第2話 僕が愛した十四年

今日も朝起きると見上げるような大きなカーテンから差す朝日に目を細める。この頃の僕の世界は、静かで広い、一つの部屋がすべてだった。コンコンと木の扉をたたく音が聞こえる。

「お目覚めでしたか。おはようございます。遥様。」

見慣れた執事がいつものように服を差し出す。朝食を持ってくる。部屋の掃除を始める。僕はそれをいつものように眺めながらベッドの上で足を振る。外に出ることはほとんどなかった。でも僕はその部屋以外を知らない。だから出たいとも思わない。ただこれが当たり前なのだと思っていた。

とある日。執事が大きなケーキを持ってきた。そこには見たことがない文字で何か書かれている。

「おめでとうございます。もうそんな年なのですね。」

「どうしたの?」

僕にとってはいつもと変わらない朝。でも何か違うらしい。

「今日は遥様のお誕生日です。」

「おたんじょうび?」

「遥様が生まれた日ですよ。ハッピーバースデー、です。」

僕が生まれた日。それが何だというのか、その頃の僕は理解できない。

「ありがとう」

そう言って僕はフォークを手に取りケーキのイチゴを刺そうとする。

「あ、だめです。ケーキは夕食の後に、と『お父様』から。」

じゃあなんで今持ってきたんだ。そう思い頬を膨らませる。すると執事はくすっと笑い、さあ行きましょう。そう言ってドアを開け、手を差し出す。

え?外に?

僕は何となくその手を取り、部屋の外へ出る。

その日は初めて違う部屋でご飯を食べた。僕の部屋よりも広く、赤いカーペットが目立つ部屋だった。出てきたのはいつもと変わらない夜ご飯。

次の日からは僕の部屋へ執事以外の大人が入ってくるようになった。僕に勉強を教えに来たらしい。僕を違う部屋へ連れ出すことも増えた。ただ、執事が言う『お父様』だけは、僕に会いに来てはくれなかった。見たこともない父親が、自分の親だということに実感は湧かない。会いには来ないが僕がやっている行動は『お父様』の命令らしい。僕は生まれた時から操り人形のようで、独りで、本に載っている『家族』なんてものは知らなかった。

今度は僕にダンスやヴァイオリンを教えるらしい。やれと言われるから僕がやると、周りの大人はすぐ驚く。何に驚いているのかよくわからない。やれといったのはそっちじゃないか。でも悪いことではないらしい。皆褒めてくれるから。僕は『お父様』が作る道をただ進む。進んで、その先は知らない。でも今はまだ、道を作る方法を知らないから。


またとある日。執事がさらに大きなケーキを持ってきた。

「こんなケーキは久しぶりですね。おめでとうございます。遥様。」

また誕生日か。

「去年も一昨年も何もなかったから、無くなったんだと思ってた」

「今年で小学生ですからね。お父様から知らせろ、と。一応毎年声はかけたのですがね。覚えていませんか。」

言われたっけな、そんなこと。

「また何か変わるの?」

「ええ、外ですよ。」

そう言って渡されたのは、固く黒いバッグだった。

「ランドセルと言います。明日からそれを背負って『学校』へ行くんです。頑張ってくださいね。」

学校へ行く。それが何かもよくわからない。でもまぁ、楽しいといいな。


僕は家の外へ出た。庭じゃない、初めての外。まるで別世界のようなその景色に、足が止まる。乗ってください。そう言われてみた先には、本で見た「くるま」というものが止まっている。

「これに乗るの?」

「お任せください。毎日しっかりと送り届けます。」

初めてのことばかり。僕が知らない世界は、どれだけ広いのだろう。

学校とは、賑やかなところだった。同い年の子たちが楽しそうに声を上げている。思っていた場所と随分違うようだ。学校で習うことはあまり面白くなかった。もう家で知っていたから。それよりもいつもと違うこの場所にいること自体にワクワクする。たまに誰かが声をかけてくれることが、会話ができたことがとてもうれしくて、迎えに来る執事に話を聞かせる。執事はいつも笑顔で、たくさん話を聞いてくれる。彼はどんなことを考えているんだろう。


