下
僕が十二歳の時、後見人だった大祖母が、病によって亡くなった。
大祖母が語っていた屋敷の話と、受け継いだ知識、遺産、そのどれもが十分価値あるもので「誰かに奪われたらいけないのだよ」と大祖母から言い付けられていた。
大金持ちや、自分にとって都合の良い情報を持つ弱者――そういう子どもに興味を持つ大人たちはたくさんいた。
そのひとりに、政治家と繋がりが深い大手実業家、ポロック氏がいた。
彼の家系は、血筋を辿っていくと上流貴族に遡り、大祖母と少しばかり縁があったと言う。家系図など、実際に証拠も見せてもらった。
今まで知らされずにいた両親の情報は、親戚だと名乗る夫人により暴かれた。
夫人曰く、僕の両親は大祖母のお金と屋敷を盗もうと企んだ泥棒で、その計画の途中に事故死、そして貴方はその子どもなのだと夫人は主張した。大祖母は、僕が迫害を受けないように両親の話を話題にしなかったのだ、ということも付け加えられた。
ポロック氏は僕を引き取りたいと希望したが、夫人を始めとする多くの大人が、我先にと手を大きく挙げてきた。
夫人は、僕を自分の息子にしたいといいながら、甘い言葉や物で釣ろうとしてくるため、最初から不信感を抱いていた。
夫人からは長々と他人の愚痴を聞かされたが、「僕を引き取れば、多額の遺産が入る」という事実を、本人は気付いていないまま漏らした時、僕の中で不信感と並んで嫌悪感が芽生えた。
夫人の一件があってから、人間という生き物を心の底から信じられなくなった。
ポロック氏は、僕自身が彼の「未来に関わる戦略に利用する価値がある」と大胆に言ってきた。
そして、彼は大祖母が語っていた屋敷の歴史と、役割を知っていた人物であり、屋敷が欲しいとも主張してきた。
大祖母が大切そうに話していた屋敷を誰にも奪われたくない、この考えを曲げることはできず、「屋敷は僕の所有物だ」とポロック氏に強く訴えた。
けれど、彼は僕以上に簡単に意思を曲げる人ではなかった。
その日は、「また話し合おう」と言い残し、次の仕事があるからと僕の元を去った。
数日後、ポロック氏は直接、僕へ提案を持ちかけてきた。
「生涯安泰の生活を提供する代わりに、君が受け継いだ知識と遺産金やらのお金を、俺の娘に投資しなさい。まだ幼い子どもだ。娘をどう操っても、洗脳させても構わない。なんなら、育成して自分のものにしても良いぞ。だが、屋敷は成人した私の娘に所有させる。それを罵声やら暴力を振るって奪うかは、君が決めたまえ」
それは、あまりにも冷酷な取引だった。
ポロック氏の提案に、まず「ずるい」という感情が湧き上がった。
奪われてはいけないと、大祖母に強く言われていた屋敷の知識を使って幼女を洗脳するなど、恐怖を感じないわけがなかった。
しかし、「投資」という言葉をポロック氏が使用したせいか、これまでの中で最も現実的な選択肢に思えた。たとえ、ホラを吐いていても、幼女に投資していれば文句は言われないはずだ。
成人年齢に達していなかった僕は、どの道どこかでお世話にならなければいけない。
重々承知していた僕は、最終的にポロック氏の提案を受け入れた。
ただし、大祖母のことを想い、受け継いだ知識を語る相手は、ポロック氏の幼い娘だけであるということも、条件に付け加えたいと交渉した。
その時、ポロック氏は、僕が屋敷の写真を持っていることを知っていたらしく、「その条件は、屋敷の写真と交換だ」と告げてきた。
唯一持っていた屋敷の写真を彼に渡し、交渉は成立した。
その後、僕の引越しや手続きなどが落ち着き始めた頃、彼は無言で僕に写真を返してきた。
契約を交わした当時、僕は十四歳。ポロック氏の娘は四歳。
そして現在、十年が経過した。幼すぎる娘、改めお嬢さまは、天真爛漫な少女に成長した。
僕とポロック氏が交わした取り決めの内容を、お嬢さまは知らない。この条件に守秘義務があることは耳に入ってきたのかもしれないが、取り決めは今も続いているため、彼女が知る必要はないと思っている。
