2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第六章

「おはよう」

 目を覚ますと、アリスがベッドの縁に腰掛け、俺を見下ろしていた。

「……おはよう」

 俺もそう挨拶を返し、ゆっくりと視線を外す。この角度からだと、アリスの太ももは勿論、ショートパンツの奥まで見えてしまいそうで、色々と身体に悪かった。

「それで? 何でそんな所に座ってるんだ?」

 明後日の方を向きながらそう尋ねると、

「トイレ行きたいから。あなたが起きるのを待ってたの」

 そう言って、足先で俺の背中をペシペシと叩いてくる。

「てことで、早くして。もうあまり、時間は残されていないと思うから」

「そういうことは早く言って!?」

 慌てて起き上がり、アリスもスッと立ち上がる。そのまま、二人連れ立ってトイレへ。幸い、言葉ほどには切羽詰まっていないようで、特に慌てた素振りも見せず、ゆったりと俺のすぐ後ろをついてくる。

「じゃあ、ちょっとここで待っててね。あまり中の音は聞かないように」

 トイレの前に着くと、そんな風に釘を一つ刺し、アリスが個室の中へと消えた。

(はぁ……今日どこかで、耳栓でも買って帰った方が良いかもしれないな……)

 朝起きたばかりにもかかわらず、早速内心で溢れる溜息を聞きながら、固く閉じられたドアに背を預ける。

「ところで、今日から学校には行くってことで良いんだよな?」

 トイレの人感センサーが演奏する『G線上のアリア』を後ろ手に聞きながら、昨日相談した予定を改めて口にする。

「うん、その予定。あんまり休むと、次の任務にも支障が出るかもしれないし」

「……そうだな」

 次の任務――それは、DC-A破壊作戦の前提となる重要任務。言うまでもなく、ザンヴァリッド駐屯地に一時保管された、DC-Aに関するデータをハッキングすることだ。

「でも、本当におあつらえ向きのタイミングだったな。DC-Aの情報をハッキングするのに、これ以上の機会はない」

 実は、今日から数えて二十日後。丁度この生活の期限になっている三週間後に、パリ特別士官学校の成績優秀者十名を対象にした、ザンヴァリッド駐屯地への見学が予定されているのだ。その成績優秀者の中にはアリスは当然のこととして、偶然俺も名前を連ねている。

「そうね。見学は一年に一回だけだから、タイミングが少しズレたら無理だった。折角士官学校なんかに入ってるのに、何の役にも立てないところだったわ。それに……」

 アリスの声のトーンが、僅かに下がる。

「アドルフ隊長は、そのために私を逃がしてくれたんだもの。隊長の死に報いるためにも、絶対にこの作戦は成功させるわ」

 静かで、淡々とした口調。だがそこには、確かな決意が宿っていた。

 自分を守るために死んだ上官。それでもアリスは、彼に向かって『申し訳ない』とは口が裂けても言わないだろう。お互いにやるべきことを果たすだけ。ただ、それだけだ。

 そしてそれは、俺も同じ。

「あぁ……俺も、最善を尽くすよ」

「……ありがとう」

 それで、会話が終わる。これ以上、この話題を膨らませる必要性は感じず、けれど、他の話題も考え付かずに。ただぼうっと、流れるアリアに耳を傾ける。

 やがて、音楽に被せるように水の流れる音が聞こえて、ゆっくりとドアから離れた。

 トイレのドアは外開き。俺がここにいるとドアが開かない。

「……う」

 だが困ったことに、そのせいでアリスから距離が開きすぎてしまったらしい。突如、けたたましい警報音が脳内で鳴り響き、思わず額を押さえる。

 ガチャ――

 そして聞こえる、ドアが開く音。そこには、こめかみをひくつかせたアリスが立っていた。

「あなた、意外に強引なのね」

 アリスが一歩こちらに近づく。それで、二人の距離が圏内に入ったのだろう。ピタッと警報音が鳴り止んだ。

「最後の最後で急かしてくるなんて。私、ちょっとドキドキしちゃった」

 笑顔で、更に一歩距離を詰めたアリスは、俺の服の裾をギュッと握る。台詞だけを聞くと、どこか艶かしさを覚えるかもしれないが、現実には、決してそんなことはない。ただ、怒りだけが伝わってくる。

