第21話 ボスの条件

「トマーゾ……」


 グラスが言った。


《大鬼の雷鎚》ボス・トマーゾ。


 四人の前に現われたその男は途方もなく大きかった。見たところ、歳は初老に差し掛かったあたりのようだったが、全身が筋肉の鎧で覆われているのが、身に纏った黒服の上からでもはっきりとわかった。見上げるような大岩にかろうじて服がへばりついているように見える。男は白髪の髪を鬼婆のように後ろで結んでいた。赤銅色の肌とノミで彫り上げたかのような荒々しい顔は、まさに大鬼のようだった。

 手にはその巨体に見合った戦鎚を持っている。トンカチを巨人用に作ったような大きさだった。打撃部分は人の頭ほどもあり、その反対側、トンカチでいう釘抜きの部分は、先が尖っており杭のようになっている。人体を潰すのも貫くのも可能ということらしい。

 その巨大な大鎚を軽々と片手で持ち、大鬼は言った。


「外の見張りもこれも、貴様らがやったのか?」


 ぎょろりとした眼が向く先には、中鬼たちの亡骸があった。


「くたばったのは若いやつらだけかと思ったが、まさかメイソンたちまで殺られるとはな……。信じられん。まったくもって信じられん」


 トマーゾは口の周りを覆う白髭を弄びながらつぶやいた。


「何が信じられないっていうんだ、トマーゾ?」


 グラスが身を起こしながら問いかけた。


「おまえの部下は僕たちが殺ったよ。それがそんなに信じられないかい?」

「……そうではない、若き狼よ」


 トマーゾは猪首をグラスの方へと巡らせた。


「かわいがってやったガキ共が、こんなにも使えないゴミだったことが信じられんのだ」


 中鬼を束ねる大鬼は、自分の子分たちの遺体にはもはや目もくれていなかった。道端に落ちたゴミ屑でも眺めたかのように一瞥したあとは、じっとグラスたちに目を向けるだけだった。その態度からは手下を殺されたことに対する感情というものがまったく感じられなかった。

 こいつはいったい何なんだ、とマリオは訝しく思った。こいつが本当にオルクたちのカシラなのか。なんでキレないんだ、なんで子分を殺られて平然としているんだ。


「おい、あんたがトマーゾなのか?」


 マリオが睨みつけると、巨漢はいかにも、というふうにうなずいた。


「貴様は?」

「《狼の血族》正構成員、マリオだ。オルクはおれが殺った」

「そうか」


 トマーゾはまたうなずくと、どうでもいいといったようにマリオから視線を外した。


「おい!」

「……何だ?」

「何か言うことはねえのか? オルクはおれが殺ったんだぞ」

「それが?」

「てめえはあいつの親分だろうが」

「何が言いたい?」


 マリオは絶句した。言いたいことがうまく言葉にならなかった。

 オルクはおれが殺った。てめえはあいつの親分だ。てめえの目の前にいるのは子分を殺った男だぞ。

 ――なのに、なんでそんな何にも感じてねえような顔してんだよ。

 マリオはふらつく体でトマーゾに突っかかろうとした。が、傷は深かった。一歩足を踏み出した途端に体を支えきれなくなり、床に崩れ落ちた。それを見たトマーゾが嘲るような笑いを浮かべ、マリオが歯ぎしりをした、そのときだった。


「マリオ、そいつにゃ何言っても無駄だぜ」

「ボス」


 ルチアーノだった。


 狼の長が大鬼の後ろの方に立っていた。トマーゾが通ってきた通路からゆっくりと歩いてくる。目を見張るトマーゾに油断なく視線を配りながら、傷ついたマリオたちを庇う位置に片足を引きずりつつやってくる。ルチアーノは抜き身の剣を片手に持っていた。その剣身も服もべっとりと血に塗れているが、ルチアーノに傷ついた様子はなかった。全て返り血のようだった。