学校へ通い始めて一週間。僕は放課後運動場へ出てみることにした。日差しが照り付ける砂の上で、皆が遊んでいるところを眺める。

「何してるの?」

すると、ある一人の少女が顔をのぞかせた。

「ねえねえ、一緒に鬼ごっこしない?」

「おにごっこ?なにそれ」

大人から習わなかった単語だった。

「知らないの?タッチするんだよ!あ、でも二人じゃつまんないか。じゃあかくれんぼ!」

そう言って君は僕の手を取って走り出した。

「え、どこ行くの?ねえ、これがかくれんぼ?」

「違う、鬼ごっこ!」

なんだ。結局やるのは鬼ごっこなんだ。

「じゃあタッチ!」

「ちがう、今は私が鬼なんだよ!」

なんだかこの子と話していると、自然に笑顔が溢れてくる。ただ楽しくて、初めて僕がワクワクした世界に入れたようだ。ふと、君が足を止まる。

「次はあれ行こう!ブランコ!」

「え、鬼ごっこは?」

僕がそう聞くと、君は笑顔でこう答える。

「あきた!」

元気な君の、声が響いた。

とても、楽しかった。いろいろな遊びをして、遊具に上って、君はいろんな世界を見せてくれる。すぐ飽きて違うところへ走っていくけどね。

その日の帰りの車で、執事がいつもの優しい笑顔でこう言った。

「今日はとても楽しそうでしたね。おや、とても驚いた顔ですね。見ていましたよ、ずっと。」

淡々と喋りだす執事に、僕は何も言えぬまま、どくどくとなる心臓を抑えていた。お父様は、僕に自由をくれない。だから、きっとこんなことをしてはいけない。

「大丈夫。お父様には言いませんよ。二人だけの秘密です。学校生活、自由に楽しんでくださいね。」

執事は口に人さし指を当てて、またいつもの笑顔を僕に向ける。


小学四年生の冬。突然君は言い出した。

「私、バスケ練習する」

きっと体育の授業で点を入れられなかったのが悔しかったんだろうな。僕と君との付き合いも四年を超えた。君は思っていたよりも負けず嫌いで、何にでも興味を持つ。

「何で?」

「体育の授業で活躍するの」

やっぱり。今回は一週間持つのだろうか。

「寒い!手が痛い、バスケは夏にすることにする。今決めた!」

案の定真冬の運動場に僕を連れ出して、君は言う。きっと夏になれば暑いって言いだすんだろうな。毎日がそんな日常で、僕は毎回振り回されてばかりだ。まあでも、そんな日々も悪くはない。


二年後。僕は初めてランドセルを持たず大きな校門の前に立っていた。今日から中学生らしい。

「あれ、クラス同じだね。また一年よろしく。」

隣で君が静かに言う。かと思えば

「ねえ、この景色見飽きた。校内探検行こ!」

またいつもの飽き性だ。はいはい、と相槌を打ち、君の背中を追いかける。また初めての世界が広がる。小学生になった時と同じように。いや、もっと輝いて見える。今日は君が隣にいるからなのかも知れない。


「ねえねえ、遥君は部活何に入るの?」

小さな中庭のベンチに座り君が首をかしげる。

「多分入らないよ。」

お父様の言うことなんて、目に見えている。

「ふーん」

君はそう言い、隠し持ってきたお菓子を口に放り込んだ。


今日は初めて授業がある日だ。放課後に体験入部があるらしい。君は小学生の頃から部活というものをとても楽しみにしていた。

「何に入ろう?やっぱバスケ部かな」

まだあきらめてなかったんだ。バスケ。目輝かせる君を思い出しながら僕は考える。今日の放課後は一人だな。家に帰ってもやることがない。ちょっと屋上にでも行ってみようか。

晴れた今日に屋上はとても気持ちがいい。青い春の空に、小さな桜の花びらが舞い落ちる。

「あ、ここにいた」

大きな扉を開けて顔をのぞかせたのは、君だった。

「何でここにいるの?体験入部ってそんなに早く終わるんだ。」

ふふっと君は笑い、自慢げに僕に言う。

「部活入るのやめた。毎日一人は嫌でしょ?」

感謝しなさい。というように僕に視線を送る。

「遥君は寂しがりやだからね。」

僕が?小さなころからずっと独りだった僕が?違う。今はいつも隣に、君がいる。

「ふっ、そうだね」

僕は笑顔で君に返す。君はずっと、隣に居てくれるだろうか。

その日の帰りの車の中。いつものように執事に話を聞かせる。

「楽しそうで、何よりです。」

執事がそう答える。そういえば、彼もずっと僕のそばにいる。

「特別に君も入れてあげよう。僕の隣に」

僕は小さくそう言った。執事はというと、少し不思議そうな顔でこちらを見ている。何のことかは、教えてあげない。そばにいてくれてありがとう、なんて、きっと言うことは出来ないから。