「いや、待て。誤解だ。不可抗力だ」

 言いつつも、呪いがある以上、飛び退いて距離を取るわけにはいかない。成す術なく、アリスの制裁に甘んじる他なさそうだった。

「……はぁ、まったく……」

 だがアリスは、そんな俺に特大の一睨みを贈ると、その表情を崩す。

「今度から、注意してよね。私、ちゃんと手は洗う人だから。じゃないと――」

 そう言って、アリスは握っていた服の裾を離すと、その手を背中で組んで俺を見上げた。

「その度に、あなたが被害を受けることになるからね」

 ニコッと微笑み、ターンする。そしてそのまま、部屋に向かってゆっくりと歩き出した。

「……」

 その後ろ姿を一瞥し、さっきまでアリスが握っていた部分に視線を落とす。ぐしゃりと潰された服の裾が、水分を吸って灰色に変色していた。

「……気をつける」

 どちらかというと自分に言い聞かせるようにそう呟くと、慌ててアリスの後を追う。

 朝っぱらからこれ以上警報音の洗礼を浴びるのは、真っ平ごめんだった。


***


「………………」

 喧騒が静寂に変わる瞬間というものを、経験したことがあるだろうか? それは、突然変わるのではない。まるで、波が引いていくように……近い所から徐々に遠い所へと波及していき、ある地点を越えると、その勢いは加速度的に大きくなる。

 収容人数二百人程度の中教室だと、端から端まで到達するのに、だいたい三秒くらいだろうか? 意外にゆっくりなんだなと、場違いな感想が脳裏を過ぎる。

「あ……れ? アリスとクロードって……その……仲良かったっけ?」

 そんなことを考えていると、エリクがびくつきながら声をかけてきた。つい一昨日までは、俺もみんなと同じ土俵に立っていたから、その気持ちは良くわかる。友人のその態度に、ツッコんだりはしない。

「ちょっと昨日、色々あってね」

 隣に腰掛けたアリスに目を向ける。彼女は我関せずという態度で、窓から外を眺めていた。

「アリスと仲良くなるような……色々? 何、それ?」

 エリクの困惑が一層深くなる。しかし、こんなことで困惑していれば、きっとこの先、奴の身は持たないだろう。なにせ俺とアリスはこの後三週間、登校から下校まで、常に七十七センチ圏内の距離感をキープするのだから……

 …………想像したら、怖くなってきた。

 アイドルに近づき過ぎた人間が、他のファンからどんな目に合うのか……俺はそっちの世界に詳しくないからよく知らないが、純粋に想像の範疇で言わして貰うと、碌な目には合わない気がする。今は困惑で済んでいるみんなの感情も、時間と共にどう変化するか……

その瞬間を思って、思わず背中を冷や汗が流れる。果たして俺は、その時どうなってしまうのか……13SSにすら臆さず向かっていった、血気盛んなクラスメイトのギラギラとした目を見ていると。どうしても、悲劇的な未来を思い浮かべずにはいられなかった。


 その四時間後――体術の授業。

「おまえら……これから組み手するんだから、もう少し離れて向かい合え」

 少しばかり苛立ちを含んだ先生の声が、空気を凍らせる。

 だがそれは、先生の怒気に恐怖してのことではない。「あ~あ……言っちゃった」という先生に対する憐憫が大部分。残りは「自分は関係ありません」という無関心さか……

 この景色が、俺とアリスが急接近したことに対する、みんなの結論だった。困惑が嫉妬に変わり、ほぼ時を経ずして、それは恐怖に変わった。そのプロセスの特殊性は最たるもので、だからこそ、一層大きな薄気味悪さが、みんなの心を支配している。

