傀儡はヒトの夢を見る

涙仙 鳳花

傀儡はヒトの夢を見る

     プロロォグ

 この汚れた身体で、廃れた人生で、自分以外の人間を愛すことなんて、私には到底無理だった。

 手を伸ばせば届いたはずの人間。ちゃんと走って、声を出して呼び止められていたら、助けられたはずの人間。その全てを私は見て見ぬふりをした。手も足も私は差し出そうとはしなかった。

 自分の道を歩くことで精一杯だったから。正しい道に、迷子にならないように明かりを照らして、どれだけ美味しそうな食べ物や欲しかった玩具が転がっていようと、その差し出された全てを断って、一歩ずつ着実に進んできた。

 この生き方のせいか、いつしか周りから人は消え、人に愛される方法も人の愛しかたも分からなくなった。私は私じゃなくなって、次第に黒く澱んでいった。

 感情も無くなって、手足の動かし方さえも分からなくなって一人じゃ立つこともできなくなった。照らしていた道も見えなくなって暗闇に一人、取り残されて。

 不思議と怖くはなくて、痛みもなくて、なんだかんだ言って過ごしやすくて。でもちょっと寂しくて。

 もう一度、チャンスが貰えるのなら、次はちゃんと人を愛せる人間になりたい。

 ちゃんと、ヒトとして生きていきたい。

 

         ✼


 今まで私は、本気で好きになった人間が居なかった。

 告白されれば付き合ったし、どこかに行きたいと言われれば、何も考えずに「いいよ」とだけ言いその子をどこへだって連れて行った。

 恋愛において、好きだという感情を口にはしていたが、それはただの社交辞令でしか無かった。好きだと言えば恋人である存在が喜んだし、私も好きよと返ってくるその簡単な返事に自惚れていた。

 モテている。とは微塵とも、いや、少しは思っていたけれど、それも些細な感情でしか無かったし、ぶっちゃけ恋愛なんでどうでもよかった。

 簡単に手に入ってしまうから。

 恋の駆け引きや、お互いの騙し合いさえ無く「好き」の一言で男も女も誰だって着いてきた。その分、全員軽かったけど。

 誰も私を疑わないし、私の好きは本気の好きだと信じてやまない。だからこそ、人間は調子に乗り出して浮気し出す。大して顔も良くないのにね。

 相手にするのは男でも女でもどっちでも良かった。落とすのが簡単なのが女だったから女が好きだって勘違いしていたけど、本当は男の方が好き。女は面倒臭い。酷い束縛、返信速度に対する文句、ぜーんぶ面倒臭い。

 でもやっぱり仮にも恋人である存在に頓着が無いわけではなくて、その子の連絡が無かったら心配をするし、たまに、本当にたまにだけ可愛いともかっこいいとも思う。

 私も単純だから。

 好きだ、愛してる、可愛い、全部全部嬉しいし、もっともっとって求めてる自分が居なかった訳でもない。

 でも、私は人に求める癖に求められたら拒否をする癖がある。「触りたい。キスしたい」その誘い全てを「ごめん今は無理」と言い避けてきた。

 恋人自体が嫌いだったわけじゃない。ただ単に恋人がする行為というものが苦手だっただけで。相手が軽いと知っていたからというのもある。中学生ながらに、軽い人間は最後まで責任を持つことをしないというのも知っていたし、まだ早いとも思ってた。

 まぁもちろん、批判は受けるもので。

 「私たち付き合ってるよね?なんで触れもしないのよ」

 「あれ、もしかしてそういうこと苦手?俺そういう子苦手なんだよね」

 「全然出来なくても、触れなくてもいいんだけどさ、それって付き合ってる意味あるかな」

 その批判を受けていく中で、私の考えは誰にも理解されないということをこの生きた十数年で学んだ。

 人間は触れ合うのが好きだ、触れられ無いものに情は湧かないらしい。

 男は結局女を体で見るし、女は男を金で見る。売春行為で街が埋め尽くされているのがその証拠だろう。体を売ってまで金が欲しい女、金を払ってまで女を抱きたい男。その男女の間ではお互い利益がありwin-winな関係なのだろうが、傍から見て良いものでは無いだろうし、私からしたら好きでもない、よく知りもしない男に体を渡すという行為自体が理解できなかった。でもその行為はこの世界では当たり前になりつつあるらしい。

 それに、一歩外に出てしまえば常にくっつき回っている男女に周りの目も気にせずイチャイチャと二人の世界に入っている男女だらけで、見るに堪えない。

 これを言うと大抵の人間には「ただ羨ましいだけでしょう?」と言われる。でも、大体そう言ってくる人間には恋人という存在がいる。恋人がいるという事実に自惚れて、みんなより自分は恵まれているだのモテているだの馬鹿みたいな勘違いをしたがる。

 「お前もやればいい。妬むのは辞めなよ」なんてよく人は言うけれど別に私は妬んでいない。逆に哀れんでいるのだ。周りが見えていない人間を。

 結局、やっている側はやっていない側の意見を聞かないし、自分がその立場に立たされている。ということに気が付かない。まぁ、恋は盲目と言うし仕方の無いことなのだろうけど。

 今日の呼び出しだって、堂々巡りで、きっと私には理解できない話なのだろう。

 「おはよう、ウタ!ごめんね休みの日に急に呼び出して」

 「いや、暇だったし大丈夫だよ」

 前髪を片手で押さえ、急いで走ってきたのは中学の時に出来た二個上の友達の萩原凛。

 今日の朝、凛から急に相談があると連絡が来て、ちょうど休日だし暇だからという理由で快く了承をした。

 「今日も暑いね。ここに来るだけでちょー汗かいちゃった」

 「じゃあ、どっか入ろうか。カフェでもどこでもいいよ」

 「そうだね、でもあんまりカフェで話すような内容じゃないからさ、カラオケでもいいかな」

 凛は少し下を向き、照れているような、はたまた寂しそうな顔をしてそう言った。

 量産型のような服装とメイクをした姿は、人形のようにフワフワしている。

 「いいよ」

 歩いている道中の会話は、学校の話や人間関係、休日にわざわざ来てくれたという私への感謝など他愛のないものだった。

 「でさー、先生がバーンって机叩いてさ」

 「へー」

 カラオケ店に繋がっているエレベーターの中でも会話は途切れず、人が居なくてよかったと心から思った。

 カラオケに着くと、休日でも意外と空いていてすぐに個室に案内された。

 部屋はクーラーが効いていて涼しい。

 「先に飲み物取ってこよ!あと私アイスも食べたい」

 凛は自分の分と私の分のコップを持ち、ウキウキしながら部屋を出て行った。それに私も着いて行く。

 「何ジュースにする?ウタ確かコーラ好きだったよね!見てこれ、コーラ+グレープだってよこれ美味しそうじゃない?」

 「そうだね、それにする。っていうか、私の選ぶ前に自分の選びなよ」

 「確かに!」

 凛は明らかにいつもより浮かれていた。大切な話をする前だからなのか、ただ単に楽しんでいるからなのかは分からないけれど、今までで一番楽しそうだった。

 「見て!アイスめっちゃ上手く巻けた!美味しそうじゃない?」

 「うん、美味しそう」

 私はコーラ、凛はメロンソーダにアイスを乗せたコップを持ち、さっき案内された部屋へと戻った。ドアを閉め、持っていたコップをテーブルに置き、ソファに隣に並んで座った。

 凛は一口アイスを食べ「美味しー」と言い満足気だ。

 「一口いる?」

 「ううん、大丈夫。一人で食べな」

 彼女はパクパクと次々にアイスを口に運んでいって、アイスを半分ほど食べ終えた。私もさっき取ってきたコーラをゆっくり飲み進める。

 「なんかお腹すいてきちゃったな。なんか頼まない?」

 「もうお昼の時間だもんね。私もお腹すいてきたし頼もうか」

 「やった!何食べる?」

 「なんでもいいよ。適当に頼んじゃって」

 「はーい」

 フロントで貰った伝票に書かれているバーコードを凛のスマホで読み取り、画面をスライドして食べ物を探し始めた。

 「え、唐揚げ美味しそう。でもポテトも捨て難い。うわぁ、たこ焼きもいいな」

 「全部頼んでも食べ切れなかったら勿体ないから、今食べれる分だけ頼みな」

 「じゃあ、唐揚げとたこ焼き頼んで二人で分けよ」 

 「そうだね」

 「頼んじゃうねー」

 食べ物をカートに入れ注文ボタンを押し、店員さんが来るまでカラオケを楽しむことにした。

 楽しむと言っても、私は凛が歌っている姿を見ていただけだけれど。

 「失礼します。お待たせ致しました。こちら唐揚げとたこ焼きになります」

 「ありがとうございます」

 店員さんが扉を開け、頼んだ物を運んできてくれた。ついでに、お手ふきと箸も一緒に置いてくれた。

 「うわぁ美味しそう!いただきます」

 「いただきます」

 箸を二人分取り、凛は唐揚げを私はたこ焼きを口に入れた。

 久しぶりに食べるたこ焼きは、市販とは違い、外はパリパリで中はふわふわとしていて美味しかった。

 「んー!この唐揚げすんごく美味しい!ウタも食べてみなよ」

 凛と食べ物を交換し、私も唐揚げを食べてみた。少し甘辛く作られた衣がカリカリとしており、お肉もとても柔らかく、こちらも同じように美味しかった。

 「美味しい」

 「ね!カラオケだと思えないくらい美味しい。定食屋で単品で頼むよりかは少し値は張るけど、カラオケついでにこれが食べれるって考えたら満足だね」

 「そうね」

 美味しい、美味しいと言いながら食べ進める凛のコップを見ると、もう既に中身は無く空っぽだった。ちょうど自分のも無くなったところだし、ついでに取りに行ってあげようと思い、コップを二人分持ちドア付近に立った。

 「凛、ジュース取ってきてあげるよ。何がいい?」

 「え!ほんと?じゃあ、コーラにアイス乗せて!」

 「分かったよ」

 自分のコップと凛のコップを手に持ち、部屋から出てフロント近くのドリンクバーに向かった。個室から音楽や歌声が多少は聞こえては来るものの、入っている数は少なく、人はあまり居ないようだった。そのおかげでスムーズにジュースを汲み直せた。

 凛用のコップにはコーラにアイスを乗せた物を、私のコップにはぶどうジュースを入れた。

 コーラの上で巻いたアイスは、凛と比べてどうも不恰好だ。結局食べるし気にしなくていいのだけれど、何か少し悔しい。

 二人分のコップを手に持ち、来た道を辿って部屋の前まで戻った。ドアを開けようとするが、中身が入ったコップを両手に持っているためドアが開け辛い。

 開けるのに苦戦していると、ドアの前でもたついている私に気付いたのか、凛が内側から扉を開けてくれ、そのおかげで部屋の中に入ることができた。

 「ありがとう、凛」

 「いいよいいよ!こっちこそありがとう」

 「ごめん、アイス巻くの下手かも」

 「えぇ全然上手いよ!取ってきてくれてありがとうね」

 やっぱり、凛は優しい。

 年上ということもあってか、いつも自分より余裕があって頼れる存在だ。恋愛面を除いては。

 「もう食べる物無くなってきちゃったし、追加でなにか頼む?ってかまだ食べれる?」

 「あー、いや。時間もあるし、先に話聞きたいかも」

 途端に気まずそうに下を向き出した凛を横目に、私はさっき取ってきたジュースを口に含んだ。この時点で、大体話の内容は分かってた。何を言われるのかとか、何を言って欲しいのかとか。

 「あのね、前に彼氏が出来た、って話したじゃない?その人についてなんだけどね」

 「うん」

 「なんか、倦怠期?って訳じゃないんだけどね、たまに凄く嫌になっちゃうの。嫌いだとか別れたいとか。今も思ってるわ」

 「別れたら?」

 「別れたいとは思うのよ?でも、今までの楽しい思い出だとか、情が邪魔して踏み出せないの」

 「じゃあ、別れなきゃいい」

 「でもでも、喧嘩した時とかすごく冷たいの。泣いてる私を放って置いて、どこかに行ったりヘッドホンを付けてゲームをしたりするの。ハグしてくれたり、そばに居るだけでいいのにそれさえしてくれない」

 「なんで話を聞かないかわかる?」

 「分からないよ……分かってたら苦労しない」

 「凛が何を言っても理解しないし認めないからだよ。それに、とうに愛は冷めてるよ」

 「な、んで……?」

 今にも泣きそうな、震えた声で彼女はそう言う。顔は俯いていて見えなかったけれど、必死に涙をこらえているのはひしひしと伝わってきた。

 「私は恋愛のことはよく分からない。特に男女の恋愛はね。でも、本当に大切で愛があるならちゃんと最後まで話をするし、泣かせちゃったなら必死になって焦るんだよ」

 「でも、倦怠期ってことも……」

 「倦怠期になったら終わりの合図。てか倦怠期になる時点でもうそこに愛は無い」

 「愛ならあるよちゃんと!私も彼も。一緒に寝てくれるもん。夜だってちゃんと……」

 「人間は、愛がなくても人間を抱ける生き物だよ。自分から離れないならそれを利用しようって考える人間は山程いる」

 「そんな事ないもん!」

 「仮に、本当に好きかどうかの確かめで凛を抱いてるんだとしたら、倦怠期からとっくに抜け出せてるんじゃないの。抜け出せてない時点で結果は見えてんのよ」

 「酷い。なんでそんな事言うの。普通、そうだったの寂しかったね辛かったねって慰めてくれる物じゃないの?」

 「ただ慰めて欲しいだけなら他行きなよ。自分で別れたいとかほざいといて、結局はただ構って欲しいだけ?」

 「ちが……」

 「何が違うの。何度言っても行動に移さないで、自分自身を肯定して。思ってた回答じゃなきゃすぐ泣いて病んだとか言って。自業自得の癖に」

 溜め込んでたものが一気に溢れ出して、口が勝手に凛を攻撃してる。本心だし、別に関わりが切れても痛くない女だからどうでもいいけれど、凛の姿を見て流石に言い過ぎたかと反省をした。

 「ずっと、そう思ってた?馬鹿な女って、ウザイ女だって。自業自得だろって」

 別に、これに嘘をつく必要も無い。

 「ごめんけど思ってた。普段は頼れると思ってたし、ちゃんと友達だと思ってた。でもやっぱ恋愛になると面倒臭いしダルい」

 「そっか……ごめんね。ごめんね」

 「謝られても。別れないのは目に見えてたし、相談の内容がこれだってことも薄々気付いてた。それなのに着いてきた私が馬鹿だっただけ」

 「ごめんなさい」

 言われる言葉に耐えられなくなったのか、それだけを言い残して凛は部屋から出て行ってしまった。人は、こうやって人を嫌いになっていくということを学んだ。

 きっともう、連絡を取ることは無いんだろう。少なくとも私からは連絡はしない。

 「はぁ」

 行き場のない疲労感が私を襲ってきた。すぐに帰ろうと思い、自分の分のジュースを飲み干し、伝票とカバンを持ちフロントに向かった。

 自動精算機に伝票に書かれているバーコードをかざし、値段を確認してお金を入れた。

 学生割りで入ったため通常の値段よりかは安いものの、なんで私が余分な一人分を払わなきゃいけないんだと思い、それについても不満を感じた。

 お金は多めに持ってきていたから良かったけれど。はぁ、ともう一度ため息を吐き会計終わらせてエレベーターに乗って店を出た。結局、カラオケに居た時間は精々二時間程度だろうか。

 世にも無駄な時間を過ごした。

 こんなことなら、連絡を無視すれば良かった。返すにしても忙しいとか急すぎるとか、付ける嘘なんて山ほどあったろうに、嘘を付かず律儀に来てしまう癖はこれから直していかないといけないと自分でもそう思う。

 一階に着き、エレベーターを降りて交差点に向かった。生憎、信号機の色が赤だったため青になるまで数分待つことになった。

 全身に当たる陽が秋のくせに蒸し暑い。それに、憎いくらいに空が蒼い。

 多分、今回の話で彼女が変わるとは到底思えない。友達でい続けた二年半のこの期間でさえ何も変わらなかったんだ。経った一日で変わるわけが無いんだ。人間が。

 でもまぁ、友達は一人失ったけど耐えなきゃいけない時間が無くなったのは良い事だ。興味のない恋愛話を聞くのも、今日で最後だと思うと肩の荷が降りた気がする。次の凛の獲物にされる人間が可哀想だけれどね。

 信号がパッと変わり青になった。その瞬間に信号待ちをしていた人達が一斉に同じ方向に歩き出した。私もその中に混じって歩き出す。

 せっかく駅前に来たのに、カラオケ以外どこにも行かないのは勿体ないと思い、目に付いた本屋に立ち寄ってみることにした。

 確か、作家の鳳仙先生の新作が出ていた気がするし丁度いいかも。

 入口に立つとウィーンと自動ドアが開き、店内からは涼しい風と一緒に本の匂いが漂ってきた。

 私はこの匂いが大好きだ。それに、基本的に本屋の中は落ち着いていて静かだし、一人の時間に浸ることが出来る。

 中に入ると、すぐ目の前に大きく鳳仙と書かれた看板が置いてあった。その下には沢山の本が積み重ねられている。

 看板に近付いて書かれていた文章をよく読んでみると「三周年記念特別販売」と書かれていた。どうやら、過去に出されていた本に付録が追加されたようだ。

 付録は気になるし欲しいけど、もう既に一冊は最初に発売された時に買ってしまっているし、付録の為だけにもう一冊買うなら新作を買いたいし迷うな。

 散々迷った挙句、付録付きの作品と新作の小説の二冊を買うことにした。人気の作家だし少し値が張るけれど致し方ない。

 二冊の本を手に取り、他に気になる本が無いか店内を探し回ってみることにした。店内の奥に進んでいくにつれて、難しい昔の文豪の本や旅のことについて書かれた旅行本などがずらりと並んでいた。

 漫画や勉強に使う参考書が置いてある場所には、高校生っぽい人や親と来ているであろう小さな子がチラホラと本を手に取り見漁っていた。

 私も本棚に目を向け、気になった本をパラパラとめくって中身を軽く読んでみた。数冊選んで読んでみたけれど、特にこれと言った物は無く結局最初に取った二冊だけを持ってレジに並んだ。

 「いらっしゃいませ。お預かりします」

 店員さんに本を渡し、カバンの中から財布を取り出した。

 「カバーお付け出来ますけど、お付けしますか?」

 「あ、お願いします」

 「かしこまりました。横の番号の中からお選びください」

 「じゃあ、二番でお願いします」

 「二番ですね。かしこまりました。少々お待ちください」

 五種類あったカバーの中から二番の紺色を選んだ。店員さんが丁寧に本にカバーを付けてくれている。

 「袋はどうされますか」

 「お願いします」

 「お会計、三千四百三十円になります」

 「五千円で」

 「お預かり致します。千五百七十円のお返しになります。ありがとうございました」

 トレーに置かれたお金と本が入った袋を受け取り、本屋を後にした。

 気が付けば外はすっかり夕方に変わっていて、昼間より涼しくなり過ごしやすい気温になっていた。

 ふと気になり、スマホをポケットから取り出してインスタグラムを開いてみた。多くの友達がストーリーを上げていた。その中に凛のものもあり、光っているアイコンをタップして中身を見てみた。

 内容は黒い画面に『私の話を誰も聞いてくれない』と、白文字で書かれているものだった。

 それを見て、なんとも言えない気持ちになった。今までのこの二年間、基本親身に話を聞いてきた身からしたら、この内容は不憫でしかない。

 書くならせめてブロックしてからやって欲しかった。もう仲良くは出来ないと判断したため、インスタグラムもラインも凛と繋がっていたものは全てブロックした。

 友達なんて、所詮こんなもので簡単に壊れてしまう。友情も愛情もこんなもの。

 肌に当たる風が体の体温を徐々に冷やしていく。ついでに心も冷え切ってしまいそう。

 家に帰って静かに買った本でも読もう。

 本屋から右側に真っ直ぐと道を進んで行って、最寄りまで行けるバス停まで向かった。バス停には、仕事終わりのサラリーマンや学校だったのか制服を着た高校生が列に並んでいた。私もその後ろに並んだ。

 みんなスマホを片手に持って、首を下に向けて中身を覗いている。

 時刻表を検索するとバスが来るまであと二十分もあった。スマホの充電もあんまり無いし、さっき買った本の付録を見てみることにした。

 青色の表紙に銀色の文字で「依依恋恋」と書かれていた。確か、これが発売されたのは随分前だった気がする。私が中学一年生くらいの時か。

 恋愛をしている情景がとても綺麗に書かれていて、中学生なりに酷く心を打たれた覚えがある。

 本に巻かれているフィルムを剥がし、一緒に巻かれていた茶色の箱を取った。本の方は袋に戻し、箱を開けてみた。

 中には鳳仙先生のモチーフである狐面のキーホルダーが入っていた。重厚感があり、すごく高級感があるガラス製で、まるで海にあるシーグラスのように透き通っている。

 「綺麗」

 割れないようにとそっと箱に戻した。これは鑑賞用かな。

 三影にも見せてあげたいな。

 その十分後、バスが到着した。みんなスマホを見るのを辞めて、定期を取り出し手に持った。どんどんとバスに乗り込んでいき、私も乗り込み一人用の席に座った。

 バッグを膝に乗せ、本を入れた袋をその上に置いた。

 「ご乗車ありがとうございます。このバスは区役所経由、東小学校前行きです。お乗り間違え無いようご注意ください。間もなく、バスが発車致します」

 運転手さんの車内アナウンスと共に入口が閉まりバスが動き出した。

 家に着くまであと三十分は掛かるため、本の中身を読み進めることにした。前に読んだ内容ではあるけれど、飽きの来ない良い小説だ。この作家さんは、情の書き方が上手い。愛情も友情も憎しみも、全て共感出来るし読者に寄り添った書き方をしているため人気も多い。

 昔、一度だけ先生がサイン会を開いていた事があった。どうしても行きたかったけど、その時は東京で開催だった為に断念をした。

 もう一度サイン会が開催されるのを待ってみたけれど、最初に行ったサイン会で何か問題が起きたみたいで、サイン会は永久に廃止となったらしい。

 その廃止になった理由は分からないけれど廃止になるくらいだ。余程の事があったのだろう。

 行きたかったな。サイン会。

 「次は、旭谷二丁目です」

 アナウンスが車内に響き渡り、ピンポンと停車ボタンが鳴った。

 「次、停車します」

 数分しない内にバスが停車し、出口が開いた。次々にバスから人が降り、満員だった車内には人が殆ど居なくなった。

 「発車します」

 出口が閉まりもう一度バスが動き出した。

 まだ最寄りまでは時間がかかるし、スマホのアプリで小説を書いてみることにした。前々から書いてはいたのだけれど、中々進まずに書き終わらず停滞している。

 今回の題材は何にしようか。

 転生だとか異世界だとかは複雑だし、私自身余り好んで読むわけじゃないし辞めておこう。かと言って恋愛も書き辛いな。

 こういう時、三影はどんなものを書くのだろう。三影の事だから、また難しい漢字をたくさん使って大人びた本を書くんだろうな。

 もう、会うことは無いけれど。三影が書く小説も、綺麗な崩し文字で書かれた原稿用紙も今や思い出に変わってる。

 「次は、西山です」

 気が付けば、最寄りのバス停まであと一駅のところまで来ていた。西山で降りる人は基本この時間帯には居ないから、すぐ次の西山三丁目に着くだろう。

 「ご利用の方が居なければ通過します」

 私の読み通り、そこで降りる人も乗る人も居らず、バスは止まらずに次のバス停へと向かった。荷物を持って、次のアナウンスを待った。

 「次は、西山三丁目です」

 アナウンスと同時に停車ボタンを押し、少し高めの席から降りやすくするために片足をプラプラと落とした。

 「西山三丁目、到着しました。御降りの際は足元、忘れ物にご注意ください」

 他に降りる人もいなさそうだったため、一人用の席からゆっくり降り、定期をかざしバスを降りた。

 あたりはすっかり暗くなっていて、スマホで時間を確認するともう夜の十八時だった。 今日は、無駄に時間を過ごした感が否めない。遊びに行くついでに友達を一人無くしたし、無駄にお金を使ったし。