 その血糊に目を留めたトマーゾの顔がわずかに歪んだ。


「あいつらも足止めにならなかったのか」

「あの二人は斬ったぜ。残る大鬼はてめえだけだ、トマーゾ」


 ルチアーノが剣をその場で一振りすると、血の滴がさっと飛んだ。


「てめえに聞きてえことがある」

「貴様もか。……何だ?」


 ルチアーノは淀みない動きで、剣の切っ先を相手に向けた。


「……てめえは親分か?」

「つまらん問答はよせ。貴様もあそこの小僧も、何が言いたいのかさっぱりわからん」

「てめえは《大鬼の雷鎚》、いや、鬼の一派の大親分かって聞いてんだよこのクソが!」


 ルチアーノは吼えるような声を上げた。サングラスの奥の目が燃えていた。


「手下二人におれを足止めさせて、一人でトンズラこきやがるだと? 頭(カシラ)張ってるくせに、ナメたマネしてんじゃねえぞこの野郎」


 ルチアーノはサングラスを投げ捨てると、目をかっと見開いてトマーゾを睨みつけた。


「おれにカチコミ食らって、てめえは戦わずに手下を盾にしやがる。そんで子組のとこに駆け込むだと? 汚えハラしてんじゃねえか」


 マリオにも事情が飲み込めた。

 《大鬼の雷鎚》の構成員は、ボスのトマーゾを入れて三人。ルチアーノはその三人が揃っているところに襲撃をかけた。その突然の攻撃に対応しきれないと判断したのだろう、トマーゾは他の二人に足止めを任せて、一人でその場から離脱した。大勢の子分が集まっているはずのこの賭博場に逃げ込んで、態勢を整えてから反撃しようとでも思ったのか。

 しかし、頼みとした《中鬼の矛鎚》はすでにマリオたちに潰されていた。


「当てが外れてがっかりか?」


 ルチアーノが低い声を出すと、トマーゾは首肯した。


「ああ、がっかりだ。ここも貴様らに荒らされているだろうとは考えていた。メイソンとオルクはもう少し踏ん張るかと思ったが、予想以上に使えなくて心底がっかりさせられた。まったく信じられんやつらだ。どれだけデカいシノギを任せてきたと思っている。ここぞというときにあっさり殺られるとは――」

「黙れ下衆野郎!」


 ルチアーノの怒声が飛んだ。


「下のやつを体張って守るのが上の役目。子分を死んでも守るのが親分よ。てめえはふざけてやがる。手下の背中に隠れるだと? それで死んだやつらに向かって、言うに事欠いて、使えねえだと? てめえは親でもなんでもねえ。人の血なんぞ流れちゃいねえ、ただの畜生だ。てめえは鬼畜だ」

「そうだ、私は大鬼だ」


 トマーゾが笑った。


「大鬼は喰う。生きるために人のものを喰い、楽しむために命を喰う。それが鬼だ。群れを作るのも、それを効率よく行うための手段にすぎん。必要とあらば、同族ですら喰らう。なに、これは私だけの考えではない。メイソンやオルクも同じことを考えていただろう」


 自ら鬼と名乗る男の目がすっと細められた。


「ここに来るまでに何でもやってきた。ただの殺しがかわいく思えるようなことをやってきた。だからこそ、私は鬼のボスになれたのだ。だからこそ、今の地位を得たのだ」


 トマーゾは両手で大鎚を構えた。


「――だからこそ、貴様らには我慢ならん。私が築き上げたものを一晩で崩しおって」


 そこに込められていたのは、自分の物を壊された憤怒だった。部下を殺された義憤などでは決してなかった。大鬼の長はどんな魔物よりも欲深く、どんな人間よりも罪深かった。


「てめえはボスの器じゃねえ」


 ルチアーノが言った。おまえに人の上に立つ資格はない、部下の死体の上でふんぞり返る男に生きる資格はないと、その目は語っていた。

 トマーゾは全てを喰らって生きる大鬼だった。金を奪って喰らい、女の春を喰らい、その口からヤクを垂れ流して子どもを毒する魔物だった。

 自らの子分まで喰らって生きる魔物と、子分に自らの血を分け与える狼の長。

 トマーゾとルチアーノの視線が交差した。

 言葉はなかった。


 一瞬ののち、それぞれの得物が振り抜かれた。


 神速の剣が大鎚に受け止められた。ぐっと剣を押し返そうとするトマーゾだったが、ルチアーノはそれを軽く流すと、そのまますっと相手の肩口を斬ろうとした。バターを切るようなさりげない挙動だったが、大鬼の膂力をさらりといなすその技量は並大抵ではなかった。

 トマーゾの肩の筋肉が盛り上がり、その半身が前に突き出された。ルチアーノの剣はその肩先を斬ったが、微妙に間合いを外されていた。鋼のような筋肉にわずかな傷を与えただけだった。

