2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第五章

「計画は、既に最終段階に移行しています」

 場所を変えて、会議室。イレーネが退室し、俺はミラージュと二人でここに移動していた。

「計画の目的は、帝国の基盤とも呼べる監視システム『DC-A』を破壊すること。そのためには、その施設の所在や建物の内部構造に関する情報を奪取する必要があります。そして今回、北京にある帝国最大のデータ集積センター『紫金城』のメンテナンスに伴って、欧州圏統合局のザンヴァリッド駐屯地内のデータ保管庫に、それらの情報が一時的にバックアップされていることを突き止めました」

「欧州圏統合局……ってことは、DC-Aはヨーロッパに?」

「いえ、そうではないと踏んでいます。DC-Aは絶対不可侵の最重要施設で、その所在は最高機密。当然、その一帯には人が立ち入れないようになっていると考えるのが自然ですが、ヨーロッパにはそのような土地はない。それに、基本的にはどこも陸続きなので侵入は容易です。守る上でも隠す上でも、最適地とは思えません」

 成程と、ミラージュの説明で納得する。そして同時に、一つの可能性が頭を過ぎる。

「その条件で絞ると……DC-Aはあそこにあるんじゃないですか?」

 すると、ミラージュは微笑んだ。

「あなたの言いたいことは分かります。そして恐らく、それは正しいでしょう。でも……広いんですよ、ああ見えてあの国も」

 ミラージュは手元のパネルを操作して、一つの列島をスクリーン上に表示させる。

「もし日本に上陸する場合、東シナ海を経由することになりますが、上陸地点次第では、かなりの距離をピクニックする羽目になります。DC-Aの重要性を鑑みて、その備えが薄いとは思えない。敵をバッタバッタと薙ぎ倒しながら進むには、我々の戦力では些か以上に荷が重い」

 日本の映像が消えた。

「施設の場所くらいなら、実はおおよその当たりは付いていますが、それでも万が一があります。何よりその防衛システムの詳細は、事前に把握しておきたい。我々も、自殺に赴く気はありませんから」

 その言葉に頷く。失敗が許されない以上、その慎重さは当然だった。

「情報を必要とする理由は分かりました。でも……そんな貴重な情報が、どうして欧州圏統合局にあると?」

 ミラージュも言っていたが、DC-Aの所在は最重要機密だ。それが一時的にせよ、どこかにバックアップされているという情報は、本来決して外部に漏れて良い類のものではない。

「それは……運が良かったんです」

 ミラージュの声が、少しだけ低くなる。

「13SSが機密データをパリのどこかに移送したとの情報がありまして。それで彼らを襲撃して情報を引き出したのです。幸い、彼らの中に精神的に不安定だったのが一人いたお陰で、想定より相当楽に情報を引き出すことが出来ました」

 話しながら、ミラージュの顔が曇った。

「それでも、陽動のため欧州圏統合局の本部を襲撃していたメンバーには、無視しがたい被害が出てしまいました。アリスだけでも無事だったのがせめてもの救いで……それは、本当にあなたのお陰です」

 その言葉で、理解する。アリスが、何故あんな所で倒れていたのか。

「あの傷で……よく追手を撒けましたね……」

「アドルフが……本部襲撃の作戦リーダーですが、彼が身を挺してアリスを逃したのです。そしてその判断は、正しかった。ザンヴァリッド駐屯地にそのデータがあるのが分かった以上、その情報を抜き出すのにアリスは適任ですから。それに、あなたのこともあります」

「?」

 何故自分がそこで出てきたのか分からず、首を傾げる。しかし、ミラージュが答えを発する前に、控えめなノックが俺たちの間に割って入った。

「アリス・ブーリエンヌ、只今参りました」

 声が続く。それは意外なことに、話題の渦中その人だった。

「どうぞ。入りなさい」

 ミラージュが返事をすると、ドアが開き、アリスが現れる。

「アリス、よく来てくれました。それで……もう怪我は、大丈夫ですか? 治癒術を施したので、もう傷は完全に塞がっているとは思うのですが」

 どうやら、ミラージュがアリスを呼んでいたらしい。アリスを歓迎し、同時に気遣わしげな視線を向ける。

「はい。応急措置が良かったようで、跡も残らないそうです」

「そう。それは本当に良かった。クロードにも、よくお礼を言っておきなさい」

 アリスは、微笑むミラージュから視線を外す。

「ありがとう」

 そして、ペコリと頭を下げた。口調の変化はなく、表情からもほとんど感情の起伏は見られなかったが、恐らく、感謝はしてくれているのだろう。少なくとも、アリスからポジティブな言葉を掛けられたのは、出会って以降、初めてのことだった。

