第3話 貴方が愛したこの世界

私はある日、広いお屋敷に雇われた。どこを見ても輝くものばかり。そんな廊下を、メイドに案内されながら歩く。連れてこられた場所は、今まで見たことがないような、豪華な一つの部屋だった。

「君が新しい執事か。うちの屋敷をよろしく頼むよ。」

そこにいたのは、若い一人の男性と、優しそうな、綺麗な女性だった。彼が屋敷の当主、それから奥様らしい。

「初めまして。お役に立てるよう、努力します。」

彼は厳しそうな第一印象ではあったが、その厳しさは威厳というか、積み上げられてきた努力の何かで、どこか優しさを感じるような方だった。


「当主は、どのような方ですか?」

長い廊下を戻りながらメイドの人に問いかける。

「とても、尊敬できる方です。」

その人は真剣な声色でそう答える。私はとてもいい働き場に来たのかもしれない。

仕事を始めて一か月。周りの方とも打ち解けて、やりがいのある仕事を精一杯こなす。当主様は奥様と定期的にその様子を見に来られる。とても仲がよさそうな夫婦だ。一人一人に声をかけて、わかりにくいが心配や、感謝の言葉を伝えて回っている。素直に話すのはあまり得意ではないようだ。それでも精いっぱい心を込めて。

ここの使用人はあまりおらず、この広い屋敷を十人ほどで切り盛りしている。きっと財力には困っていない。もっと大勢を雇うことだってできるはずだ。だけどそれをなさらないのは、きっと一人一人と向き合うためだろう。あの方は全員と真剣に向き合い、使用人もあの方を慕っている。とても素敵な関係だと思った。

「まだ来てあまりたたないが、仕事には慣れたか。」

私は少し頭を下げ、応える。

「とてもいい方ばかりで、楽しくできております。」

そうか、と少し笑みをこぼし、彼は背を向ける。この人ほど、上に立つことに向いている人はいるのだろうか。


私が雇われて五年の月日が経ったある日。ある一つの嬉しい知らせが来た。夫婦の間に、一人の男の子が生まれたらしい。私はその日休みを取っていて、屋敷に戻れば、祝福の温かい声が響いていると思っていた。だがそんな声は、聞こえてこなかった。聞こえてくるのは、重く、暗い、思いつめたような泣き声。

「どうされたのですか?」

私は声をかける。

「奥様が、、っ奥様が!」

彼女は必死に泣き声を抑え、声を絞り出す。気づけば私は、一つの部屋へ続く長い廊下を走り出していた。

開け放たれているドア。静かで電気もつけず、奥様との写真を握り、ただうつむく一人の男性。私の中の記憶がよみがえる。


私を出迎えてくれた格好いいお二人。

幸せそうに、笑いあう夫婦。

木漏れ日の中手をつなぎ歩く後ろ姿。

『愛している』そう言うように笑顔で奥様を見つめる当主様。

私はかける言葉が見つからず、ただ立ち尽くす。そんなときに聞こえてくる、一つの泣き叫ぶような、幼い赤ん坊の泣き声。その泣き声は、ただ一人の母親を求めているようで、胸が、締め付けられる。私は耐えられなくなり、下を向いてしまう。そんな地獄のような時間が過ぎてゆく。もうこの屋敷は、駄目かもしれない。そんなことを思ってしまったその時、当主様は顔を上げ、前を見た。彼は私に気づき、歩き出す。

「もう、大丈夫だ。私はたった一人の当主なのだから。たった一人の、父親なのだから。」

感情を押し殺したようにそう言い、私の横を通り過ぎ、前へ、歩いて行った。彼は、一滴たりとも涙をこぼさなかった。


次の日、当主様は全員を集めてこういった。

「妻は、もともと病気だったそうだ。それを知っていたのは医者だけ。心配を、かけたくなかったらしい。そんな状態で子供を産めば、自分がどうなるかはわからない。それでも、元気な一人の男の子を生んでくれた。亡くなる前、彼女は私にこう言った。

『私の分まで、守ってほしい』と。私はその子に込められた思いを、彼女が繋ぎたかったこの屋敷の未来を、全力で、叶えたいと思う。」

当主様は、笑っていた。その時はまだ誰も、その笑顔の裏を知らなかった。


また少しずつ、屋敷に日常が戻って来た。皆奥様のことを忘れられるわけじゃない。でも、当主様の言葉を聞いて立ち上がろうとする。これから成長する一人の男の子に、明るい屋敷を、世界を見せてあげるために。当主様も、前と変わらず様子を見に来てくださる。皆と笑顔で会話をする。そんな明るい光景を、私は眺める。眺めているとふと、当主様の顔から感情が消えたように、笑顔が消えたような気がした。それからまた、それを隠すように笑顔を作る。とても、とても嫌な予感がした。