 かえって、隙が生まれた。

 トマーゾが片手を大鎚の柄から離して、その大岩のような拳をルチアーノの顔面に叩き込んだ。歯が折れて飛び、鮮血が舞った。ルチアーノの弱い足腰ではその衝撃に耐え切ることができなかった。その体がよろめき、さらに隙が生まれた。その機を逃さず、トマーゾはもう片方の手で巨大な得物を振るった。途方もない大きさの鉄鎚がルチアーノの頭めがけて殺到した。

 ――ふらり、と。ルチアーノの体が揺らめいた。戦鎚が虚空を切った。

 尋常ではない足捌き。異様な歩法だった。踏み込んだのは一本の足だけ、もう片方の足は引きずっている。倒れこむかのように上体が傾くと、その体は敵の攻撃をするりと躱していた。

 大鎚を振り抜いたトマーゾには死角が生まれていた。そこにさっと潜り込んだルチアーノは相手の脇腹に剣を打ち込んだ。

 突如、トマーゾの全身の筋肉が膨れ上がった。打ち込まれた剣を、固く締められた腹筋が受け止めた。大鬼の体を覆う筋肉は鋼鉄の鎧だった。巨大な獣と同じだった。分厚い筋肉の塊は容易に刃を内側まで届かせなかった。

 ルチアーノの剣がトマーゾの肉にめり込んだ。そのまま刃を押し込もうとうするルチアーノだったが、それを意に介さず、トマーゾが再度大鎚を振るった。

 金属音が響き渡った。トマーゾの攻撃は、ルチアーノが咄嗟に引きぬいた剣によって受け止められていた。しかし、その重たい一撃はルチアーノを数歩後退させた。そこにもう一度振り下ろされる大鎚。

 火花が散り、再度金属音が鳴り渡った。大鎚が振られると同時に、ルチアーノは片腕だけで剣を打ち下ろしていた。その一撃は大鬼の腕力と互角、いやそれ以上の力を持っていた。今度はトマーゾが後ずさった。いかなる体捌きによってか、ルチアーノの不自由な体から放たれる剣技は、言い知れぬ重みを秘めていた。

 狼と大鬼の一撃は、互いに相手を一瞬で仕留めるだけの力を持っていた。そんな攻撃が幾度も放たれた。霞むような鋭さで撃ち込まれる剣と、風を切って振られる大鎚が宙を行き交った。互いに相手の攻撃を躱し、受け止め、反撃を放つ。狼と大鬼の戦いは吹き荒れる嵐のような激しさだった。そこに余人が入り込む隙間はなかった。

 マリオたちは呆然とその光景に見入っていた。加勢しようにも、その体はみな傷ついていた。しかし、仮にその身が無傷であったとしても、その戦いに割って入ることはできなかっただろう。それほどまでに熾烈な争いだった。血飛沫舞う苛烈な殺し合いだった。

 三度、剣戟の響きが轟いた。互いに弾かれるようにして、ルチアーノとトマーゾは距離を置いて向かい合っていた。

 トマーゾは息を喘がせていた。その身のあちらこちらから血を垂れ流している。傷はどれも深くないようだったが、狼の剣撃は確実に大鬼の力を削いでいた。

 対するルチアーノに傷はなかった。呼吸は深く、落ち着いている。その顔には笑みが浮かんでいた。


「どうした? これで終わりってわけじゃねえだろう」

「……忌々しい犬っころが」


 トマーゾが荒い息をつきながら吐き捨てた。

 一見、戦いは伯仲しているようだったが、実際はルチアーノの実力が相手を上回っていた。激烈な勢いを持って交わされる剣と戦鎚だったが、一合ごとにトマーゾは後退し、斬りつけられていた。

 大鬼を圧するルチアーノ。その失われた片腕の袖はだらりと垂れ下がっている。目まぐるしい攻防の最中、片足は常に引きずられていた。その目は相手をまともに捉えているのかわからない。にもかかわらず、ルチアーノの剣は明らかにトマーゾを押していた。


 これが《灰色狼》ドン・ルチアーノの実力だった。老いていようが、腕と足をもがれていようが、狼の牙は鈍ることなく、獲物を追い詰めていた。


「……信じられん。いったい、どうなっている?」


 トマーゾにはわからないようだった。目の前の不具の男がなぜこれほどの強さを持っているのか。なぜ自分を追い詰めているのか。トマーゾはその事実を信じられないようだった。