「いや……気にしないで」

 だから、もうそれで充分。元々は、俺の好奇心を満たすためにやったことだし、感謝される謂れもない。幸い、アリスもそれ以上お礼を繰り返す気はないようで、もう一度軽く頭だけ下げると、再びミラージュに向き直った。

「ところでミラージュ。何故、私は呼ばれたのでしょうか?」

 少しだけ、困惑気味の表情。どうやら、説明もなくただ呼ばれて来たらしい。

「あなたの様子を見ておきたかったのと、一つ、依頼したい仕事があったからです。だから、まずは座って下さい」

 席を薦められたアリスは、こくりと頷き、素直にそれに従った。

 一つ席を開けて、俺の隣に座る。

「ではお二人が揃ったところで、早速仕事の話をしましょう」

 瞬間、アリスがピクッと震える。

「ミラージュ。この人は、部外者だと記憶しているのですが」

 言いながらも、怪訝な顔で俺を見る。

「クロードは、今日をもって我々の仲間になりました。そして、次のDC-A破壊作戦において、彼の力が重要なキーになる可能性があります」

「……彼の力?」

「えぇ。でも、それはまだ不完全。だから、次の作戦が発令するまでの三週間で、彼が十全に力を使えるようにする必要があります。言っている意味、分かりますか?」

 アリスは、目を細めた。

「半分は。彼の何がそこまで重要なのかは分かりませんが……とにかく、私がその力を引き出せば良いんですね?」

「そういうこと」

「はぁ……」

 その一言で、遂にアリスの口から盛大な溜息が漏れた。普段クールな彼女が、こんな反応を示すのは珍しい。理由が理由なだけに、別に嬉しくはないが。

「私はミラージュに感謝していますし、あなたの方針に異を唱えるつもりもありません。ただ、三週間というのは流石に無理があります。普通は、最低でも半年は時間を使って――」

「時間がないのです。分かるでしょう? 大丈夫、方法はちゃんと考えてありますから」

「……と、言いますと?」

「これから三週間。あなたたちは常に、七十七センチ圏内で生活してください」

「……は?」

 アリスが、目に見えて愕然とした。今日は、彼女の色々な表情が見れる日みたいだ。

 ちなみに、ミラージュはどこか誇らしげだ。

「計算したのです。あなたの今までの実績から、三週間以内に成果を出すには、具体的にどれくらいの距離が必要であるかを。結果は、七十九センチでしたが……折角なので、ラッキーセブンでいきましょう。どことなく、成果も上がりやすいような気がします」

 楽しそうに話すミラージュ。そんな彼女の顔を、アリスはまさにポカンとした顔で見つめていた。対し、俺は未だによく状況が理解出来ない。

「えぇっと……つまり、どういうことですか?」

「アリスの能力で、あなたの力を引き出そうという話です」

 ミラージュが俺にも分かるように説明を始める。

「アリスは生まれつき霊力がとても高くて、かつその霊力に指向性を持たせて、体外に常時放出させ続けることが出来るんです。その結果、特定の対象に対して、短時間で莫大な霊力を照射することが可能です」

 なるほど……

「その結果、アリスはその人の霊的素養を開眼させることが出来ます。勿論、効果の大小はその人の潜在能力に依存するため、多くの場合はちょっとした能力の底上げで終わりますが……あなたの場合は、期待値がとても大きい」

 ミラージュがその言葉通りに、期待を込めて俺を見つめる。

「事象改変の力を受け継いでいるあなたは現在、他の世界線で起こった現象を、限定条件下でのみ覗くことが出来ていますが、実のところ、潜在的にはもっと沢山のことが出来るかもしれない。具体的には、そう――その名前の通り、発生した過去事象の改変なんかも」

