第22話 狼の長

 金色狼の宿、一階の酒場。

 その片隅にある椅子にマリオは一人、腰を下ろしていた。前かがみになり、両肘を膝の上についている。両手に顔をうずめていた。丸められた背中には絶望がのしかかっていた。

 その頭の中ではこれまでに起こったことが、狂った映写機のようにフラッシュバックしていた。


 エルマ姐さん、ボスを!

 グラスが叫んでいた。崩れ落ちたルチアーノの体を支え、見たこともない形相でグラスが叫んでいた。

 エルマの手が次々と溢れ出してくる血で染まっている。その手は熟練の医師のように正確に動き続けていたが、エルマ本人の顔は蒼白だった。唇は真っ青になっていた。手だけが動き続けていた。

 処置を受けるルチアーノの目は虚ろだった。

 ジーナが養父の頬に掌を添えていた。その顔はすでに覚悟していた。

 何を? わからない。

 死臭が渦巻いていた。賭博場のあちらこちらにある鬼の骸から漂ってきた。もちろん、そのはずだった。この臭いは近くに転がっているトマーゾたちから出ているのだ。

 間違っても、ルチアーノからではない。もちろん、そのはずだった。

 担ぎ上げたボスの体はぐにゃりとしていた。以前あれほど強くマリオを殴ったその力はどこかへと消え去ってしまっていた。マリオは顔を歪めながら、ボスの体を支えた。傷ついた体では支えきれずに、足が崩れた。後ろからグラスが手伝ってくれた。

 ルチアーノの体からは嫌な臭いがした。賭博場からまとわりついてきた臭いは、ルチアーノ本人からも発されていた。


 そこで唐突に映写機は止まった。

 マリオは掌にうずめていた顔を上げた。そして遠吠えのような唸り声を上げた。


 大鬼を討ち、ルチアーノは倒れた。

 エルマはその場で、出血の処置だけをボスに施した。その後に、マリオたちは重体のルチアーノをこのホームにまで連れ帰っていた。

 私室のベッドに体を横たえてやると、ルチアーノはとんでもない年寄りに見えた。意識が不明瞭なまま、意味不明なことを低い声でつぶやいている。これまでに気づかなかった顔の皺が目立った。灰色の無精髭が顎の周りを覆って、目の下には大きな紫色の隈ができている。


「動かしてよかったのか? ボスは治るのか?」


 ベッドの上でか細く息をするルチアーノから目を逸らして、マリオはエルマにそっと尋ねた。その頬をエルマの平手が強かに打った。乾いた音が部屋に響いた。


「馬鹿なこと聞くんじゃないよ」


 姐貴分の目には冷ややかな怒りと深い悲しみが浮かんでいた。

 もう一度振り上げられたエルマの手を、グラスが握り締めて止めた。グラスは憔悴しきった顔をエルマに向けて横に振った。すると、エルマは腕を力なく下ろした。

 部屋の中ではルチアーノのうめき声だけがしていた。誰も何もしゃべることなく、その様子を見守っていた。

 ルチアーノは驚異的な意思の力で、生命力が抜け落ちていく身体にしがみついていた。その体がすでに長くないことは全員にわかっていた。大鬼の得物はいくつかの内臓を貫いていた。雷鎚は心臓に電撃を流し、その働きをおかしくさせていた。もしかしたら脳にまで達していたのかもしれない。

 ルチアーノはさっきからずっと、ここにいない誰かに向かって話しかけていた。


「ロメオ、やったぜ……。おれたちはやったんだ……」


 蝋のように白いルチアーノの顔が歪んだ。


「やめてくれ、そいつらだけは勘弁してくれ。許してくれ、お願いだ」


 突然、ベッドの上でルチアーノの体が跳ねた。そして叫んだ。


「見ろよ、ロメオ! 黒狼だ、黒狼がいるぞ!」


 マリオの心臓が凍った。ルチアーノの虚ろな瞳がこちらを貫いていた。その目はマリオを通して、どこか遠い過去のことを見ているようだった。


「ロメオ……、おれはあれになるぜ、黒狼になるんだ。おめえもついてこいよ」


 ルチアーノの混濁した意識はそこでぷつりと切れたようだった。ベッドの上にばたんと倒れこみ、その目が閉じられた。時折、体の筋肉がぴくりと動いたが、それは本人の意思によるものではなかった。口から涎が垂れていた。それは口の周りの皺を伝って、シーツを汚した。体を動かしたことでまた出血したようだった。巻かれた包帯を血が汚し、エルマがそれを取り替えた。そのときにミイラのようにかさついた肌と電撃で焼き爛れた肉が見えた。

 マリオは一歩二歩と後ずさった。目の前の老人のグロテスクな末期から、体をできるだけ離そうとした。

 おれは知らない。こんな男、知らない。

 マリオの目尻には涙が浮かんでいた。

 この頭のイカれたジジイはなんだ。おれのボスはどこへ行った? あの強いボスはどこへ行ったんだ?