「最近笑顔が増えましたね。当主様。」

一人のメイドが言う。

「そう、ですね。」


私の勘は、最悪な形で当たってしまった。

その時から少しずつ、少しずつ、当主様は壊れていった。私たちに会いに来てくれる回数はどんどんと数を減らし、ただ休みもせず仕事を続ける。奥様のものは目の届かないところへ私に片づけさせた。最後に奥様が名付けられた子供の名前は『遥』だった。そんな子供の名前を呼ぶ声も、もう聞かない。ただ仕事を続け、権力を、財力を、地位を求めた。そして当主様はよく、こう言う。

「この屋敷は、私が守る。」

違います。違うのです、当主様。あなたが守らないといけないのは屋敷の日常、笑顔だ。この屋敷がどんなに小さくなってもいい。奥様が言ったのは屋敷だけではないでしょう?今のあなたは、奥様の思い描いた未来を、任されたすべてを、何も、叶えられていない。

そんな時、私の服を小さな手がつかむ。

「おなか、すいた」

私はこの時思った。この子だけは、守らなければ。


「当主様、お話があります。」


私は遥様のお世話を担当させてもらえるよう当主様に話を通した。一枚の扉をたたく。

「失礼します。遥様。」

当主様が遥様のために用意し、出してはならないといった大きな一つの部屋。

彼を優秀な子に育て、私の跡を継がせ、屋敷を守ってもらう。そう言っていた。

「今日から遥様のお世話を任されました。何かあればお申し付けください。」

私は小さく礼をし、笑顔を向ける。


遥様は、顔立ちは奥様によく似ておられるが、性格は当主様を感じさせる、しっかりとした気迫のある子だった。物心ついた時にはもう部屋を与えられていたため、外の世界を知らない純粋な男の子。私以外とはほとんど話さないため、人とのコミュニケーションは得意ではなさそうだった。私は少し、この子が外に出た時のことが不安になる。当主様。本当にこれで良いのですか?


ある日私は、大きなケーキを持って部屋の扉をたたいた。

「お目覚めですか。遥様。」

五本のろうそくとhappy-birthdayと書かれたプレートを見て、もうあの件から五年も経ったことを実感する。

「もうそんな年なのですね。おめでとうございます。遥様。」

遥様は、不思議そうな顔をする。そうか。この子は「誕生日」という日を祝われたこともなく育ってきたのか。きっと毎年ケーキを持っていくことは当主様が許してくれないだろう。だからせめて、お祝いの言葉だけはかけようと思った。

それから今日は、遥様が初めて部屋の外に出る日だ。

「さあ、行きましょう。」

そう言って私は、遥様の手を引いた。


遥様は思っていたよりも外の世界に興味を持っていないようだった。驚く様子もなく、ただ新しい世界を見回している。その日からは勉強も、ダンスや音楽のレッスンも始まった。初めてのことばかりなのに、そつなくすべてこなしてゆく。あぁ、当主様譲りの才能だ。


「当主様。遥様はとても頑張っておられます。一度、一度で良いので会いに行って、話をしてあげては頂けないでしょうか?まだ彼を、愛しているのでしょう?」

当主様はこちらを向く様子もなく、ただ仕事を続ける。

「会ったら、会って成長を見てしまえば、愛情を注いでしまえば、無くなってしまったときに悲しいだろう?私は父親だと思われなくていい。憎まれていい。だからその代わり、お前が父親のように育ててやれ。」