 ようやく、ミラージュの意図が読めてきた。

「つまり……DC-Aを破壊するに当たって、仮に失敗しても過去からやり直せる可能性のある俺を開発したいと――そういうことですか?」

「話が早くて助かります」

 ミラージュは頷く。

「まぁ勿論、そこまでいく可能性は高くはないでしょう。が……例え駄目でも、無駄にはなりません。他の世界線を覗くというその能力が拡充されるだけでも、それで充分心強い。そしてそのためには、アリスから可能な限り多くの霊力を浴びる必要があります。普通は、アリスの近くにいる時間を一日あたり数時間設けて、半年から数年かけて行うのですが……今回、そんな時間はありません。故に、先ほどの指示になります」

 ミラージュが、力強く宣告する。

「クロード、これから三週間。一時もアリスから、七十七センチ以上離れてはいけません」

「はぁ………………は!?」

 すぐには理解出来ず、理解した直後、変な声がでた。

(七十七センチってそういう意味!?)

「無理ですよそんなの!!」

「私も同感です」

 すぐに、アリスも参戦する。

「いくら任務のためとは言え、我慢できる許容ラインを超えています」

 アリスとの初めての共同戦線。かなり強い拒絶の意思を込めた自信があったが……

 あろうことか、ミラージュは不思議そうに首を傾げた。

「……アリスもクロードも、同じパリ特別士官学校の生徒ですよね? 確かあそこは、授業を受ける席や体術等のバディは、生徒の自由に任せていたと記憶しています。七十七センチ圏内の生活も、やってやれないことはないと思うのですが」

 どうやら論点がズレている。いや、感性がズレている。もっとハッキリ言わないと、理解して貰えないかもしれない。

「そういうことじゃありません! ……いや、それも勿論ありますが…………それよりも! トイレやお風呂はどうするんですか!? それに、寝る時も!!」

「……?」

 梨の礫とは、こういうことを言うのだろうか? ミラージュが、ますます首を傾げた。

「七十七センチあれば、個室の中と外に分かれても、恐らく問題ない筈です。お風呂については、最悪目隠しをどちらかがすれば済みますし……」

 何を問題視しているのか、本当に分からないという顔。しきりに首を捻っていたが、数秒後、遂に閃いたようだった。

「あ! 確かにベッドについては……」

 目を伏せて、ブツブツと何やら呟き……パッと顔を上げた。満面の笑顔で。

「分かりました。この際です。ダブルベッドを経費で用意しましょう。これで狭くて寝れないという心配は無くなりますから、恐らく不眠で苦しむことにはならないと思いますよ」

 思わず本気なのか、ミラージュの顔をマジマジと見つめてしまう。

「ふふっ」

 しかし、「すべて分かってます」とでも言いたげな顔で、見つめ返されてしまう。堪らず、隣のアリスを見た。アリスは……頭痛を堪えるように、額に手を当てている。

「ミラージュは良い人で、見識もしっかりした方だけれど、何故か男女の距離感についてだけはバグってるの……」

「あら? 心外ですね」

 何の冗談か、本当に心外そうな顔をしたミラージュが、憮然として腰に手を当てる。

「男女の距離感については、こう見えて、昔しっかりと勉強しました。半年間は、学校にもちゃんと通いましたし。今更、あなたたちに説明を受ける必要はありませんよ」

 何故か、男女関係については一家言ありそうな面持ちだった。意味が分からない。

「まぁ確かに、年頃の男女の中には、今言ったようなことに多少の抵抗感を持つ人が存在することは、私も知っています。勿論、把握しています」

 力強くそう言うが、やはり認識の違いが見え隠れしている。

「しかし、これは任務です。しかも、今後の帝国臣民全員の未来に関係する重要な。そんな大事の前に、多少の抵抗感が一体何だと言うのです。中学生じゃあるまいに」

 暴論としか思えない言葉。任務のためとは言え、出来ることと出来ないことがある。そんな当たり前の認識を伝えるべく、俺は声を上げようとするが……その前に、梯子を外された。