中学生の修学旅行。の予定だった日。僕は自分の部屋にいた。まあ予想はしていた。きっとまたお父様が言ったんだろうな。いまだに僕の家のことは君には話していない。あくまで普通の、平凡な同級生として。君に行かないことを伝えると、君は部活の時と同じように、私も行かない。そう言い始めた。こんなにも君が好きそうなイベントなのに。僕は僕のせいで君の楽しみを減らしてほしくなかった。君が楽しそうなことをして笑っているこの日常が、大好きだから。だからこそ僕は、君が修学旅行へ行くところを見届けた。

あーあ、今日は一日中一人だ。何もない。そんな日はいつぶりだろうか。これが当たり前だったのにな。僕はただ過ぎる時間の中で、一人ベッドに寝転んだ。そんなとき、ふと思う。

「寂しい。」

自分でも驚いた。そんなこと感じていたんだな。

あぁ、君は僕よりもずっと、僕をわかっていたようだ。小学生の時も、部活の時も、今回も。君は僕が欲しい言葉をくれる。でもその言葉を断ったのは、僕だ。早くまた、いつもの日常が始まらないだろうか。

コンコン

そんな時に聞こえてくる扉をたたく音と、いつもの執事の声。今日はこの声にとても安心感を覚える。


「第四十五回卒業生、起立」

長々とした台本が続く。僕はこの広い体育館を見回す。もう最後か。ここも、この学校も。

一人一人歩き、卒業証書を受けとる。静かで、それでいて華やかな音楽が流れる。響いて、最後の一人が受け取れば、消えていく。そばで、鼻をすする音が聞こえてくる。

卒業式が終わり、校門の前では人だかりができていた。僕の横では大きく伸びをして、桜を見上げる君が姿を見せる。

「疲れたー!校長先生の話長いんだもん。そういえば、毎年見ているけどここの桜の木、おっきいねー」

君はいつも通りで、軽い笑顔を僕に向ける。

「素直じゃないなぁ。無理するのは君らしくない。」

ほら、と僕はハンカチを渡す。

「この桜の木も、校長先生の長い話も、放課後君と行く屋上も、もう最後なんだ。最後くらい、泣いてもいいんじゃない?」

驚いたようにこちらを向く君の目には、今にもあふれそうな、きれいな涙が光る。

「ずるいなー、遥君は。そんなこといつも言わないくせに。」

その日僕は初めて、君の涙を見た。


高校の入学式。大きな校舎が真新しい制服を着た僕たちを出迎える。

「うわ、広いね。高校生って感じ」

君は大きな校舎、グラウンド、体育館など、楽しそうに見回しながら僕に話しかける。

出会ったころに比べて随分大人しくなったものだ。

「まさか君が同じ高校に来るなんて思ってなかったな」

そう言った途端、君は嬉しそうに、誇らしげに僕に言う。

「舐めないでほしいわね。私だってこれくらい余裕だったんだから」

君のその言葉に、僕は自然に微笑む。知っているんだ。君がたくさん努力したこと。毎日毎日、単語帳を持って歩き、自習室にこもっていたこと。もう中学校で最後だと思っていた僕にとっては、君がついてきてくれたこと、僕のために進路を変えてくれたこと、本当は少し、嬉しかったんだ。