 嗚咽が喉から漏れて、マリオは口元を手でおさえた。足がふらつき、体が壁に当たった。そのまま壁に寄りかかりながら、マリオはその場にうずくまった。

 背中にエルマの手が当てられた。耳元でそっと声が聞こえてきた。


「あんたは下で休んでな」


 エルマの顔にはやつれたようになっていた。


 「そのときが来たら呼んでやるから」


 そして今、マリオは一階の酒場にいる。

 体は傷つき、心は壊れかけていた。マリオは混乱し、絶望していた。意味もなく辺りを見回すと、バーカウンターに酒瓶が並んでいるのに気づいた。ふらふらと近づき、その中の一本を手に取ると、中身を確かめもせずに一息に呷った。強い酒精が喉を焼いた。苦々しい味を飲み込んだマリオは、酒瓶を放り投げた。瓶は赤レンガの壁に当たったが、砕けはしなかった。鈍い音を立てて、床にゴロンと転がっただけだった。

 唐突に、わけのわからない怒りが沸き起こった。

 マリオは腕を振って、カウンターに並べられた酒瓶をなぎ倒した。いくつかの瓶が床に落ちて、砕けた。その破片に足を踏み下ろした。カウンターに残った酒瓶を意味もなく壁に投げつけた。マリオは震えるような叫び声を上げた。

 頭の中でまたフラッシュバックが起きた。


 自分の目の前にあるルチアーノの背中。その体を貫く雷鎚。トマーゾの笑み。トマーゾと目が合った。雷鎚を投擲する前に、大鬼はマリオのことを見ていた。その狙いはマリオだった。


 だが、ルチアーノが身代わりになった。


 マリオは酒瓶に拳を叩きつけた。砕けたガラスはわずかに皮膚を傷つけただけだった。マリオはもう片方の手の爪を拳に突き立てた。皮膚を突き破り、血がにじみ出てきた。手が震えるほどに力を込めると、血が散らばったガラスの破片の上にこぼれ落ちた。自虐的な笑みが浮かんだ。マリオは狂ったような笑い声を上げて、床に倒れこんだ。

 そして、すすり泣き始めた。


「マリオさん」


 ジーナが階段から下りてきていた。

 自暴自棄に陥っているところなど見られたくなかった。それに恐ろしかった。ジーナが自分を責め立てるのではないかと思うと、恐ろしくてたまらなかった。

 おれがボスを殺したんだ。兄貴たちは知ってるのか? あのとき、トマーゾは確実におれを狙ってた。他の誰でもない、おれのことを狙ってたんだ。ボスもたぶんわかってた。ボスはおれのせいで死にかけてるんだ。ジーナ、おまえの親父を殺しかけてるのはおれなんだ。


「おれは疫病神だ」


 こんなところに来てはいけなかった。そもそも自分がトラブルを持ち込まなければ、あの偉大な男が生死をさまよう羽目にもならなかった。薄汚い人生を送ってきたガキが、人並みに繋がりを求めたのがそもそもの間違いだった。この手はやはり血に濡れていた。自分は狼だと勘違いした鬼だったのだ。人から何かを奪うことで前の世界を生きてきた自分は、今も親分の命を喰らってのうのうと生きようとしているのだ。


「おれが死ねばよかった」


 突然、顔に衝撃が飛んできた。ジーナの平手打ちだった。


「ふざけたことを言わないでください」


 ジーナはマリオの胸倉を掴みあげて、瞳を覗きこんできた。意外なことに、ジーナの目は静けさに満ちていた。


「この稼業やってれば、いつどこで死んでもおかしくないんです」


 ジーナは落ち着いた声で語りかけてきた。

 狼に育てられた子はすでに覚悟ができていた。おそらくずっと前から覚悟していたのだろう。ルチアーノと血の誓いを交わす前からしていたのだろう。もしかしたら、養父に抱き上げられた子どものときからしていたのかもしれない。