僕にとってこの十年間は、お嬢さまのことを第一に考え続け、ただ幸せになってほしいと願ってばかりだった。まるで、親バカならぬ、雇い主の子どもだが、僕は娘という扱いを一度もしたことがない。どちらかというと、年下の親友や幼馴染に近いものを感じる。
お嬢さまに、強く罵声を浴びせることも、暴力で権利を奪うようなことはせず、常に羽を広げさせた。礼儀やマナーを注意することは、僕たちの間では、大変よくある話。全ては彼女の将来のためであった。
僕やポロック氏のような存在は、人間をどこかで使役し、労働や金品を受け取る側の人間に数えられるが、彼女のように無条件に愛される人間もまた人を魅了する要素があるのだろう。
「アーロンは私に借りがあると思っているかもしれないけど」
真っ直ぐな目で、お嬢さまは言う。
「私は貴方に恩を感じてる。簡単に素直になれないだけなのよ」
僕の心臓がぎゅっと握られた気がした。
「どうして、私を大切にしてくれるの?」
お嬢さまは、僕にゆっくりと近づきながら言った。
「お父さんが、『契約に反していないけど、アーロンはただ私の育児をしているだけだ』って私に隠れて言ってたの。私への誕生日プレゼントも、家庭教師への謝礼も、アーロンのお金だよね」
お嬢さまは、静かに重々しく声を発した。
「そのお金の使い方、お父さんがアーロンに言った投資の仕方と違うはずよ」
――ああ、お嬢さまは全て知ってしまっていたのだ。
込み上げてくる申し訳なさが、僕の苦しみを包んだ。
お嬢さまに嘘はつきたくなかった。でも、僕の口から真実を言いたくないとも思った。
「契約時に言われた投資の仕方と違いますが、それは僕自身の判断です」
「どうして?」
「僕は貴方を騙したくないのです」
「騙すって?」
「僕は貴方のことを、心から大切に思っています。だからこそ、お嬢さまに嘘をつけません」
お嬢さまには五人、年上のご兄妹がいらっしゃる。そのご兄妹の誰かが、僕の代わりになればいいと何度も思った。
でも、それはできなかった。
僕は、お嬢さまが不幸になってほしくない。だから、契約を交わしたのだ。
その際、幼すぎる娘と言われていた子の扱いがあまり家庭の中でよろしくはないのだと悟り、大人の罵倒や冷罵で苦しい思いをしてほしくないと、まだ子どもだった当時の僕は強く望んでいた。
「私は、アーロンが思うほど弱くないよ?」
「はい、知っています」
「私と一緒にいて、辛かったよね」
大祖母が乗り移ったみたいに、彼女の発した言葉や声が安心感を与えてくれた。
現在、世界中を巻き込んだ核戦争が終結して三年が経つ。
その間、様々な契約が成立してきた。不平等であったり、お互いの利益を優先しようと頭を捻ったものだって山ほど溢れているに違いない。
けれど、僕が承諾した契約は、絶望の淵から変わった形で地上に舞い戻ることとなっている。
――お嬢さまと出会えて、本当に良かった。
「でも、私は貴方がいてくれて幸せ」
僕の心情と、彼女の発した声が重なった。
お嬢さまは、僕に近づいてそっと抱きしめた。
僕は、彼女の背中に腕を回すことができない。ただ、されるがままだった。
肩の荷を下ろしなさい、と神が言っているのかもしれないが、そんなことはできない。今は理性とプライドが許さなかった。
「だから、私に何かできることはない?」
彼女は僕の胸から顔を離しながら言ったが、僕は静かに首を横に振った。
「本当に? 遠慮してない?」
「してないです」
彼女は納得のいかない表情をした後、再び口を開く。
「ノイゼノのお屋敷には何があるの?」
僕の返答を待たずに、彼女はさらに質問を重ねる。
「私が成人したら、あのお屋敷はどうなるの?」
「お嬢さまが所有者となるだけです。あの都市伝説は、大祖母が僕に大変な思いをさせないよう世間に広めた出鱈目ですのでご安心を――」
「――私はね」
彼女は僕の胸に手を置いて言った。
「アーロンのこと、もっと知りたいよ」
彼女の言葉はひどく痛む傷口に、何種類もの薬品を塗ったかの如く僕の心に浸透していく。