 お金なんて、高校生の内は頑張ればいくらでも増やせるから良いのだけれど、次はもっと有意義なことに使おう。

 結局、小説は書き進められなかったし、書いたものを全て消すことしか出来なかった。

 私は自分の本が認められない。どんなジャンルを試しても在り来りで、同じことを繰り返して進展さえしない。下に下に落ちていく自分のランキングを見るのが嫌になって、成長を拒んでる。

 私に当たる風も敵に思えてしまうほど、私の身も心も冷め切っている。

 大好きで、常に上や周りを見て歩いていた道も今は下を見続けて、スマホの画面に吸い込まれている。成長は、良い事ばかりじゃない。周りを見ることが怖くなったり、人との関わりを嫌うようになったり外が嫌になったり。大好きが減ったり。

 「ウタ」

 道の先から名前を呼ばれた。低い男の人の声。それが誰の物なのかは分かっていたから特に驚きもしない。

 「おかえり」

 「ただいま。アキ仕事終わったの?」

 「今日は随分早く終わってね。昼には帰ってきてたよ」

 「そう」

 その男は長ズボンに半袖というザ・ダル着を着てタバコを吸っている。この人は咲島暁仁。私はいつもアキって呼んでるお隣さん。昔、ちょっとした関わりが出来て、それからたまに話すような仲になった。

 背中に刺青が入っているのを見たことがあるけれど根はいい人だと思う。

 「元気ないね。なんかあった?」

 「友達なんて結局は名前だけの関係で、都合のいいサンドバッグのようなものよね」

 「あちゃー、やっぱ友達関連?」

 「うん。アドバイスをあげることにも疲れちゃって、思いっきり突き放したの。同じ話の繰り返しだし、そろそろ面倒になってきちゃって」

 「俺は女の子のことは分からないからな。男だったら殴って解決くらいはできるんだけど」

 吸い終わったタバコの先を指で潰し、側溝の穴に入れてポケットの中からタバコの箱を出した。出した箱をトントンと指で叩いて新しい物を口に咥え火をつけた。

 「そんな物騒な真似したくない。それにもう関わることもないだろうし」

 「スッキリしなくね。一発殴って、殴り返されて本音言い合ってーの方が良くね」

 「そんなに大切だった訳じゃない。居なくなるのが惜しいとかでもない。数ある友達の中の一人だったってだけ」

 「割り切れてんだったらまぁ、いいんじゃないか。友達なんてそんなもんだし」

 「友達って必要かな」

 「極論人による。俺は居た方がいい派。意外と一人ぼっちになってみりゃ分かるよ、どれだけ周りに恵まれてたとか自分に着いてきてくれてたのかとか。そこ座り」

 言われた通りに、階段に座った。

 「いなくなるほど廃れた人間にはなりたくないな」

 「意外と簡単に居なくなる。自分が何をしたでもなく、ただの噂なりに流されて消えてく」

 「噂に流されるならその程度。そんな友達はこっちから手を離すわ」

 ははっと軽く笑い、アキは私の隣に腰を下ろした。タバコの匂いが風に流れていく。

 「今日も母さんは仕事か?」

 「うん。明日も明後日もずっと」

 私の家は母子家庭だ。

 お母さんは、私の学費や二人の生活費を稼ぐために、常に仕事をしている。父親が残して行った借金が無ければ、お母さんもゆっくり休める時間くらいは取れただろうに。

 アキもその事情を知っているから、こうやってたまに聞いてくる。

 「大変だよなー。寂しくない?家に常に一人って。しかもまだ高一で」

 「一人暮らしの練習だと思えば余裕。それに、寂しいとか言ってられないでしょう」

 「大人だよねウタは。俺が知ってる高校生はもっとガキっぽいのに」

 「大人で居るしかないじゃない。今更泣きわめいて、どこにも行かないでとかここに居てだとか言っても意味が無いもの。お母さんとか他の人に迷惑をかけるだけ」

 「環境がそうさせてるってわけね。でも偉いね。思ってても言わないって」

 私からしたら言わないことが普通だった。欲を出さずに、静かに言われたことに頷いて生きてきたから、私はそれ以外の生き方を知らない。

 「これでもまだ満足出来てる。自由でいるとか羽目を外すだとかは、私が独り立ちしてからでいい」

 「俺じゃもう逃げ出してるかもな。グレてるかもしれないし、家にも帰らない」

 「なんで?」

 思いっきり息を吸い込んで、肺の中にタバコの煙を入れて吐き出した。

 「なんでだろうね。見たくないんじゃないかな。ごめんごめんって頭下げてる姿とか弱ってく姿。手伝おうって思っても手伝えない自分に嫌気さして、全部捨てちゃおって」

 アキの家の話は軽く聞いたことがある。お父さんが立派な名家の出で、次期当主だと。お母さんは一般の人で、家では使用人として使われているだとか。

 「体験談?」

 「そうだね。体験談かも。母さんが親父だとか家の奴らにこき使われてんの見てらんなくて、手伝おうとしたけどそれも許されなくて。全部嫌になって逃げだした」

 「お母さんは今もいるの?」

 「いや、分からない。もしかしたら死んでるかもしれない。でもそんな知らせ来てないから生きてんじゃないかな」

 アキと私の家の事情が全て同じだとは思わないし思えない。でも、似たような人もいるんだって不謹慎かもしれないけど、すごく安心してしまう。

 「ってか腹減ったな。ウタなんか食ってきたの?」

 「お昼に食べたくらい。私もお腹すいたかも」

 「なんか一緒に飯食いに行く?それか、買って家で食うでもいい」

 「一緒に食べるの?」

 「一人で食い続けんの寂しいだろ。俺も最近一人だし、飯は誰かと食った方美味いし。あ、嫌なら良いんだけど」

 「誘い方下手ね。一緒に食べたいから食べようって言えばいいのに」

 「男は変なプライドの塊なんだよ。誘うのでさえ一苦労なの」

 「ははっいいよ一緒に食べよう」

 「よしっ。どっちがいい?家で食うのと店行って食うの」

 「久しぶりにアキが作ったオムライスが食べたい」

 「最高傑作を作ったる!」

 右手でガッツポーズをしながら嬉しそうにアキはそう言う。その顔はまるで子どもみたいで可愛らしい。

 「じゃあ、家帰ろか」

 「うん」

 座っていた階段から腰を上げ立ち上がり、一歩先に行ったアキに小走りで追い着いた。

 「久しぶりに人に料理作るなぁ。上手くできっかな」

 「珍しく弱音吐いてるじゃん。なに、もしかして自信ない感じ?」

 「いやぁ?別に余裕だけど」

 天を仰ぎ、おどけてみせるアキが面白くあははっと声を出して笑った。やっぱり、アキと居ると楽しくて、今日の事なんて些細なことに感じてしまう。

 『四階です』

 「先どうぞ」

 アキはエレベーターの扉を抑えて、右手を執事のようにお腹に当て頭を下げた。

 「あらどうも」

 お嬢様気取りでエレベーターから降りた。お互いふざける時は本気でふざけるから、すごく楽しい。

 「一回、自分の家寄る?」

 アキと私の家は隣同士だ。大した時間もかからないし、荷物も置きたい。

 「そうだね一回帰ろうかな。着替えたいし本も部屋に置いてきたい。準備できたら勝手に家入っていい?」

 「いいよー。俺はゆっくり料理でもしとくから」

 「ありがとう。すぐ行くね」

 そう言い、私は自分の家の鍵を開けて中に入った。やっぱり、今日もお母さんは帰ってきておらず、部屋は暗くイヤに静かだった。

 なるべく早くアキの家に行こう。

 靴を脱ぎ、自分の部屋に向かった。窓を開けっぱなしで一日出てしまっていたのか、部屋は冷え切っていて靴下越しでも足裏が冷たいほどだった。

 ベッドの上に本が入った袋とバッグを雑に置いて、クローゼットの中からグレーのスウェットを取り出し、それに着替えた。

 さっきまでピッタリとしていた服を着ていたからか、ブカブカとしたスウェットは締め付けがなく過ごしやすい。脱いだ服を洗濯カゴに入れ、靴を履いて家を出た。

 アキの家までは二歩ほどで着いた。勝手に家のドアを開け中に入ると、美味しそうな良い匂いがした。

 「お、おかえり」

 「ただいま。めっちゃいい匂いする」

 「だろー?昨日の余り物だけどスープもあるぞ」

 「まじ?今日めっちゃ豪華」

 久しぶりの人の手料理でテンションが上がった。ここ数年は、自分の為だけに作った物かコンビニのお弁当くらいしか食べてなかったから。

 「これで豪華って。泣きそうになってくるわ。今度焼肉連れてってあげるよ」

 「本当?超楽しみ!」

 「俺めっちゃオムライス作るの上手くね」

 お皿の上に乗せられた卵は凄く綺麗で美味しそうで、アキも満足気だ。

 「ふふっそうね。美味しそう」

 「これウタの分ね。ご飯の量多かったら残していいよ俺食うから」

 オムライスが乗ったお皿をアキから受け取り、テーブルまで持って行った。ついでに残り物だと言うスープも受け取り、オムライスの隣に置いた。

 「アキ、ケチャップある?」

 「冷蔵庫ん中入ってるよ」

 冷蔵庫を開け、手前に置いてあったケチャップを手に取った。

 「俺のもついでに掛けてよ」

 「いいよぉ」

 テーブルの上に置かれたオムライスの上に「アキ」と「ウタ」という名前をそれぞれケチャップで書いた。我ながらにそれが上手く書けたもので、自慢気な顔をアキに見せた。

 「上手い上手い」

 「でしょー」

 「じゃ、いただきます」

 「いただきます」

 手を合わせ、挨拶をしてからスプーンを持ちオムライスを掬った。卵はふわふわとしていて、卵の下に敷いてあるチキンライスはガーリックで味付けされているのか食欲をそそる匂いを放っている。

 掬ったオムライスを食べてみると、甘く味付けされた卵とチキンライスの塩っぱさが絶妙にマッチしていてすごく美味しかった。

 「美味しい!」

 「だろー?オムライスだけは誰にも負けない自信あるからな」

 「スープも飲んでいい?」

 「いっぱい飲みなさい」

 トマトベースで作られているのかスープが赤く、浮かんであるブロッコリーの緑が映えている。

 オムライスと同様にスープも美味しく、男飯だとは思えないほど健康的だ。

 「凄いね。こんなに美味しいの作れるの」

 「そのスープはカップ麺のトマチリが美味くて真似してみた。意外と作れちゃうものなんだなって思った」

 「へぇ。レシピとかあるの?」

 「いや適当。これ入れたら美味いだろってやつ入れとけば何とかなるよ」

 「勉強なる。今度家に作りに来てよ」

 「ははっ、そんくらいいつでも作ってあげるよ。ご近所さんらしくおすそ分けでもしに行ってやろうか」

 「助かる」

 人と話しをしながらご飯を食べるのが久しぶりすぎて、何かくすぐったい。

 「人と飯食うの久しぶりだな。いつもより美味く感じるよ」

 「私もいつもより美味しい……気がする」

 「気がするってなんだよ。不安がるなよ」

 「あははっ」

 それから中身の無い会話を繰り返し、オムライスとスープを平らげて行った。私の分は少し量が多くて食べ切れなかったから、残りはアキに食べてもらった。

 「ご馳走様でした。全部美味しかったよ」

 「お口に合ったようで良かったよ。俺は皿洗っとくからテレビでも観てゆっくりしといていいよ」

 「え、私も手伝うよ」

 「気持ちだけ受け取っておくよ」

 私の頭を軽く撫で、二人分の皿をシンクに持っていき、水を出して洗い始めた。

 誰かが食器を洗っている音も、それを聴きながら観るテレビも何もかもが久しぶりすぎて慣れない。でもやっぱり、自分ともう一人誰かがいるだけで心の余裕ができる。それだけは学んだ。

 「後で映画観ようよ。前にウタが観たいって言ってたやつ配信されたんだ」

 「言ってたやつって、あの俳優さんの?」 「そうそう」

 「あれすごい人気あったよね。描写がどうとか友達が言ってた気がする」

 「俺も予告しか見てないから内容はわかんないけど、評判良いし面白いんだろね。楽しみだな観るの」

 お皿を洗い終えたのかアキが窓を開け、ベランダに出てタバコを吸い始めた。私もそれに着いて行ってベランダに出た。

 「はぁ、やっぱ飯食った後のタバコが一番美味い。タバコを美味く吸うために飯食ってるって言っても過言じゃないな」

 「過言だよ。匂いからして、ご飯の方が美味しそうだもん」

 「分かってないね。分かっててもビビるけど。俺らみたいなヤニカスはそうなんだよ」

 「どんな味がするの?」

 「物によるかなぁ。ぶどうの味するやつもあるし、バニラっぽい匂いのやつとかシンプルに不味いやつもある」

 「へぇ。だからあんなに種類があるの?」

 「多分ね。人のタバコ貰って吸うことあるんだけど、やっぱ合わないと普通に苦痛。貰ってしまったばかりに捨てることも出来ないし」

 「何にしたって好き嫌いはあるんだね」

 「そうだねぇ」

 四階ってこともあって、家の下にいる時より風が強い。多分、時間が経って夜になったって言うこともあるんだろうけど。

 タバコを口に咥えて弄ぶアキの姿は、いつも見ているようなおどけたものとは違い、やけに大人びていて、普段は感じることの無い歳の差を感じさせる。

 「ねぇ、一回だけ吸わせてよ」

 「だーめ。悪い子になっちゃうよ」

 「私はいい子でもなんでもないよ」

 そう言い、強引にアキからタバコを奪い口に咥え一回だけ吸ってみた。

 でもやっぱりむせてしまった。それに全然美味しくない。

 「ゲホッ」

 「ほらぁ、いい子はむせちゃうんだよ」

 「これの何が、美味しいのよ」

 アキは、ゲホゲホと咳をする私の背中を撫でて落ち着かせてくれた。背中に当たっている手が大きい。

 「これは俺に合ってるやつだからね。色んなの確かめて自分に合うやつ見つけなきゃ」

 タバコを口に咥え直し、一回吸ってから私の顔を見てアキが口を開いた。

 「まぁ、でも……。これでウタも悪い子なっちゃったね」

 穏やかに微笑みながらそう言うアキの姿に心臓がドキッとした。悪い男を女は好きになると言うけれど、なるほど。これは好きになってしまっても無理は無いかもしれない。

 「飽きた!」

 照れ隠しのつもりでそう言い、部屋の中に戻ってテレビを着けた。体は冷えているはずなのに、いつまで経っても顔だけは熱い。

 「アプリ起動して映画選んでていいよ。俺はトイレ行ってくる」

 吸い終わったのか、ベランダから部屋に戻りアキはトイレに真っ直ぐ向かった。私は言われた通りにリモコンでテレビに入っているアプリを起動して、さっきアキが言っていた映画を探すことにした。

 その映画はだいぶ前に上映されたものだから、おすすめ欄には出てこず手動で文字を入れて探すことにした。

 文字を半分まで打ち終わると、予測変換にその映画の名前が出てきた。カーソルを名前の上に合わせてそれを押すと、大画面に映画のサムネが映し出されて「再生する」と書かれていた。

 「あー、それそれ。押しちゃっていいよ」

 いつの間にかアキはトイレを終わらせ、片手にお菓子を持って来ていた。

 「何そのお菓子」

「え?いや、やっぱ映画にはお菓子必須だと思って。漁ってきた」

 「まだ食べれるの?」

 「ばぁか。お菓子は別腹だよ。それに腹には溜まらん」

 「……そう」

 お菓子の袋をパーティ開けにし、映画を再生した。

 私が観たかった理由は、映画の中身ではなく俳優さんのため、ぶっちゃけあまり興味は無いのだけれど、アキが隣であまりにも興味深そうに映画に目を向けているため私も数分間だけはちゃんと観ることにした。

 チラッと時計を確認すると既に二十四時を回っていて、今日一日で色んなことが起こって疲労が溜まりに溜まっていたためか、私は気が付いたら目を閉じ、寝る態勢に入っていっていた。

 段々と意識が遠のいていき、映画の音が小さくなって行く。

 

        ❁⃘

  

 頭ん中がふわふわする。

 体が思うように動かないし上手く考えられない。暖かい水の中で思考が止まってる。

 また同じ夢か。

 『元はと言えば全部お前のせいだろ!勝手に妊娠して勝手に子供なんて産みやがって』

 『何よその言い方!欲しいって言ってくれたじゃない!一緒に育てようって』

 あれ、この声どっかで聞いたことある。  『はっ、馬鹿な女だな!俺が本気でお前との子供を欲しがってるとでも思ってたのか?そもそも俺はお前みたいな女にとうの昔に飽きてんだよ!』

 『酷い!なんてこと言うの』

 あぁこれ、昔聞こえてた喧嘩の声か。お父さんがまだいるってことは、私は精々産まれて一ヶ月とかかな。

 この時は確か泣くに泣けなくて聞いてないフリしてたな。怖かったけど。

 『お前みたいな古くなった女じゃなくて、もっと若いやつと俺は再婚する!離婚だ離婚!もう何を言われても聞かないからな!』

 『ちょっと待ってよ!ウタはどうするの?私一人で育てろって言うの』

 『お前の体から産まれてきたんだ。俺には関係ない』

 お父さんは、私が産まれてから態度が一変した。まるで何かに取りつかれたかのようにお母さんに手を上げるようになったし、モラハラになった。私も、お母さんが護ってくれなかったら危なかったかもしれない。

 これは後々知ったことだけど、お父さんは私がお母さんのお腹にいるのにも関わらず、不倫をしていたらしい。その不倫相手のお腹の中にも子供を身篭っていたとか。

 結局、お父さんは多額の借金を置いて家を出て行き、不倫相手と再婚をしたらしい。今はどうなっているか分からないけれど、上手く行ってるのであればまだ家庭は持っていると思う。皮肉な話だよね。

 『ごめんね、ウタ。ごめんね』

 謝らないでお母さん。

 泣かないでお母さん。

 いつも夢はここで途切れる。その先はきっと私自身が覚えていないからだろう。思い出す気もないのだけれど。

 映画を着けながら寝たのか、テレビには自動再生で新しい映画が映し出されている。ソファに居たはずの私はベッドに移動させられていて、辺りを見回してもアキの姿は見当たらなかった。

 「アキ?」

 静かな部屋に映画の音声だけが小さく響き渡っている。ゴミ捨てにでも行ったのだろうか。

 テレビを消そうとリモコンを持った時、玄関がガチャりと開いた音がした。きっとアキなんだろうけど、泥棒の可能性も捨て難いと思い、恐る恐る玄関の方へと足を運んだ。

 「ん?あれ起きてたの。おはよう」

 そこに居たのは泥棒でも空き巣でもなく、なにやら袋を持ったアキだった。

 「おはよう。何持ってるの?」

 「タバコ無くなったからコンビニ行ってきた。ついでにウタが好きなアイスあったからそれも買ってきた」

 「ほんと?ありがとう。ごめんね、昨日すぐ寝ちゃって」

 「全然いいよ。色々あって疲れてたんでしょ。結果的に二人で観れたから俺は満足」

 スタスタと部屋の奥に進んで行くアキに着いて行き、テーブルの上に置かれたアイスに手を付けた。

 杏仁豆腐味のカップアイスの蓋を開け、袋の中に入っていた木製のスプーンでアイスを掬いそのまま口に運んだ。

 「美味しい!やっぱ杏仁豆腐が一番」

 「そんな美味い?俺は杏仁豆腐苦手だから共感できないな」

 「アキは何味が好き?」

 「んー、無難にチョコかな。焼肉屋とかで食うちっちゃいチョコアイスが好き」

 タバコの煙を吐きながら、まるで小さい子どもを相手するような口調と表情でそう言った。やっぱり、朝に見るアキと夜に見るアキは雰囲気が違い別人に見える。

 「あぁ美味しいよねあれ。あと牧場で食べるのとか美味しくない?」

 「分かるわぁ。ミルクって感じのな。牧場のアイスって若干ジェラートっぽくなってるからそれがまた美味い」

 「そうそう」

 このアイスが美味しい、このアイスは違うなどと言った下らない会話が多分十分は続いた。これだけ下らない話ができる人間は、少数であって大切だと実感した。

 「ってか、明日学校かウタ」

 「うん。アキは仕事?」

 「俺は今日の夜から仕事だね。せっかくの日曜なんだから一日中休ませろってな」

 「そういえば、アキってなんの仕事してるの?ずっと聞いたこと無かったから」

 「大した仕事してないよ。簡単に言えば接客業」

 「夜に接客?」

 「俺の担当してるお客さんが忙しい人でね夜にしか時間が取れないんだ。だから夜中でも仕事しなきゃいけない」

 「へぇ大変そうね」

 「大変だけど楽しいよ。たまに意味わからん客を担当することもあるけど、同僚も良い奴ばっかだし。悪いことばっかりじゃない」

 タバコを吸い終わり、吸殻を灰皿に入れて私の横に座った。服に着いたタバコの匂いは少し甘い匂いがする。

 「甘い匂いする」

 「ん?あぁタバコの匂いが甘いからね。フレーバーって言って色んな味と匂いがあるんだ。って昨日話したか」

 「私は全く甘く感じなかったけどね」

 「まだまだお子様ってことですなぁ。今大人になられてもそれはそれで困るけどね」

 「大人の定義って何?」

 「これまた難しいことを聞いてくるね。俺的に思うのは、情で動けなくなった時かな」

 「情?」

 「そう。子供の内は好き嫌いで行動しても仕方がないって許されるし、身勝手に生きれる。でも、大人になるとそうも行かない」

 「例えば何?」

 「好きな人間に好きだと素直に伝えられない。嫌いな人間を百パーセント突き放すことも出来ない。あと、プライドが高くなる」

 指を一本一本折っていき、数を数えながらそう言った。私はてっきりアキの事だからお酒が美味しく感じるだとか、タバコをむせずに吸えることだとかそんなことを言われると思っていた。

 「ウタもいずれ分かるよ。なんなら、大人より大人びてるから言うてすぐかな」

 「大人びてなんかないよ。無駄な知識の塊なだけで」

 「その無駄な知識が生きていく上で大切だったりするんだよ。俺は羨ましいね博識なウタが」

 「博識ねぇ」

 使う用途もない無駄な知識のせいで、大人にはよく煙たがられた。

 私は昔から、外で元気に走り回っているような可愛らしい少女では無く、文豪などの難しい小説を好むような少女だった。それが大人にはおかしく見えたのだろう。

 「そろそろ、仕事の準備でもすっかな」

 「あぁ、うん。分かった」

 「ウタはどうする?」

 「課題もあるし、アキが仕事なら帰るよ。昨日買った本も読みたいし」

 「おっけ」

 少し名残惜しいけど、明日も学校だからと自分に言い聞かせて帰ることにした。

 「またいつでもおいで。合鍵は渡してるし自由に出入りしてもいいよ」

 「ありがとう。オムライス美味しかった」

 「また作ってあげるよ。これ持ってきな」

 そう言い、コンビニに行った時に買ったであろうグミを渡してくれた。これも以前に私が好きだと言ったグミだった。

 「わぁ、ありがとう。じゃあ、またね」

 「うん。またね」

 アキに別れを言い、玄関を開けて家から出た。一日、一緒にいたからかなんか寂しい。

 アキの家から数歩だけ歩いて、自分の家に着き玄関を開けて中に入った。カーテンの隙間から入ってくる日差しで、部屋は明るく照らされている。

 「ふぅ」

 足早に自分の部屋に行き、昨日ベッドの上に置いて行ったバッグと本を地面に置いてベッドに滑り込んだ。

 どっと体に疲れが出てきたのか体が重くなり、もう動く気力も残っていない。

 多分この状態で勉強をしても頭に入らないだろうと思い一旦寝ることにした。スマホに充電器を差し、アラームをセットして目を閉じた。

 窓の外からはキャッキャと小さい子供達の遊んでいる声が聞こえる。それが意外と良いBGMになり、すぐに眠りにつけた。

 ブブッ……。

 ブブッ……。

 「んん……」

 ブブッ……。

 なんだこの音。騒がしい。

 ブブッ。ブブッ。

 「もう、なに?」

 不規則に鳴り響く音に嫌気が差し目が覚めてしまった。音の正体は、どうやらスマホの通知音のようだ。

 スマホの画面を見てみると、クラスラインの通知が貯まっていた。通知欄で内容を確認すると、同じクラスの男子数名がスタンプや文面などでふざけ合っているようだった。

 流石に退会をしてしまうのは申し訳が無いから、通知をオフにしてもう一度眠りにつくことにした。私の貴重な睡眠時間を削られたことに対して腹が立ったが、本人達に言う勇気も無いため心にしまった。