 ルチアーノがこの稼業で命を落とすことになるのを、ジーナは覚悟して受け入れていた。それはマリオにはない、ジーナの強さだった。


「お父さんは幸せものです。ベッドの上で私たちに見守られて死ねます。子分を庇って死ねます。お父さんに後悔はないはずです」

「……おれは嫌だ」


 マリオは言った。

 自分が死ぬのは構わなかった。この命に未練なんかなかった。だが、初めてできた大切な存在を失うのはとても耐えられないことだった。

 ジーナがマリオの背中に腕を回した。

 マリオは抱きしめ返した。そして、ジーナの金髪に顔をうずめて子どものように泣いた。

 そうして、マリオはずっと泣き続けた。自分のせいで死にかけている親のことを想って、マリオは泣いた。


 どのくらいの間、そうしていたのかはわからない。何十分か、何時間か。マリオの涙はいつのまにか枯れて、やるせない想いだけがあとに残っていた。

 夜が明けようとしていた。鬼たちとの戦いが始まり、終わり、狼の長が倒れた夜だった。果てがないように思えた長い夜だったが、朝がやって来ようとしていた。

 そして、そのときが訪れた。


「マリオ。ジーナ」


 グラスが姿を見せた。その顔は生気が抜け落ちていたが、目はしっかりと現実を見据えていた。

 グラスのあとに続いて入った部屋の中は薄明かりが差し込んでいた。窓の外では空が白み始めていた。

 しかし、辺りに漂う死臭は色濃くなっていた。死神は《灰色狼》の命を今にも刈り取ろうとしていた。死の床で、ルチアーノはそれに必死で抵抗していた。まだやるべきことを残しているといったように。まだ大事なことが終わっていないというように。

 ベッドに横たわるルチアーノの息は浅くなっていたが、狼の長は全力を尽くして終わりの瞬間を先に延ばしていた。その目にはいまだ生命の光が宿っていた。しかし、身体から生きる力が失われつつあるのは、見た目にも明らかだった。

 ルチアーノの口がわずかに開いた。


「……来い」


 蚊の鳴くようなかすれた声で、ルチアーノはささやいた。

 今、狼の長は死の間際にあって、最期の力を振り絞っていた。耳を近づけなければ聞き取れないような声で、ルチアーノは一言一言を絞り出していた。


「グラス」

「はい」


 グラスが口元に顔を寄せた。ルチアーノは紫色の唇を震わせながら、自らが信頼を寄せるナンバーツーに語りかけた。口を開くたびに、首から喉にかけての筋肉が乾いた皮膚に浮かんだ。一つ言葉を発するたびにルチアーノは息をついた。ルチアーノは多大な労力を費やして、グラスに何かを伝えていた。

 黙ってそれにうなずいていたグラスだったが、突然、その目が見開かれた。グラスはその真意をうかがうようにルチアーノの顔を見つめ、しばし沈黙した。

 そして、はっきりとうなずいた。


「愛するファーザーよ、全て仰せの通りに」


 ルチアーノはわずかに首を動かして、安心したように息をついた。


「エルマ」


 エルマの顔は悲しみの微笑に彩られていた。エルマは血の気が失せたルチアーノの頬に口づけをすると、銀髪を尖った耳の上にかき上げて、ボスの口元に近づけた。

 グラスと同じくらい長く、ルチアーノは語った。ルチアーノは途中何度か咳き込んだが、話を止めるようなことはしなかった。エルマも黙って聞き続けるだけだった。そうして全てを聞き終えると、エルマはもう一度頬に口づけをした。ボスの目に見えるように無理やり笑ってみせたが、涙がぽたりとルチアーノの顔に落ちた。


「愛してます、ファーザー」


 ルチアーノは微笑んだ。末期の苦痛にある男とは思えない、清々しい微笑だった。

 ジーナがそっとルチアーノの側に寄った。そしてその肩に腕を回して、養父を抱きしめた。ルチアーノも娘の温かさを味わうように目を閉じていたが、ジーナが体を離したとき、その顔に浮かぶ表情は厳しいものだった。

 ルチアーノは最期のときにあって、ジーナに養父としてではなく、血の誓いを交わした組織の長として接することを選んだ。ジーナもそれを望んでいた。その顔に甘さや寂しさというものはなかった。これから起こることの全てを受け入れるだけの覚悟があった。