「信じられねえだと? ああ、そうだろうよ。てめえの子分の陰にコソコソ隠れる偽物にはわかんねえだろうが」


 ルチアーノは鼻を鳴らした。


「もう一度言ってやる、いや、何度でも言ってやるぜ。てめえはボスの器じゃねえんだ」


 狼の長は高らかに吼え上げた。


「いいか、よく聞きやがれこの野郎! 親分ってのは、てめえみてえな下衆がやっていいもんじゃねえんだ。この世界の親分、子分ってのは、伊達や酔狂じゃねえんだよ。子を死ぬ気で守るのが親の役目だろうが。そんなこともわからねえ畜生が、おれの前ででかい面してんじゃねえぞ!」


 その言葉には本物の男だけが持てる凄みがあった。長年体を張って、下の者を守ってきた男にだけ言える言葉だった。

 親分、子分というのは伊達や酔狂ではないとルチアーノは言った。この世界のそれは言葉の綾ではなく、文字通りの意味を示すものなのだと。子を命がけで守るのが親というものだと、血族の親分は言った。

 しかし、それを聞いたトマーゾは笑った。悪魔めいた笑みだった。


「ボスの器じゃない、か。そうは言うが、だったら貴様は親分なのか?」


 トマーゾの腕の筋肉がわずかに動いた。大鎚がピクリと反応した。


「――それを証明してみせろ」


 ルチアーノと対峙したトマーゾが動いた。丸太のような腕が、見かけに反して滑らかな動きをとった。一流の剣士の抜刀のように素早く静かだった。大鎚を握っていた腕が音もなく下から振り上げられた。一旦、上段に構えてそれから振り下ろすつもりなのか。

 その攻撃の機先を、ルチアーノがとった。相手がわずかに見せた隙を逃さず、ルチアーノは体を前のめりにして距離を詰めようとした。それは動かない足をかばって戦うための歩法だった。無事な方の足だけで踏み込んで、体を前に倒す。倒れこんだ力を利用して推進力を得る。その勢いは健常な戦士に劣るどころか、それにはるかに勝るものだった。

 ルチアーノの体が一瞬沈み込み、爆発したかのような速度でトマーゾへと向かった。トマーゾの腕は中段にあった。上段にはいまだ達していない。トマーゾの体は攻撃準備の動作で隙だらけだった。

 ルチアーノがあと数歩のところまで迫った。下ろした片手には剣が握られている。下から上に斬り上げるつもりなのだろう。ルチアーノの腕が鞭のようにしなって、剣が大鬼に襲いかかろうとした、そのときだった。

 ルチアーノが止まった。

 時が止まったかのようだった。


 血がルチアーノの足元に滴り落ちていた。


 全ては一瞬の出来事だった。トマーゾとルチアーノが動き出してから、わずか数秒にも満たない。マリオもグラスもエルマもジーナも、何が起こったのか理解できなかった。

 ルチアーノの腹に大鎚の杭の部分が深々と突き刺さっていた。柄はトマーゾの手から離れている。巨大な戦鎚は投げナイフのように投擲されて、ルチアーノの体を貫いていた。それだけではなかった。その傷口の周辺の皮膚は電撃を浴びたように火傷を起こしている。ルチアーノの体は立ったまま痙攣を引き起こしていた。大鬼の鎚はただの武器ではなかった。それは《大鬼の雷鎚》の名が示す通りの威力をもたらしていた。


「ゴミ共も一応は役に立ったようだな。そこにいるガキ共を動けなくする程度には働いたらしい。手柄だ。そのおかげで狼の長の首を取ることができる。まさか本当に手下の盾になるとはな、ルチアーノ?」


 トマーゾが言った。

 大鬼の目の前で無防備に立ち尽くし、血を流している《灰色狼》の背後には、傷を負ったマリオたちがいた。

 ルチアーノはトマーゾと激しい剣戟を交わしているときも、そのことを計算していたのだろう。最初にマリオたちの怪我の様子をちらりと見ただけで、まともに体を動かすことができないと看破したのだ。狼の親分はトマーゾを追い詰めながらも、子分たちを守る位置を陣取っていた。

 しかし、そのことにはトマーゾも気づいていた。

 大鬼の攻撃は上段に振り上げてからの一撃ではなかった。狙いはルチアーノではなく、その背後にいるマリオたちだった。トマーゾ、ルチアーノ、マリオたちは一直線上に並んでいた。それが仇となった。投擲された雷鎚をルチアーノが躱せば、体を瞬時に動かせないマリオたちに命中する。