「『少し』ですか。遥様も素直じゃありませんね。」

執事に言われた言葉を思い出す。もう一度隣にいる君を見る。確かに、少しじゃないのかもしれないな。


ある日。ふと口にした僕の言葉。

「あ、もうすぐ誕生日だ。」

横にいる執事が不思議そうな顔をする。

「遥様の誕生日はもう過ぎましたが?」

違う違う。そう言って僕は卒業式での君とのツーショットを見せる。

「なるほど。いつも一緒にいる方ですか。それは大変ですねぇ。」

執事は前を見たまま微笑する。

「遥様は不器用ですもんね、そういったことには。しょうがない、それでは今から買い物へ出かけましょうか。」

「え、今から?」

「はい。今からです。もう用事も済みましたし、お父様には秘密で、ね?」

二人だけの秘密。懐かしい言葉だ。


「これとかどうだ?」

いつも行くお店では値段が高すぎる。ということで街のデパートに来た僕は、一つのポーチを手に取る。

「、、、本気ですか?」

執事が微妙な顔でこちらを見る。そんなに変だっただろうか。この猫のポーチ。

「なかなかに絶妙な顔をしていますね。いいとは思いますが、他を探しましょうか。」

執事が笑顔で笑いかける。まあいいか。こういうことに僕は向いていないらしい。

普段来ないようなお店ばかりで、普通の男の子になれたよう。正直ワクワクが止まらない。

「このイヤリングとか、素敵ですね。」

執事が桜のイヤリングを手に取る。

「話したことはないですが見る限り、こういった桜などがよく似合う女性です。」

確かに、つけているところが想像できる。だが、少しその色は好奇心旺盛な君には落ち着きすぎている。

「そうだな。こっちの色とかどうだ?」

僕は少し明るめの色を手に取った。

「良いですね、ではそちらにしましょう。」

やはりその笑顔は心情がよく見えない。まあその言葉を信じよう。

「それじゃあ、買ってくる。」


次の日、僕はいつもの屋上で君が来るのを待っていた。今日は緊張して君とうまく接することができず、きっとなかなかおかしい態度をとっていた気がする。しょうがない。こんなことするのは初めてなんだから。少しドキドキとなる胸を抑えながら、大きく息を吸う。大丈夫、きっと喜んでくれるはずだ。

「今日も気持ちいいね。でも暑くなってきたなー」

君の声が横から聞こえてくる。ビクッと僕の肩が揺れた。

「なんだ。来てたんだ」

「気づいてなかったの?考え事?」

君が僕の視線の先に目を向ける。

「桜の木?中学校のもきれいだったけど、ここのもきれいだよね」

君の声を聞きながら、僕は手に力を込めた。

「あの、誕生日、おめでとう」

君は一瞬僕の手元を見て、声を上げる。

「え、いいの!?」

こんな心情はバレたくなくて、僕はできるだけいつも通りを装う。

「うん。あの、中身は家で開けてくれる?」

反応が怖く、思わずそう言ってしまった。あーあ。これじゃ今日ずっと不安なままじゃないか。

「、、、?わかった。ありがとう!」

君は嬉しそうに小さな箱を受け取った。

大丈夫。執事と僕を信じるんだ。自分。


高校二年の春。クラス表を見ながら君と目を見合わせる。

「離れたね、クラス。久しぶりに」

なんだか実感が湧かない。クラスに君がいないのか。

君と教室の前で分かれ、新しいクラスに入る。一年の時とは全く違うクラス。中学よりもクラス数が多いため知らない人ばかりだ。まあ、何とかなるだろう。

君がいない休み時間。僕は一人教室内を眺める。懐かしいな。小学校に戻ったみたいだ。こうして楽しそうに話す皆を見るのは嫌いじゃない。でも一人は寂しいな。

放課後、僕は少し早歩きで屋上へ向かっていた。

重い扉を開けた先にいる君の背中を見て、少し頬が緩む。

「今日は早いね。新しいクラスはどうだった?」

君は僕に気づくと、くるっとこちらを見て話し始めた。

「明るそうなクラスだったよ。いい子たちばかりだった。まああとは遥君がいれば完璧だったかな」

君が見せた笑顔に、僕は少しうれしくなる。

『僕も』

とは言えなかったけどね。


高校三年生の三月。僕は車に揺られながら受験番号とにらみあっていた。

「大丈夫ですよ。遥様はもともと頭いいですし、たくさんの努力をしましたし。」

そうだよな。と自分に言い聞かせる。大丈夫。きっと大丈夫だ。


それから時が経ち、だいぶ暖かくなった。またやってくる、別れの季節。またやってくる、思い出の季節。三年前よりも広い体育館に、多い人数。皆が真剣な顔で前を向いている。

確かに悲しい季節だ。だけど皆が輝く、美しい季節だ。人はこうして別れを迎え、今までの思い出がより輝く。こうして心に刻まれていく。なかなかいい三年間だった。

「遥君!卒業おめでとう。」

卒業式が終わり、君が駆け寄ってくる。

「君もおめでとう。今年はハンカチ、いらない?」

僕は少し笑いながら君にハンカチを渡すふりをする。

「大丈夫、もう決めたの。私もう遥君の前では二度と泣かない。覚えておきなさい。あの日の涙は貴重だったわよ!」

嗚呼、かっこいいな。大丈夫、覚えているさ。君の綺麗な涙は鮮明に。

「あ、あと言ってなかったね。大学受験、合格おめでとう。もうお互い大学生か、早いなあ。」

そうだね。あの初めて出会った日からもう十二年だ。でももう君との学校生活は最後。お互いがやりたいことを見つけ、生きたい道を行く。僕はやっと、自分で道を作れたみたいだ。