 ルチアーノは血族の長としてジーナにいくつかの言葉を贈った。それを聞き届けたジーナはしっかりとうなずいた。

 しかし、その目から瞬く間に涙が溢れだした。


「……ありがとう、お父さん」


 別れの瞬間、ジーナはまたルチアーノの娘に戻ってしまった。言葉に尽くせぬ想いを、ありがとうの一言に込めて伝えていた。

 養父の顔はふと緩んだ。しょうがねえなあというように口の端が持ち上がった。

 が、それはまた引き締められた。


「マリオ」

「……はい」


 マリオはルチアーノの前に立って、その顔を見つめた。もう覚悟はできていたつもりだった。だが、いざこうしてその瞬間を前にしてみると、足が震えた。他の者がそうしたようにルチアーノに顔を寄せるのが怖かった。

 しかし、マリオは足を踏み出した。

 ルチアーノはしばらく何も話し出そうとしなかった。目を閉じて、か細い呼吸を繰り返すばかりだった。何度かその息が途切れそうになったが、そのたびにルチアーノはベッドのシーツを握り締めて、苦悶の唸り声を上げた。ルチアーノの魂はマリオに最後の言葉を伝えるために、もう終わろうとしている身体に必死にしがみついていた。危うい均衡が保たれていた。少しでもルチアーノが力を抜けば、天秤の秤はあっという間に死の世界へと傾くはずだった。

 永遠とも思える五分間のあと、徐々に息が落ち着いてきた。尋常ではない気力で、ルチアーノは天秤の秤をこちら側へと戻した。


「――女がいた」


 ルチアーノは唐突に、脈絡なく語り出した。


「優しい、いい女だった。あいつはおれに大切なことを教えてくれた」


 若かりし頃を思い出すかのようにルチアーノの目は閉じられていた。その口から紡ぎだされる言葉は明瞭だった。蝋燭の火が消える間際に勢いよく燃え上がるように、ルチアーノの身体には最期の力がみなぎっていた。顔には血色が戻り、薔薇色になっていた。


「どんな人間にも家族(ファミリー)は必要だ」


 ルチアーノは薄目を開けて、周りにいる子分たちを見た。そして、片腕をゆっくりと持ち上げると、側に立っていたマリオの手を力強く握った。その手は信じられないほどの熱を持っていた。


「マリオ。おめえはおれの若い頃によく似てる。おれがギルドを立ち上げたのは、おめえと同じくれえのときだ。くだらねえことばっかやった。人には言えねえようなこともやった。だけどよ――」


 大きく息をついてから、ルチアーノは噛んで含めるように言った。


「どんな人間にも家族はいる。弱いもんの家族を傷つけちゃいけねえ。傷つけさせちゃいけねえ。おれがまともになれたんは、あいつがそれを教えてくれたからだ」


 マリオの手がきつく握られた。


「兄貴の言うことをよく聞け。姐貴に甘えろ。そして、頼れ。グラスもエルマもジーナも、おめえの家族(ファミリー)だ。それからこいつを忘れんな。どんなやつでも、おめえと同じように家族がいる。それさえわかってりゃ、何の問題もねえ」


 ルチアーノの目が再び閉じられた。その瞼の裏で何を思い出し、何を思い描いているのか、ルチアーノの顔が安らかなものになった。自らの身体を苛む全ての苦痛から一瞬解き放たれたかのようだった。だが、それは次の言葉を言うための助走のようなものだった。ルチアーノは一番大切な仕事を最期に果たすために力を溜めていた。

 それまでの言葉は全て、これを果たすためのものだった。すでにルチアーノは必要な教えを授けていた。今、この臨終の時だけの話ではない。

 本物の男とはどういうものか、マリオに拳で叩き込んだ。強さとはどういうものか、血の誓いのときに忠告を与えてくれた。ボスとはどういうものか、身を持って証明した。家族とはどういうものか、死の床で気力を振り絞って語った。

 ルチアーノの目がかっと見開かれた。その瞳は初めて会ったときと変わらず、不思議な光を放っていた。


そして、狼の長は言った。


「マリオ――おまえが次のボスだ」


 ルチアーノの身体から全ての力が消え去ろうとしていた。狼の長としてやるべきことを終えた男の魂は身体から離れようとしていた。


「待ってくれ、どういうことだよ、いかないでくれ」


 マリオは自分が何をやっているかもわからないままに、ルチアーノの胸に子どものように縋りついた。それを止めようとする者はいなかった。グラスもエルマもジーナも、黙ってそれを見つめるだけだった。