「――クッ…………分かりました。我慢します」

「!?!?」

 仰天して、アリスの顔を覗き込む。アリスは唇を引き結び、苦渋の表情を浮かべていたが……その目には、覚悟の光が灯っていた。

「ミラージュのおっしゃる通りよ。その程度のこと、私たちがやろうとしていることから見れば、些事だわ」

 ハッキリと、そう言い放つ。その清々しさは、もはや男らしくもあった。

 そんな彼女の姿を見て、俺もすっかり言葉を失ってしまう。

「はい! じゃあこれで決まりですね」

 その間にも、話は進んで行く。満面の笑みを浮かべたミラージュが、満足そうに手を打った。

「じゃあ、最後に握手をしましょう。これから三週間は、あなたたち二人は一心同体のパートナーなのですから」

 楽しそうなミラージュ。そんな彼女の顔を、諦念の滲んだ表情で見つめていたアリスは、「はぁ」と一つ大きな溜息を吐いてから、渋々といった調子で、俺に向かって手を伸ばした。

「……宜しく、クロード」

 その様子を見て、苦笑いを一つ。俺も手を伸ばし、差し出された手を握り返した。

「こちらこそ、宜しく」

 遠慮がちに、繋がる手と手。思ったよりも柔らかく、そして熱をはらんだアリスの手からは、少なくとも拒否感のようなものは感じられず、どうやらこれからの生活を、本気で嫌悪してはいないだろうことが伝わってくる。

(まぁ……それなら、取り敢えずは良いか……)

 嫌忌の感情を向けられながらの共同生活なんて、考えただけでも気が重くなる。

言うまでもなく、俺には美人に冷たく罵られて喜ぶ特殊性癖なんて、これっぽっちもないのだから。


***


 『七十七センチ圏内共同生活』は、早速今日から始まった。

 まずは、住む家を決めるところからだ。と言っても、これはすぐに決着する。

「それだけは、護衛兼監視の関係上、アリスの家にしてください。それ以外については、もう若い二人に任せて、口を挟みませんので」

 そんなことを、楽しそうな顔をしたミラージュが真っ先に口にしたからだ。ついでに、

「ダブルベッドはアリスのマンションに今夜までに運び込ませますね。幅は百四十センチのタイプで良いですか? あまり大きくて、距離が離れすぎても問題ですからね」

 なんてことをミラージュが言い始めたが、これに関してはなんとか、俺とアリスが共同戦線を張ることで阻止した。いくらなんでも、アリスと同じベッドで眠れるわけがないし、それくらいなら、まだ床に寝た方が不眠にならずに済む。

「むむ……まぁ、あなた方がそれで良いなら、無理強いはしませんが……」

 残念そうな顔をして、そんなことを言うミラージュ。ホッと、安堵した瞬間だった。

 だが……一難去ってまた一難。アリスが住むマンションに移動した俺たちは、部屋の中の至る所をメジャーで測り、恐れていた事態が現実になったことを知る。

「どうやっても無理ね。これは……」

 アリスが、天井を見上げて瞑目する。俺も、全く同じ気持ちだ。

「たとえ湯船に入らずシャワーで済ましても……八十三センチが限界か……これ以上は、ドアが閉まらない」

 そう。部屋の全てをチェックし、トイレは中と外で分かれても問題ないことを確認したのも束の間、意識的に後回しにしていた最大の難局で、案の定引っかかってしまったのだ。

 ちなみに、『じゃあ、お風呂だけは八十五センチくらい離れて』なんて甘えは許されない。

「常に七十七センチ圏内をキープするのは、どんなに意識しても実際上困難です。だから二人には呪い…………間違えました。補助アラートを付けさせて貰います」

 そんな不穏な〝言い間違い〟と共に、俺たちには三週間の期限付きで、七十七センチの制約が課せられたのだ。効果は極めて単純で、七十七センチ以上離れると、二人だけに聞こえる警報音が脳内でけたたましく鳴り響き、それから十秒経っても改善されない場合は、徐々に頭痛が酷くなっていくというもの。

ミラージュ曰く、

「だいたい警報音が鳴ってから三十秒で、よく言うところの〝頭が割れそうな痛み〟くらいでしょうか? 一分? あぁ、それは気にしないでも大丈夫です。それだけ長い間離れていたら、多分痛みで気絶してるでしょうから、もう痛みは感じませんよ」