 その中でもマリオはとりわけ危険だった。先ほどトマーゾに突っかかろうとして、他の者より一歩前に出ていた。トマーゾもそれを見て取っていたのだろう。雷鎚はマリオの方へ向けられて放たれていた。

 ルチアーノがそのことを見切って駆け出したのかはわからない。トマーゾが得物を投げる前に、斬り倒そうとしたのか。それとも迫る途中でその狙いに気づいたのか。どちらにせよ、ルチアーノは敵を倒すよりも自らの子を守ることを選んだ。自分がトマーゾを斬り倒すよりも、相手が武器を投擲する方が早いと判断したのかもしれない。とにかく、ルチアーノはその身を挺して子を守った。


 自らが傷つくことを厭わずに。


 そもそも普通に歩行することすら困難なはずの体だった。片腕を失くし、片足をひきずり、両眼の光が衰えている。そこに与えられた大鬼による残虐な攻撃。それはルチアーノの体に深刻な損傷をもたらしていた。

 腹部は雷鎚に貫かれていた。鎚の頭部、杭の部分が土手っ腹に大穴を空けている。血が次々と流れだし、足元でぬかるみのようになっている。傷口が雷鎚の熱で焼けて煙が出ている。肉が焦げる臭いがした。雷鎚から迸る電撃はルチアーノの体を焼き、全身に衝撃を与えていた。神経をショートさせ、筋肉を痙攣させている。ルチアーノの両眼は飛び出したようになり、食いしばられた口からは歯ぐきがむき出しになっている。苦悶の表情をありありと浮かべるルチアーノは、我が身を襲った暴虐の激痛に耐えていた。

 しかし、《灰色狼》はそれでも立っていた。犬歯をむき出しにして、剣を落とさずに、片足だけを踏ん張って立ち続けていた。


 狼の長は背後にいる子分を守るために、剣を握り締めて敵の前に立ちはだかっていた。


 ルチアーノの口が震えながら動いた。


「ボス、って、のはよ……」


 信じられないことだった。その場にいる誰もが目を見張った。ルチアーノの行動とその怪我を目の当たりにして凍りついたように動けなかったマリオたちも、攻撃を加えたトマーゾ本人ですらも驚愕した。常人ならば即死するはずの傷を受けつつ、ルチアーノは不死身の獣のように動き出した。

 その足が一歩前に踏み出された。


「……ボス、なんてのは、簡単よ。くだらねえ手下集めて、好き勝手やってりゃ、サルでも、やれるもんよ……」


 ゴボリと血が口から溢れだした。ルチアーノは激しく咳き込んだ。ドス黒い血がまたこぼれ落ちた。


「……だが、な」


 しかし、その目はしっかりと大鬼に据えられていた。


「本物の、ボスってのは……、簡単じゃねえ」


 ルチアーノは剣を持った手を持ち上げて、その切っ先を再び仇なす敵に突きつけた。


 そして、笑った。鮮やかに笑ってみせた。


「てめえが死んでも、子分は守る。それが、ボスだ」


 それはトマーゾだけに向けられた言葉ではなかった。背中にいる狼の子に与えられた言葉だった。


 ルチアーノの剣が天高く掲げられた。

 トマーゾがはっとその身を動かした。

 大鬼は死に体の狼に襲いかかった。手に得物はない。頼みの雷鎚はルチアーノの体に突き刺さってしまっている。先の卑怯な一撃で仕留められるという浅はかな考えは、しかし、狼の長には通用しなかった。それは間違いだった。

 ルチアーノの体にトマーゾの腕が伸ばされた。素手の拳で殴りつけるだけで息の根が止まる負傷。押せば倒れるような傷を負ったルチアーノ。確かにそのはずだったが、トマーゾの顔には追い詰められた側の焦燥があった。

 はたして、それは正しかった。


 剣が一閃した。狼の牙は大鬼の体を斬り裂いた。袈裟懸けに振り抜かれた剣は、トマーゾの胴体を深々と斬った。


 トマーゾの目が大きく見開かれた。自分の身に起こったことが理解できないというようだった。傷口に手をかざし、よろよろとふらついた。

 そして、倒れた。床に崩れ落ちる前に、大鬼はすでに絶命していた。


 それと同時だった。

 ルチアーノもまた膝をついていた。


 血の気が失せたその顔には、死相が忍び寄っていた。

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