「ボス!」


 マリオは叫んだ。だが、ルチアーノはそれに応えなかった。呼吸が途切れ始めていた。目は虚ろになり、マリオの手から伝わってくる心臓の鼓動はなくなりかけていた。


「待ってくれ。無理だ、おれには無理だ」


 自分がボスになることなど考えられなかった。いや、今このときにかぎっては、そんなことはどうでもよかった。

 ルチアーノが死ぬ。自分の親分がいなくなってしまう。それが問題だった。生まれたときからずっと望んでいたものがようやく手に入ったと思っていた。それが掌からこぼれ落ちてしまう。マリオにとって、それを受け入れることは無理だった。

 もう一度、マリオは叫んだ。


「死なないでくれ、|お父さん(ファーザー)」

「――愛してるぜ、おまえら」


 それが本当の最期だった。まだ意識はあったが、この言葉を発したために、ルチアーノの息は完全に途切れた。喉仏が二三度上下したが、肺が空気を吸い込むことはなかった。瞳から最期の光が消えていった。ルチアーノの首ががくんと横に倒れた。


 身が凍るような静寂の中、《灰色狼》は息を引き取った。


 《狼の血族》ドン・ルチアーノ・ウルフルズは永遠にこの世を去ったのだ。


 窓の外から茜色の光が飛び込んできた。窓の向こうの建物の陰から太陽の先端が顔を出していた。部屋の中が眩しく照らしだされた。そして、一条の光がベッドの上に差し込んだ。


 その光に照らしだされたルチアーノの顔は、安らかな微笑に満ちていた。






 その場所はベガスの街外れにあった。普段でもそこを訪れる人はそう多くない。今日のような陰鬱な天気の日となれば、人影はまったく見えなかった。身にまとわりつくような小雨は緑色の芝生を湿らせ、無数に立ち並ぶ墓石を黒く濡らしていた。

 霧のような小雨の中、その墓所に見えるのは四人の人影だけだった。

 ルチアーノの葬儀は身内だけで、人目を避けるように行なわれた。棺を運ぶのは子分たちだけで、聖句も参列者も花束もない、ひっそりとした葬式だった。

 穴はすでに墓掘り人の手によって準備されていた。狼の子たちは棺を中に下ろすと、土をその上に黙々とかけていった。誰も何も話すことなく、順番にスコップを持ち替えていった。霧雨が四人の体を濡らしたが、それを気に留める者は誰もいなかった。みな、目の前の作業に集中していた。粛々としたその動作には、荘厳な気配があった。

 穴の前にある質素な墓石には名前のみが記されていた。他には何も書かれていない。普通は、そこに眠る人物の人柄や成した事について書かれるものだ。しかし、狼の長はそれを望まなかった。

 穴を埋める手を止めて、墓石をじっと見つめていたグラスが淋しげにつぶやいた。


「この稼業に生きた男は、これでいいのさ」


 所詮は日陰者だからな――その言葉は雨の中へと物哀しげに消えていった。

 穴を埋め終えた。が、誰もその場を立ち去ろうとはしなかった。かといって、何かを話し出そうともしなかった。

 ただ墓石の前に並んで立って、体が雨に濡れるに任せるだけだった。

 揺蕩うような時間がしばし流れたあと、マリオが身じろぎした。懐に手を入れ、煙草を取り出す。手をかざして火をつけると、煙を吐いた。指の間に挟まれた煙草をポツポツと雨が濡らしたが、火は保たれていた。

 マリオは隣に立ったジーナの口の前に煙草を持っていった。すると、ジーナはマリオの手の中にある煙草を口に咥えた。一瞬咳き込もうとするような素振りを見せたが、ジーナはそれを抑えて煙をゆっくりと吐き出した。

 煙草はジーナの隣のエルマに手渡された。いつもの煙管とは違うその味を楽しむかのように、エルマは紫煙を吸い込んだ。エルマが隣のグラスに回すときも、煙草の火はまだ保たれていた。その火を小雨が避けているかのようだった。