僕は彼女をそっと引き離した。
「もう、十分です」
数十年以上感じていなかった色んな感情が急に出てきて、心の中はそれで溢れかえっていた。僕はそれらを抑えようと必死になる。
彼女は、また不満げな顔をしたが、それ以上は何も言わずにいてくれた。
少し経って、僕は落ち着きを取り戻した。
お嬢さまに、パンのお礼と、残りは自室に戻ってゆっくり食べることを伝えた。
続けて「気まぐれですが」と前置きを挟み、お嬢さまへ向けて就寝前のお話をさせてくれないか、と申し出た。
五年くらい前までは一人で寝れないと駄々をこねる彼女に、僕が知っている童話や寓話などを読み聞かせていたのだ。
「今日は、大祖母のお話をさせて下さい」
お嬢さまは、僕の顔を見てそっと微笑を浮かべ、ベッドの中入った。
「聞かせて」
目を瞑り、柔らかい声で彼女は言った。
「大祖母は謎が多い方で、とある屋敷の話をよくしてくれました」
「ノイゼノの大きな屋敷のことだよねだよね?」
お嬢さまは、目を瞑ったまま僕に尋ねた。
「それは、都市伝説で広まった名前です。以前は、『アアラ屋敷』と屋敷の住人たちに呼ばれていました」
「アアラ?」
お嬢さまは、不思議そうに繰り返した。
「アアラは大祖母の名前です。彼女は、その時の気分で面白おかしく話していましたが、出だしの入りは毎回同じでした。深い森の奥で見つけた屋敷を修復し、所有者となった」
話の途中、お嬢さまはそっと目を開けて僕を見たが、すぐに目を閉じた。
「アアラは、聡明な女性でした。身分差が今よりも激しかった時代であったことから、読み書きや学を深めたくても、諦める道しかない者が多かったそうです。アアラは皆が対等に生きられる世界を願っていました。そこで、彼女は路頭生活していた孤児を引き取り、屋敷で文字の読み書きや高度な知識や他国の言語まで、様々なことを教え始めました」
ここまでを言い終えると、お嬢さまは小さな寝息を立て始めた。
「屋敷の最後は、悲しいものでしたが」と、僕は静かに呟いた。
アアラ屋敷は、国家の重要文献を扱う研究所と化してしまった。なぜ国に認められたのか、大祖母は僕に語らなかったが、彼女の知られていない身分と関係があったのかもしれない。
住人たちは、屋敷の外に出ることを禁じられ、研究に没頭した。
アアラは、幼馴染且つ屋敷の支援を陰ながら行っていた男との間に生まれたばかりの赤ちゃんを抱えていた。
彼女は、今までの知識を駆使して、屋敷の外に出たいと願い出た子どもたちに、自分が産んだ赤ちゃんを託した。
その後、アアラの娘は十九年後に子どもを産んで亡くなった。
アアラにその知らせが届いたのは、屋敷内で不可解な事件が多発し、アアラ屋敷が使われなくなって、しばらくしてからだった。
それまでの間、アアラは屋敷に残り、役職の高い方々とのやり取りをしていた。
亡くなる数日前、国家の支配下になってしまった屋敷の話を、僕に断片的であったが伝えてくれた。
生涯誰にも話すつもりなどないだろうと思っていたが、僕はお嬢さまに対しては単純みたいだ。
アアラ屋敷は、屋敷の中で生まれた子どもや、彼らの子どもたちによって、ひっそり維持されている。ポロック氏は屋敷の正確な場所さえ知らないが、大祖母の死後も管理している人間はいる。
ポロック氏が繁忙期の時、僕は彼らに会いに行く。
彼らは、僕の後見人になることが立場的に難しく、苦しい思いをさせてしまったと僕に謝ることがとても多い。
その時は、決まってお嬢さまとの話すると、彼らは嬉しそうに話へ耳を傾け、時には笑いながら褒めてくれる。
「ありがとう」
僕は眠りに就いている彼女に小さな声で感謝を伝えると、窓の外を眺めた。満月が空高く昇っていた。まるで、月自身が空を照らすことを楽しんでいるかのようだった。
アアラ屋敷 千桐加蓮 @karan21040829
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