 恐らく、誰一人として理解している人はいないだろう。俺たちに対してマイナスな想念を抱いた人間が、次々と体調不良を訴え早退するという、この非日常のイベントを前に、理由も分からず恐れ慄いているに違いない。が――

 タネを知っていれば、意外に単純だ。ただ、ぶつけているに過ぎない。アリスが『鬱陶しい』と認定した人間に、その感情をそのまま霊気に乗せて送り込む。

 それだけだ。それだけで、その『鬱陶しい』というオーラを纏った霊気は対象に干渉し、その者に酷い頭痛を与える。その痛みが耐え難いものであるのは、早退した人と保健室に行った者の数を見れば明らかだ。結果、今の状況が出来上がった。みんな理由は分からずとも、薄々気付いたのだろう。俺たちに負の感情を向けた人間が、軒並み倒れていくことに。

 それは、理不尽なまでに意味は不明で、その癖否定できない状況証拠に溢れていて、しかもその原因を特定出来ないが故に、それを理由に俺たちを糾弾することも出来ない。

 故に……〝触らぬ神に祟りなし〟。

 恐らく、今のみんなの考えはまさしくそれであり、そして不用意にそれに触れてしまったものがいると、ご覧のように空気が凍りつくのだ。

かと言って……アリスも狂犬ではない。

 流石に、先生に手を出すのはマズいと考えたのだろう。本日初めて「仕方ない」と目配せすると、俺から距離を取った。組み手が始まるまでの僅かな時間くらいなら、離れても問題ないだろうという判断が、恐らく働いたと思われる。

 そして、鳴り響く警報音。俺たちが指示に従ったことで満足しただろう先生が、何やら注意点のようなことを話し始めるが、正直それどころではない。警報がやかまし過ぎてそもそもあまり聞こえないし、徐々に迫ってくる激痛の予兆が、確かな焦りを生じさせる。しかも悪いことに、俺たちが呆気なく先生の指示に従ったことで、他の生徒がざわつき始めたようだ。先生の小言が飛び、組み手開始の時間を、更に先へと引き延ばす。

 見ると、アリスの顔が引き攣っていた。恐らく、俺も同じ顔をしているのだろう。

 その後……ようやく先生の注意が終わったのが、十秒以上経過した後。この段階で、頭痛は吐き気を催すくらいには大きくなっている。恐らく、二日酔いの酷い状態に迫るか、それを少し超えるくらい。もしかしたら、血圧も低下しているかもしれない。視界が少しずつ狭くなっていくのを感じる。狭まる視界の先で、アリスが左右にふらついたのが分かった。

「――始め!!」

 救済のゴングが鳴ったのは、その時だった。意識が混濁しかかっていても、警報音で脳が満たされていても、その声だけは、はっきりと耳に届く。もうこれ以上、我慢する必要はない。

 俯きかけていた顔を上げ、改めて、アリスの姿を視界の中心に捉える。アリスも同じく、顔を上げ、俺を真っ直ぐ見据えていた。目配せしている余裕はない。どちらからともなく……いや、きっと二人同時に、一目散に前へと飛び出す。

 消える警報音。薄れてゆく激痛。広がる安堵。一秒未満の僅かな間に、その全てがやって来て……次の瞬間、俺はアリスと正面から激突した。

「「ッッッ――――――――」」

 あまりの激痛に折り重なるように倒れ、悲鳴も忘れて悶絶する。俺の上で、アリスが頭を抱えて丸くなっているのが分かる。

 俺はそうだが、アリスもきっと、勢いを落とす余裕がなかったのだろう。最高速度で頭同士をぶつけ合ったせいで、折角頭痛が癒えた頭に、今度は特大の外部刺激が加わった。当たりどころが悪ければ、死んでいてもおかしくない気がする。