 ということだった。思わず、『大丈夫』の意味を、辞書で調べたくなる。

「……仕方ないわ。目隠しと水着で、やり過ごしましょう」

 たっぷり一分ほど悲嘆に暮れてから、アリスが覚悟を決めた。

「まずあなたが目隠しして、その上で私が服を脱いで水着を着る。その後はあなた。それで、どちらかが体を洗っている時は、絶対相手の方は見ない。これでいきましょう」

「……それしかないな」

 俺たちは頷き合う。相手の善性を信じることが前提となるが、このレジスタンスを率いているミラージュの信念がそれだ。その理想を奉じる者として、そこを疑うわけにはいかない。

「それに、もし俺が変に欲情してアリスに何かしようものなら、間違いなくEVに引っ掛かるだろうしな」

 俺は「ハハッ」と笑いながら、そんなことを口にする。場を和ませるための、単なる軽口のつもりだった。でも……返ってきたのは、思いがけない反論。

「はい? 何言ってるの? あなたの身体の中、既にEVなんか残ってないわよ?」

「……へ?」

 素っ頓狂な声が出る。アリスは、やれやれと首を振った。

「ミラージュから聞いてなかったのね。右腕、見てみなさいよ」

 言われて、腕をまくる。そこには、小さな注射の跡が残っていた。

「EVを殺した上で、それに成り済ます生体ナノマシンを打ったのよ。私たちはFV[Fake Voyager]って呼んでる」

「そんな……ものが……」

 俄かには信じられなかったが、今更疑っても仕方ない。それによく考えると、俺はもう帝国への翻心をしっかりと持っているのだ。もし未だEVが残っていたのなら、既に検知されていてもおかしくない。

「でも、どうやってそんなものを……作ったのか?」

「帝国の建国前に、評議会から奪ったと聞いているわ」

「奪ったって……ミラージュが?」

「いえ。ミラージュとチームを組んでいた『キリュウカズト』っていうエクソシストが」

「キリュウ……カズト……」

 その名前には、聞き覚えがあった。ミラージュ曰く、俺と同じく……いや、比べ物にならない程、完璧な事象改変の使い手だったという人物。

「……ちなみに、今その人は?」

 でもだからこそ、察しはついてしまう。キリュウカズトではなく、俺の力が求められている時点で、自ずと答えは分かってしまう。

「その後すぐに、亡くなったと聞いているわ」

 案の定。予想通りの答えをアリスは返し、更にポツリと、言葉をこぼす。

「だからこのFVは、彼の遺言そのものなんだって」

「遺言?」

「そう」

 アリスは頷く。

「『帝国を絶対に許すな』って――何があっても、ミラージュが決して諦めないのは、多分そのことも関係してるんだと思う」

「そう……か……」

 改めて、ミラージュが抱えているものの大きさを知る。そして、彼女の小さな双肩に伸し掛かる、無数とも言える無念おもいの存在を。何故なら、ミラージュとカズトが同じチームだったと言うのなら、必然、彼女もエクソシストだったに違いないのだから。

 かつてその道を目指していたから知っているが、あの当時のエクソシストとは、ISSAに所属していた悪魔祓い師を指す。そして『災厄の日曜日』以降の紛争で……その多くは戦死したのだ。恐らくミラージュの上司、部下、同僚――そのほとんどが亡くなったことだろう。しかもそんな犠牲の上にもたらされた結果は……善性を踏み躙った圧倒的な監視社会だ。

 一体、どれくらいの絶望だっただろうか。その後悔は、如何ほどのものだっただろうか。その大きさは、恐らく言語に絶する。容易く、想像することすら許さない。

 それでも……それでもミラージュは、今も戦っている。死んでいった全ての戦友の無念を背負って、強大な敵に立ち向かい続けている。

「凄いでしょ。ミラージュって」

 俺の思いを代弁するように、アリスがそう呟く。

「私は、あの人を尊敬しているの。どんなに辛いことがあっても、どんな困難が降り掛かっても、決して弱音を吐かない。頼もしく、けれど優しく……いつも、私たちを気遣ってくれる。それは、六年前のあの日から、ずっと変わらない」