 こういう時、率先して汚れ役に回れる人間が羨ましい。人に嫌われることに怯えて、何一つ口に出せない自分が非常に情けなく感じてしまう。

 「なんか、眠気覚めちゃったな」

 数分目を閉じて眠りにつくことに励んでみたけれど、どうにも寝れなかった。

 どうしようもなく、ベッドから体を起き上がらせて、ボーッと部屋を眺めてみた。教科書や資料が入った棚に、この十数年で集めた本の山。漫画の主人公に憧れて吊るしたキラキラと輝くインテリア。昔はこの部屋に満足出来ていたのだけれど、好きな物や嫌いなものが増えていって、日を追う事に気に食わなくなってきた。

 でも全てを変えるにしたって相当なお金はかかるし、一人暮らしするまでの辛抱かな。

 ピコン。

 急に、スマホに一件の通知が届いた。クラスラインの通知はさっき消したばかりだし、休日に連絡を取り合うような仲も居ないため何となく見当はついていた。

 『こんにちわ。お久しぶりです。お元気にしていますか。お勉強も順調ですか。また、いつでもお家に遊びに来てくださいね』

 通知の相手は、予想通り親戚の叔母さんからのものだった。

 「うざったいな……」

 正直に言えば、私はこの人が大嫌いだ。

 この人は常に人の成績を気にする。自分の家系に頭の悪い人がいては恥ずかしいと、少しでも成績が下がれば虐げられてきた。大した頭も持っていないくせに、人にばかり文句を言い、自分の思い通りになるまで辞めないのだ。

 なんでブロックをしないんだと疑問に思う人が殆どだろう。

 私も、出来ることならしてしまいたいのだけれど、お母さんがそれを許さない。そこにどんな理由があるのかは分からないけれど、どうしても縁だけは切らないでいて欲しいらしい。

 返信は、気が向いた時にしよう。

 薄暗い部屋にいるだけじゃ気分も落ちると思い、窓を開けてベランダに出た。

 あともう少しで日が落ちるという時間帯の空は、綺麗なオレンジ色で幻想的だ。その色の中にいるカラスの黒色が映えて見える。これが俗に言う「エモい」なのか。

 「鬼さんこっちだよー!」

 「逃げろ逃げろぉ!」

 家の下にある広場では、小学生くらいの男女が鬼ごっこをしていた。

 鬼ごっこなんて何時からしてないだろう。

 小学生の頃に、私もしていた記憶がある。男も女も関係無く、暇そうな友達を見つけたら遊ぼうよと手を取って、最終下校時間になるまで校庭で走り回った。校庭が使えなくなったら本当は駄目だけれど、マンションやアパート一帯を使って階段を駆け回って遊んでいた気がする。

 何回も鬼決めのジャンケンに負けて鬼をやらされたっけ。足が速い友達は若干、手加減をしてくれて何とか鬼を交代出来ていた。男子の中には「鬼がやりたいからタッチしてくれ」なんて頼んでくる子もいたっけな。

 それが、歳が老いる事にいつの間にか出来なくなってしまった。小学校まで仲が良かった男子も、何故か女子から離れて行ったし逆に女子は男子から離れて行った。

 一緒にいると付き合ってると思われるだろうって、みんなで肩を並べて帰ることも出来なくなって、彼氏や彼女などの関係に囚われて行った。たった一年、歳をとっただけなのに。

 「懐かしいな」

 今思えば、私も離れて行った人間の一人だったのかもしれない。

 周りの視線に左右され、一緒に帰ろうよの誘いも断り続けた。だって、みんな人気者になってしまったから。

 一緒に居ただけ。話していただけで周りからの視線が痛かった。確かに、男友達の顔はかっこよかったし、ライバル同士で言い合いがあったほどモテてはいた。でも、そんな事私にはどうでもよかった。

 その友達が好きだったわけじゃないし、顔も別にタイプじゃなかった。幼馴染だから、ずっと一緒に遊んできたから、距離感は周りから見たらおかしかったのかもしれないけれど、そこには微塵の情もなかった。

 でも、分かるよ。中学生にもなれば、異性を意識し出すのは当たり前のことだし性には勝てない。

 アキと出会った時に、それは痛いほど学んだから。

 

 昔、私はよく暇な時ベランダに出ていた。特に理由があった訳では無いけど、ただボーッと外にいる時間が好きだった。

 家が四階っていうこともあって、凄く遠くにある水平線も少しは見えてそれを眺めながら、本を読むなり下で遊んでいる子たちを見るなりして時間を潰していた。

 アキと私の部屋の間は仕切りで隔たれていて、お互いの部屋の状況を見ることも、ましてや関わることさえないはずだった。

 『嬢ちゃん、そんな身乗り出したら危ないよ』

 いつものように、落ちないように設置されている柵に身を乗り出しながら外を眺めていたら、低い男の声にそう言われた。

 『お兄さんも乗り出してるじゃん』

 『はっはっ確かにそうだな。でも俺は男だし強いから落ちても大丈夫なんだ。嬢ちゃんはそうじゃないだろ?』

 それがアキだった。

 いつものようにタバコを咥えて、何故かその時は、上半身丸裸で寒そうだと思った記憶がある。今になれば、服を着ていない理由も明確に分かるけれど、その時は目の前に現れた男を不思議に思っていた。

 『誰でも、ここから落ちたら怪我くらいはするよ。どれだけ強い男でもね』

 『一回試す?大丈夫か大丈夫じゃないか』

 『需要がないもの。別に試さなくていい』

 『嬢ちゃんいいね。俺、君みたいな子好きだよ。男に媚びてるって感じしなくて』

 『どういうい……』

 アキの言っている言葉がよく分からず、聞き返そうとしていた時に甲高い女の人の声が聞こえた。一瞬、ほんの一瞬だけアキの背中に抱きつこうとしている女の人が見えた。

 その瞬間、自分でも訳も分からないまま柵から手と体を離し、隔たれている壁に身を隠した。隠れなきゃいけない気がした。

 『誰と話してたの?』

 『んー?イマジナリーフレンドかな』

 『えー、なにそれー』

 隔たれた壁の先で、アキと女の人の楽しそうな声が聞こえてきた。あぁ、これが大人の世界なのだとその時初めて理解した。

 同時に、これから壁の先の部屋で何が起こるのかも。

 これから始まるんだと理解した瞬間に、とてつもない吐き気が私の体を襲ってきた。

 気持ち悪い。

 心臓がドッドッと強く鳴り響き、頭はぐわんぐわんと揺れている。吐きそう、でも吐けない。極度の吐き気になのか、男女のあれこれに怯えているからなのか、涙が止まらなくなった。

 『先、お風呂で待ってるね!暁仁』

 『おう、吸い終わったらすぐ行くよ』

 トタトタと足音が離れて行き、二人の会話が聞こえなくなった。その瞬間、私の吐き気も落ち着いてきて涙も止まった。

 なんだったんだろう。

 『いやごめんね嬢ちゃん。オトモダチがちょっと遊びに来てて』

 アキの言うオトモダチの意味も本当は分かりきっていた。

 『そう。随分仲良しなのね。オトモダチ、なのに一緒にお風呂だなんて』

 『大人は一周回って、男女とか関係なくお風呂入れるようになっちゃうんだよね。あ、嬢ちゃんはまだ入るには早いからね』

 『お風呂だけじゃ済まないくせに。よく付き合ってもない人間とできるよね。私には理解できない。誰にも相手されない者同士の最終手段にしか思えない。お兄さんモテないんでしょう』

 『ぶあっはっは!うん、そうだね。うん、そう。あながち間違ってないよ。にしても面白いな君。名前は?』

 大笑いをして楽しそうにそう言う。柵に近付いていないからどんな顔をしているのかは分からないけれど、馬鹿にしたような顔をしているということだけは分かった。

 『ウタ。高場ウタ』

 『ウタちゃんか、いい名前。俺は咲島暁仁って名前。暁の暁に仁って書く。ウタちゃんは?』

 『私はカタカナ。漢字は、気に入ったのが無くて辞めたんだって』

 『へぇ、なんかかっけぇね。吸い終わったしそろそろ行くね。これからよろしくねウタちゃん』

 それだけを言い残して、アキは部屋の中に戻って窓が閉まる音が聞こえた。出来れば宜しくはされたくないのだけれど、ご近所付き合いは大切だと言うから、その時は無理やり自分を納得させた。

 大人って怖いし気持ちが悪い。

 何を考えているか分からないし、平気で体を使う。体しか取り柄がないのかもしれないけれど、一回でも体を使えばそれだけの人間になるってどうして分からないのかな。

 朝の仕事より夜の仕事の方が給料がいいのも気持ち悪い。結局、性欲に任せてるだけじゃない。やっぱり、人間は猿でしかないのだと、そう思ってた。

 その日はすぐに部屋に戻り、声や音を聞かないようにイヤホンをして、音楽を大音量で聴きながら眠った。

 それから数ヶ月経って、女の人の声を全く聞かなくなった。ベランダで話をする時も、前よりアキは暇そうになったし部屋は静かで邪魔も入ってこなくなった。

 『そういえば、前にいたオトモダチ見なくなったね。喧嘩でもした?』

 『喧嘩よりもっと複雑だよ。でもまぁ、そろそろ潮時だとは思ってたし、あいつのオトモダチは俺だけじゃなかったし。仲直りしなくても問題ないんだよね』

 『もう来ないの?新しいオトモダチも?』

 『来ないよ。今はウタが話し相手になってくれるし、なんか疲れたし』

 アキの宣言通り、二年経った今でも新しいオトモダチは見てない。

 『もしかして好きだったとか?』

 『それは無いかな。本気で好きな女には手を出すの渋るし、ただヤリたいだけだと思われたくないから。そこはちゃんと区別してるつもりだよ』

 『へぇ』

 今でもアキのことはよく分からない。何を考えてるだとか、本性だとか。私が知る必要なんて無いのかもしれないけれど、これだけ一緒にいるんだ。ちょっとくらい踏み込んでも文句は無いだろう。

 大人はよく分からない。いや、そもそも恋愛自体よく分からないのだけれど。都合が良くてもいいから、本命じゃなくて体だけでもいいからってセリフをよく見たり聞いたりするけれど、ただ虚しさが増すだけの行為にしか思えない。これは私が子どもだからなのだろうか。

 好きって難しい。

 もちろん、友達としての好きなら分かるのだけど、恋愛は好きの定義があやふやでよく分からない。

 体が好き、顔が好き。性格や内面が好き。

 逆に体が嫌い、顔が嫌い。性格や内面が嫌い。殴られるけど、お金を取られてしまうけど、酷い言葉をかけられてしまうけど。

 でも、愛してる。

 ネットでそんな投稿をよく目にする。殴られるより、罵声を浴びせられる事よりも離れることが辛い、と。

 人間は承認欲求の塊だから、結局は心配されたいから、ずっとずっと心配をして見ていて欲しいからと、他人の「別れろ」の意見を無視して関わり続ける。

 そのくせ、ネットには愚痴や写真を載せ媚びる。「殴られちゃいました。すごく痛いです」そんなことを言う。痛いなら離れればいい、警察に突き出せばいい。

 なのにそれをしないのは、安全になってしまったら、自分を心配してくれる人間も構ってくれる人間もいなくなるから。「助けて」の文は、構ってくれの暗示。本気で助けて欲しい奴は、写真なんか撮る前に逃げてる。ネットに頼る前に周りの人に言う。

 馬鹿みたいに女は男に媚びるし、男は女を性処理道具として見るし。お互い共通して言えることは、ただの猿だってこと。

 最近、ニュースでも見るでしょう。小中高生の女子生徒が妊娠だの中絶だの。そのニュースや本人のSNSを見ると、旦那も彼氏も逃げてしまったと。

 まぁ、仕方ないよね。進化しきれてないから、先のことも最悪なことも考えていないよね。最終的には美談に変わって、当の本人は被害者面ばかりをするよね。

 リスクに気付かず、男を信用しきって性欲に負けたお前も同罪のくせに。

 こんなことを大人に話したら酷く怒るのだろう。一人の少女の話さえ聞かずに、汚い部分は見ないようにして、隠して。

 「本にしたら、読んでくれる人はいるのかな。不謹慎だコンプラだの言って消されてしまうかな。まぁ、それもそれで面白いか」

 そう口に出しスマホを取りだした。小説作成アプリを開き新規作成を押す。

 私が感じているこの世の理不尽さや不平不満を連ねた文は、面白い事に書き進んだ。ただの恋愛小説を書くより、こういったエッセイの方が私には合っているのかもしれない。

 私だって、こんなことを書き続けたいわけじゃない。普通に恋愛モノやフィクションを書きたい。でも、私の恋愛観はみんなとは違うし、第一に書けないのだ。ろくな恋愛をしていないし、結局不満を書くことになる。ノンフィクションとして書くにしても、一人一人に深い思い出がある訳でもない。

 友達から話を聞くにしたってそれはそれで気まずいし、恋バナをする仲の友達は、先日いなくなってしまったし。

 こんな時、鳳仙先生ならどうするのだろうか。映画を観る?アニメを観る?それともドラマ?

 一流の小説家も悩んだりするのだろうか。本が書けなくなったり、自暴自棄になってしまうこともあるのだろうか。逃げたいと思うこともあるのだろうか。やっぱり、会って話を聞いてみたい。

 ガチャ。

 急に玄関が開く音がした。何か袋を持っているのかガサガサと音を鳴らして奥へ奥へと近付いてくる。

 「はぁ、疲れた」

 「お母さん。今日は帰って来れたの?」

 自分の部屋から出てリビングに行くと、ソファに深く腰をかけ脱力しきっているお母さんの姿があった。お母さんに会うのは何日ぶりだろう。疲れ切っている顔をしている。

 「お母さんね、やっと休みが取れたのよ。言うて二日だけどね。休めるだけ感謝しなきゃ」

 「そっか、休み取れて良かったね。私がご飯作るよ。お母さんは部屋で寝てて」

 「今日は帰りにお弁当を買ってきたからそれ食べて。袋の中にジュースも入ってるからね。お母さんはもう先寝るね」

 「うん。おやすみ」

 お母さんはお風呂にも入らず、服を部屋着に着替えてから寝室に消えて行った。お母さんが持ち帰ってきた袋の中には、沢山のお弁当とジュースが数本入っていた。

 そのお弁当の中から唐揚げ弁当を選び、温めるためにレンジに入れた。温めている間に小さなパックのジュースを一本飲んだ。

 ピーピーといった機械音が鳴って、レンジの中からお弁当を取り出し蓋を開けた。

 「あちっ」

 お弁当を温めすぎたのか、熱い湯気が飛び出してきて私の指を熱した。すぐに冷やしたから火傷にはならないだろう。

 割り箸を袋の中から取り、封を開けてパキッと割った。

 「いただきます」

 大きめの唐揚げを箸で持ち上げ、口に入れた。やっぱり温めすぎていてすごく熱い。でも味は美味しい。お弁当屋さんの物よりは劣ってしまうけれど、ちゃんと味付けもされていて満足だ。

 時計を見ると、もう既に二十二時になっていた。意外にも小説で時間を潰せていたらしい。まだ課題もできていないのに。

 この時間にお母さんがいるなんていつぶりだろう。同じ家の中に居るってだけでこんなにも落ち着くものなのか。偉大だな。

 ブブッ……。

 「ん?」

 部屋に置いておいたスマホの通知音が聞こえた。確認をするために部屋に戻って、ベッドの上に置いたままのスマホを持ち上げた。

 通知欄に映し出された名前はアキだった。

 『今夜暇?あともう少しで帰れるから、その後にドライブにでも行かない?』

 アキからの誘いは初めてかもしれない。

 もちろん行きたいと思い、すぐに返事を返した。

 『暇だよ。行きたい』

 すぐに既読が着いて『よしっ!』という返事が返ってきた。

 なんでだろう、顔が勝手にニヤつく。

 のんびりしていられないと思い、急いでお弁当を食べ終わらせ服を着替えた。

 テレレン……。テレレン……。

 これで大丈夫かと鏡の前で確認をしていた時、アキから着信が来た。

 「もしもし」

 『家着いたから降りておいで。エレベーター出てすぐのとこに停めてある』

 「分かった。すぐ行く」

 『あ、ウタ。下降りてくるまで電話繋げておいて』

 「なんで?」

 『いいからいいから』

 アキは軽く笑いながらそう言った。

 繋げておく理由は分からなかったけど、私は言われた通り電話を切らずに静かに家を出た。エレベーターのボタンを押し、少し待って自分の階まで来たエレベーターに乗り込んだ。

 「電波悪くない?」

 『今んとこ大丈夫そう。でももうすぐ着くでしょう?』

 「うん。もう一階に着くよ」

 『あ、見えた』

 そう言って電話を切った。私もエレベーターの扉越しにアキが見えていたので特に何も思わなかった。

 「こっちこっち」

 アキが手招きをして私を出迎えてくれた。アキがいる所まで小走りをして向かう。

 「なんでずっと電話繋げてたの?」

 「何があるか分からないからね。家出てすぐに不審者に出くわしてもすぐに行けるようにって思って」

 「そうだったの」

 アキはそうそうと言いながら、車の助手席を開けた。

 「どうぞ」

 「ありがとう」

 どうやら、私が乗りやすくするために扉を開けてくれたらしい。それに甘えて助手席に乗り込んで、シートベルトを着けた。

 車内は芳香剤とタバコが混ざったような匂いがする。決して不快な匂いじゃない、よく分からない匂い。

 「よいしょ。じゃー行きますか」

 アキが運転席に乗り込んでからシートベルトを着けて、スマホで小さく音楽をかけてくれた。

 「急にどうしたの?誘ってくるなんて初めてじゃない」

 「いや、誰かといたい夜もあるじゃない。今までは一人でドライブしてたんだけど、ウタも誘ってみようかなって思って」

 「そう」

 車がゆっくりと動きだし、窓の外の風景が横に流れていく。思い返してみれば、アキの車に乗るのも運転姿を見るのも初めてかもしれない。

 「どっか行きたいとこある?」

 「海、見に行きたいかも」

 「おっけ!見に行こう」

 「今日、早く終わったの?仕事」

 「意外と早く終わったよ。話の分かるいい人で助かった」

 「良かったね」

 「今日なんかいい事ありました?ウタは」

 「お母さんが帰ってきたよ。二日間休み取れたって言ってた」

 「まじ?ちょーいいじゃん良かったね」

 「うん」

 なんでだろう。

 いつもより上手く喋れない。何を言うにしてもぎこちなくなってしまう。会話、会話を広げなきゃ。

 あ、そうだ。良いタイミングだし、大人について恋愛について聞いてみようか。

 「ねぇ、アキ」

 「んー?」

 「恋愛について教えて欲しい」

 「え、なに?好きな人でも出来ちゃったとか?」

 「ううん、違う。恋愛が分からないから聞いてる。恋愛にも色々あるじゃない。体だけだとか都合良くだとか。私にはその必要性が分からないから教えて欲しいの」

 アキは、んーと唸って難しいなと声を漏らした。

 「大人って正直に生きるの難しいんだよ。好きだけど、付き合えないからせめて体だけは彼の物でありたいとかまぁ、ただただ性欲が強いからってやつもいるけど。人に見てもらえて触ってもらえることが出来る最終手段が体なんだと思うよ」

 「虚しいだけじゃない」

 「そう。虚しいの。虚しいから体を見せる人間を増やしていくの。誰に捨てられても飽きても、代わりを作ることで虚しさに気付かないようにしてる。体しか満たせるものがないんだよ」

 「なにそれ、猿みたい」

 はっはっと笑い少し寂しそうな顔をした。なんでそんな顔をするんだろう。

 「そうだね。猿だね。猿で居続けちゃうんだよね。大人って。本気の恋愛が出来なくなっていくんだよ。信用出来なくなって人間が嫌いになって行って、でも欲は溜まって」

 「結局、欲を満たすために使ってるだけじゃない。そこに感情なんてないってことでしょう?馬鹿馬鹿しい」

 「ウタもいつか分かるよ」

 「分かりたくもない」

 よく見る恋愛小説。その小説は主人公の年代で物語が大きく変わっていく。純粋なものを書くのかドロドロと汚い恋愛を描くのか。

 読み進むにつれて人間味が増して、気持ちの悪い表現で充ちて気分が悪くなっていく。

 それが、まだ小説だから良い。ドラマやアニメなどの人物が鮮明に描かれ、行為自体も見えるようになってしまったらその気持ち悪さは文章の比にならないくらい増していく。

 多分、綺麗に描き直されているから余計に気持ちが悪い。小説は細部まで汚く書くけれど、テレビはそうではないでしょう。汚いところを極力無くして、綺麗なモノを作り出している。

 だからきっと、人はそれを綺麗だって思いながら見る。純粋な恋愛だと。何を書いても美談にされる。

 「人によるけれど、俺は寂しいとか虚しさを埋めるために女を作ってたわけじゃない。普通に楽しい関係だったんだ最初は。でも、その楽しさを維持するためには体を払わなきゃいけなかった。ただそれだけ」

 「いいよもう。なんか疲れちゃった」

 幼い頃から人間の汚さを見てきた。屑なところも全部全部。その経験が私をこうさせているんだろう。

 こんな家に産まれなければ、両親が居て仲のいい普通の家庭で居られたなら、私も少しは変われていたのだろうか。

 「明日、学校だね。楽しいことなんかあればいいね」

 「別に、無理に会話を探さなくていいよ」

 「無理してないよ」

 「大人として、子供を引っ張らなきゃとか思ってるんでしょ。要らないんだよねその正義感」

 「いやウタ俺は」

 もう無理だと悟った。これ以上ここに居たらお互いを傷つける羽目になる。

 「帰ろう。アキ」

 精一杯の私からの配慮だ。

 分かるはず無かったんだ、子供が大人の考えなんて。

 「分かった。ウタ、落ち着いたらまたいつか誘ってもいい?」

 「その日の私に聞いて。確定もしないこと簡単に口に出せない」

 「分かった。ごめん」

 口をついて出た言葉にはっとする。もう手遅れだと思い、弁明をするのを諦めた。

 また疎遠になるのだろうか。自分の、弱い自分のせいなのに胸が痛む。

 「俺、車置いてから帰るから先に行っちゃいな。おやすみウタ」

 あれから数分して家の前に着き、私だけ車を降りた。

 「おやすみ」

 駐車所の方へ消えていく車を見送ってエレベーターに乗った。なんだろうこの焦燥感。

 動き出すエレベーターの中で、背を壁に委ね、はぁと一息ついた。不必要な話をする癖は昔から変わらずにあって、そのせいで人が離れていくのは日常で。

 変わることの無い自分の性格や中身に、少しは慣れたはずだった。人が消えていくのも呆れられることにも慣れたはずだった。

 なのに、アキに離れられてしまうと思ったら心臓が痛くなる。アキにだけはそばにいて欲しい。アキの目に映る自分がどんな姿でいようと、いつものように笑っておどけてそこに居て欲しい。我儘なのは、重々承知している。

 『四階です』

 アナウンスが鳴って、自動で扉が開いた。私は目に見えない何かに囃されて、小走りで家に帰った。

 家の中に漂う慣れた匂いは、私の心を緩ませて目を熱くさせた。その匂いを感じながら自分の部屋にあるベッドに潜り込んだ。

 なんでだろう。お母さんも居るのに、暖かいはずなのに、凄く寂しい。今まで感じたことの無い焦りと虚しさが、部屋で一人になった隙を見て私に襲いかかって来た。

 人間って凄いのね。

 

        ✲

 

 目を開けると朝になっていた。

 布団に潜っている間に、どうやら寝てしまっていたらしい。

 スマホの時間を見てみると、もう朝の八時だった。学校は、八時二十分までに教室にいなくちゃいけない。完全に遅刻だ。

 「学校、休みたいな」

 なんて、そんなこと言ってみただけだけれど。

 重たい体を起き上がらせ、ハンガーにかけていた制服に着替え、洗面台に行き自分の姿を鏡で見る。昨日、泣きながら眠ったのか私の目は腫れていた。開ける目が重くて、開け辛い。顔を洗って目を冷ませば少しは楽になると思い、蛇口を捻り出てきた水を顔にかけた。でも、顔が冷水で強ばるだけで目の違和感は消えなかった。