(俺が……下になって良かった……)

 それでも、頭の片隅でそんなことを考えられる程度で済んだのは、きっと俺の頭蓋の方が固かったからだろう。ピクピクと痙攣するアリスの律動を感じながら、そんなことを思う。

「……おい。大丈夫か?」

 最初は、エリクの声だった。なんだかんだ大事な友人である彼が、まず真っ先に、心配そうに駆け寄ってくる。未だズキズキと痛む頭を庇いながら、俺はゆっくりと半身を起こした。胸の上から、アリスがゴロリと腹に落ちる。

「うぐっ……」

 アリスが、低い呻き声を上げた。

「おまえら……気付かなくて悪かったな。体調悪いなら、保健室で休んどけ」

 次に声を掛けてきたのは、体術教師だった。どうやら、何らかの責任を感じているようで、酷く申し訳なさそうな顔をしている。あながちそれは間違いではなかったが、彼は職務に忠実だっただけなので、責められる謂れはない。逆に、少し申し訳なくなってしまった。

「……すいません。そうさせて貰います」

 だが、俺たちの事情を説明することは当然出来ず、さりとて、これ以上授業を継続するのは不可能だと思われたので、有り難く、その慚愧の念に便乗させて貰うことにする。

 俺は、アリスの身体を支えて立ち上がった。

「誰かを、付き添わせようか?」

 親切心から、体術教師がそんな申し出をしてくれるが、俺の肩に乗っているアリスの爪が、すかさず抗議するように食い込んできたので、丁重に断る。

「そうか……無理するなよ?」

 心配そうな体術教師の声を後ろ手に聞きながら、アリスを引き連れて訓練場を後にした。


「……バカ……バカ」

 しばらく歩くと、幾分か落ち着いてきたのだろう。アリスが思い出したように雑言を口にし始めた。

「お前だって止まらなかっただろ?」

 堪らずそう返すと、アリスは顔を上げて、キッと俺を睨みつけた。両目には、溢れんばかりの涙が溜まっている。付き添い人を拒んだ理由を、ようやく理解した。

「……すまん」

 流石にそんな顔を見せられて、尚も共同責任を主張できるほど図太くはない。

 素直にそう謝ると、アリスはまた顔を下げた。

「本当に痛かった」

 ポツリと、アリスが呟く。

「この前、敵に斬られた時よりも、痛かった」

 思わず、「嘘つけ!」と言いたくなるが、グッと堪える。

「私は、お詫びを要求する」

 次に出てきた言葉は、それだった。

「お詫び?」

 足を止める。

「何が欲しいんだよ」

 だが、アリスはプイッと顔を背ける。

「そんなの、自分で考えなさい」

(イラッ……)

 おっといけない。少しばかり殺意が……

「でも、それでも私に聞くのなら……そうね、『何でも願い事を聞いて貰える権利』。それで、妥協してあげる」

「……は?」

 あまりの要求の高さに、逆に殺意なんて吹っ飛んでしまった。

「おまえ……妥協って言葉の意味知ってる?」

 その権利は〝一生のお願い〟をするような場合に差し出される交換条件だ。

「じゃあ自分で考えなさい。それで私が満足するかは、また別問題だけれど」

 アリスは、そう言って再び顔を逸らしてしまう。

(はぁ……まぁ良いか……)

 俺のためにここまで私生活を投げ打って協力してくれているアリスには、元々お礼はするつもりでいた。若干不本意な流れであることは否めないが、折角の機会だ。それが欲しいと言うのなら、〝何でも願い事を聞いて貰える権利〟くらい、あげるのもやぶさかではない。

「分かった。じゃあそれな。聞いて貰いたくなったら、また言ってくれ」

 そう言うと、何故か要求した本人であるアリスが、驚いた顔をこちらに向けた。

「本当に良いの? 今の、冗談だったのだけれど」

(冗談だったのか……)