 グラスが煙草を口に咥えた。少しだけ顔をしかめたが、すぐにその緊張は解けた。ゆっくりと苦い味を噛みしめるかのように、グラスは深く煙を吸った。

 そして、四人が吸ったその煙草は、ルチアーノの墓前に供えられた。それだけが狼の長に対する唯一の弔いだった。 

 一筋の煙が、暗い雨空に立ち昇っていった。

 時が経ち、煙草の火がとうとう燃え尽きると、グラスがマリオに向かって言った。


「――で、どうするんだ?」

「……それはおれが決めることじゃねえ。兄貴たちはどうなんだよ?」

「ボスが決めたことだ。あとはおまえが決めるだけだ」

「……そればっかじゃねえか。兄貴たちは不満じゃねえのか? どう考えてもおかしいだろ。序列ってもんがあるだろうが」

「ボスの遺言だからな」


 それで答えは全てだというようにグラスは言い切った。エルマも、ジーナもそれにうなずいた。しかし、マリオはうなずけなかった。


「ボスはなんでおれなんかを二代目に指名した?」


 エルマが言葉を返した。


「前にも言っただろうが。あんたがボスの考えを読もうとするなんざ、百年早いんだよ。もっとも、あたしらにだってわかるこっちゃないがね」

「……お父さん、最期は笑ってましたね」


 ジーナがぽつりと言うと、エルマが首肯した。


「あとのことは任せた――って、あたしのときに言ってたよ」


 その言葉に、マリオは沈黙した。

 ルチアーノが死去してまだ数日も経っていないが、その訃報はすでに街を駆け巡っていた。鬼の一派が狼の一味に潰されたという情報とともに。ベガスの街では嵐の予感が渦巻いていた。

 《灰色狼》の死と壊滅した鬼の一派の縄張り。

 それらは街の筋者たちを一斉に動き出させるには、十分な理由だった。

 そして、一般市民が彼らの抗争に巻き込まれるのを恐れるのにも、十分すぎるほどだった。


「ちょっと一人にしてくれねえか」


 グラスたちはその頼みに従った。

 残されたマリオは一人、ルチアーノの墓前に立ち尽くした。

 雨がだんだんと勢いを増していた。雨粒は大きくなり、墓所全体に強く降り注ぎ始めた。ルチアーノの墓石を大粒の雨が叩いた。それは同様に、マリオの顔を痛いほどに打った。


「おれはどうすればいいんだ?」


 マリオは墓石に向かって問いかけたが、聞こえてくるのは激しい雨音だけだった。


「なあ、ボス――」


 呼びかけて、マリオはふと口を閉じた。ルチアーノはすでに長の座から降りていた。ルチアーノはもはやマリオのボスではない。

 マリオはしばらく考えてから、別の言葉を発した。


「――親父」


 ルチアーノはもうボスではなかった。その務めはすでに果たし終えていた。だが、この世から去ろうとも、ルチアーノはマリオと血を交わした間柄だった。


「親父」


 マリオはもう一度呼びかけた。強く、呼びかけた。

 ルチアーノは死んだ。死ぬ直前に、長の称号をこの世に置いて去って行った。確かに、ルチアーノはもうマリオのボスではない。だが、マリオと血は繋がったままだった。マリオはルチアーノの息子だった。


「親父。おれは――」


 マリオの声は雨音に遮られた。その口は動き続けていたが、それを聞く者はルチアーノの墓石だけだった。しかし、マリオの口は水に溺れて助けを求めるもののように動き続けていた。答えを求めるかのように、必死に動き続けていた。

 一陣の風が走り抜けて、マリオの黒髪を吹き上げた。塵が飛んできて、マリオは口と瞼を閉じた。

 すると、全てのことが思い起こされた。求めた答えが返ってきたかのようだった。

 ルチアーノと初めて会った日のこと。ルチアーノと立ち会ったこと。初めて叱られ、熱い拳で殴られたこと。血の誓いを交わし、本物の男になれと言ってくれたこと。


 そして、親父が命を賭して自分を守ってくれたこと。


 ――どんな人間にも家族はいる。弱いもんの家族を傷つけちゃいけねえ。傷つけさせちゃいけねえ。


 マリオの目が見開かれた。


 雨風が急に弱くなっていた。今はわずかな雨粒がぱらつくだけだった。微風がマリオの頬を撫でた。

 振り返ると、遠くにジーナたちの姿が見えた。向こうではすでに雨が止んでいるらしい。厚い雲の隙間から、太陽の光が数条差し込んでいた。


 マリオは光の方へと向かって歩き出した。


 その顔から迷いはもう消え去っていた。

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2024年12月19日 18:00
2024年12月19日 21:00

異世界で冒険者ギルドに入ったら、そこはマフィアだった 霜田哲 @tetsu_9966852

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