 引き出しの中からヘアアイロンを取り出して、電源を入れて温まるのを待った。その間に髪の毛に櫛を通した。

 ピピッと無機質な機械音が鳴り、温まったことを知らされた。その温まったヘアアイロンを髪の毛に通し熱を入れていく。染めたことの無いサラサラとした黒髪は、通す熱に身を任せて真っ直ぐに伸びていった。

 ヘアアイロンを通し終わった髪に軽くヘアオイルをつけ、カバンと鍵を持ち家を出た。

 時刻は八時半。朝のくせに外は昼間のように暑くて、家を出てすぐに汗をかいた。登校時間が遅いのか、家の周りでは登校途中の小学生が三、四人程度の群れを作りワイワイとしていた。

 その光景にどことなく懐かしさを感じた。

 いつから友達と学校へ行かなくなったんだろう。私も、前までは仲の良かった友達数人と通っていたはずなのに、みんな彼氏だとか彼女だとかが出来てからそっちを優先にし始め、いつしか恋人のいない私だけが取り残されるようになった。

 学校でお昼を一緒に食べようと誘おうが、放課後に遊びに行こうと誘おうが決まって回答はいつも同じ「ごめん!今日彼氏とデートなの!今度行こう」という言葉だけ。そう言う「今度」はいつ来るのだろう。

 別に怒っているわけでは無い。私たちが過ごしてきた日常に勝手に踏み込んできて、勝手に友達を奪っていく人間に嫌悪感を感じているだけ。恋人を大切にするのはいい事だ。

 もしかしたらこれも一種の嫉妬なのかもしれない。

 だって、嫉妬なり不満なり持つのが普通だろう。私は私の友達を取られた。よく分からない男と女に今までの全てを奪われたのだ。時間も思い出も、全てを上書きされてしまった。過去の記憶なんて、きっとその子の記憶にはもう残っていないだろう。そのせいで、約束も蔑ろにされてしまった。

 これは友達本人が問題なのもあるけれど、恋人という存在が居なかったら、ちゃんと約束も守られてて、そんな人間に成り下がらなかっただろうに。

 ただ私も恋人ができた時の喜びはわかる。そこがあるからまだ多少は許せている。

 駐車所を通ってみると、アキの車は無くなっていた。仕事だろうかという疑問と謎の安堵が同時に来てよく分からなくなった。

 後でちゃんと謝らなくては。

 

 そうこうして、やっと学校に着いた。

 時刻は午前九時。ちょっとゆっくり歩きすぎたかななんて思ったけれど、遅刻なんて年に数回あるかないかだったし、いっその事楽しむというプラス思考に切りかえた。

 昇降口で外履きから上靴に履き替え、職員室に遅れた旨を伝えに行く。

 トントンと職員室の扉を叩き、ゆっくりと扉を開けた。

 「一年三組の高場ウタです。遅刻したので報告に来ました」

 「あれ、高場が遅刻なんて珍しいな。具合でも悪いのか?」

 職員室の奥から出てきたのは体育教師の工藤。熱血すぎて大半の生徒から嫌われているらしい。

 「具合は別に悪くないです。ただの寝坊です」

 「高場が寝坊か!そうかそうか。まぁ、あとは担任の先生に伝えておくから、もし教室に行き辛かったら次の時間まで保健室にでもいていいぞ」

 「ありがとうございます」

 確かに、とんだ熱血野郎だと思った。声量がもろに眠気を覚ます勢いだし、無駄に暑苦しい。

 とはいえ、保健室に行く許可もなぜか貰えたので一時間だけ保健室でゆっくりすることにした。

 「先生、一時間いてもいい?」

 「あらぁウタちゃん!珍しいわね全然いいわよ。ゆっくりしてって」

 保健室の先生は相変わらず優しくて安心する。具合が悪い訳では無いと察したようで、ついでに久しぶりの再会のせいか「お菓子食べる?ジュースも内緒で飲んじゃう?」といった具合に分かりやすく先生のテンションが上がっていた。

 私は三年生に幼なじみがいる。その幼なじみ繋がりで知らない間に色んな人に名前も顔も知られていることはザラにあって、この保健の先生も幼なじみ繋がりで仲良くなった。

 後から保健室に来た理由を一々話すのも面倒だったので、先生に聞かれる前に職員室で言った話を、同じように保健室の先生に話した。

 「あら〜、そうだったの。まぁ人間誰しも遅刻の一回や二回あるものね」

 「早めに寝なかった自分も悪いけどね」

 「ううん、早寝早起きは確かに大事だけど学生の内なんて遅刻してなんぼよ。それにウタちゃんは素行も成績も悪いわけじゃないしね。あと三回くらい遅刻しても余裕よ」

 「それ、教師が言っていい言葉なの?」

 うふふ、と笑う先生の横顔は可愛くて綺麗で、まるで花のような人だと思った。

 夢を話した時も真剣に私の話に頷き、馬鹿にするようなことはしなかった。

 「そういえば、どう?小説。上手くいってる?」

 「うーん、まぁまぁかな。最近知ったことだけど、私にはお気持ち表明のエッセイ本の方が向いてるみたい」

 「あら、エッセイも素敵じゃない。素直に言葉を発せる人は、今の時代貴重よ」

 「でも、その本を出すかはまた別。ネットで炎上して嫌に叩かれたくないもの。私の考えはきっと賛否両論あるし」

 「どう転んだって、賛否両論があるのは変わらないわよぉ。何をしたわけじゃなくたって叩いて来る人はいるわ」

 「先生は、小説を書くとしたらどういうものを書く?」

 「どういうもの……。うーん、やっぱり恋愛系かなぁ。本を読んでる内にドキドキしてしまうような本を書きたい」

 先生は天井を見上げ、ほのぼのとした顔でそう言った。

 「ウタちゃんはどんな本を書きたいの?お気持ち表明以外にさ」

 「えぇ、うーん。なんだろう。何も考えずに書いちゃうからあんまりジャンルは問わないかも」

 「じゃあ、無限大の可能性があるね。書こうと思えばなんでも書けちゃうってことでしょう?いいなぁ、私も文才が欲しい」

 「文を書けるだけで文才があるとは限らないよ。私は起承転結もままならないから、作家からしたら卵にもなってない」

 昔、同じ年代の子が書いた小説を読んだことがある。その子の小説は起承転結、文の構成、言葉の使い方など全てが完璧だった。大人びた文章を見て、とても同い年だとは思えないほど圧倒された。

 「私好きだけどなウタちゃんの本。言葉を隠さないでどストレートにぶつけてくるから清々しいしね。その清々しさを好きな人は少なからずいると思うよ」

 「先生が、私の最初のファンね。ありがたいわ」

 「作家になったら私が最初にサインを貰うわね。色紙を買ってこなきゃ」

 「気が早いよ」

 うふふっと笑う先生はとても楽しそうだ。私も、先生と話すのは楽しい。いつでも親身に話を聞いてくれるし、何せ否定から入らない。ちゃんとした理屈を元に話をしてくれるからこっちも理解がし易いし納得しやすい。

 こういう人間が、上手く人生を謳歌していくんだろうな。

 「あ、そういえばね」

 「ん?」

 先生は何かを思い出したかのように声を出し、手に本らしきものを持って私に近付いてきた。

 「これ、三影さんの本じゃない?随分前に出た本だけれど、持っていなかったらウタちゃんにあげようと思ってたの」

 「三影の?本、全部廃止になったんじゃ」

 「それがね、知り合いのお店に行ったらまだあったの。店主の人が取っておいてくれたんだって」

 「そう、なんだ」

 三影は年の離れた幼馴染だった。お母さん同士の仲が良くて、必然的に私達も仲良くなった。作家をしており、三影の部屋には沢山の資料と本が置いてあった。

 でも、二年前の冬。

 私の誕生日の前日に三影は自殺した。

 死ぬ前に何かを悩んでいた素振りはなかったし、口に出していたことさえなかった。本当に、静かに、そして独りで寒い部屋の中で死んでいった。

 三影の遺体のすぐ横に遺書が落ちていたそうだ。その遺書の中には『俺が死んだら、俺が書いた本はこの世から全て消してくれ。燃やすなりなんだりして、俺の存在を消して欲しい』と書かれていたとお母さんは言っていた。ごめんなさいと何度も何度も書き殴っていたと。

 その遺書は、涙痕と血液で滲んでいたという。この事件が起こってから、三影の本は遺書通りに販売を停止し、世の本屋から次第に無くなって行った。もちろん、まだ持っている人は私含め沢山いるだろうけれど、その人たちが売らない限り買えない状態になっている。

 「三影さんの事を応援していたファンの一人だったんだって。私が話をしていたから、ウタちゃんのことも知ってて。その子に渡してくれって」

 「これ、三影の部屋のどこを探しても見つからなかったの。ありがとう先生」

 「うん!」

 三影が部屋に残して逝った書籍は全て私が引き取った。何十と積み重ねられた三影の作品の中に唯一これだけは入っていなかった。誰かが取ったとかでも、無くしたとかでもなく、この本だけは完成品を出版社から敢えて貰わなかったのだ。

 その理由は明白。そばに居続けた私だから分かる。

 三影はこの本をそもそもにして出す気がなかったのだろう。パラパラとページをめくって読んでみたけれど、三影が書くような文章じゃなかった。子供じみた、幼稚な文章。

 分かりやすく言うと、小学生の夏休みの絵日記のような。今日はどこへ行った、誰と遊んだ、すごく晴れていた。その程度の文章。

 きっと、これは三影の日記。日記を原稿用紙に連ねて行って、それが担当に見つかり、出版をするしか無かったのだろう。こんな本を三影が認めるはずがないもの。

 「三影は、どんなを顔してこれを書いていたのかな」

 「私も少し中を読んでみたの。でも、意味不明な言葉の羅列で埋まっていて、相当悩んでいたのが分かったの。ほら、ここ読んでみて」

 先生が本をめくり、文章を指でなぞり読んだ。

 「お天道様がキラキラしています。僕の中の僕は傘をさしています。雨は止みませんでした……って」

 人間味溢れるその文章は、吐き気がするほど生々しい。三影には何が見えていたのか。

 「何か出来ること無かったのかな。気付けなかったものかな」

 「最後の最後まで作家として生きた。最後まで誰にも言わずに、作品だけを残して作家として死んで行った。格好いいじゃない。三影さんは」

 先生は言葉を少し溜めて、それに、と続けた。

 「それに、何かをしてやることが逆に、三影さんの負担になったかもしれない。この世界に残って、生きて欲しいとせがまれて仕方なく生きていくことは、三影さんにとっては生き地獄だったかもしれないし。ただ手を合わせることが、私たちに出来る最後の弔いなんじゃないかなって思うよ」

 「だったら良いんだけどね。来世では幸せに生きていて欲しい」

 「そうね」

 キーンコーン。

 一通り話が終わった頃、授業終了のチャイムが鳴った。私は元々一時間しかいるつもりがなかったから、本を受け取りバッグを持って保健室を出ようとした。

 すると、先生に引き止められた。

 「ウタちゃん。ウタちゃんはとても良い子だから、人のことを考えすぎて、自分を責めてしまうこともあると思う。自分のせいでって何かができていたらって。でも、全部ウタちゃんのせいじゃないから、あまり自分を責めないようにね」

 先生から放たれた言葉が、ズケズケと心臓の内部に踏み込んできて私に痛みを与えた。常に自分のせいだと思って生きてきた。人が居なくなるのも、友達や家族を泣かせてしまうのも全部私のせいだって。

 三影が死んでから、父親が居なくなったあの日からずっと思ってた。

 でも、先生の言葉で少し、ほんの少しだけ楽になった。気休め程度の安心感だけれど、それでも助かった気がした。

 「気を付けるよ」

 「うん、行ってらっしゃい。お昼の授業、頑張ってね!」

 「うん、頑張る」

 扉の前まで送ってくれた先生にハイタッチをし、二階にある教室に向かった。

 休憩時間だからか教室の前にあるロッカーに人が溜まっていて賑やかになっていた。その人混みの中から、小さな女の子がこちらに向かって走ってくるのが見えた。

 「ウタ!おはよぉ!珍しいね遅刻?」

 「あ、うん。ちょっと寝坊しちゃって」

 勢い良く、髪の毛を二つに高く結んでいる杏菜が私の体目掛け飛び込んできた。その衝撃で軽くバランスを崩す。

 「今日来ないのかと思ったよー、びっくりしたぁ!あー!聞いて聞いて三年生の先輩がね!」

 嵐のようにさっきあった事であろう話を聞かされ、話すことに満足したのか「次の授業がんばろーね!」とだけ言い、杏菜は教室にいる別の友達の方へと去って行った。

 いつも急に始まる話には慣れたつもりでいたけど、結局、杏菜の勢いと圧に押され、負けてしまう。話してもらえている内が花なのだろうけど。

 「全員席座れー、出席とるぞ」

 数学担当の先生が号令をかけ教室が静まった。その後、出欠確認をし終わって、本格的に授業が始まった。

 私の席は窓際のため、外で体育の授業をしている人たちをずっと眺めていた。隣のクラスの男子がサッカーで点を取ったらしく、ウォー!と言った歓声が窓越しにも聞こえてきた。

 外を眺めている間、私の頭の中は三影のことで一杯で、授業の内容はほとんど覚えていない。リンカーンが何たらって言ってた気がする。気が付いたら授業は終わっていて、お昼休みになっていた。

 生憎私には、一緒にお昼を食べるような仲の友達はいないため、いつもこの時間は図書室に篭っている。今日もいつもと変わらず、使った教科書をロッカーにしまいバッグを持って図書室に向かった。

 「先生、失礼しまーす」

 今日も相変わらず人が居なくて静かだな。先生も、滅多に人が来ないって分かってるから、私が来るまでは図書室の奥にある小部屋にいることが大半だ。

 「先生?」

 小部屋の扉を開け呼びかけてみると奥の方から、はいはいと声が聞こえた。

 「あらあらウタちゃんおはよう。さぁさぁ中入って」

 小部屋の中には物が散乱していて、倉庫のように狭い。私は置かれているソファに腰を掛けた。

 「おはよう。何してたの?」

 「いやぁね、三年生の先生等が授業で使う資料が欲しいってんで探してたんだよ。あんな古びた資料使う人なんていないから、どっかやっちゃって困ってたんだ」

 「手伝おうか?」

 「いいやいいさ、幾ら探しても見つからないものは見つからないからね。先生たちには諦めてもらうよ」

 「いいの?それ。怒られない?」

 「あんな資料使わなくたって、今じゃネットですぐに見つけられるからね。先生たちは気取ってるんかなんだか知らんが、昔のものを引っ張り出して使わせようとする。時代じゃないってんだよ」

 愚痴愚痴文句を言いながら、先生は木製の椅子に座ってコーヒーを一杯飲んだ。確かに今の時代に資料集を使うなんてちょっと古いけど、それって紙の小説も同じこと言えるんじゃないかと悶々とした。

 「それで言えば、小説も今や電子が主流になってるし、資料と何ら変わりないんじゃない?」

 「本はね、紙だから味が出るんだよ。電子の薄っぺらい物じゃなくて、重さと、一枚一枚の紙から出る匂いを感じながら読み進めるのが良いのよ。資料なんて、学校じゃ大したことに使わないし、電子で十分」

 「へぇ」

 開いてる小窓からぬるい風が私の髪の毛を揺らしながら流れている。先生の開いている小説が、ペラペラと音を立ててめくられていく。

 「そういやウタちゃん、今日は珍しく遅刻したんだって?」

 「え、先生にも伝わってるの?」

 「そらそうよ。滅多に遅刻しない子が遅刻してきたってんなら職員室で話題になるのはごく当たり前のことだもの。で、なんで遅刻したの?」

 「大きな理由は無いよ。職員室の先生にも言ったけど、本当に寝坊しただけ」

 「遅くまで勉強でもしてたのかい?」

 「昨日は勉強はお休みしたの。やる気が起きなくて」

 「はっはっ、まぁそんな日もあるさ。待ってて、今飲み物を持ってきてあげる」

 先生は机の隣にある冷蔵庫から小さなパックのジュースを取り出して、ほいっと私に投げ渡した。子供用のぶどうジュースだ。

 「先生、子供いたっけ」

 「それ前に甥っ子がうちに来てさ、テンション上がりすぎて沢山買っちゃって余ったんだよね」

 「私子供用の食べ物とか好きなんだよね。子供用って食べやすく作られてるから抵抗感もないし」

 「分かるよ。あたしもたまに食べると美味しいって思う」

 パックにストローをさして一口飲んだ。昔飲んでいたからか口馴染みがあるこの飲み物は飲みやすく、味も美味しい。

 「ねぇ先生。三影の本ってどこかに残ってない?」

 「三影?あったかなぁ。ちょっと検索してみる」

 そう言ってパソコンを開き、図書室内にある本を検索してくれた。その画面を横から覗き私も一緒に探した。

 「三影……、三影……。あ、もしかしてこれかな」

 画面に映し出された名前をクリックして、なんの本があるかを確認した。

 「この人?」

 「あ、これ!どの棚にある?」

 「確か、この本は本棚から抜いたんだよ。どこに置いたっけな。捨てずに保管はしてるはずだよ」

 「ここにある?」

 「んー、どっかの箱に入ってるかな。そこの下にある箱の中見てみて」

 先生が指さした段ボールに付いてあるガムテープを剥ぎ、段ボールの中を探してみた。横並びに題名が見えるように仕舞われた本を隅から隅まで探した。でも、三影の本は見つからなかった。

 「入ってないや」

 「あれー?じゃあどこやったかな。パソコンに名前が入っているから処分はしてないはずだけど。なんで探してるの?」

 「もしかしたら、私が知らない作品があるかもしれない。三影と私幼馴染なの」

 「あらそうだったの!じゃあ、三影さんに頼んで頂いたら?」

 「三影は、もう居ないよ。二年前に死んじゃった。三影の作品はほとんど私が預かったんだけど、一個だけ私も持ってなかった本があってさ。まだ私の知らない作品があるかもしれないと思って」