久しぶりに聞いた、当主様の本心だった。私は、どうすることが正しいか分からなくなる。


今日は遥様の七歳の誕生日。つまり、小学生だ。私はとても不安だった。本当に外に出て、いきなり世界を見て、遥様はうまくやっていけるだろうか。

「失礼します。」

眠そうに顔を上げる遥様が、視界に映る。

「こんなケーキは久しぶりですね。おめでとうございます。遥様。」

遥様へ、笑顔を向ける。不安を隠すように。

その日は、遥様を車に乗せ、初めての小学校へ連れていく。

「外の世界は広いでしょう?いろいろなものを見て、楽しんでくださいね。」

車の中で窓の外を眺める遥様に私はできるだけ優しく、声をかける。

どうか、幸せな日常が訪れますように。


遥様を送り届け背中を見送った後、一度屋敷に戻りいつものように仕事を始める。夕方になれば、遥様のお迎えに車を出す。車の中でいつも遥様は、窓の外を眺め、やがて眠そうに目をこする。自分からは何も話してくれないので、ただ少し変化した日常を見守ることしかできない。そんなある日、私はいつも通り迎えに行き、遥様が来るのを待っていた。随分待ってもなかなか来ないので賑やかな校庭を見ていると、ふとひとりの女の子が遥様の手を引いて走り回っているのが目に入った。その時の遥様の表情は、少し困ったようで、でもとても楽しそうで、私が初めて見る、心の底からの笑顔だった。

あぁ、良かった。ちゃんと遥様の笑顔が見られて。遥様を笑顔にしてくれる人がいて。

私の中の大きな不安が緩んでいく。

「あなたにはもっと知らない感情がたくさんある。私が教えてあげられなかった感情が。存分にお楽しみください。この広い世界を。」


車に少しうれしそうに入ってきた遥様に、私は声をかける。

「今日はとても楽しそうでしたね。」

すると、遥様は驚いたようにこちらを見て、それから、胸を抑える。おびえたような表情になり、少しうつむく。

私はできるだけ、当主様に『怖い』という感情を抱いてほしくなかった。当主様は、とても、お優しい人だから。とても、可哀そうな人だから。不器用なだけで、あなたに愛情を持っているのだから。だから、当主様と遥様はちゃんと話をしてほしかった。

憎まれてもいい。彼はそう言っていたけれど、私は憎んでなどほしくなかった。

だけど、そうか。もうあなたには怖く見えてしまっている。

「大丈夫。お父様には言いませんよ。二人だけの秘密です。学校生活、自由に楽しんでくださいね。」

私はまた心情を隠し、笑顔で彼に言葉をかける。


それから遥様は日常の出来事をよく話してくれるようになった。ほとんどがあの少女との話。とても嬉しそうに、楽しそうに笑う。その笑顔は懐かしい奥様とそっくりで、少し胸が熱くなる。

楽しそうに過ごす遥様を見守り早十二年。遥様は中学生となった。新しい制服で少し緊張した様子の遥様に私は声をかける。

「良く似合っております。遥様。また新しいお話も楽しみにしております。行ってらっしゃいませ。」

車を出て歩き出す彼は、小学校の時よりも随分成長した、大きな背中だった。


中学校に入って四日後、遥様は車の中で小さく話し出す。

「今日は部活体験があるらしい。きっと僕は入ってはいけないといわれているんだろう?今日から放課後は一人になる。面白い話は持ってこられなくなりそうだ。」

少し寂しげにいつものように外を眺める。図星だった。確かに私は当主様から部活には入れないよう言われていた。また当主様を、憎んでしまうだろうか。

「そうですか。寂しくなりますね。では時間があれば私とどこか寄りましょうか。話を聞くのも楽しかったですが、思い出を作るのも楽しそうです。」

私はいつもの笑顔を作り、遥様にとって学校が苦しいところになってしまわぬよう、願う。

その日。遥様はいつもの笑顔で車のドアを開ける。

「おかえりなさいませ。遥様。何かいいことがありましたか?」

遥様はとてもうれしそうに、今日あった出来事を話し出す。

「そうですか。楽しそうで、何よりです。」

やはり、とてもいいお友達を持ちましたね。少し二人で何処かへ行くことも楽しそうだと思っていたのですが、やはりあなたが彼女について話すときの笑顔が一番楽しそうだ。

「特別に君も入れてあげよう。僕の隣に」

小さく聞こえたその言葉。いきなりのことで、何の話かは分からなかった。でも何か、特別な言葉のように思えて、少し嬉しくなる。

ずっとお隣で見守りますよ。あなたが私を要らないと言う、その日まで。


またいつも通りの日常を過ごし、三年がたった。遥様は当主様が決めた高校へ進む。中学を卒業する少し前、ふと思ったことを遥様に聞いてみる。

「いつも一緒におられる彼女は、どこの高校へ進むのですか?」

彼は少し困ったような顔をして答える。

「僕と同じところだ。僕は、あの子に無理をしてほしいわけじゃない。でも、一緒に来てくれることは少しうれしい。」

遥様は温かく笑い、肩を少し上げる。まったく。わかりやすい方ですね。

「『少し』ですか。遥様も素直じゃありませんね。」

私はまたいつもの笑顔を作る。


高校へ通うようになり、遥様の笑顔は日に日に増えていった。とても優しい、純粋な、まるで楽しいと言っているような、そんな笑顔。

毎日登校し、授業を受け、温かい日差しを浴びながらお昼を食べる。そんなただただ普通の高校生。あぁこれが、私が見せてあげたかった、感じて欲しかった外の世界。見たかった貴方の笑顔。遠い昔を思い出す、奥様のようなきれいな笑顔。