 力が抜ける。冗談があまりにも分かりにく過ぎる。

(でも……まぁ……)

「……別に良いよ。どのみち、お礼はしなきゃと思ってたし」

 一度了承したことを引っ込めるほど、それを嫌だとも思っていない。苦笑しながら、もう一度頷いてみせた。

「ふ~ん……別に任務だから、あなたが気にすることはないのだけれど」

 観察するように俺をじっと見つめたアリスは、そんな独り言をポツリと漏らすと、小さく「ふふっ」と微笑んだ。

「……何だよ?」

「うん? ん~何でも?」

 俺の問いかけに、何故か疑問形で答えたアリス。

「『やっぱりなし』は、もう駄目よ?」

 と、上目遣いでそう言うと、俺の肩から手を離し、ステップを踏んで前に出る。

「おい。もう体調は良いのか?」

「そんなことより。引換券、貰っておこうかしら」

 気遣う言葉を軽く流し、唐突に出てきたその単語。

「引換券?」

「そう」

 にこりと、アリスの口角が楽しげに上がる。

「あなたからそれを預かって、願いを聞いてくれた時に返すの」

「それは……引換券じゃなくて、人質って言わないか?」

「面白いでしょ?」

 悪戯っぽい表情。正直、アリスがこんなに表情豊かな女の子だとは思わなかった。きっとこの表情も、俺を仲間と認めてくれた証拠なのだろう。

「……まぁ良いけど」

 その新発見は、驚きや嬉しさよりも、たくさんの気恥ずかしさを俺に運ぶ。だからこそ、顔を逸らして、天井を見上げた。

「じゃあ……どうしようかな」

 考えているフリをする。それでも、意外にも頭はその名目のためにちゃんと働いていて。じきに一つの私物が、脳裏に浮かび上がってきた。

「あぁ……あれにしようかな」

 あれは、人質にはうってつけの代物だ。今日も変わらず、俺の首筋で光っている。

「?」

 頭上に疑問符を浮かべたアリスを横目で見ながら、これまで肌身離さず持っていたペンダントを外し、手渡した。

「祖父の形見。これで良いだろ?」

「え? ……おもっ」

 だが目に見えて、アリスはドン引きしていた。

「いや、ボタンとかボールペンとかもっと普通の物で良いんだけど? それなのに形見って……何? あなた、これから死ぬの?」

「いや……だって人質ってことは、そこそこ大事なものじゃないと意味ないだろ?」

 それに俺の出生の謎が分かった以上、祖母の写真に固執する理由は、実はもうあまりなかった。大事でなくなった訳ではないが、無くなって取り乱す程ではない。人質の条件として、これ以上の物はない気がした。

「まぁ……それは、そうなのかもしれないけれど……でも、本当に良いのね?」

 言いながら、恐る恐るアリスはペンダントを受け取ると、少しの間手の中で遊ばせてから、改めて俺の顔を覗き込むように見つめて……ようやく、自分のポケットにしまった。

 その様子を確認し、前方を顎でしゃくる。

「良し、じゃあ行こうか。もう、一人でも大丈夫なんだろ?」

 目の前で、アリスは既に自分の足で立っている。

 大事を取って保健室に行くこと自体は変えずとも、手を貸す必要は無さそうだ。

「う~ん……」

 だがアリスは、何故が口許に指を当て、数秒間考える素振りを見せる。そして――

「折角だから、少し甘えさせてもらおうかしら」

 俺の背後に回り込むと、肩の上に手を置いて、グデっと体重をかけてきた。

「……ナマケモノか、おまえは」

「出発シンコー」と楽しげに片手を上げる仕草を見せられて、別の意味で頭が痛くなってくる。こんな場面を誰かに見られたら、それこそ闇討ちにあっても文句は言えない。

(誰にも、会いませんように)