 「そうだったの……。デリケートなこと聞いちゃってごめんなさいね。もう少しでチャイムも鳴っちゃうから、私が変わりに探しておくよ。見つけ次第渡すね」

 「ううん、いいの。ありがとう」

 飲み終わったパックをゴミ箱に捨てて、先生に挨拶をしてから図書室を後にした。

 図書室から出たあと、何故かはぁとため息が出た。何に対してのため息なのかも、何に疲れているかも分からないため息が口から漏れた。

 その時、スマホに一件の通知が届いた。

 「アキ?」

 通知をタップして中を見てみると、一言の短い文章で『夜、話がある』とだけ書いてあった。何を言われるのだろうという恐怖が、

 一瞬体を襲った。何を返せば良いのかが分からなかったから軽いスタンプで返信した。昨日の夜に言い合いでは無いけれど、仲が少し悪くなったばかりだし、何なのだろう。

 どれだけ考えても私一人で正解が導ける訳でもないから腹を括ることに決めた。

 キーンコーン。

 「やば!」

 悩んでいたらチャイムが鳴り、小走りで教室まで向かった。

 「あ、ウター!今日全部ギリギリだね」

 「はぁはぁ、ごめん。考え事してて」

 「えぇ!大丈夫?いつでも杏菜が話聞いてあげるからね!相談してね」

 「ありがとう」

 「あ!一、二時間目の授業のノート見せてあげるよ!杏菜ね、今日はちゃんとノート書いたの!」

 得意げに杏菜はそう言って、ロッカーを開けて一、二時間目でやったであろう数学と英語のノートを渡してくれた。

 「助かる。写真撮らせてもらうね」

 「はぁい!」

 それぞれのノートを開き、スマホのカメラで写真を撮らせてもらった。杏菜の字は綺麗に書かれていて読みやすい。

 「次自習だってタカ先生が言ってたよぉ。監督の先生も居ないらしいし、やることも特にないし杏菜とお話しよ!」

 「良いけど、ちゃんとやろうね。勉強は」

 杏菜はえーっと不貞腐れたような顔をしてから渋々、分かったよと了承した。

 教室は自習だということで盛り上がっており、ガヤガヤと騒がしくなっていた。

 「これ、あんまり騒がしくすると怒られるんじゃないかな」

 「そんなの怒られてから直せばいいんだよぉ。ねぇねぇ、春夏もそう思うよね!」

 「私は静かな方が好き」

 私の席は杏菜の席の後ろにある。そして、杏菜の隣には幼馴染の春夏がいる。私と二人は中学からの仲で、杏菜と春夏は幼稚園からの仲らしい。

 「えぇー。二人とも真面目すぎるよぉ」

 「あなたが不真面目すぎるのよ。前のテストだって三つも赤点があったじゃない」

 「赤点なんて補習でどうにでもなるじゃん!ねぇ?ウタもそう思うよね?」

 「私も春夏に賛成だな。赤点取りすぎると就職で不利になるみたいだし」

 「私働かないもん!格好いい社長の彼氏作って養ってもらうもん!」

 はいはいと軽く流しながら春夏は黙々と作業を続けている。杏菜は中学の頃から、彼氏と付き合ったり別れたりを数人と繰り返していて、よく分からない。

 「てかてか!三年生に格好いい先輩がいてね!最近毎日話してるの!これ脈アリじゃない?」

 「またすぐ飽きるわよ。合わなくなったとか蛙化したとか言い出すんだから」

 「今回は違うの!ビビッときたの!」

 「毎回言ってるじゃない」

 杏菜と春夏の言い合いを見て、面白くなって笑ってしまった。この二人といるとやっぱり楽しい。

 「ってか、ウタの恋バナ聞きたぁい」

 「え、ないよそんなの」

 「絶対うそ!こんな可愛いのに無いわけないでしょう!」

 杏菜に圧をかけられ、数秒悩んでみたけれど思いつく話が何も出てこない。ワクワクしていてキラキラと輝く視線が眩しい。

 「……ないよ」

 「えぇ」

 「諦めなよ杏菜。ウタは中学の頃から恋人なんて居なかったじゃない」

 ごめん、春夏。言ってないだけで居たには居たよ。

 「そ、そうだよぉ。私が人と付き合うなんて無理無理」

 「ぜーったい怪しい」

 杏菜の鋭い推測にたまにドキりとする。恋人がいたことを隠す理由は特にないけれど、何かのタイミングで周りに広まったらと思うとなかなか言い出せない。

 「私は、杏菜の恋バナを聞くだけで満足なのよ。だからこれからも聞かせて」

 「はぁ!ウタ大好き!いっぱい話すからいっぱい聞いてね!」

 「うん」

 大体、これを言うと満足するのかそれ以上の詮索はしてこなくなる。でもあまり使いすぎるのも良くないから四回に一回くらいのペースで使うことにしている。

 「あ!先輩が体育してる!」

 杏菜の言葉を合図に窓の外を見た。

 杏菜が先輩と言うのなら、多分三年生の授業なのだろう。男女別々の授業のようで、それぞれ別のことをしていた。

 「杏菜が良いって言ってる先輩ってどれなの?」

 「あれ!あの肩組んでる人」

 「あ、気になってるってハヤくんの事だったんだ」

 杏菜が指した人を見ると、それは幼馴染のハヤテだった。もっと早く名前を聞けばよかったな。

 「え!ハヤくんって、もしかしてウタとそういう関係だった……?ごめん!私取ろうとしたわけじゃ……」

 「いや違う違う。幼馴染なの」

 杏菜に変な誤解を生ませてしまったことを反省して、必死に弁明をした。保育園からの仲だという事と、昔からの名残でハヤくんと呼んでいることを話した。

 「なぁんだ!安心したぁ」

 「ごめんね急に。驚かせたよね」

 「私もごめん!早とちりして!」

 お互い納得をし和解をした。これからは、杏菜の前ではちゃんと先輩って言おうと決めた。

 「おい!少し騒がしいぞこのクラス!」

 隣の教室で授業をしていた先生が来て、クラスに怒声を上げた。その瞬間、騒がしくしていた生徒が一斉に静かになった。

 「なんですかこの騒がしさ!今何しろって言われてるんですかね?」

 先生の問いかけに誰一人答えないのが癪に障ったのか、壁にファイルを叩きつけ大きな音を出した。

 「何してるかって聞いてるんですけど!それさえ答えられないのに騒がしくしていたんですか?今君ら何歳?先生が居なかったら騒がしくしていいって考えてるんですか?」

 「違います……。すみませんでした」

 一人の男子生徒がみんなの代わりに謝ってくれた。それに感化されて、周りの生徒達も次々に「すみませんでした」と謝罪をした。

 「はい。次は、同じことを繰り返さないでください。じゃあ、各々自習に戻ってください」

 それだけ言って、先生は自分の教室に戻って行った。先生が見えなくなってから、教室にいる生徒たちが小声で話し出した。

 「え、まじ怖くね」

 「やべえって、てか邪魔すんなよな」

 「楽しんでたのにまじ最悪」

 各々、先生に対して愚痴を言っている。杏奈も小声で文句を言い出した。

 「怒りすぎじゃない?」

 「だから言ったでしょう。怒られる前に静かにした方がいいって」

 「ウタの言う通りよ。自習の時間に騒がしくした方が悪いわよ」

 「それは確かにそうだけど……」

 杏菜は不満気な顔をしながらも、納得したようだ。

 「まぁ、外にいる先輩でも見て落ち着きなよ」

 先生に怒られたのなんて久しぶりだな。毎度、理不尽な怒られ方をしていたから反発精神があったけれど、今回ばかりは騒がしくした私たちが悪いので、特に反発もない。

 あともう少しで今日の授業も終わるし、あと少しの辛抱か。

 「ウタ、作文の書き方を教えて欲しいんだけれど良いかしら」

 国語の課題で作文を書かなくてはいけないらしく、文章の構成の仕方が分からないと春夏が私に聞いてきた。

 「何についての作文なの?」

 「教科書の内容を読んでみての感想。でも私、感想を書くのが苦手だからよく分からなくて」

 「余計な言葉を交えるといい感じに埋まるよ。例えば、私はこの作家の小説を読んでみて、とても面白く、そして同時にとても悲しいと感じました。とか」

 「なるほど」

 キーンコーン……。

 春夏に教えていた途中で最後のチャイムが鳴った。授業が終わったため、各々荷物をまとめて帰宅して行った。

 「続きは明日しようか」

 「うん、ありがとう。帰ろうか」

 「あ、私は保健室寄るから先に帰っていいよ」

 「え!ウタ大丈夫?具合悪い?」

 「ううん。保健室の先生に話があるから行くだけよ」

 「そっかぁ、また明日ねウタ」

 「うん。また明日」

 杏菜と春夏を見送って、私は保健室に向かった。授業が終わったからか、廊下は帰宅する生徒で混雑していた。

 「あ、ウタ」

 「おぉ、ハヤくん」

 「今帰り?」

 「ううん、保健室行くの。ちょっと先生に用事があって」

 「あぁそうなの。帰る時、気をつけて帰んなね」

 「うん、分かった」

 部活の友達と群がっていたハヤくんにお別れを言い、保健室の扉を開けた。

 「ウタちゃん!お疲れ様」

 保健室には屯している女子生徒で溜まっていた。私はその人達から離れた場所に座り、話が終わるまで待った。

 待っている間、朝に先生から渡された三影の本をバッグから取って表紙を眺めた。

 「あと気をつけて帰るんだよー」

 「はーい!」

 話が終わったのか、女子生徒が次々に帰って行った。

 「お待たせウタちゃん」

 「元気ね。先輩たち?」

 「そうよ。二年生の子たち。すごく元気よねぇ。授業どうだった?」

 「ものすごい怒られた」

 「あら、どうしたの?」

 「今日、自習だったんだけど騒がしくしすぎたみたいで隣のクラスの先生に怒鳴られたの」

 「あらぁ、それは確かに怒られちゃうね。ちゃんと謝ったの?」

 「うん。ちゃんと自習してくださいって言って帰ってった」

 私の言葉を聞きあははっと先生は笑った。先生の笑っている姿を見たら何故か一日の出来事がどうでも良く思えてしまった。

 二人向かい合って椅子に座り、朝の続きの話をした。

 「図書室に行って、三影の本を探したの。パソコンに本があるって記録されてて、探してみたんだけど見つからなかった」

 「本棚には無かったの?」

 「先生が本棚から三影の本を抜いたんだって。だから、図書室にある小部屋のダンボールを開けてみたんだけどそれでも見つからなくて。先生が後で探してくれるって言ってくれたけど」

 「もしかしたら、本を抜いたの前にいた先生かもしれないね。去年までいたのよもう一人」

 「もう一人?」

 「そう。今いる先生と一緒に図書室の先生をしていたの。男の人だったかな。とても本が好きな方だったの」

 「なんで辞めちゃったの?」

 「私もちゃんとした理由は分からないの。ただ、夢があるってことは聞いたわ」

 「ねぇ、その人が居なくなった後、三影の本ってあった?」

 「え?んー、いや図書室の先生じゃないから私は分からないけど。なんで?」

 「あれってさ、パソコンに取り込まないと本が無くなったことにならないと思うの。その先生が本を自由に持ち出せる立場にいたなら、三影の本を持って学校出ることなんて簡単なことだと思うの」

 三影が死んだのが二年前。小説が廃止されたのも二年前。そして、先生が居なくなったのが一年前だとすると、その先生が本を持ち出したということも容易に考えられる。

 「あぁ、なるほどね!明日図書室に聞きに行ってみようか」

 「そうね」

 時計を見ると、完全下校の時間に近付いていたため、私は保健室にさよならをし下駄箱に向かった。

 下駄箱に流れてくる風は、昼間とは変わり涼しくなっていた。落ち葉が風に遊ばれカサカサと音を立ててる。その音を聞いて風情だなんて思った。

 確か、三影は枯葉を一枚拾い、その枯葉を押し潰しフィルムに挟んで栞にしていた。本に挟む栞は季節によって変わっていた気がする。私があげた紅葉の葉を挟んでいるのを見た時は、幼いながらに凄く嬉しくなったのを覚えている。

 二人で公園に行き、溜まっている落ち葉を拾って、私の両手いっぱいに集まった落ち葉を三影の頭からパラパラと落として遊んだり落ち葉に飽きたらどんぐりを拾ったりして、帰り道が分かるように。と、落としながら歩いていた気がする。

 どれだけ季節が過ぎたって、思い出だけはその季節に取り残される。春には春の思い出が、夏には夏の思い出が、巡り巡って私へと帰ってくる。何年経とうが消えない大切な思い出。

 人は一瞬で消えるくせに、記憶だけは何年も残るせいで人は前に進めないし、進もうとしても所々でその記憶が通せんぼうをしてくる。人が死んだら記憶が無くなる機能とかができればばいいのに。

 学校を出て少し歩くと近くに小さな公園があった。少し寄ろうと、公園に続く低い石の階段を上り公園の中に入った。辺りはまだ気温的に昔のように沢山葉が落ちている訳ではなかったけれど、所々にポツポツと小さな葉が落ちていた。

 まだ暑いせいか、葉は緑色の部分が多くて到底枯葉とは言えない。でも、いずれこの葉っぱも時間が経てば枯葉になるのだろう。

 落ち葉の周りにはどんぐりも落ちていた。その中から一つを選び手に取った。昔はもう少し大きかったはずなのに、今は手の平に収まるほど小さい。

 また会えたら、なんてことをたまに思う。前に進まなきゃいけないことも、思い出に取り残されているのが私だけなのも、分かってはいる。

 「消えないんだよなぁ……」

 「おーい!」

 背後から聞き馴染みのある声が聞こえた。それはどんどん私に近付いて来ている。

 「ウター!奇遇だな!」

 ハヤくんだ。

 「帰ったんじゃなかったの?」

 「サッカーの練習してから帰ろうと思って一人でずっと自主練してた。ウタはなんで公園来たの?家反対方向でしょ」

 「色々考え事してて、公園に行ってから帰ろうかなって。葉っぱも色変わり始めてるし読書とかもいいなって」

 私もなんでここにいるのかはあまりよく分かっていない。ただ、何も理由がないのもそれはそれで詮索されると思い咄嗟に嘘を付いた。

 「へぇ、じゃあ一緒に練習付き合ってよ」

 「少しならいいよ」

 「うっしゃ!」

 分かりやすくハヤくんは喜んだ。サッカー少年特有の爽やかな笑顔をしながら、行くよと私の手を引いた。

 サッカーがしやすい広い砂場まで連れていかれ、地面にボールを置いてパスの練習を始めた。

 ハヤくんとサッカーをするのは中学生ぶりだ。高校に入ってからは部活なり塾なりで忙しかったらしく、ろくに顔さえ見ていなかった。

 「ねぇウタ。そろそろ好きな人の一人くらいは出来た?」

 ボールのパスを回しながら、ハヤくんにそう聞かれた。

 「まだあんまり好きだとか分かんない。誰がかっこいいとかもよく分かんない」

 「そっかぁ。ウタらしいや」

 「そう言うハヤくんはいるの?」

 ハヤくんに蹴ったボールがハヤくんの横を通り過ぎて行った。いつもならどんなボールでも取ってくれるのに。

 「ごめーん!変な方向行っちゃった」

 声を掛けても、ハヤくんは地面を見たまま一歩も動こうとしなかった。仕方がないと思い、フェンスまで飛んで行ったボールを私が走って取りに行く事にした。

 数秒走って、やっとボールの所まで辿り着いた。砂を被って少し白くなったボールを手に抱え、ハヤくんの場所まで向かった。

 「はい、ボール。大丈夫?今日、もしかして具合悪かったりする?」

 私の声に反応を示さず、数秒の沈黙が流れた後にやっとハヤくんが口を開いた。

 「いるよ、好きな人」

 なんだ、言い渋ってたのはそんなことかと思い、私は特に気にも留めなかった。

 「そうなの?先輩とか?」

 「ううん、違う」

 「じゃあ、二年生とか?」

 「違うよ」

 もしかしたら相手は杏菜かもしれないと勝手に期待をした。二、三年生の誰かじゃないのなら充分、希望はあると思ったからだ。

 「もしかして!杏菜だったり……」

 「ウタだよ。俺はウタが好き」

 私の言葉を遮りながらそう言った。

 勢いで言ってしまったのだろう、ハヤくんの顔は茹でダコのように真っ赤だ。

 「ずっと好きだった。保育園の時、すげぇ可愛い子だなって思って、それから小学校上がって、ウタがどんどん綺麗になってって。疑問が確信に変わって。ウタが入りたい高校がここだって言ってたから花高に入った」

 止まらないハヤくんからの告白に、ただ頷くしか無かった

 「俺の中心はウタで廻ってる。俺と付き合ってください」

 頭を下げ、左手を私の方に伸ばした。

 「ごめん。あんまそういうの分かんないしハヤくんをそういう目で見た事もない」

 間髪入れずにそう返事を返した。

 いや、だって付き合って何をするの?

 私は全部避けてきた。最後に行き着く場所を見て吐き気がしたから。どれだけ顔がいい人でも、数百年に一度の美女だとしても全部全部断ってきた。今までの恋愛で痛いほど学んできた。

 触れない女に男は興味が湧かない。いつでも自分を避けずに触らせてくれる女しか求めていない。

 ハヤくんもそうだ。

 前に、教室で話しているのを聞いたことがある。どの女とヤリたいだとか、あの女の胸を触りたいだとか。私は好きでもない男の性処理道具になどなりたくない。

 「でも、ハヤくんのこと好きだって言ってる女の子はいるよ。かっこいいって。わたしにはよく分からないけど」

 「別に、他の女に興味ない。あいつらはどうせ俺を顔で見てる」

 その言葉を聞いて、何かの糸がプツンと切れた音がした。あぁ、そうか。この男は、自分は誠実に思ってますよって顔するんだ。女を体でしか見てない男が、一丁前に他人からの評価には平気で口を出すんだ。

 「女を体でしか見てない男に言えることかな」

 「は?」

 「結局ヤれれば誰でもいいもんね。馬鹿みたいに、女の胸にしがみつければそれで満足だもんね。そんな男が、他人からの評価を一丁前に清算すんなよ」

 「はぁ?いつ俺がそんなこと言ったんだよ!誰でもいいとか一回も言ってねぇだろうがよ!」

 「軽いんだよね。言動も行動も。下心ありますよって顔で女に近付いて、その女に振られたら負け犬みたいに群れ作って値踏み始めて。本当に弱い男だね。昔から思ってたよ」

 言い合いは数分続き、図星を突かれすぎたのか、次第にハヤくんの口調も荒くなって行った

 私とハヤくんの言い合いの声に心配をしたのか、「大丈夫ですか!」と心配をして駆け寄ってきてくれた人がいた。ヒートアップして止まらなくなったハヤくんを見て、その人が学校に連絡を入れてくれたらしく、少し経ってから生徒指導の先生が来るという大騒動になった。

 「はぁ、男が女の子相手に何マジになってんの。大会が近いから最近のお前の素行不良にも目を瞑ってたけど、今回ばかりはもう無理だから。お前はもう大会にも出さん」

 「はぁ!いや、先に煽ってきたのはこいつで……」

 「これだけでそこまでするわけねぇだろ!お前の普段を見て言ってんだよ!何、俺悪くないですみたいな顔してんだよ!何人もの女の子から話来てんだよ!」

 やっぱり、被害者は数名居たようで。ハヤテは日頃の行いと今回のことが重なり停学処分になるそうだ。

 「高場、大丈夫だったか?」

 「はい、私は全然」

 「そうか良かった。ハヤテは俺と一緒に一旦学校に戻るから、高場は気をつけて帰るんだぞ」

 「はい。ありがとうございました」

 駆けつけてくれた先生と私たちの間に入ってくれた方に深く頭を下げ、私は公園を後にした。

 すっかり、夕方になってしまった。

 公園から家までの距離は三十分ほど。どうせ夜に会うし、アキに迎えにでも来てもらうか。いや、仕事中か。

 悩んだ末に、連絡だけ入れることにした。無理だったら無理で自力で帰ればいい。

 『仕事終わってる?時間あったら学校近くまで迎えに来て欲しい』

 分かりやすいように位置情報も送ってスマホをポケットにしまおうとした時、ブブッとバイブ音が鳴った。

 『すぐ行く』

 

        ✻

 

 近くにいたのか意外とすぐに迎えが来た。

 「ごめんね」

 「いや、いいよ。ちょうど仕事終わりで通るとこだったから」

 話してみれば案外普通なもので。変に気を遣わなくていいし、なんなら会話は弾んだ。

 「なんかね、俺も思ってたよ。あぁ、こいつはクズだって」

 「なんで分かるの?」

 「俺もクズだからかなぁ。同じ匂いがしたんだよ、初めて会った時から」

 「そう」

 「でも何もなくて良かった。ってか本人に直接言えるとか肝据わりすぎでしょ」

 ゲラゲラと笑いながらアキはそう言う。

 確かに、今思えば結構な事を言った気がする。言葉を発していた間はただ怒りに任せていたから何を言ったかも覚えていないけど。

 「もう何を言ったのかも覚えてない。私もハヤテも必死になってた」

 「いいじゃん。かっけぇよウタ」

 「なんで?」

 「誰もあいつに言えてなかったから。女の子が可哀想だとかお前は間違ってるだとか全部。でもそれをウタは真正面から言えたんだろ。鬼かっけぇじゃん」

 初めて言われた。

 自分の意見を話してかっこいいだなんて。意見を話すといつも冷めた目で見られた。空気が読めないだとか、人とズレてるだとか。

 それでもこの男はそれをかっこいいと言うのか。

 「かっこいいって思うの?私が正しいって思うの?」

 「当たり前でしょ。誰にも出来なかったことやり遂げたウタはかっこいい。正しい判断だったよ」

 真っ直ぐに向けられた言葉が、優しくて暖かい。大きな体に包み込まれたような安心感が私を満たしていく。

 「正しかったなら良かった」

 「なぁに、ニコニコしちゃって」

 アキに言われて自分が笑っていることに気が付いた。窓に反射して映った私の表情は緩み、ほころんでいた。

 「このまま海見に行こうか」

 「うん」

 日が沈み、暗くなっていく世界を横目で見ながら車を走らせた。仕事があーだ人間関係がこーだなんて下らない話をしながら海まで辿り着いた。

 「ウタ、車降りて空見てみ」

 先に車を降りたアキが指を上に立てながらそう言った。私もシートベルトを外してドアを開け外に出た。

 言われた通りに空を見上げてみると、空一面に星が広がっていた。

 「綺麗」

 「海だと建物も無いし光もないから星が綺麗に見えるんだよ。ほら、あの星が夏の大三角。上がベガ、左がデネブ、そして右がアルタイル」

 星の形に沿って、指を動かしながら星の名前を一つずつ教えてくれた。何度も星の形を目で追って心の中で名前を繰り返した。

 アキは砂浜に続く階段の一番上に座って、ポケットからタバコを取り出してカチャカチャとライターで火を着けた。私もアキの横に座り、ただじーっと海を眺めた。

 「次は冬の大三角見に来ようか。凍えながら星の名前教えてあげる」

 アキは体を震わせる動作をして、ニッコリと笑っている。それを見てふふっと声が漏れた。

 「次も夏がいいな。凍えるの嫌だもん」

 「二人で体寄せて、寒いねって言いながら星見るのもいい思い出になると思うんだけどなぁ」

 「そうなんだろうけどね。体寄せ合うのは海じゃなくていい」

 「まぁ、それもそうか」

 海は好きだ。

 何も考えなくていいから、どれだけ大声で泣いても騒いでも、波の音がかき消してくれるから。今だって、何も話さなくたって波がその間を繋いでくれてる。

 「ウタはさ将来の夢とかあるの?」

 「小説家」

 「めっちゃすげぇじゃん!なんで小説家なりたいの?」

 なんで、と言われても。

 「追い越したい人がいるの」

 「作家さん?名前は?」

 「三影。もう、作品が残ってるとこ少ないよ。多分、ほとんど無い」

 「なんで?」

 どう言おうか。アキは大人だから、きっと誰かの死なんて深くは考えない。でも、言わせてしまったって罪悪感を抱かれるのもそれはそれで嫌だ。

 「……死んだ。二年前に」

 やっぱりアキはハッとした。焦っているのか、タバコを思いっきり吸って口から煙を吐き出した。

 トントンとタバコを指で叩いて灰を下に落とした。その灰が、まだ熱を持って赤く照らされて地面に落ちる寸前に灰色で覆われた。

 「なんか、ごめん。嫌な事聞いたな」

 「いいよ。もう慣れたし。私別に深く考えてない」

 命もまた、タバコの灰と同じ。

 灰になったから落とすだけ。三影は長い長いタバコを数十年かけて吸い終わった。光の灯らない灰をどんどんと落として行って、吸う場所がなくなってしまった。

 端まで頑張ったのだ。貰ったタバコを無下にしないよう、吸えるギリギリまでタバコを吸って、灰皿に捨てたのだ。

 三影の中心にあった灯りは、灰と共に朽ちた。

 「私ね、必死に考えてたの。なんで死んじゃったんだろうって。死ぬような素振りは無かったし、ニコニコ笑ってた。でも分かったの。あの笑顔が合図だったんだって」

 誰にも言わず、何も嘆かず、バレないように笑ってた。楽しいとかつまらないとか関係無しに、ひたすらに笑ってた。

 不思議には思ってたんだ。笑う度に三影の纏う空気が重く澱んでいたのを。私はそれを見て見ぬふりをした。

 「本当に死にたい人って、人前では笑うのね」

 「察されることが苦痛なこともある。死ぬ準備が整った時に、逝かないでなんて止められたらその方が地獄だよな」

 三影の書く小説は、必ず主人公が死んでいた。死に方は様々、首吊りや切腹、飛び降りや他殺。なんでだろうって思ってた。なんで主人公なのに死んでしまうんだろうって。

 

 『ねぇ三影。何で主人公を殺しちゃうの?主人公は生きてるのが普通じゃないの?』

 『主人公補正とか要らないから。現実の世界だって、主人公が死んで行ってるでしょ。本の中の人間だけ幸せになり続けるのは俺は許せない』

 『変なのぉ!』

 『あと、最後に死んだ方が人生っぽい。そこで終わりなんだこの話はって思えるし』

 『分かった!三影は拗らせ君なんだ』

 あの時、三影に言った言葉は正解だったのか。はたまた不正解か。

 『お前みたいなガキは覚えたての単語を使いたがるからな。ろくに意味も知らないで使ってるんだろう。浅はかな知識を振りまくと舐められるぞ』

 違うよ三影。三影に教えて貰えるから、わざと馬鹿な子どもの振りをしていたんだよ。

 『ウタは浅はかなんかじゃないもん!ちゃんと国語だって勉強してるもん!』

 『じゃあ、俺からウタに宿題出してやる。原稿用紙に内容は何でもいいから小説を書いてみろ』

 『小説?ウタが?』

 『これも国語の勉強だ。期間は一ヶ月。この三十日で書き終われ』

 そう言った時の三影の笑顔は本物だったと思う。どうせ無理だろって決めつけたような顔に腹が立って、その課題に了承した。

 『一ヶ月で書き終わればいいんでしょ?こんなん余裕よ』

 『一、二枚書いて終わりじゃないぞ。起承転結を意識して書け。まぁ、五十枚書けたら良い方じゃないか』

 『なんで、そんなにウタに小説を書かせようとするの?』

 『特に意味は無い。ただ、そんなに本が好きなら、読む側だけじゃなくて書く側も知っておいていた方が良いと思ってな』

 『これ書けたら、小説家なれる?』

 『お前の努力次第だな』

 三影に認められているような気がして嬉しかった。この時からだ、私が作家を目指し始めたのは。

 『小説家なる!小説家になって三影よりも凄い人になる!』

 『ウタ』

 『んー?』

 『もし、道に迷ったら‪‪‪‪✕‬‪‪✕‬という人を訪ねろ。俺なんかよりも凄い人間だ』

 『三影には頼っちゃダメなの?』

 気付けばよかったのだ。小さな、本当に小さな違和感に。三影の纏う空気の変化に、少し震えた声に。

 『俺じゃなんも教えられん。真っ当に生きてさえないから、正しい道を教えることも出来ない。俺じゃなくてそいつの元へ行け』

 『分かった』

 『……あと。俺の本、お前にあげるよ。もう要らないから』

 『本当?下にあるやつも全部?』

 『あぁ、全部』

 『やったぁ!』

 その二日後、三影は死んだ。

 課題を終わらせる暇もくれずに、三影は消えてしまった。

 第一発見者は三影の旧友だったそうだ。連絡をしても返って来なかったらしく、心配になり三影の部屋に行くと、部屋の中は真冬なのに窓を開け、外から入ってきた雪が地面に軽く積もっていたそう。その雪の下、机に突っ伏した状態で三影は血を流し息絶えていたそうだ。

 私が三影を最後に見たのは、棺に入り静かに目を瞑って眠っている姿だった。三影を発見した旧友は、葬式にも火葬場にも来なかった。

 三影の死はニュースになり、全国で大々的に取り上げられた。このネット社会、心無いことを言う人も勿論居た。誰これ、とわざわざ言う人も。

 その誹謗中傷は、ネットの世界だけじゃなかった。

 『晴美さんのご子息だとか。親不孝者よねぇ、親より先に死ぬなんて。事故ならまだしもね』

 『本当よねぇ。しかもご実家でよぉ。自分の実家を事故物件にするなんてね』

 『作家だったんですって。大した職にも就かないでフラフラ生きた挙句自殺だなんて、どこまで身勝手なのかしら』

 本人に言えないくせに、群れを作ってコソコソとしているおばさん達が憎かった。それでも親族かと腹が立ち、必死に拳を握って我慢していた。

 三影は凄い人だ。誰に何を言われようと、良い人生を生きた。かっこいい男なんだって言ってやりたかった。なんなら、握った拳でそいつらを殴ってやりたかった。

 『ウタちゃん、来てくれたのね。ありがとうね。ごめんね、ごめん』

 三影のお母さんは泣いていた。そりゃそうだよね。自分の息子が死んだのだ。泣くのが当たり前だよね。

 『晴美おばさん。ウタね、作家になろうと思うの。三影が残して行った道を代わりに進もうと思うの』

 『うん。うん。あの子もきっと喜ぶわ。ありがとう、ありがとう……』

 晴美おばさんは私の体を強く抱き締め、声を抑えながら静かに泣いた。私も晴美おばさんに釣られて泣いた。二人で身体を震わせながらお互いを励まし合った。

 「止めたかった訳じゃないの。行かないでって泣きたかった訳でもなくて、せめて消えるのなら言って欲しかったの」

 「静かに消えるなんて、そんなかっこいい死に方ないよ。人間誰しも心のどっかでは助けて欲しい、止めて欲しいって思ってる。でもそれを言わなかった三影さんは男として完成されてる」