「六年前?」

「そう」

 アリスは軽く頷き、そして苦笑いを浮かべる。

「私の両親は人でなしでね。母親は、私が生まれてすぐに新しい男を作ってどこかに行っちゃって。父親はいい加減な飲んだくれ。信じられる? 私、戸籍すら持ってなかったのよ?」

 うんざりとした口調だったが、不思議と悲壮感は無かった。恐らく、もう彼女の中では区切りがついているのだろう。

「でもそのお陰で、私はワクチンを打たずに済んだ。ただちゃっかり、父親は打っててね。ある日突然、血を噴き出して死んじゃった」

 そのためか、その語りには内容ほどの深刻さはない。あっけらかんとした口調で語りつつ、居間へと戻るべく歩き出す。

 俺は黙って、その後に従った。

「驚いて、怖くなって、家から飛び出して……そしたら、外はもっと酷かった。そこら中、血塗れの死体だらけ。精神干渉が上手く効かなかったのかな? 時々、半狂乱で暴れている人もいて。そんな地獄みたいな世界で彷徨っていた私の前に現れたのが、ミラージュだった」

 懐かしそうに、アリスは目を細める。

「ミラージュは私を見つけると、優しく抱きしめてくれて……『大丈夫、大丈夫』って。私の震えが治まるまで、何度もそう繰り返してくれた。その後は、私の手を引いて地獄を駆け抜けて……多分、その後も色々あったと思うけれど、覚えてるのは大きくて頼もしい、ミラージュの背中だけ」

 居間に着き、アリスと俺は、ソファに腰を下ろした。

「落ち着いてからは、ミラージュが親代わりで色々と面倒を見てくれた。住む場所や名前、戸籍まで用意してくれた。でも何より大きかったのは、生きる意味を与えてくれたこと」

 胸の前で両手を組み、祈るように彼女は言う。

「ミラージュのために、私はこの生命を使う。ミラージュが夢見る理想のために、私は私の全てを捧げる。それが私の、生きる意味」

 そして、彼女は俺を見る。

「あなたはどうなの? 何故、レジスタンスに来たの? それに……何故私を、助けたの?」

 そう尋ねるアリスの瞳は、今までで一番真剣だった。恐らく彼女は、ずっとそれを俺に尋ねようとしていたのだろう。

 当然だ。いきなりレジスタンスの門をくぐった俺は、彼らにとっては異物なのだから。ここまで素直に指示に従っていたのは、単にミラージュがそれを望んだからに過ぎない。

 俺を受け入れた訳では、決してない。

「知りたいと思ったからだ」

 だから俺には、説明する義務がある。彼女の力を借りる以上、それは当然の礼儀だ。

 勿論、その結果受け入れられるかは分からない。望む答えを創作すれば、拒否されることはないかもしれないが……今の彼女にそれをするほど、道を踏み外しているつもりはない。

 ならば、ありのままの……真実を。

「帝国のあり方に、漠然とした疑問を持っていた。でも、その根拠は全く掴めなくて……ずっと、引っ掛かりのようなものを覚えてたんだ。あの時、倒れているのがアリスだと知った時、お前なら、その答えを知っているかもしれないと思った」

「それは……私が、レジスタンスだから?」

「そうだ」

 迷いなく、頷く。

「レジスタンスの存在は、帝国が示す世界と相反する。きっとそこに、俺が知らない秘密が隠されていると、そう考えた」

「それで? 結局その秘密は分かったの?」

「あぁ」

「だから……レジスタンスに?」

「……」

 今度は、即答出来なかった。口をつぐんで、少しだけ考える。

「いや……違う」

 その結果、出てきたのは否定だった。

「アリスとは意味が違うけど、俺もミラージュの理想を叶えたいと思った。全ての人には、その本能に善性が宿っている――人間の善性を真っ向から否定した今の世界で、そんな青臭い理想に全てを賭けている彼女の姿を……俺は美しいと思った。だから……かな?」