 だから俺は、心の中で小さくそう祈念して……

渋々、アリスを引き摺って保健室へと向かった。


 保健室のドアを開けると、既にそこには、お節介な体術教師によって全ての顛末を聞かされた保健医が、待ち構えるようにして待っていた。

「あなたたちにしては珍しい」

 俺たちが二人揃って負傷したことが、余程珍しかったのだろう。保険医は、幾度もそんなことを繰り返しながら、俺とアリスの額に湿布を貼って、

「一時間ほど横になって休みなさい」

 と、俺たち二人に向けて、ベッドを指差した。

(ヤバい……)

 冷静に考えれば、この展開は充分に予想がつくものだっただろう。だが、非日常のイベントにただ流されるままだった俺たちは、その段になってようやく事態のマズさを悟り、顔を見合わせる。ベッドは全部で四台。隣り合うベッド同士の距離は、控えめに見ても一メートル。どう考えても、七十七センチ圏内は維持できない。

「先生。俺はもう大分良いので、アリスを側で診てようと思います」

 咄嗟に、そんなことを言ってみる。が――

「必要ないでしょそんなの。良いから、素直にベッドで寝てなさい」

 当たり前の如く、そう返された。まぁそれはそうなるだろうし、ここでゴネ過ぎて、「じゃあ、あなただけ授業に戻りなさい」なんて言われたら、目も当てられない。

(どうする?)