 「せめて、第一発見者は私でありたかったな。冷たくなった体を抱き締めてあげたかった。死んだことを後悔するくらいに暖めてやりたかった」

 「はっはっ、そうだな」

 旧友。三影が唯一教えてくれた人。なんだろう、なにか引っかかる。

 「あ、アキの夢は何?」

 「俺の夢かぁ。んー、なんだろうな。億万長者とかか」

 「ふざけないで答えてよ。真面目に聞いてるんだからさ」

 わりぃわりぃと笑いながら言って、新しいタバコを口に咥えて火を着けた。

 「夢なぁ。真面目に言うなら、普通の家庭を持ちたい。普通に、真っ当に生きることが俺の夢」

 「そんなの簡単じゃない?」

 「それが案外難しいんだよ。普通って」  「へぇ」

 段々とさざ波の音が大きくなってきた。心做しか海の水位も高くなってきた気がする。

 「満潮か。帰ろうか、そろそろ」

 「うん」

 座っていた階段から腰を上げ、アキの車に戻った。シートベルトを締めて、車に置きっぱなしだったスマホを確認した。

 「げっ」

 「ん?なんだそんなカエルみたいな声出して」

 「お母さんから心配のライン来てた。悪いことしちゃったな」

 「今お母さん帰ってきてんのか」

 「うん、昨日かな。帰ってきてすぐ寝ちゃったけど」

 「へぇ、久しぶりに見たんちゃう」

 「うん。久しぶりに見た。二日間だけ休み貰えたらしいから良かった」

 「一応、俺といることと今帰ること伝えておきな」

 「そうする」

 お母さんに謝罪文を送り画面を閉じた。

 心配するのは仕方ない。時間はもう夜の八時だし、ずっと連絡が無かったんだ。それに私が夜に家から出るなんてこと、今までは無かったから。

 「また、寂しくなったら家来なよ。それが言いたかっただけなんだ今日は」

 「そんなのラインで良かったじゃない」

 「直接言いたいじゃん。こういうことは。あと普通に心配だった。気悪くして病んでんじゃないかって」

 「あれくらいで病まないよ。私が悪かったんだし」

 「ウタは悪くないよ。そのままの真っ直ぐなウタで居て」

 大人は全ての罪を被ろうとする。私が悪いのに私を責めない。きっと許されているのは私だけじゃない。

 ハヤテの件もそうだ。今まで大人が罪を被り被害者に頭を下げてきた。いつか私も、ハヤテのように許されなくなる。お前が悪いと真っ直ぐにぶつけられる日が来る。

 「変なの」

 

 気が付けば見慣れた景色に囲まれていた。私の匂いが付いた布団に、資料の山。

 「私の部屋?」

 「そうなのよ。忙しくてね」

 「ウタから話は聞いてます。すごい喜んでましたよ帰ってきたって。ウタは、口には出さないけれどちゃんと嬉しがってました」

 お母さんとアキの声がリビングの方から聞こえる。盗み聞きをしてしまったという罪悪感で中々部屋から出れない。

 「あの、一つ聞きたいことがあって。三影さんって方の事なんですけど」

 三影?なんでアキがそんなこと聞くのだろうと思い、ドアの前に静かに行き、息を潜めて会話を聞いた。

 「そろそろ気になってくる頃だと思ってたよ。どこまで聞いたの?」

 「素晴らしい作家だったと聞いてます。あと、二年前に亡くなっていると」

 「そこまで知ってるなら話は早いわね。そう、三影君は二年前に死んでる。遺書をどれだけ読んでも理由は書いてなかった」

 「遺書の内容をウタは知ってるんですか」

 「いいえ、知らないわ。三影君のお友達が遺書を持ち帰ってしまったの。だから私ももうほとんど内容は覚えていないし、どこにあるのかも分からない」

 「そうだったんですか。てっきり、ウタも遺書を読んでるものだと思ってました。すごく寂しそうな顔をして話をしてくれたので」

 「そりゃ、ショックだったでしょうね。三影君から宿題を貰ったから頑張るって意気込んでた直後だったから」

 「ウタは追いかけようとしています。三影さんの後ろを追って作家になろうとしています。俺は夢は勿論応援したいです。でも、夢が叶ったからと、あの世まで追いかけたらどうしようって思うんです」

 初めて聞いたアキの本音に目が丸くなって下を向いた。私は、夢が叶ったら三影の元へ逝こうと思っていたから。心を読まれたような気がした。

 「私は確かに、あの子が居なくなったら寂しいし後悔する。でも、こんな家庭でこんな生活でも頑張ってここまで育ってくれた。三影君の元へ行くことがあの子のゴールなんだったら、私は止めない」

 「なんでですか!普通は止めるでしょう。虚像で映し出された人間の元へ行ってしまうかもしれないんですよ」

 「幸せになってくれるならそれでいい。あの子の人間嫌いは半分私のせいでもあるの」

 「何を」

 「旦那が居なくなってから、ウタの子守りに身体が持たなくなってね。誰でもいいから肩を寄せ合える人、私を救ってくれる人を探しては家に連れ込んで。ウタを放っておいてしまった」

 ずっと、それを考えて。罪悪感を抱きながらお母さんは生きてた。それに私も気が付いていた。

 好きな人も、気になる人さえも聞いてこなかった。私が恋愛に嫌気が差しているのにお母さんもまた、気が付いていたから。

 「ダメな親の元で必死に生きてくれた。帰ってきたら、おかえりって笑顔で出迎えてくれた。私は幸せを与えられてないのに、ウタからは沢山の幸せを貰った。これ以上、あの子に求めるものは無い」

 「俺は嫌です。あなたがどれだけ死ぬことを許そうが、俺は手を掴んで地の底まで助けに行きます。ウタに罪がないように、あなたにも罪は無い」

 「暁仁君があの子を生かしたいと言うのならば私は止めない。でも、生かすからには最後まで責任を持って、投げ出さないことを誓って」

 「勿論、生涯をかけてお護りします。あなたの代わりになれるよう、精一杯生きます」

 「なら安心できるよ。ありがとう。ウタを愛してくれて」

 お母さんとアキの会話が上手く理解できなかった。

 お母さんの代わりって何?

 生かすって何?

 生涯をかけるって一体何なの。アキは私にとっての何なの。

 なんの話しをしているのかを直接聞きたいけれど、体がそれを拒否している。ドアノブに手を掛けることを制止している。

 「ウタには、言わないつもりですか」

 「言わなくてもきっとバレるわ。あの子は勘も良いし、人をよく見てる子だから」

 「なにか俺に出来ることありますか」

 「私は何も要らないわ。だから、ウタが何かやりたいって言い出したらそれを手伝ってあげて」

 「了解です」

 緊迫した空気感が薄れ、お母さんとアキの口調も優しくなった。アキとお母さんの仲が良いのは知っていたけれどまさか私の将来を任せる程だったのは知らなかった。

 アキは私の彼氏でもなんでもないのに、どうしてアキに背負わせるのだろうか。アキはなんで、その重荷を受け入れられるのだろうか。

 「すみません。疲れてるのに長居してしまって」

 「ううん、いいのよ。久しぶりに会えてちゃんと話し合いが出来たのは良かった。またいつでもおいで」

 「ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい」

 椅子が地面を擦る音が聞こえて、玄関の方からガチャッと音が聞こえた。その後に、私の部屋の方へ向かってくるような足音が聞こえ、慌てて布団に戻り寝たフリをした。

 ガチャ。

 部屋がリビングの明かりで照らされた。

 「いい人に出会ったね」

 それだけを小さく呟き、お母さんは部屋から出て行った。寝たフリをしていたから姿は見えなかったけれど、言葉からは哀愁が漂っていた。

 

        ✼

         

 ふわふわして暖かい。柔らかい羽毛布団に包まれているような妙な安心感を感じる。

 『母さん、俺作家になろうと思うんだ』

 誰の声?

 低くて、聞き覚えのある声がする。

 『作家なんてそんなもの目指してなんになるのさ。もっとマシなもの目指しなよ。普通の職着いて、普通に生きてよ』

 あれ、この声知ってる。三影のお母さんの晴美おばさんだ。

 『普通って何。俺は母さんにとって普通じゃなかったの。夢を見ることは間違ってることなの』

 『うちはただでさえお金が無いの。せめてお金がちゃんと稼げるって確定してるような職に就いてよ』

 『子供の夢より金かよ』

 ぼやけた視界の中に三影が見える。ちゃんと形を成してない、触れたら消えてしまう煙のような姿をしている。

 『母さん、俺賞取ったよ』

 『あらそう、良かったじゃない。でも、シン君に負けたんでしょう?シン君は凄いわよね。家業を継ぎながら賞取ったんだもの』

 煙の姿がどんどんと薄れて行った。薄れていく度に三影の負の感情が露になっていく。

 『三影!お前すげぇじゃん。俺、今回はさすがに負けたかと思った』

 『俺なんか別に凄くない。適当に思いついたの書いてるだけだから、シンみたいに話まとめられないし駄作しか作れない』

 『読んだけどさ、あれを適当で書けるってお前天才だな!作家向いてるよ』

 あれが、シンさんだろうか。三影より背が高くて好青年だ。褒められているのに、三影はどこか苦しそうな顔をしてる。

 『三影!俺、教員免許取った。来年から俺も教員だ』

 『へぇ、どこの高校に行くんだ』

 『花高』

 その名前を聞いた時にハッと驚いた。

 花高。私の通っている高校だ。

 『まぁ、頑張れよ』

 『おう!』

 シンさんは嬉しそうな笑顔を浮かべて誇らしげに返事をした。その反面、三影はまた少し薄れて行った。

 「三影……」

 どうにかして三影に触れようと手を伸ばそうとした時に視界がぐらつき、真っ暗になった後、目が覚めた。

 「あれ……夢?」

 窓の方に目をやると、外は青色に変わって朝になっていた。スマホの時間を見ると六時と書いていた。体が重く、あまり寝た気がしない。

 重い体を持ち上げ、部屋から出てリビングに向かった。朝はまだ日が登りきっていないからか、リビングは冷え切っていた。

 「あれ、早起きね。おはよう」

 お母さんは、ソファに座りテレビを見ていた。ネット上では不人気の情報番組が、静かな部屋に響き渡っている。

 「おはよう」

 「今日学校か。送っていこうか?」

 「いいの?」

 「いいよ。七時半くらいに家出るから準備してて」

 「はぁい」

 顔を洗うために洗面所に向かった。蛇口を捻ってお湯を出し、手でお皿を作って水を溜め顔にかけた。

 今日お母さん普通だな。そのせいで、昨日のアキとの会話はもしかしたら夢だったのかもしれないと思い始めてきた。

 あと、さっき見た夢はなんだったのだろうか。絶対に私自身の記憶じゃないことは確かだし、かと言って、誰か他の人の記憶でもないのだろう。だとしたら、三影自身の記憶なのか。

 「ウター」

 リビングにいるお母さんから名前を呼ばれて、急いでリビングに向かった。

 「なに?」

 「朝ごはん何がいい?パン?ご飯?」

 久しぶりに朝ご飯が作れるからか、お母さんは妙に張り切っている。

 「どっちでもいいよ」

 「えぇー、どっちでもいいが一番困るな」

 んーっと頭を悩ませて、冷蔵庫の中やパンが置いてある棚をガサゴソと探し始めた。

 「お母さん」

 「んー?」

 「三影の友達のシンさん?って人知ってたりする?」

 「あぁ、安東神くん?三影くんの親友で作家だったのよね。賞も何回か取ってたんだけど三影くんが亡くなってから作家をやめて、今は隠居してるんだとか。それがどうかした?」

 「家分かったりする?」

 「お母さんは分からないよ。晴美ちゃんなら分かるかもしれない。今でもちょくちょく家に来るって言ってたから」

 「分かった。ありがとう」

 「急にどうしたの?」

 「特に意味は無いよ。知りたかっただけ」

 「それならいいんだけど。あんまり余計なことに首突っ込まないようにしなよ」

 お母さんの言葉にうんと頷き、もう一度洗面所に戻った。鏡張りになった棚を開けて、中から櫛を取り出し髪の毛を梳かした。そういえば昨日お風呂に入り忘れたな。

 壁に掛かってる時計を見ると六時半になっていた。三十分でお風呂を出ても、長い髪の毛を乾かすのに十分は掛かってしまうし、どうしようか。

 結局、サッと全身を洗う事にした。温かい状態ですぐに洗えるように先にシャワーを出しておき、その間に服を脱ぎタオルを準備した。温まった頃を見計らって風呂場に入り、シャワーを体に当てた。

 のんびりしている暇もないので、髪の毛をシャワーのお湯で濡らしシャンプーとリンスを自分の手のひらで混ぜて髪の毛に乗せた。あまりガシャガシャとしないように優しく洗い、泡立った所をシャワーで洗い流した。

 髪の毛のぬるぬる感が無くなるまで洗い流したあと、ボディーソープをボディタオルの上に垂らし擦って泡立てた。充分に泡立ったボディタオルで全身を洗い、シャワーで全て洗い流した。

 時間に余裕が無いから急いで風呂場から出て、バスタオルで全身を拭いたあと下着を着けてワイシャツを着た。ビシャビシャに濡れた髪の毛をバスタオルで優しく拭き、ドライヤーで乾かした。

 乾かしながら時計を確認すると、すでに七時過ぎになっており焦りながら同時進行で歯を磨いた。大体乾いたくらいでドライヤーを止め、髪の毛を櫛で梳かし直して、部屋に戻りブレザーを着た。

 「もう出るよ?」

 「あと十秒待って!」

 学校用のカバンを持ち、ちゃんと荷物が入っているかを確認してから「いいよ!」とお母さんに言って家を出た。

 「ブレザー着て暑くないの?まだ昼間は暑いと思うよ」

 「意外とこのブレザー薄い生地なの。それに、花高はブレザー着用しなきゃいけないから」

 「夏は脱ぐの許して欲しいね。熱中症になったら大変。ちゃんと水分取るのよ」

 「うん」

 駐車場に二人で行き、お母さんの黒いワゴン車に乗り込んだ。久しぶりのお母さんの車は芳香剤のせいか匂いが変わっていた。

 「お母さん、ウタを送ってからお出かけしてくるから、帰りは自分で帰ってね。帰り遅いかもだから夜は適当なもの食べてて」

 「わかった」

 窓の外には通学途中の小学生が沢山いた。一年生なのだろうか。お母さんらしき人と一緒に手を繋いで歩いている。その一歩先には紺色のジャージを着た中学生が、数人溜まりながら歩いていた。

 あのジャージは私の母校のものだ。去年、私の代が卒業したと同時に改変されて、デザインが変わったはずだから、あれは二年生か三年生だな。

 中学生時代の思い出は少ないけれど、なんやかんや言って楽しかったと思う。具合が悪くなった時は三影が迎えに来てくれた。治ったからと嘘を付いて、よく海に連れて行ってもらった。

 「お友達と仲良くしてる?」

 「うん」

 「……そう」

 お母さんの問いかけに、無愛想に返事をした。お母さんは、昨日の夜の事を私は知らないと思ってる。アキとお母さんだけの秘密だと勘違いしている。

 「お母さん。私になんか隠してることとかある?」

 思い切って聞いてみた。疑問の回答を待つ間、お母さんの顔は見れなかった。私が思っているよりずっとずっと深い話だと分かっていたから、現実を見たくなかった。

 「もしかして、昨日の聞こえてた……?」

 「あんだけ大きな声で話してたら嫌でも聞こえるよ」

 「そっか。聞こえちゃってたか」

 「で、何なの。何を隠してるの」

 窓から目線を外しお母さんの方を見ると、お母さんはハンドルを強く握り、今にも泣きそうな顔をしていた。

 「ウタにも、いつか言おうとしてたんだけどね。お母さんね……。長くは生きれないのよ」

 お母さんの言葉に息が詰まった。そんな話今まで聞いた事無かった。

 「え、どういう事……?何それ、私、ずっと知らなかった」

 「ごめんねウタ。言う、勇気がなかったのよ。ただでさえウタに負担かけてるのに、寂しい思いをさせてるのに、ごめんね」

 「なんで、いつから?」

 「ウタが中学生の頃かな。丁度、三影くんが亡くなった頃にガンが見つかってね。三影くんが居なくなって私まで居なくなったら、誰がウタを守るんだろうって思ってね。高校生になるまでは生きようって思ったの」

 「そんな体でずっと働いてたの?」

 話をしている途中で学校に着いた。近くの道路に路駐をして、お母さんはバッグの中から通帳を取り出し、それを私に渡した。

 「これから先の生活費と学費が入ってる。ウタが高校を卒業するまで、余裕で生きれるくらいはそこに入ってる」

 通帳を開くと、三千万と書かれていた。一人で、死ぬ準備を進めていたと言うのか。

 「お父さんが残して行った借金も、随分前に返し終わってる。全部あなたのお金よ。何か困ったことがあったら、アキくんを頼ってね」

 「ちょっと待ってよ!なんで一人で決めてるのよ!なんで死ぬ前提で話すのよ」

 「元々ね。お母さん、お金を貯めた後に死ぬつもりだったの。ガンが見つかって、ウタには悪いけど、丁度いいなって思ったの。アキくんと晴美ちゃんにも言ってある」

 「意味わかんない。なんで諦めるのよ。ちゃんと病院に行ったら治るかもしれないでしょう?」

 「病院に行って高いお金を払うくらいだったらウタに貯めておきたいって思ってね。ほら、もう時間よ」

 聞きたいことは山ほどまだあるし、よく理解が出来てない。でも、世界は親子の為だけに廻っていないようで、あっという間に学校に行く時間になってしまった。

 帰ったら話をしようと言い残して車から降りた。ハザードを消して、走り去って行く車を見送ってから、高校の正門に足を踏み入れた。

 「おはようございますー。あぁ高場さん。昨日は大変だったね」

 昇降口の前には、挨拶のために立っている先生が数名居た。今日は国語担当の工藤先生が立っていた。

 「おはようございます。今日から謹慎なんですよね。ハヤテ先輩」

 「そうなの。一ヶ月間だけのはずだったんだけど、さっき謹慎って聞き付けた女子生徒達が被害を受けたって大勢で来てね。五ヶ月間に変わったの」

 「そうなんですか。まぁ良かったです」

 「ありがとうね。授業頑張ってね」

 「はい」

 先生に頭を下げ、下駄箱で靴を外履きから中履きに履き替えた。

 「ウタおはよー!遅刻するかと思って焦ったぁ」

 「おはよう」

 全速力で走ってきたのか、はぁはぁと息を切らしながら杏菜は靴を履き替えている。相変わらずのツインテールは、杏菜が動く度に左右に揺れている。

 「あ!てかハヤテ先輩って謹慎になったんだってね」

 「みんなどこからその情報貰ってるの?」

 「昨日大騒ぎになったでしょう?部活帰りの人達がそれ見てたみたいでさ。それがラインとか、インスタとかで拡散されてるの」

 「あぁ」

 「一緒にいたんでしょ?大丈夫だった?」

 「周りの人達が入って来てくれたから助かったよ」

 「良かったぁ!男はやっぱ顔だけで決めたら外れ引くって分かったよ。かっこよかったんだけどなぁハヤテ先輩」

 残念だったねと杏菜を励ましながら教室に向かった。階段を登っている間、先輩たちの主に女子生徒の視線が妙に痛いのことに気が付いた。そりゃあ、みんなのハヤテ先輩を私が謹慎にさせてしまったから、恨むことに無理もない。

 「なんかめっちゃ見られるね」

 「そりゃそうだよ。ハヤテ先輩を謹慎にさせたんだから、一部からヘイトは向けられるだろうね」

 「ウタなんも悪いことしてないのにね」

 そうだ。私は何も悪くは無いはずなんだ。人の間違いを指摘して、その指摘が先生から見ても正しいと判断されたから謹慎にされたのだ。謹慎になりたくないのなら、謹慎にされるようなことをしなければ良いだけの話だし、私がヘイトを向けられる筋合いなどこれっぽっちも無いのだ。

 「やっぱ女は苦手」

 「えぇ!杏菜も苦手?」

 「ううん。杏菜と春夏は好きよ」

 「やったぁ!杏菜もウタの事大好き!」

 私の腕にしがみつきながら、杏菜は嬉しそうにそう言った。小さな体はお人形さんのようで可愛らしい。

 ガラガラと教室の戸を開けると、教室の中にいた生徒達の視線が一斉に私に集まった。

 私の方へ女子生徒達が歩いて向かってきている。あぁ、なんか言われると身構えたけれど、内容は意外にも優しいものだった。

 「ねぇ、大丈夫だった?」

 「え?」

 「ハヤテ先輩のことよ!幼馴染だったんでしょう?何もされてないの?」

 「別に何もされてないよ。幸いにも近くに人がいたから、手も出されなかったし」

 「まさか高場さんを狙うなんて思ってなかったよぉ。先輩後輩関係無しに行ってたみたいだよ」

 クズなことは分かっていたけれど、まさかこれほどまでだったとはと驚いた。

 それに、一日の間にこんなにも情報が回るなんて。私も下手な動きは取らないようにしよう。

 キーンコーン……。

 「ほら全員席つけー」

 チャイムと同時に教室に入ってきた担任の号令で、生徒は各々の席に着いた。号令が鳴っても春夏は教室に姿を見せなかった。

 「ねぇねぇ、杏菜」

 「なにー?」

 「春夏どうしたの?」

 小さな声でコソコソと杏菜に尋ねてみた。杏菜なら何か知っているかもと思ったのだけれど、私の期待とは裏腹に杏菜も首を傾げ、何も知らないようだった。

 風邪にしたっていつもは連絡をしてきていたのに、今回は音沙汰ない。まさか事故にでもあったのではと心配になったけれど、だとしたら担任がこんな呑気にしているはずも無いと自己完結した。

 「えー、今日は先生達の会議とかでバタバタしてる。授業もまともに出来ないと思う」

 「せんせー!それって、全教科自習ってことですかー?」

 「まぁ、そういう事になるかもしれん。移動教室も今日は無し。全員、自分の教室で各々自習にする。ちょくちょく、手の空いてる先生が見回りに来るから」

 「なんで自習なんですかぁ」

 生徒からの次々に来る質問に、はぁとため息を漏らしながら先生は一つずつ答えていった。

 「お前らも知ってるように、三年生の馬鹿な先輩が謹慎になったことで、多方面から色々と苦情が来てるんだ。勿論、苦情の内容はその先輩に向けてだけれど。教師である以上頭を下げなくてはならない」

 後々話を聞いてみると、ハヤテの被害者は数十人との数らしく、ハヤテが謹慎になった事を良い事に今更、被害を受けたと学校側に通報をする女子生徒が後を絶たなかったらしい。そのせいで、教育委員会や被害者本人とその両親に対する謝罪が終わらないらしい。

 「ハヤテ先輩、顔は良いもんね」

 「あんなのに騙される方が馬鹿よ。顔だけを見て中身を見ないとこうなる。馬鹿な女が馬鹿な男に捕まっただけ」

 「やっぱウタは大人ね。考えも全部、同い年じゃないみたい」

 幼少期に無駄な知識を身につけたせいで同じ年頃の人間とは昔から話が合わなかった。そして、合わないことが段々と多くなっていって最終的には疎遠になってしまう。

 杏菜と春夏だけは私を避けないと信じていたけれど、同い年じゃないみたいと言う杏菜の顔は、私と関わり辛いという苦い表情を浮かべている。二年生に上がる頃には多分、疎遠になっている確率の方が高いと思った。

 「杏菜を馬鹿って言ってるんじゃないよ。顔だけで見てる全員含めて言ってる」

 「性格なんて二の次じゃない。ウタも最初は顔で見ることくらいあるでしょう?」

 「ないよ」

 「うっそだー!」

 「花城!うるさいぞお前!」

 「あっ、ごめんなさい」

 顔なんていつか変わるのに、そこを重要視する必要が私には分からない。今、どれだけかっこいい俳優だって、どれだけ綺麗な女優だって、老けてヨボヨボになるのが最後なのに、顔だけで選んで将来後悔したくない。

