない。
「彼がDC-Aに……俺のせいです」
「それは違います。テストの結果です」
補佐官が、冷徹にそう言い放つ。
「テスト?」
「はい。ジル隊員の13SSとしての適正を測るテストです。先の失態を鑑み、13SS分隊長が決定し、基地司令が承認しました。予告なくあなたを利用することになりましたが、軍法による特例措置として解釈ください」
言葉を失った。
「テスト? この演習が……俺じゃなく、彼の?」
「そうです。ご協力、感謝します」
補佐官に手を引かれ、呆然と訓練場を後にする。最後に見えたのは、13SSに攻撃されて後退する悪魔と、ISSAによって掻き消される、ジルの魂だった。
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