アアラ屋敷

千桐加蓮

 ジャケットの外ポケットに写真を入れていたことが、全ての発端だった。

 僕は普段、外ポケットに何も入れない。少しの膨らみが気になってしまうのだ。

 その癖を、お嬢さまはきっと知っていたのだろう。

 急な呼び出しで自室を出た時、僕はポケットに写真を入れたままだった。

 その瞬間を、お嬢さまは目撃したのだと思う。

 慌ただしくすれ違う中で、ぶつかってきたお嬢さまの顔に、僕は違和感を感じた。

 用件を済ませ、すぐに写真がないことに気が付いた。元来た道を辿って自室に着くと、ドアノブにメモが貼ってあった。

『アーロン、寝る前に私の部屋を訪ねに来なさい』

――間違いなく、見慣れたお嬢さまの筆跡だった。

 無視をしても良かったのだが、今日の昼間にお嬢さまの機嫌を損ねたばかりだ。

 あの気まずい空気を、もう一度味わうのは避けたい。


 ご所望通り、就寝前に部屋を訪ねると、ネグリシェ姿のお嬢さまが誇らしげに笑っていた。僕は世間体を気にして、十四歳の女子部屋に入ることをためらったが、お嬢さまは僕を無理やり部屋の中に押し込めた。

「お父さんもお母さんも、お仕事で北部にいるの。今夜、この家で過ごすのは、私と唯一の住み込み用心棒、アーロンしかいないでしょ? 何かあれば私がアーロンを呼び出したって言う。駄々をこねて、監禁したって言うから」

 必死になって説得してきたお嬢さまに少々驚いた。

 結局、僕は彼女に言いくるめられた。


 部屋の中に入り、ベッドの上に移動したお嬢さまは、僕の両親について質問をしてきた。

 その件に関して話したくなかった僕は、ジョークで流してみた。

 だが、真面目に答えてほしいという空気に包まれる。

 空気感に耐えられなかった僕は、彼女の質問に応じた。

「僕は大祖母に育てられていました。両親の顔は覚えていません。両親の話を、大祖母の口から一度も聞いたことはなく、知らなくても良いことだと思っていました」

 ここが街外れに建てられた屋敷邸ということもあり、辺りは静寂だ。

 窓の外を、ぼんやりとレースカーテン越しに見ながら、僕はベッド傍に置いてあった椅子に座る。

 それと同時に、目の前から丸みを帯びた手が伸びてきた。お嬢さまは、円形の小さなパンを包むように片手で持っている。

 呆然としていると、大袈裟に突き出してきた。小さなパンは、お嬢さまの手の平から、僕の大きな手に渡る。

 僕は、お嬢さまの方に視線を向けた。

 淡い麦色の髪、甘い顔立ちを持ち合わせているお嬢さまは、ベッドの上で膝を片手で抱え、もう片方の手でパンを持って静かに噛んでいた。

 大きく口を開けて食べているため、頬はリスのように膨らんでいる。

 奥二重の目は、興味深げに、僕の話を待っているようだった。

 僕は困り顔で尋ねる。

「お嬢さま、なぜ僕の所有物を盗んだのですか?」

 パンを噛みながら、お嬢さまは片手で口元を隠した。今更ながら、上品さを気取ったのだろうか。

「ごめん。いつもポケット空にしてるのに、今日は入れてるところ見て、気になってつい……窃盗しちゃった」

「それは犯罪ですよ」

 僕はため息をつきながら、軽く叱責した。お嬢さまは悪戯好きでお転婆な子だ。長い付き合いだからよく知っている。でも、僕が咎めるとすぐ素直に謝ってくれるので、あまり憎めない。

「写真に写っているお屋敷って、ノイゼノの大きな屋敷だよね?」

「その屋敷、有名ですよね。大祖母がよく話していました」

 『ノイゼノの大きな屋敷』とは、数十年前から「所有したものは呪われ、不幸になる」という都市伝説が囁かれている屋敷のことである。社交場で聞いた話だが、ノイゼノとは人名で、かつて有名なテニス選手だったらしい。