 性格は二の次。か。

 「ってことで、俺は職員室に戻るから。くれぐれも騒がしくしないように」

 そう言って、担任は教室を後にした。年頃の学生が自習なんてする訳もなく、全員ポケットの中に入れていたスマホを触り始めた。

 スマホをいじることが許されるのなら図書室に行くことも許されていいはずだろう。

 「どこ行くの?」

 「図書室の先生に呼ばれてるのを思い出したの。スマホをいじるよりいいでしょう」

 「杏菜も行こうかなぁ」

 杏菜についてこられるのは厄介だ。ここは適当な作り話をして手を引いてもらおう。

 「ねぇ知ってる?杏菜。今の図書室って人が来なさすぎて大量の虫の巣になってるんだって。蜘蛛やトカゲ、アリもいるかもね」

 「ひぇっ!そんなところにウタ行こうとしてるの……?」

 「私は虫平気だもん。じゃあ、行ってくるね」

 「虫に食べられちゃダメだよー!」

 簡単に話を信じてしまうほど単純な脳で助かった。私は杏菜に軽く手を振って教室を出た。私を見ている生徒なんて居なかったからすんなりと教室を出ることが出来た。

 図書室に向かう途中、他のクラスが目に入った。私たちのクラスと同じように先生は不在で、生徒が好きなようにスマホをいじっているのが見えた。男子生徒一人の失態で、ここまでの大人が動くのか。

 違うクラスの子達に変に見られるのも嫌なので、なるべく足早に図書室へ向かった。

 図書室に着くといつも着いているはずの電気が消えていた。ダメ元で扉に手をかけ、横にスライドをしてみると、鍵は空いているようで、ガラガラと音を出して扉が開いた。

 「あれ?」

 開けた扉を閉め、図書室の奥へと進んで行った。いつもならカタカタとパソコンのキーボードを打つ音が聞こえてくるのだが、今日は嫌に静かだ。裏で寝ているのかもしれないと思い、いつもの小部屋に向かい、ギィッと音が鳴るドアをゆっくり開けた。

 だが、そこには誰もいなかった。先生が鍵をかけるのを忘れるはずが無いし、でもこの場にいないのが現実だし。

 「先生ー?」

 何度声をかけても先生からの応答は無い。

 小部屋から出ようとした時、後ろでガタッと何かが落ちるような音が聞こえた。その音に心臓が跳ね、ドキドキと動悸が止まらなくなった。

 「先生……どっきりは、辞めてよ」

 どうせ、先生が私に何かドッキリをしようとしているのだと自分に言い聞かせ、音のした方へ恐る恐る近付いた。

 近付いた先には一冊の本が落ちていた。古い、厚さで言えばハリーポッターくらいの小説が開かれた面を伏せた状態で、床に無造作に落ちていた。

 きっと、棚から落ちかけていたんだ。声か何かの振動で揺れて落ちてしまったんだと思い、その本を拾い上げ、ついでに開かれたページを見てみた。

 見てみると、そこにあったのは文字やイラストも何も無い白紙だった。

 「え?」

 他のページはと気になって、一枚一枚、紙ををめくってみたが、どのページにも何も書かれていない。こんな本が、書籍化などされるはずもない。でも、私の目に映る本は、何度めくろうが閉じて開いてを繰り返そうが白紙のままだ。

 「ありえない……」

 「何がありえない?」

 私の背後から、青年のような若い男の声が聞こえた。驚いた反射で後ろを振り向いた。けれど、そこには誰もいない。

 「こっち」

 声のした方へ顔を向けると、そこには学ランを着た男の子が、さっきまで私が持っていたはずの本を片手に窓際の台に座っていた。

 目に軽くかかるほどの綺麗な黒髪に、赤いラインの入った上靴。

 「そんなにビビんなくていいよ。俺も図書委員なんだ」

 「あ、の……。あなたは、誰ですか」

 「あぁ、挨拶まだだったね。初めまして、一年四組の安東神です。あなたは?」

 安東、神?嘘だそんなはずない。

 「一年一組の高場ウタです」

 「なんだ、同い年なのか。じゃあ、タメでいいよ。よろしく」

 「よ、よろしく」

 幽霊……?いやでも、シンさんは生きているはずだし、差し出された手も透けてはいない。一体どういうことなんだ。

 「あの、シン……くん?は、なんでここにいるの?」

 「先生に留守番を頼まれたんだ。会議があるからって。ウタはなんでここにいんの?授業中のはずでしょ」

 「自習なの……。私は図書室の先生に用があって来たんだけど、い、居ないなら教室戻ろうかな」

 そう言い、そそくさと出口に手をかけた。が、いくら強く扉を引こうとビクリとも動かない。鍵がかかっている訳では無いみたいだし、外れかけている訳でもないのに。

 「そっからは出れないよ。てか、ウタの意思でこっから出ることは出来ない」

 その言葉にヒュっと背筋が凍った。

 安東神と名乗る男の子の目は、冷徹で冗談を言うような顔はしていなかった。

 「どういう事?」

 「制服で大体あんたも分かったでしょ。ウタはブレザー、俺は学ラン。つまり、ウタがいるはずの時代じゃないってこと」

 「何をふざけたこと……。七不思議でも、あるまいし」

 「ふざけてないよ。窓の外見てみな」

 言われた通り、ゆっくりと窓に近付き、カーテンを開き外を見た。

 「嘘。家が、無い」

 窓の外では、建てられていたはずの家が無くなり、私の知っている世界ではなくなっていた。数年前に撤去されたはずの居酒屋があったり、作り終えていたはずの家が建設途中になっていたり。

 「ね?言ったでしょ」

 「でも、なんで。私、さっきまで普通に図書室にいて、本を……」

 「俺がウタをここに呼んだんだ。この本を使ってね」

 さっきまで私が持っていたはずの白紙だらけの本を、手の上でポンポンと上に投げ自慢気な顔をして安東神はそう言った。

 「まだ、理解はできていないけど、それは一旦いいわ。なんで私を呼んだの」

 「なんでだろうね。んー、なんで。三影と俺の関係を知って欲しかった……?いや、死んだ理由を知って欲しかった?」

 「理由を知ってるの?」

 「うん。知ってるよ。三影のことならなんでも知ってる。君が知らないことも沢山ね」

 何となくマウントを取られているようで少し腹が立つけれど今はそれどころじゃない。シンさんと三影の関係を知れるチャンスだ。

 「教えて!あなたが知ってること全て」

 「俺ね、三影が大好きなの。殺したいほど大好き。三影も俺のことが大好き。でも、みんなには言えなかった」

 「そうなの……?なんで?」

 「気持ち悪がられるから。男が男を好きだなんて気色悪いって父さんと母さんに言われた。自分の子供が男が好きだなんて周りに知られたら恥ずかしくて生きていけないって」

 確かに、昔は同性愛が認められていなかった。気持ちが悪い、近寄りたくないなんて言われている動画を見たことがある。

 「でも俺、別に男が好きなわけじゃない。三影が好きなんだ。三影っていう人間が好きで、ずっと追いかけてた」

 「うん」

 「でさ、俺三影と逃げようとしたんだ。こんなクソみたいな人生捨てて一緒に居ようって。でも、三影は嫌がった。まだやりたいことがあるんだって、逃げるのはその後がいいって」

 「なんで、三影は死んで……」

 「人の話は最後まで聞きなよ。宣言通り、やりたいことを達成して、三影は小説家になった。俺も、三影を追いかけて小説家になった。それまでは良かったんだよ」

 シンさんは、そこまで言い終わった後、少しの間俯いた。泣いてる訳では無いみたいだけれど、苦しそうだ。

 「小説家って昔は誇れる職業じゃなかったんだよ。確実に売れる保証もお金が入ってくる保証もなくて。だから、三影のお母さんとお父さんは三影をずっと反対してた。こんな仕事辞めてさっさとまともに働けって」

 「酷い」

 「ここからがウタの知ってる三影の話。俺は有難いことに恵まれてた。それを見て、三影は次第に心を病んで行った。俺なんかって思うようになった。ウタと一緒にいる時だけは、頑張って明るく振舞ってたみたいだけど三影は既に限界だった」

 「作家を辞めようとしてたの?私に本を全部あげるって言ってくれたのは、そういう事だったの?」

 「いや、三影は最後まで作家だったよ。本を汚したくなかったんだと思う自分の血で。三影は死ぬ間際までちゃんと作家だった」

 シンさんの言葉に違和感を感じた。死ぬ間際?シンさんは三影の死ぬ間際を知っていると言うのか。

 「死ぬ間際ってどういう事」

 「三影は、最後まで自分で死ぬ勇気なんか持ち合わせてなかったんだよ。遺書があったから自殺に見えてただけで、実際は違う」

 「じゃあ、もしかして」

 「うん。俺が殺した」

 サッと血の気が引いていく感覚で身体が覆われた。三影が死んだ二年間、ずっと自殺だって言われ続けていた。なのに、実際はシンさんが殺したって。

 「大好きだったんでしょ?なんで殺しちゃったの」

 「大好きだからこそ殺した。頼まれたんだ三影に。俺は一人で死ぬ勇気が無いから、どうか一思いにお前の手で殺してくれって。そりゃあ俺も嫌だったよ。でも、目が本気だったから抗えなかった。死ぬ準備のできた奴に生きろって言う方が残酷だと思った」

 シンさんは、本棚に並べられている本を指で一個一個なぞりながらゆっくりと歩いていった。本棚に並べられている本はよく見ると既視感のある表紙だらけだ。

 これは、全部三影の本だ。

 「ずっと後悔してたんだ。三影が死んだ二年間ずっと。だからウタを呼んだ」

 「え?」

 「三影が死ぬ前に戻って、俺が三影を殺すのを止めて。三影を愛しているなら、俺のお願いを聞いて」

 「戻るってそんな。無理よ!タイムスリップできる訳じゃないし。それに、シンさんも言ったじゃない、死んだ準備ができた人間を生かす方がって」

 「俺はそれが優しさだと思ってたし、今でも最大の愛情表現だと思ってる。ただ、忘れらんないんだ。死ぬ前に三影が最後に言った言葉が」

 「最後の言葉?」

 「……。死にたくないって言ったんだ」

 「え」

 「本当に、死ぬ間際だよ。最後の捨て台詞にそれだけ言って死にやがった。俺の気も知らないで呑気なやつだよな」

 「だから、私に止めて欲しいってこと?過去に行って未来を変えるために」

 「そうだよ。俺と大人になった安東神はまた別なんだ。俺はこの時代から動けない。だからウタに頼んでる。三影の家も知っているだろ?」

 「知ってるけど。どうやって過去に行くのよ」

 私が尋ねると、シンさんが手に持っていたさっきの白紙の本を私に差し出してきた。

 「この本を使う」

 「そんな白紙の本で何が出来るの?」

 「この本には三影の記憶が入ってる。つまり、三影の魂だ。この魂に君が入り込むことで三影の過去を辿れる」

 「どうやって入るの……?」

 シンさんは、ふっと得意気に笑って本をペラペラとめくった。めくられていくページが途中でピタリと止まり、そのページに文字が書かれていった。

 「今、君が行きたいって行ってくれるならこのページを破って、君を過去に送る。どうする?行く?まだ考える?」

 「すぐに返事はできない。力は分かった。あと少し考えさせて」

 「おっけ。じゃあ、行く準備が出来たらまたこの本を開いて、ここへ来て」

 パンっと本を閉じ、寂しそうな顔をして本棚にその本を戻した。

 魔法を見たようなワクワクとした気持ちと私に課せられた重荷で感情がごちゃ混ぜになり、頭の整理がつかない。

 「シンくん」

 「ん?なに?」

 「三影の未来を変えたら全部変わる?三影の関わってきた人全員」

 「いや、それは保証できない。変えたい未来でもあるの?」

 「お母さんの未来を変えたい」

 「お母さん?」

 「そう。ガンで死んじゃうらしいの」

 「んー。未来が変わることは保証出来ないけど、お母さんの未来を見ることはできる。名前は?」

 「高場静香」

 さっきとはまた別の本を本棚から選んで手に取り、名前をブツブツと復唱しながらページをめくった。本の中を私も横から覗いてみたけれど、私には何も見えなかった。

 「ガンで死ぬとは書いてないし、ガンになった過去も無いよ」

 「え?嘘よ!ガンって言われたもの」

 「嘘をつかれてるみたいだね。ガンで死ぬんじゃなくて、無理心中。これ、君のお父さんじゃないかな」

 「なんでお父さんが今更。私が産まれたばかりの時に離婚して家を出て行ってるのよ」

 「離婚をしたとて仲のいい夫婦はいるからね。詳細は俺でも分かんない」

 「そっかぁ。そっかぁ……」

 ガンじゃないならそれはそれで嬉しいし良かった。でも、嘘を付かれて、おまけに出て行った父親と無理心中をするだなんて。じゃあせめて私も連れて行って欲しいと思った。

 リン……リン……。

 何やら廊下の奥から鈴の音が聞こえた。その音は段々とこちらに近付いて来ているようだ。

 「やばい、見回りが来る。とにかく、準備が出来たらまたこの本を開いて。またここで会おう」

 「え、ちょっと待って!」

 次第に視界が暗くなっていき、遂には全てが黒に覆われ、なにも見えなくなった。次に下へ下へと落ちていく感覚が身体を襲って、私の意識は遠のいて行った。

 「……ん。ウタちゃん!」

 呼びかけられていることに気が付き、目を覚ますと、そこには見慣れた景色と見慣れた図書室の先生がいた。どうやら私は床に倒れこんで意識を失っていたらしい。

 「あぁ!良かったぁ!目を覚ました」

 「せん、せい?あれ、私今何して」

 「出勤してきたら図書室の鍵が空いてて、本棚の下にウタちゃんが倒れ込んでたの。もうほんと心配したんだから」

 「あぁ。私、先生に用があってここに来たんだった。でも、居なくて鍵は空いてて」

 「鍵が空いてるはずないわよ。ちゃんと鍵を閉めて学校を出たし、夜には警備員さんが見回りついでに鍵を閉めてくれるし。誰か、他の先生が閉め忘れたのかしら」

 先生と私で意見が合わずトンチンカンなやり取りを繰り返した。パッと時計を見ると、秒針はまだ一時間目始まりたての時間を指していた。

 おかしい。そんなはずない。

 だって、シンさんとは最低でも三十分は話していたはずだし、あっちで見た時計はちゃんと進んでいた。

 「……夢だったのかな」

 「何かあった?」

 「あのね、さっき……」

 そこまで言いかけて、口を閉じた。きっと言っても変な夢を見たで終わってしまうし、何故か話してはいけない気がした。

 「ん?どうしたの?」

 「ううん。やっぱなんでもない。疲れて寝ちゃったのかも」

 「睡眠は大事よ。ちゃんと布団で寝なさいね。最低でも六時間は寝なきゃ」

 「そうね。今日はゆっくり寝るわ」

 先生はニコりと微笑んで私の周りに落ちていた本を本棚に戻した。

 「その本は借りてく?」

 「え?」

 先生の目線の先を見ると、さっきの白紙の本が私の膝の上に乗っかっていた。それを見た瞬間、さっきの出来事が夢では無いと確信した。

 「借りていこうかな」

 「あれ?学校の判子付いてないね。誰かの私物だったのかな」

 「去年居た友達が似たような本持ってた気がするから聞いてみる」

 「そう。まぁほぼ図書室の物よね!」

 「そ、そうだね」

 愛想笑いを先生に振り撒いてもう一度本を見た。好奇心から本を開いてみようと思い、バッと勢いに任せて適当なページを開いた。けれど、中はさっきの本とは違い、ちゃんと文字が書かれており、シンさんの元へ連れて行かれることもなかった。

 「おかしいなぁ」

 何度開こうが変わらない現実に私は頭を抱えた。本当に夢だったのか。

 「ウタちゃん、先生に用あったんだっけ」

 「え、あぁ、そう!聞きたいことあって」

 「答えられる範囲なら答えるよ」

 「あのさ、前に安東神って人働いてた?」

 「あぁ、いたよ安東さん。もう背も高くてすごくイケメンだった。それがどうかしたの?」

 「この学校の元生徒だったりする?」

 えぇー、っと頭を悩ませて、先生は何やら資料を取り出した。内容はどうやら生徒の名簿のよう。

 「いつの時代だろうねぇ。安東……安東」

 「あと、もう一つ聞いていいかな。昔、学校の中で怪談話とかあった?下校時間が過ぎたら鈴の音を鳴らしながら見回りに来る、とか」

 「鈴ぅ?うーんあったかなぁ……ん?あ!一個だけあるよそんな話」

 「どんな話?」

 「『学校参りの警備員さん』って言うんだけど、最終下校時間を過ぎて学校に残ってる人や授業をサボってる人に鈴を鳴らして警告するの。教室に戻りなさい。学校を出なさいって。見つかったら連れて行かれてしまうって噂よ」

 「連れてかれるってどこに?」

 「それは警備員さんに直接聞かなきゃ分からないわよ。そういえば、知らない間に聞かなくなったわね」

 警備員さん。私を素早く元の世界に帰したのは私が連れていかれないためってことか。でも、シンさんの世界の時計を見た時は、まだ最終下校時間じゃなかった。ということはシンさんは授業をサボって図書室にいたのかな。

 見つかっていないといいけれど。

 「あぁ!あったあった。安東神。三年間、部活にも委員会にも所属してなかったみたいね。っていうか、この子だいぶ不真面目だったのね」

 「なんで?」

 「ほらここ見て」

 先生にそう言われ、指さされた所を読んでみた。『欠席日数 二百十五日』と書かれていた。一年の半分以上を休んでいる。

 「でも、不真面目だったのは一年生の間だけみたいね。二年生からは欠席も少なくなってる」

 「本当だ。あ、三影の名前」

 安東神と書かれた名前の下を辿ると三影の名前があることに気がついた。三影もまたシンさんと同じくらい欠席日数が多い。

 「二人一緒に休んでいたのかしら。いいわねぇ青春じゃない」

 先生は椅子の背もたれに体重をかけ腕を伸ばし伸びをしながらそう言った。シンさんと三影は常に一緒にいたのだろうか。図書室にいたのはシンさんだけだったけど、どういうことなんだろう。

 それに、委員会にも所属してなかったって言ってたわよね。最初、シンさんは確か図書委員って言ってたはずなのに。

 シンさんに聞きに行きたいけれど、準備が出来たらもう一度って言われたし、変に期待させるのも悪いよなぁ。

 「そういえばウタちゃん。時間大丈夫なの?一時間目終わっちゃうわよ」

 「自習だからって図書室に居たらなんか言われちゃうかな」

 「そっか、今日は自習か。居たいなら居ていいわよ。やることも無いでしょう?」

 「担任に見つかったら面倒臭いことにならない?」

 「何か言われたら私が言っておいてあげるよ。手伝ってもらってましたって」

 「ありがとう先生」

 図書室内の空いている席に座り、手にずっと持っていた白紙の本を眺めた。こんな、ファンタジーの世界観でしか見た事がないことを現実で体験するなんて有り得るのかしら。

 もし、ファンタジーの世界観に沿っているのなら、白紙のページにメッセージを書けば返事が来るはず。どうにか先生にバレないようにしなきゃ。

 パソコンに目をやっている先生の姿をチラチラと確認しながらバッグの中から筆箱を出し、本のページを開いた。さっきまであった文字は消え、白紙になっていた。人に見られている状態では文字が浮き出るようになっているのだろうか。

 私は恐る恐るシャーペンで文字を書いた。

 『ウタです。シンくんに幾つか聞きたいことがあります』

 文字を書き終わっても特に異変は起こらなかった。何も起こらないことに安心して肩を落としふぅっとため息を吐いた。

 流石に書きっぱなしにしてはいけないと思い、消しゴムでその文字を消そうとした時、何もしていないのに私の文字が薄くなり消えていった。

 「え?」

 文字が消えた直後に、私の文字よりも濃い筆圧で『なに?』という返事が浮かび上がってきた。私はその光景に、驚きと恐怖で吐き気がした。

 返事、返事返さなきゃ。

 『図書委員って嘘だったんですか。さっきの鈴の音の正体は何なんですか。そもそも、あなたは一体何者なんですか』

 『図書委員って言わなきゃ怖がると思ってさ。咄嗟に付いた嘘だよ。鈴の音は、君もさっき先生に聞いただろう?先生の言う通り怪談の一種だよ。あと、さっきも言ったけど俺は安東神の昔の姿だ」

 『なんで、私が先生に聞いた事を知ってるんですか。あと、シンさんは死んでもいないのにどうして地縛霊のようにあなたはそこにいるんですか』

 『この図書室は俺のテリトリー。時代が変わろうと俺には全てお見通し。俺のことは地縛霊だと思ってもらって構わない。まぁ、地縛霊って言うか生霊って言うか。俺の後悔からできた負の感情が今の俺を作った。聞きたいのってこれで終わり?』

 何度文字を読み返しても不可解な現状に理解ができない。えぇっとつまり、シンさんが死んで霊になっている訳じゃなくて、シンさんの後悔が大きくてそれが霊的なあれで形を作った。ってこと?