 まだ、断言できるだけの確信はない。なにしろ、ついさっきの出来事だ。正直、信念と呼べるほど固まっているとは思えない。それでも……それは、嘘偽りない本心だった。

「変なの。そこは、断言してよ」

 だから、アリスがおかしそうに笑って、そんな風にツッコんできても、俺には肩をすくめることしか出来ない。それを見て、アリスはもう一度小さく笑う。

「でも……分かった。それなら、私もあなたを信じるわ」

 それでも、最後には笑いを収めて、正面から俺を見つめてくれる。

「このレジスタンスには、私みたいにミラージュに助けられた人や、その理想を信じた人が集まっているの。それ以外の人もいたことはあるけれど、絶対に長くは残らない。だから」

 アリスは、嬉しそうに微笑んだ。

「あなたはきっと大丈夫。私たちの仲間になってくれる」

 ドキッと胸が高鳴る。その顔は、今まで見てきたどんな表情よりも、魅力的な笑顔だった。

「でも良かった。折角酷い目に遭って力を開発するのに、無駄骨になったら嫌だもの」

 しかし、その笑顔はほんの一瞬。今度はすぐに、少しだけ悪戯っぽい笑みをそこに浮かべると、わざとらしく、流し目を送ってくる。

「努力するよ」

 だから俺も、少しおどけて笑い返す。内心の胸の高鳴りを、悟らせることがないように。

「じゃあ、もう一つ質問良い?」

 そしてその努力は、功を奏したようだった。特に不審げな素振りは見せず、アリスはあどけなく首を傾げる。

「あなたとミラージュって、元々知り合いだった訳ではないの?」

「? どういうこと?」

 いきなり何でそんな話になったのか分からず、逆に聞き返してしまう。

「前から、気になってはいたのよ」

 すると、アリスはそんなことを言う。

「昔、ミラージュから貰った写真に、あなたにそっくりな人が写っていたから。東洋人の顔の区別って私たちにはつきにくいというし、他人の空似だと思っていたけれど……あなたがレジスタンスに来たから、それで少し気になって」

「あぁ……」

 言われて、何となく分かってしまった。ミラージュと一緒に写真に写るような仲で、俺に似ている人間。奇遇にも最近、そんな人物に心当たりができた。

「それなら……多分説明出来ると思う」

「え?」

 驚いた顔で、アリスが俺を見る。

「じゃあやっぱり……あなたとミラージュは――」

「いや、違う」 

 そこは否定する。

「知り合いではないけど……でも関係はあって。説明するから、一度その写真を見せてもらって良い?」

 かなり複雑な話になる。でもその前に、キリュウカズトの写真を見てみたかった。

「まぁ……良いけど……」

 よく分からないという顔をしつつも、素直に頷いてくれる。俺たちは、アリス先導のもと、寝室へと移動した。


 寝室に着くと、アリスは迷いなく部屋を横切り、キャビネットの上に置かれた一枚の写真を手に取った。

「これがその写真よ。似てるでしょ?」

 写真立てに収められた、ハガキサイズの写真。そこには、二人の男女が写っていた。

 一人は……ミラージュだ。少しはにかんだ笑みを浮かべて、でも幸せそうな表情で写っている。服装からして、恐らく高校生の頃だと思われる。

 そして……隣。その男子も、ミラージュと同じ制服を身につけて、人懐っこい明るい笑顔を浮かべていた。俺には、きっとここまで底抜けに明るい笑顔は出来ないが……それでも、似ていると言われる理由はよく分かった。兄弟だと言っても、まず疑われないだろう。

「ちなみに……どうしてこの写真をミラージュから?」

 この男子が俺の想像通りの人物なら、間違いなくミラージュにとって大切な人で、この写真はかけがえのない一枚のはずだ。いくらアリスのことが大切でも、そう易々とあげられる代物ではないだろう。

「どうしてって……欲しいって言ったから?」

「……は?」

 しかし返ってきたのは、拍子抜けするほどに呆気ない答え。

「ミラージュの私物整理を手伝っていた時に、段ボールの隅でその写真が埃を被っていたの。それで、いらないなら貰っちゃおうかなって」

「……」

 絶句する。この写真が埃を被っていたという事実に。

 埃を被った写真――つまり……この写真は大切ではない? なら……ここに写っているのは、キリュウカズトではない?