『じゃあまた、楽しい大学生活を』


あの言葉から二年ほど。僕は順調に楽しい大学生活を送っている。君とはたまに電話して、お互い話したいことが山ほどあるせいで、気づけば時間が流れるように過ぎている。やっぱり君はほかの人と何か違う。一緒にいて、気を使わない。素が出せる。自然に笑顔があふれ出る。そんな君に、僕は今日話さないといけないことがある。


「久しぶり。会うのは卒業ぶりだ。」

少し大人びた君の姿が見え、声をかける。

「久しぶり。綺麗な並木道だね。こんなところあったんだ。」

君は気持ちよさそうに風を受け、きれいな並木道を歩き出す。

「今日は、君に話したいことがあって、」

声をかけた僕に、君は足を止め、振り返った。そんな君の綺麗な瞳は、きっといつまでも僕の目に焼き付くだろう。君との明るい思い出は、きっと忘れることはないだろう。僕は少し間を置き、口を開く。


『僕、結婚するんだ。』


君は、動きを止めた。

「え、あ、そうなんだ。、、どんな人?」

少し戸惑ったような君の声に、胸が苦しくなる。

「上品で、優しそうな人。半年くらい前かな。お見合いで。」

あぁ、ずっとこの声を隣で聞いていたかった。ずっと隣で、見ていたかった。また二人で、笑いあえる日常を過ごしたかった。でももう、後戻りはできないから。

「何で、言ってくれなかったの?」

僕は少し下を見て、また顔を上げて、君を見る。僕の頭に、いつの日か君が僕に言った言葉を思い出す。

―「遥君は寂しがり屋だからね」―


「君は、寂しがりやだから」


僕はできるだけの笑顔を作る。僕の本当の気持ちは、きっと隠さなきゃいけない。君に、知られてはいけない。この今にも溢れてしまいそうな感情を隠すように、笑顔を作る。

でも君は下を向いたまま、僕のほうなんて見ずに呟いた。

「そっか。話したいことってこれだけ?、、、それじゃあ、会えてよかった。」

そう言って僕に背を向け、歩き出す。悲しい、なんて思ってはいけない。これは、僕が選んだ別れなのだから。

「それだけ?何も言ってくれないの?」

僕は、君の背中に問いかけた。あと少しでいいから、振り返ってほしくて。僕を見てほしくて。これが、最後なんだから。でも君は、僕に背を向けたままで、冷たくこう言った。


『もう、飽きたから。』


知ってるでしょ?私の悪い癖。なんて言って。

そっか、そうだったね。僕は君に聞こえないような小さな声でそう言い、後ろを向く。

背を向けて、歩いて、立ち止まる。立ち止まって、涙を隠す。

「本当に良かったのですか?大切だったのでしょう?あの方が」

車で待っていたはずの執事が、ハンカチを差し出した。それを静かに受け取り、僕はうなずく。

君は知らないだろうけど、僕の家は財力も、権力もある。そんな家系に求められるのは、『完璧』だ。たくさん勉強して、ダンスを覚えて、言われるがまま努力して。そんな世界は、

「君には似合わない」

君は自由に、笑顔で、自分がしたいように生きるほうがよっぽど似合う。きっと僕といるよりも君らしくいれる。僕は、そんな君が大切だったから。

「いいんだ。それに僕は、知っているから。」

「何をですか?」

「、、秘密だ!」

君が、その冷たい言葉の裏では涙をためていることを。君は僕の前でもう泣かないといった。まったく、最後まで意地っ張りだ。

それから、今日君はどうして髪を下ろしていたと思う?つけていてくれたんだろう?僕が選んだ最初で最後の誕生日プレゼントを。僕の思いが詰まった、桜の花びらを。喜んでもらえたみたいで、よかった。

今日は、今までの思い出が詰まった、とても、いい日だった。とても、美しい日だった。

「大好きだったよ。君が。君との、思い出が。」

人は別れを迎えて、今までの輝く思い出を心に刻む。

僕は寂しがりやだからさ。きっと忘れることはできないけど、それでも、僕は君の笑顔を願っている。

「さようなら」

僕が愛した、十四年

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