 彼は屋敷を所有して数ヶ月後、残虐な事故に巻き込まれて亡くなった。その後、屋敷に住んでいたものは、精神疾患を患ったり、多額の借金を抱えることになったなどの噂が絶えない。屋敷についての詳しい情報は数少なく、深い森の奥にあること以外知られていない。謎だらけの屋敷だと僕は思っている。

 だが、僕はその都市伝説には興味がない。適当に話を流して、話を会話を終わらせようとした瞬間、お嬢さまが話し始めた。

「お父さんが言っていたの。そのお屋敷、私が成人したら所有してもいいって。全く同じ写真、私も持ってるの」

 お嬢さまは、枕元に置いてあった二枚の写真を僕に見せながら「成人なんて、ちょっと先の話だよね」と付け加えた。どちらにも、同じ屋敷が写っている。少し汚れている方は、僕が持っていた屋敷の写真だ。

 彼女は、僕にそちらを差し出してきたので、受け取る。

 僕は徐々に顔をそむけ、野良猫が人に近づくのを恐れるように、目を大きく見開いた。

 視線をお嬢さまに戻す。パンを食べ終えたお嬢さまは、屈託のない笑顔を見せていた。

「アーロン。お父さんと、この屋敷を巡って、何か取引でも交わしたの?」

 彼女の言葉には、すでに全てを知っているとでもいうような圧力があった。まるで、頬に電気が走るようで、その空気に身がすくんだ。僕は気力を失ったように虚な顔で、パンと受け取った写真をベッドの上に力なく置いた。

 そして、僕は答える。

「取引と言いますか、一方的に条件を出されただけです。それを僕が飲んだだけです」

「条件って?」

「それは言えません」

 僕は強く断った。その途端、お嬢さまはむっと唇を尖らせて言う。

「私にも?」

「……はい」

「わかった」

 お嬢さまは、呆れたと言わんばかりの口調でそう言って、自分の写真を元の位置に戻した。

 彼女がベッドから降りると、白いネグリジェの裾から生足が覗く。髪を手ぐしで整えながら僕に背を向けて言った。

「アーロンは覚えていないと思うけど、永久に私の味方をしてくれるって言ってくれた時、すごく嬉しかったの」

 部屋中に、悲しさと苦しさが混ざり合って広がっていく。ほんの少しの喜びは、押し潰されて消えて無くなってしまいそうで、僕は慌てて言葉にする。

「驚いています。お嬢さまはまだ五つにもなっていなかったでしょう?」

「忘れるわけがない。本当に、救われたの。アーロンは、私の救世主よ」

「大袈裟ですよ」

 僕は、お嬢さまの寂しげな背中にそっと言った。

「それに、僕はお嬢さまをお守りする役目を請け負った身です。味方に決まっています」

 彼女は一瞬間を開け、くるりと振り返り、僕を見た。

「お父さんが話していたから、知ってるの。アーロンは、お父さんと取引をしたんだよね? 私とアーロンの取引をしたらいけないの?」

 唇の動きがスローモーションのように見える。

「お嬢さま、契約はある意味鎖のようなものです。僕と、貴方のお父様は取引をしました。でも、お嬢さまは、それに応じる必要がありません」

「私に借りを返したくないの?」

「そうではありません」

「じゃあ、言ってみて。私にできることならなんでもするから」

「……それは卑怯です」

 僕が嘆いていると、お嬢さまは小さく笑った。彼女の笑顔を見て、僕の胸がぎゅっと苦しくなる。

 彼女は昔から駒だった。駒といってもステータスが弱く、言わば捨て駒だ。お嬢さまは、チェスでいうところのポーンやルークのような存在であり、故に強力すぎるキングに狙われれば真っ先に倒されてしまう。

 時々、可哀想で胸がいっぱいになる。

 僕も、彼女と似た境遇を味わった。だから、無意識のうちに心のどこかで情けをかけているのかもしれない。

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