 もう一度、写真をよく見てみる。なんとなく……俺に似てない気がしてきた。

「この男子って……本当に俺に似てる?」

「は? そっくりでしょ」

 改めて確認するが、アリスの答えは変わらなかった。頭がグルグルしてくる。

「なんだか……自信が無くなってきた」

「ちょっと。いきなり何を言ってるの?」

 口をへの字に曲げて、アリスが俺の腕をつねる。

「とにかく言ってみなさい。これで黙られたら、私がただモヤモヤして終わるだけじゃない」

 そう言われたら、話すしかない。

「確証はないけど」という枕詞をつけて、自説をアリスに説明した。


「ふ~ん……この人が、キリュウカズト……」

 アリスが、まじまじと写真を見つめる。

「それに、ミラージュとキリュウカズトは従兄妹同士で、あなたにとって二人は叔母さん叔父さんと……」

「ただ……さっきも言ったけど。その写真に写っているのが本当にキリュウカズトなのか、ちょっともう、自信ない」

 説明を終えても、最初に感じた自信は復活しなかった。俺に似ている人なんて、実は日本人には山ほどいるかもしれない。

「それはないでしょ」

 だが、アリスは一言で否定する。

「あなたを見た時、イレーネがそんなに驚いていたっていうなら、それはありふれたことではないはず。それなら、あなたにそっくりなこの男子をキリュウカズトだと考えるのが、一番自然なのは確かよ」

「……まぁ確かにな」

 アリスもそう考えるなら、やはりそうなのだろう。何故写真を雑に扱っていたのかはよく分からないが……単純に、ミラージュがモノに頓着しないだけ、ということもあり得る。

「でも、あなたに期待されている……過去を変える力? が、キリュウカズト譲りだっていうのには驚いたわ」

 不意に、アリスが写真に目を落としたまま呟く。 

「正確に言うと、〝祖母譲り〟らしいけど」

 律儀にその表現違いを訂正するが、どうやらアリスが言いたいのはそういうことではないらしい。ギロリと俺を一瞥すると、

「いずれにせよ、キリュウカズトはその力を使いこなしていたんでしょ? だとしたら、聞いていた武勇伝もあながち嘘じゃなかったんだなって」

「武勇伝?」

「えぇ。旧ISSAの生き残りメンバーから聞いたことがあるの。曰く――〝史上最強のエクソシスト〟だったらしいわよ。キリュウカズトは」

「史上最強って……じゃあ、ミラージュよりも強かったってことか?」

「多分ね」

 驚いたことに、アリスはすぐに頷いた。ミラージュを尊敬しているアリスからしてこの反応だ。その武勇伝とは、よっぽど凄いものなのだろう。それにしても……

(あのミラージュよりも強いのか……)

 世界は広いと、本当にそう感じざるを得ない。そんな人でも倒せなかった、帝国の強大さにも、改めて身震いする。

「ふわぁ……」

 しかしそんな俺の感慨は、次の瞬間聞こえてきた気の抜けた欠伸によって、掻き消された。

「もう今日は休みましょう。なんだか疲れたわ」

 アリスはそう呟き、俺の手から写真を奪い取ると、再び棚にぽんっと置き、そのままベッドにダイブした。荒々しいその仕草に、短めのスカートが捲れ上がって……慌てて顔を逸らす。

「おい……自分がスカートだってこと、忘れてないか?」

 それでも放置は出来ないから、出来るだけマイルドな表現で自覚を促す。それでも、アリスはその体勢を変えようとはしない。

「別に忘れてないわよ。でも、これから一緒に生活しなきゃいけないんだから、気を遣うだけ無駄でしょう?」

(俺の精神衛生上、決して無駄ではないんだが……)

 心の中で小さくツッコむが、アリスは自分を簡単には曲げないタイプの人間であることを、これまでの学校生活を通して学習している。

(仕方ない……)

 せめてもの抗議の意味を込めて、アリスに聞こえるような大きな溜息を一回。それでも起き上がらないことを確認すると、今度は小さく溜息を吐いて、ベッドの脇に腰を下ろした。

「はぁ……」

 これから始まる、新しい生活。思っていたのとはまた違った意味で、ストレスの溜まる日々になりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る