 良いアイディアが浮かばず、視線でアリスにお伺いを立てる。するとアリスは、うんざりした顔で首を横に振って……

「イタッ!」

 保険医が、突然額を抑えた。

「あれ? なんで? いきなり頭痛が……」

 唐突に襲ってきた激しい頭痛に、保険医が目を白黒させた。十中八九、アリスが負の想念を込めた霊気を照射したのだろう。それも、結構強く。

 不憫なことに、保険医の顔からみるみる血の気が引いていった。

「なにこれ……二日酔いよりも更にヤバい……」

 保険医は遂に、椅子の肘掛けに抱きつくように体を預けた。相当辛いらしい。

「それなら、先生もベッドで休んでください。俺たちは、隣のベッドで休んでるんで」

 そう提案する。すべて、アリスの思惑通りだった。

「え? え~と…………うん、そうね」

 保険医は少しだけ逡巡したものの、頭痛には耐えかねたのだろう。ヨロヨロと立ち上がり、窓側から三つ目のベッドへと歩いていく。

「じゃああなたたち……ちゃんと二人とも、ベッドで、休みなさいよ?」

 息も絶え絶えといった様子の保険医は、その言葉だけを残してベッドに横たわり、カーテンを閉めた。

「ふぅ……ナイス」

 小声で、アリスのファインプレーを讃える。対しアリスは、再びこめかみを抑えつつ、

「なんだか今ので、また頭が痛くなってきたわ」

 と顔を顰めて、一番窓際のベッドへと歩いて行く。

 俺も慌てて立ち上がり、ふらつくアリスを伴ってベッドへと移動し、カーテンを閉めた。

「……三十分くらい、ここで時間を潰しましょう」

 ベッドに横になったアリスは、瞑目しながら小声で言う。

「了解」

 そう答えつつ、近くに椅子がわりになる物が無いか、軽く物色する――その時だった。

 突如、ドアが開く音が響いて、アリスと思わず顔を見合わせた。

「うん? 誰もいないのか?」

 それは、体術教師の声だった。まだ授業中である筈の先生が、何故かここを訪れている。

「あれ? 先生?」

 すると、ベッドで横になっている保険医が弱々しい声を発した。その声で、体術教師はこの部屋に人がいることを知る。

「? 寝てらっしゃるのですか? まさか、具合が悪い?」

「お恥ずかしながら……いきなり頭痛が酷くなりまして。少しだけ、休ませて貰っています。今、隣のベッドで二人とも休んでいますよ」

 その説明で、体術教師は状況を理解したようだった。保険医がいるだろうベッドに向けて、「お大事にしてください」と声をかけると、こちらに近づいてくる。

 俺も寝ていることになっている以上、アリスのベッドの脇にいることを悟らせてはいけない。気配に気付かれないよう、息を殺す。

「――――ッ!?」

 だが、いきなりアリスに腕を掴まれ、ベッドの中へと引き摺り込まれたことで、危うく叫び声を上げそうになった。

「なんだよ!?」

 体制を崩し、完全にベッドに横たわる形になった俺は、すぐ隣で横になっているアリスに小声で抗議する。するとアリスは、「足!」と言った。

「足?」

「そこに立ってると、カーテンの隙間から足が見えるでしょ! そしたら、あなたがここにいるってバレるじゃない!」

 言われて、ようやく気がつく。ここのベッドを仕切るカーテンは、下がかなり開いている。もしあのままあそこに立っていたら……間違いなく俺の存在がバレていただろう。そしてもしそうなった場合、俺は強制的に隣のベッドに寝かされることになる。そうなれば今度こそ、この忌々しい呪いによって、意識を刈り取られるのは間違いない。

(それは……分かるんだけど。でも、この状況は……)

 すぐ隣。体温すら感じられそうな程近くに女子がいる。しかもその女子は、もう何年も同じ教室で机を並べるクラスメイトであり、更には昨日から同居を始めた相手でもあり、極めつけは、誰もが認めるアイドル的美少女なのだ。

 理性を削られるという状況を、俺は今、生まれて初めて実感している。

「クロード、アリス。体調は大丈夫か?」

 だが、そんな内心の格闘などお構いなしに、状況は進行していく。お節介な体術教師が、遂にベッドの前に立ったのだ。そして、心配そうな声音で俺たちに問いかける。

 アリスのベッドから答える訳にもいかず、俺は息を潜めた。

「はい、だいぶ良くなってきました」

 そんな何もできない俺に代わって、すかさずアリスが返事をする。その一言で、体術教師が安心したように息を吐いたのが分かった。

「そうか……お前らにしては珍しいから、心配したんだぞ? 大したことないなら、本当によか――」

 が、そこで……体術教師は気がつく。アリスからしか、答えを貰っていないことに。

「……ところで、クロードはどうなんだ?」

 一瞬、嫌な沈黙が流れた。

「彼は……寝ているんだと思います」

 その沈黙を破ったのはアリスだ。咄嗟に機転を働かせ、俺に代わって弁明する。

「なんだか、昨日寝れてないみたいなこと言っていましたから。多分それで……」

 だが、最後のは余計だったかもしれない。その一言が、体術教師の好奇心に火をつけてしまったのだから。

「お前らって……そんなこと話すほど仲良かったのか? 今日だって……自分たちからバディを組んだのも初めてだろ? もしかして、何かあったのか?」

 参った。体術教師がその場から動かなくなってしまった。こうなると、俺はベッドから降りることは出来ず、アリスの体温と芳香によって、ひたすら理性を削られ続けることになる。

「そんなことより先生。私、そうは言っても休みたいので。それに、彼も寝てるんですから、起こすようなことは控えた方が」

 しかしアリスは、見事に軌道修正してみせた。若干冷たい声音でアリスにそう言われ、尚雑談を続けられる人間は、如何に教師と言えど、まず存在しない。

「あ……あぁ、そうだな。お前の言う通りだ。悪かった」

 途端にバツの悪そうな声を出した体術教師は、本来の自分の立場を思い出し、一歩二歩と後ずさる。

「じゃあ……俺はもう授業に戻るから。お前らはゆっくり休んで、次の授業から参加するように。良いな?」

「はい、分かりました」

 してやったり――という顔をして、しかし声だけは神妙に、アリスはそう答える。

 数秒後、ドアの開閉音が聞こえて、体術教師が出て行ったのがわかった。

「ふぅ……行ったか……」

 緊張が途切れ、思わず安堵の息を漏らす。

「ひゃっ!?」

 だが、最後の関門が待っていた。

 安堵したのも束の間、突然アリスが、今まで聞いたことのないような艶かしい声を上げたのだ。そしてその声は、沈黙が訪れた保健室では、隠しようのないほど大きく響く。それは、具合が悪くダウンしていた保険医が、思わず身体を起こすほどだった。