「今日は初めて料理をしたんだ。今まで調理実習?というやつは見学していたから。今回はお父様が許してくれたの?高校生って自由だね」

「今日の弁当はすごく好きだ。また入れてもらうよう頼んでくれ」

「あ、もうすぐ誕生日だ。」

「これなんかどうだ?え?微妙?」

「喜んでもらえたみたいだ!ありがと、執事」

「泣いてなんかいない。卒業は、別れは、悲しいだけじゃない」

「大学、とてもきれいなところだった。一人はなれないが、楽しめそうだ。」

少しずつ、少しずつ成長してゆく。でも着実に、過ぎてしまえばあっという間で。何も知らなかった小さな少年が、ドアすら開けたことがなかった独りぼっちの子供が、外に出て、世界と触れて、感情を知る。楽しみを知る。緊張を知る。大切を知る。そして、前に進む。


「結婚する」


ずっと断り続けていたお見合い。彼は何か決めたように真剣な表情でつぶやく。

「そうですか」

貴方には、大切な人がいるのでしょう。毎日見ていれば、話を聞いていればわかる。でも彼女を一番わかっているのは私じゃない。私は、止めることができない。あぁ、きっと彼はもう、、

「本当に良かったのですか、大切な人だったのでしょう。」

彼は私のハンカチを受け取り小さくうなずく。

何を思っているのかはわからない。ただ彼は、今までの一瞬一瞬をかみしめるように少しの間を置き、こう言った。

「いいんだ。それに僕は、知っているから。」

「何をですか?」

「、、秘密だ!」

あぁ本当に、特別な方だったのですね。そんなにも大切な人と一緒になることを捨て、自分よりも相手を一番に考えられる、そんなこの人が、私は幸せになってほしかった。

遥様は私にハンカチを返し、少し笑って前を向いた。

「大好きだったよ。君が。君との、思い出が。」

そう言ってまた歩き出す貴方の後ろ姿は、昔の当主様そっくりで。でもどこか違う。きっとあなたは、これからも前を向き続けるのでしょう。

「立派に、なりましたね。」

私にしがみついていた小さな手は、私の後ろを走ってきていた遥様は、もう、

一人で進むことができる。

『私はずっとそばにいる。あなたに要らないと言われるその日まで。』

あぁ、もうきっと私は必要ない。


コンコン

「失礼します」

私は一つの扉を開ける。

私が慕っていた人はもういない、ただ仕事を続ける貴方がいる部屋。

もう、いいのではないのでしょうか。あなたは、十分頑張った。望まれたやり方ではなくても、たった一人でこの屋敷を守ってきた。そんな屋敷で育った遥様は、立派に育ちました。そんな彼に任せてみては。任せて、少しは見てあげてください。あなたのたった一人の子供を。昔のように、屋敷にいる全員を。本当は愛していたはずです。温かい日常を。小さな遥様の手を。明るい屋敷を。

「旦那様。今まで、ありがとうございました。もう十分です。私が、もっと早く貴方と向き合うべきだった。申し訳ありません。」

彼は、手を止める。

「行きましょう。この屋敷にはあなたを待っている人がたくさんいる。もう一度、向き合いましょう。」

旦那様は、奥様が亡くなられたときにすら流さなかった涙をこぼす。そして泣きながら、奥様の写真を、遥様の写真を、屋敷のみんなの写真を、握りしめる。また、前を向く。

貴方が愛す、この屋敷と共に。



















ある日、私は綺麗な、とても懐かしい並木道を歩いていた。ふと前を見ると、そこには執事のような服装の男性と、車いすに座る一人の老人。それからその老人の車椅子を押す、どこか見覚えのある一人の男性。その横を歩く綺麗な女の人。とても懐かしい、優しい笑顔が私の目に映る。私が知らない女の人と笑いあう、貴方の笑顔。でも、もう私は振り返らない。私の横を歩く大好きな彼と、愛する二人の子供と共に、また歩き出す。それぞれが自分の道を進んでいく。過去は思い出。私の心に残るただの思い出なのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私が愛した十四年 WaKana @wakana0805

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る