「なに!? どうしたの!?」

 ベッドの軋む音。まるでその音は、保険医がこちらの様子を見にやってくる前兆のような気がして、一気に緊張が高まる。

「な、なんでもありません!」

 それでも、アリスはなんとか誤魔化そうと素早く答えるが……流石に焦ったのだろう。声が若干上擦っている。

「そ、そう? ただ事では無さそうな声だったけど」

「いや、えっと……虫が! 虫がベッドの上にいたので!」

 お約束のような誤魔化し方。一般人ならそれでも良いかもしれないが……残念なことに、俺たちは軍人だ。

「……虫? あなた……陸軍士官になるのに、虫が苦手なの?」

「う……」

 アリスも、自分の失言に気付き声を詰まらせる。だが、背に腹は変えられないと思ったのだろう。その路線のまま、押し切ろうとする。

「そ、そうです! 生理的に無理なんです」

 まぁ……あり得なくはない。どんな立場でも、生まれ持った嗜好はそう簡単には変えられないのだから。虫が嫌いな軍人だって、いたって良いに違いない。

 野外演習で、ゴキブリがウヨウヨいる廃墟に少しも臆さず入って行った彼女の後ろ姿を思い出しながら、そんなことを考える。

「へぇ……意外。天才にもそんな弱点があったのね」

 だが幸い、この保険医はその勇姿を見ていない。言葉通り、ビックリしたような口調で小さく呟き、だがそこは先生らしく、

「でも、それは頑張って治しなさい。将来の配属先によっては、地獄を見るわよ」

 と、優しくアドバイスをしてくれる。

「が……頑張ります」

 危機を乗り切った安堵からか、アリスが身体から力を抜く。だが一方で、その顔は安堵に変わることはなく、恨み骨髄といった表情で俺を睨みつけてきた。

「あなた……やってくれたわね」

 小声だが、そこに宿る脅しは本物だ。しかし、俺には心当たりがない。

「……俺、何かした?」

 アリスの顔が真っ赤に染まる。これは照れているのではなく、怒っているのだろう。

「あなた! いきなり私の耳に息吹きかけたでしょ!? 知らないとは言わせないわよ!」

(息? …………あぁ……)

 一瞬、ピンと来なかったが、すぐに何のことだか思い当たる。そんな派手に息を吐いたつもりはなかったが、それでもアリスにとっては、その僅かな吐息がこそばゆかったのだろう。随分、敏感な耳をお持ちのようだ。

「……悪い」

 だがそんなことを言ったら、今度は怒られるでは済まないだろうし、俺のせいであんな声が出たのは事実みたいなので、ここは素直に謝る。一応、頭も少しだけ下げた。

「ちょっと! 髪の毛がくすぐったい!!」

 アリスが俺の頭を押し除けた。

 そうだった。ほとんど触れそうなくらい、近くにいるんだった。

「悪い……」

 今度は、もう少し心から謝る。謝るついでに、今度こそベッドから退いて床に降り立つ。

「はぁ……もう良いわよ」

 幸いアリスはイメージとは違って、かなり寛容な性格をしているようで、結局それ以上俺に怒りをぶつけることなく許してくれた。

「あなた。もう少しデリカシーを磨いた方が良いわよ」

 といっても、小言は忘れない。

 怒る代わりに、ジトリとした目で俺を見て、それから「ふんっ」と顔を逸らした。

「……努力する」

 小さくそう答えて、ベッドの縁に腰を下ろす。

 ここまでで、ようやく半日。絶望的な残日数を前にして、再びベッドに横たわりたい衝動に駆られながら、俺は大きく、天を仰いだ。

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