 『とりあえず、何となく分かっていないけど分かりました。ついでなんですけど、勝手に未来を変えるって良い事なんでしょうか。アニメや漫画、ドラマでよく見る、自分に降かかる代償とかってないんですか』

 『ないよ。あんなんただの作り話で演出だから』

 『あともう一つだけいいですか』

 『なに?俺も暇じゃないんだけど』

『前、図書室から三影の本を一冊持ち出したのはあなたですか』

 『あぁ、その話か。そうだよ。他人に三影の本を取られるくらいならって俺が持ち出した』

 『分かりました。ありがとうございます』

 最後にそう書くと、さっきまで書かれていた文字が全て消えていった。ペンの書き跡も無い、まっさらな状態に戻った。

 不思議と気付かない内に恐怖はどこかへ消え去っていて、未来を任されているというワクワク感と特別感で、妙に張り切っている自分がそこにはいた。

 今日、三影の家に行って晴美おばさんにシンさんの居場所を聞こう。決断はきっとそれからでも遅くは無いはず。

 「熱心に本なんか読んで先生感動しちゃうわ。最近の子はすっかり本を読まなくなっちゃったから」

 仕事が一段落ついたのか、先生が紙コップにジュースを入れて持ってきてくれた。隣に座って肩を回す先生はなんだかお疲れのようだ。

 「仕事多いの?なんだか凄くやつれてる様に見えるから」

 「案外、図書室の仕事って多いのよ。古い本は処分しなきゃだし、ちゃんと本があるか一冊ずつ確かめなきゃだし」

 「なんか可哀想ね。前まであった本が、次見た時に無いなんて」

 「でもしょうがないのよねぇ。新しい本を入れる時に古い本が邪魔になっちゃうから多少は捨てなきゃ」

 「寄付はしないの?」

 「出来るものはしてるよ。でもね、わざわざ本を手に取って読む子が少なくなってきてるから、需要も徐々に無くなってきちゃってね。寄付先も中々決まらないのさ」

 「へぇ」

 なら私に頂戴。なんて無責任なことを言う勇気もなく、モヤモヤを心に残しながら陳列されている本棚をただ眺めることしかできなかった。作者が頑張って書いた本がいずれ棄てられてしまうなんて、残酷な世界。

 私も小説家の卵だから、本を書く大変さは知っている。最低でも何枚が目安だとか、それを書き終わるのにどれくらいの日時を使うのかとか。努力が水の泡になっていくようで苦しいな。

 「ウタちゃんが本を好きなように、この世界のどこかに同じように本が好きな人が居ることを願うしかないね」

 「きっといるよ」

 「ふふっそうね」

 ピーンポンパーンポーン……。

 『全校生徒に連絡です。本日は先生方が忙しく、学習も難しいため三時間目が終わり次第、帰宅してください。繰り返します……』

 学校中にアナウンスが響き渡った。図書室から一番近い教室から「よっしゃー!」といった歓声が聞こえてきた。

 「ねぇ先生。一人の生徒だけにこんなに先生が総動員することあるの?」

 「あぁ……。いや、ちょっと問題が立て込んでてね」

 歯切れの悪い言い方で先生は答えた。何かを隠しているのはすぐに分かった。

 「何が立て込んでるの?」

 「個人情報だから流石のあたしでもそこまでは言えないよ。でも時期にわかるんじゃないかな」

 先生があまりにも気まずそうな顔をするから、これ以上は聞かないことにした。聞いても、どうせ子供の私には理解ができない難しい話なんだろう。

 「もう帰ろうかな」

 「早退?用でもあるの?」

 「急ぎじゃないけど、なるべく早く行かなきゃいけない所があるの」

 「そうなの。職員室行くついでに早退の届け出してあげようか?」

 「本当?助かる」

 「じゃあ、一緒に下降りましょうか」

 コクリと頷き、荷物を持って先生に着いて行った。私の一歩先を歩く先生の背中は心無しか小さく見えた。ちゃんと先生の姿形を見るのは初めてかもしれない。

 「先生って身長いくつ?」

 「急ね。確か、百六十行くか行かないかくらいだった気がするよ」

 「意外と高いんだね」

 「そう?そう言うウタちゃんは何センチなの?」

 「百五十七くらいよ」

 「もっと高いかと思ってたよ。可愛らしい身長ね」

 「でしょう?私はもう伸びなくていいと思ってる。今の身長に十分満足してるから」

 ははっと下らない話で笑い合いながら昇降口まで向かった。外は風が一切吹いていないようで、だいぶ過ごしやすそう。

 「ありがとう先生。送ってくれて」

 「ううんいいのよ。次はちゃんと寝てから学校に来るのよ?」

 「はぁい。七時間は睡眠を取るようにするよ」

 「ふふふっ。じゃあ、あとは気を付けて帰ってね。担任の先生には言っておくから」

 「うん。じゃあまた明日」

 「また明日」

 先生に手を振り、私は外へ先生は職員室へと別れた。

 こんな早くに学校から出るなんていつぶりだろう。みんなはあと一時間残っているし、杏菜に帰るって言い忘れちゃったな。後でラインしておこう。

 三影の家は学校の近くだからすぐに着く。ただ問題は晴美おばさんが家にいるかどうかだな。居なかったら後日?いやでも、それだと時間がかかりすぎちゃうか。

 『ガンで死ぬとは書かれていないよ』

 ふと、シンさんに言われた言葉が頭を過った。シンさんの言うことが仮に本当なのだとしたら、なんでお母さんは私に嘘を付くんだろう。ガンって言えば私が止めないとでも思ったのだろうか。アキは、全て知っていたのだろうか。

 

        ✼

        

 学校を出てから数分歩いて三影の家に着いた。晴美おばさんの車はあるしどうやら家にいるようだ。

 「ワンッワンッ」

 ピンポンを押そうとした時、番犬として飼われているハンナがワンワンと鳴きながら私に飛びついてきた。

 「あははっくすぐったいよハンナ。久しぶりに会ったのに覚えててくれたのね」

 「ワンッ」

 小さめな体が特徴的な豆柴のハンナは、美味しいご飯を沢山食べたのかムチムチとして丸くなっていた。前はスリムだったのに。

 「あらっ!ウタちゃん!」

 ハンナの鳴き声に気が付いたのか、家の中から晴美おばさんが出てきてくれた。相変わらずの花柄のエプロンが懐かしい。

 「久しぶり……です」

 「やだぁ!こんな大きくなって……」

 晴美おばさんは勢い良く抱きついてきて、私を強く抱き締めた。少し困惑しながら私も晴美おばさんの体を抱き締め返した。こんなにやせ細ってたっけ。身長も、今じゃ私の方が高い。

 「急に来てごめんね。聞きたいことがあったの」

 「いいのよぉ!なんならもっと来て欲しいくらい!さぁさぁ、中入って」

 家にお邪魔するつもりじゃなかったけど、晴美おばさんの好意を無下にすることも出来ず、渋々家にお邪魔することにした。

 家の中は昔と大した変わりはなかった。昔からずっと置いてあるビー玉は、埃も被っておらず、綺麗に手入れされているのが分かった。一つだけ変わったことがあるとすれば、線香の匂いがすることくらい。

 「ごめんね。来るって知らなかったから何も用意できてないんだけど」

 そう言いながら、ガラス製のコップに麦茶を入れてくれた。

 「全然、気使わなくていいよ。連絡してから来ればよかったね」

 「サプライズだよぉ。おばさんびっくりしちゃった」

 「三影に線香あげていい?」

 「うんうん!してあげて」

 線香の匂いを辿り三影の仏壇を見つけた。

 仏壇の前には、生前、三影が好きだったお菓子や飲み物が置かれていた。遺影の中の三影は楽しそうに笑っている。

 線香の入れ物から線香を一本だけ取って、香炉にそれを刺してライターで火をつけ、チーンっとリンを鳴らし、手を合わせた。心の中で、今まで来ていなかったことを三影に謝り、近況報告やこれから起こることを三影に伝えた。リンが鳴り止むまで目を瞑り、手を合わせ続け、鳴り止んだ所で目を開け手を下ろした。

 「きっとみーくんも喜んでるわ」

 「ならいいな」

 お茶が置かれたダイニングテーブルに戻って木製の椅子に腰掛けた。晴美おばさんも私と対面に座り、お茶を飲んでいる。

 「晴美おばさん。私が聞きたいことなんだけどさ」

 「んー?そんな改まっちゃってどうしたのよ」

 「安東神さんの事なんだけど知ってたりする?」

 「あぁ、シンちゃんのこと?ええ知ってるわよ」

 「家とか知ってたりしない?」

 「家ならすぐ近くよ。ほら、そこに公園があるじゃない?あそこら辺に住んでるけど、シンちゃんに何か用なの?」

 「聞きたいことがあってさ。色々。地図書いてもらってもいい?」

 「そういうことならシンちゃんの家まで送っていくわよ。シンちゃんとウタちゃんって面識がないでしょう?私が紹介してあげる」

 「ほんと!ありがとう」

 「うん!」

 夢で見た晴美おばさんとは全く違う、優しい大らかな人だ。やっぱりあれは夢でしかないのかな。今日、学校で色々体験をしたから全てが繋がっているような気がしてしまう。

 晴美おばさんの車に乗り込みシートベルトを締めた。ここからシンさんの家は近いらしく、何から話そうかと考える時間は与えられなかった。

 「シンちゃん居るかしらね」

 そう言いながら、車は古いアパートの前に停車した。随分年季が入っているようで、外に付いている階段の塗装は、半分以上剥がれかけていた。

 「ここの端っこの部屋だった気がする」

 「え、間違ってたらどうするの」

 「大丈夫よ!私の記憶力はまだ良いから」

 自信満々に言いながら、晴美おばさんは部屋のドアをトントンと叩いた。間違えてませんように。

 ガチャッ。

 「はい?」

 ノックをしてすぐに背の高い男がドアを開き現れた。

 「ごめんねぇシンちゃん」

 「ん?あぁ、おばさんか。どうしたんだ」

 「この子!ウタちゃんって言うんだけどねどうしてもシンちゃんに会いたいって言うから連れてきちゃった!」

 「ウタ……?」

 私の名前を聞いた瞬間、シンさんの顔が少しだけ曇ったような気がした。一応念の為に私も気を張ってよう。

 「初めまして。高場ウタって言います」

 「……安東神です」

 「二人で喋った方がいいわよね!おばさんは一旦家に帰っておくから、終わったら連絡して!シンちゃん、手は出しちゃダメよ」

 「出さないよ。こんなガキンチョに」

 「じゃあ、あとは頼んだね」

 おばさんが車に戻り、シンさんと二人きりになった。どうしようか、何も話してくれないし気まずい。

 「外にいたら目立つから中入って」

 「あ、はい。お邪魔します」

 無愛想に言葉を吐くシンさんは、本の中のシンさんより暗くなり、闇を感じた。やっぱり、三影の存在が大きかったのだろうか。

 部屋の奥に進むと、本棚が壁一面に広がっていた。そういえば、自分の本で沢山の賞を取ったって言ってたっけ。

 「お前が知りたがってることは大体分かるよ。三影のことだろ」

 「……!そうです」

 「一から話した方がいいか、それとも半分は知ってるのか」

 「半分は知ってます。でも、それが本当に正しい話なのかは分からないので、直接聞きに来ました」

 シンさんは深く息を吸って、思いっきり吐き、畳の床にあぐらをかいて座った。

 「じゃあ、知りたいことを聞いてこい。答えてやる」

 「三影とあなたの関係を教えてください」

 「今の言葉で言うなら友達以上恋人未満、それか両片思いってやつ」

 「付き合ってはなかったんですか」

 「そりゃあ、環境が良ければ付き合ってたさ。でも、周りは今より理解がなくてね。俺はまだ良かったけど、三影が周りからの目に耐えられなくなって、付き合うことは断念したんだ。次は?」

 「これは、個人的に気になったことなんですけど、『学校参りの警備員さん』って怪談話をご存知ですか」

 「あぁ。知ってるも何も、あれは俺が適当に広めた嘘の話だ。昔、本で見たことがあったんだ。怪談の噂が回ればその噂に沿った怪異が現れるってね。それがどうしても試したかったんだ」

 「あれって、シンさんが作った怪異だったんですか!」

 「え?何会ったの?」

 「あ、えいや。会ったって言うか、今でも学校で噂が回ってて。最終下校時間を過ぎても学校にいたって子が鈴の音を聞いたって言ってて」

 「へぇー。面白いなそれ」

 「今じゃ、警備員さんに見つかったらどこかに連れていかれてしまうって噂です」

 「だいぶ誇張されて広まってんのな。俺はそこまで言ってなかったけど」

 さっきより少し表情が明るい。楽しんでくれているのなら嬉しいけれど、この顔がどんどん曇っていくのは怖いな。

 「あと、大本命なんですけど。三影の遺書ってシンさんが……」

 「燃やした」

 「へ?」

 食い気味にそう言うシンさんに体が強ばった。鳥肌が立ち、髪の毛さえ逆立ってしまうほどの冷気をシンさんの目から感じた。

 「だから、燃やした。遺書の中身なんて御託でしかないし、そもそも三影は死んでないし」

 「死んでないってどういうことですか」

 「三影はいつまでも俺の中で生き続けてるってこと。三影の血肉は俺の体の中に流れながら分解を続けて、いつの日か俺と三影は一つになった。三影の血はすごく甘いんだ。まるでスイーツを食べているかのようだった」

 血肉が体の中にって。シンさんは三影を食べたってこと?

 幼い頃に見た記憶が鮮明に蘇った。心臓。三影の遺体の中には心臓が無かった。くり抜かれて、その時にできた傷跡は縫われていたって。目、片目もそうだ。三影の体の一部が無くなっていたんだ。

 「目。片目をくり抜いたのはシンさんですか」

 「そうだよ。本当は両目を抉り取ってやろうって思ったんだけど、三影が片目は残して欲しいって言うから」

 「なんで、そんなことが出来るんですか。大切な人に、なんで刃を向けれるんですか」

 「好きだから。好きだから俺だけのモノにしたいし、俺だけを見ていて欲しい。三影に目なんかいらないんだよ。汚いものを目に映して三影が穢れるくらいなら目なんて無い方がいい」

 「サイコパス……」

 「失礼だなぁ。俺はただ三影を守っただけだよ。汚れていく事しか出来ない、三影を認めてあげられないこの世界から解放させてあげたんだ。それなのに、遺書にはお前の名前が書かれてた」

 床を強く叩き、その振動が体に伝わった。逃げ出してしまいたい。このままこの場にいたらシンさんは私でさえ殺す勢いだ。私は、触れてはいけないシンさんの怒りに触れてしまったのだ。

 シンさんは私の目の前に擦り寄って、さっきよりも低い唸り声のような声で言葉を吐いていく。

 「なんでだろうな。俺の方が三影を愛してる。三影も俺を愛してる。でも結局、俺には手紙さえ残していかなかった。あいつはあいつをを苦しめた人間宛に手紙を連ねた」

 「し、シンさんの目的は、何なんですか。何をしたら、満足できるんですか」

 「三影を苦しめたヤツら全員を殺す。三影の母親も父親も賞を与えなかった審査員もみんなみんな殺すまで俺は辞めない。そして、最後にはお前も殺す」

 恐怖で身体が震え今にも泣きそうだ。シンさんの圧が、一つ一つの言動全てが悪魔のように恐ろしい。一個でも間違ったことを言えば、すぐにでも殺されてしまいそう。

 「俺はただ純粋に三影を愛してる。三影を殺したあの日だって変わらずに愛していた。でも俺らの愛は誰にも認められなかった。普通の男女の恋愛と同じように愛し合っていただけなのに、俺らははぐれ者として扱わられた。お前には分かるか?この屈辱が」

 「わ、私も同性の子と付き合ったことがあります。確かに否定もされました、気持ち悪がられました。でも、私たちは気にせずに愛し合っていました。シンさんと、私が、同じだとは言いません。でも、きっと、他にもやり方は、あっ、たと思います」

 「ただのお子様の恋愛じゃないんだよ。俺らはお互いを呪い合いながら生きてきた。周りがどうだなんだのを気にしてたのは三影だけだ。俺は、あいつといられたら何でも良かった。百パーセント、完璧に俺の物になってくれたらそれで満足だった」

 「なら、それを三影に伝えたら……」

 「でもあいつは!俺の前で死にたいって言いやがった!だからお望み通り殺したんだ!いつもあいつを最優先にして生きてきた!望あいつが望んだものは全て俺が与えてきた!だから、願いを叶えてやるためには殺すしか無かったんだ」

 シンさんは、ゆっくりと肩を落とし涙を流した。シンさんはシンさんなりに、考えて考えて悩んで苦しんで。最終的に出た答えが殺すことだったと、少年のように泣きながらそう言った。

 勿論、人殺しには変わりないし、私の大切な人間の命を奪ったことは許せない。でも、シンさんは私以上に三影を愛してた。不器用なもの同士、手を取り合って、一本の縄を二人で息を合わせながら歩いてきたのだろう。

 人殺しを肯定する訳では無いけれど、好きな人からの「死にたい」という言葉は心にくるものがあったろうに。

 「作家を辞めたのは、三影を殺してしまったからですか。作家を辞めることが、あなたにとって、せめてもの贖罪で償いだったんですか」

 「三影の居ない作家人生なんて、何が面白いんだ。三影がいたから、三影が一緒に作家になりたいって言うから、今まで必死にやってきたんだ。でもそれが、その必死さが三影を殺す原因になった」

 どこもかしこも三影の書籍で埋まったこの部屋にいることは、シンさんにとって苦痛にはならないのだろうか。三影に囚われ続けて息苦しくはないだろうか。

 「三影が生きていたら、三影にもう一度会えたら、シンさんは救われますか。三影を救うことが出来ますか」

 「そりゃ、救われるさ。三影のこともちゃんと守って、死にたいなんて言わせないように努力するよ……。帰ってきて欲しいよ」

 シンさんの言葉を聞いて、やっと過去に行く決断ができた。過去に行って、未来が変わって三影が生きていてくれるのなら、シンさんが手を汚すことが無くなるのなら、私に託されているのならば行こう。

 過去を変えたら、もしかしたらお母さんも笑顔で生き続けてくれるかもしれない。本の中のシンさんは、代償も無いって言っていたしみんなが救われるのなら。

 「シンさん、お話聞かせてくれてありがとうございました。シンさんのおかげで私も決意が付きました。シンさんと三影のことは私が守ります」

 「何言ってるかわかんねぇけど、別にお前に守られなくたって俺らは生きていける」

 「はい!」

 

 晴美おばさんに一通の連絡をして、シンさんの家で迎えを待たせてもらうことにした。

 来た時と同じように、晴美おばさんはすぐに来てくれ、シンさんに手を振り車に乗り込んだ。

 「お話たくさんできた?」

 「いい話を沢山聞いたわ。私も頑張らなきゃ」

 「良かったね。今度、シンちゃんの家にお菓子を持って行ってみんなでお茶しましょうか!」

 「いいね。楽しみ」

 バッグの中にある不思議な本をぎゅうっと抱きしめた。発動条件は分からないから、直接本に書き込んで、合図を出そう。

 決行は今日の夜。

 家に帰って、ちゃんとご飯を食べてからにしよう。

 「またおいで。次は美味しいお菓子とジュースを用意しておくから」

 「楽しみにしておくね。家まで送ってくれてありがとう」

 晴美おばさんの好意に甘え、結局家まで送って貰ってしまった。今日は学校を早く出たから、時間はまだ昼過ぎだ。

 晴美おばさんの車を見送り、ボーッと立ち尽くした。私に課せられた大きな課題に恐怖が無い訳ではないし、もし戻って来れなかったらっていう不安も勿論ある。

 そもそも、私がやる必要なんてあるのかさえ思ってきた。三影が生き返るのはもちろん嬉しい。シンさんが報われるのも救われるのも嬉しい。でもなぁ。

 「あれ?ウタ学校は?」

 背後から男の声に話しかけられ、一度思考が止まった。声のした方へ振り向くと、そこにはスーツ姿のアキがいた。

 「今日は早く終わったの。アキこそ仕事はどうしたの?今から?」

 「奇遇だな。俺も早く終わったんだ」

 あれ、言葉、出てこない。体もふわふわして動かし辛い。私の体じゃないみたい。

 「……?ウタ、どうした?どっか体調でも悪いか?」

 アキの大きな手が私に近付いてくる。なんだろう、すごく嫌だ。そう思った瞬間、私の体はアキの手を振り払っていた。

 「いって。ウタ本当にどうしたんだ」

 「教えて」

 「はぁ?何を」

 「お母さんのこと。死ぬって分かってたんだよね。お母さんが忙しかった理由も、家に帰ってこなかった理由も、私を置いていく理由も全部知ってるんだよね」

 「落ち着けって!いきなりどうしたんだ」

 脳が言うことを聞かない。口が勝手に動いて、言葉を勝手に吐いてる。思考が上手くできない。何も考えられない。

 助けて、アキ。

 「お母さんは死ぬんでしょ。私を置いて行ってしまうんでしょう。なんで、あんたが先にそれを知るの。最初は私のはずでしょ。あぁ、はははっ!そっか、そっかぁ。全部、ワタシのせいか」

 「ウタ!」

 

 私は、知らない間に気絶していたようで、目を覚ました時には暖かい布団の中に居た。気絶している間、何を言ったのかも分からない。アキに、どんな酷いことを話してしまったんだろう。

 暖かい。

 寒い。

 寂しい。

 暗い。

 それだけは分かった。

 『あーあ。君が早く未来を変えないからだよ』

 誰……?体、動かない。

 『君に任せた仕事はなんだっけ。俺の代わりに過去に行って、三影の未来を変えることでしょう?それ以上壊れたくないのなら、さっさと未来を変えてきて』

 目も見えない世界で、淡々と冷たい声でそう言われた。

 あれはシンさんなのだろうか。

 焦っている様子も声だけじゃ感じられなかった。逆に、笑っておどけているように聞こえた。この状況を楽しんでいるのだろうか、それともハイになっているだけなのか。

 体は自由に動くようになっていた。脳もちゃんと使い物になっているようだし、ちゃんと言葉も話せる。目だって、元通り見えるようになった。

 「……そうなんですか。分かりました。はい、伝えておきます」

 リビングの方からアキの声がする。誰かと電話しているのか、よそ行きの声で会話をしている。私は暖かい布団から出て、アキの声がするリビングに向かった。

 「アキ」

 「おぉ、目ぇ覚めたか。体は大丈夫か?」

 「うん。ごめんね大丈夫。誰と電話してたの?」

 「ウタのお母さんとだよ。明日から学校が数ヶ月休校になるらしくて、ウタにそれを伝えておいてって言われたんだ」

 「なんで休校になったの?ハヤテがやらかしすぎてたとか?それで、親が抗議したとかなの?」

 アキは言い辛そうな顔をして、重い口を開いた。

 「ハヤテも、そうなんだけど。学校内で数人が行方不明になってるらしいんだ。詳しい生徒の数や性別までは公表されてないんだけど」

 行方不明と聞いて嫌な予感がした。それにハヤテも行方不明だなんて絶対におかしい。

 私は自分のスマホで杏菜にラインをすることにした。

 『杏菜。休校になったって本当?あと、私が居なくなったあと春夏のこと見た?』

 スマホを見ていたのか、連絡をしてすぐに既読が着いた。

 『ほんとだよぉ!怖いよね。結局、春夏来なかったんだぁ。行方不明者が出たって聞いて嫌な予感したんだけど、まさか春夏もその一人に入ってないよね……?』

 『きっと大丈夫だよ。大丈夫』

 私が、さっさと腹を括っていたら行方不明者なんて出なかったろうに。

 少しして、ブブッとスマホのバイブ音が鳴った。どうやら相手は杏菜のようで、通知欄に届いた一通のメッセージは、私を地獄に落とすには十分なものだった。

 『そういえば、帰る時に鈴の音が聞こえたんだけどウタも聞こえた?』

 鈴の音。学校参りの警備員さん。

 嘘だ。今まで一度も鈴の音なんて聞こえたこと無いのに。もしかして、私がシンさんに話しちゃったことで、昔の怪異が目覚めてしまったのだろうか。

 なんにせよ、私のせいだってことは変わらない。

 「私、ちょっと出かけてくる!」

 自分の部屋に戻って、シンさんの元へ行こうと玄関に手を掛けた時、その手をアキに掴まれた。

 「離してよ!」

 「どこに行こうとしてるのかも、何をしようとしているのかも分からないけど、ウタが背負うことなんてなんにもないんだよ。深く考えることもなんも無いんだ!」

 「アキ、何を言ってるの?アキは一体何を知ってるの」

 私の手を掴んだままのアキの手の力が、どんどん強さを増していく。強く握られすぎて手首が折れてしまいそうなほど痛い。

 「痛い!離してよアキ!」

 「ウタは、考えすぎなんだよ。このままでいいじゃんか。何も変わらず、今まで通りの人生でいいじゃんか」

 「えぇ……?」

 「俺はこのままの人生がいい。何も変わることのない、明るいままの未来で。自由に生きようよ。ずっと一緒に生きようよ」

 アキの目が、穴が空いているように真っ黒になった。目をくり抜かれたような、悪霊のようなその顔は、もうアキの物では無くなっていた。

 「やだ!離して!」

 「ウタ、ウタ。一緒ニ生キヨ。離サナイ」

 誰か、誰か助けて。

 私の上に馬乗りになった状態で同じ言葉を繰り返すアキの姿をしたナニカは、私の体を床に押し付けて潰そうとしてきた。

 「シンくん!」

 咄嗟にシンさんの名前を呼ぶと、掴まれていた腕の痛みが無くなり体が軽くなった。

 「危なかったね」

 怖くて瞑っていた目を開けると、そこは学校の図書室だった。キョロキョロと目線を動かし周りを確認すると、学ラン姿のシンさんが、朝と同じように窓際に座っていた。

 「シンくん!一体どうなってるの?学校で行方不明者が出たり、アキだって変になっちゃったし。廊下で鈴の音が聞こえたって友達も出てきたのよ?」

 「俺もよく分からない。誰かをこの場所に呼び出したのは初めてだし、怪異がそこまで君に干渉する理由も分からない。やっぱり、過去が原因なのか。はたまた別のものか」

 「鈴の音は?七不思議ってこの時代のものでしょう?学校参りの警備員さんってこの時代で終わったんじゃないの?」

 「七不思議とかそういう妖の類は、人から人に渡る噂話が原動力なんだ。君が、大人になった俺に、その警備員さんの話をしたことで噂が成立した。って考えるのが妥当かな」

 「そんな……」

 「何にしても、元通りの世界に直すには過去を変えるしか方法がない。ウタの世界にも影響が出ているのなら、悩んでいる時間はもうない」

 「待って、私じゃないとダメなの?」

 「今更そんなこと言う?」

 「だって、私は普通の高校生だし。今まで普通に生きてきて、ここまで育ってきて。それに私は、何かを任されるほど大それた人間じゃないもの」

 「大それた人間だとか、そうじゃないとか関係なく、ウタじゃないとダメなんだ。漫画で言えば、選ばれし者みたいな。そんな存在なんだよ君は。他の誰かじゃなくて、君にしか出来ないんだ」

 真っ直ぐに私の目を見つめてそう言うシンさんに、やっぱり出来ないなんて弱音を吐くことは許されないのだろう。

 「過去を変えたら、春夏も三影もお母さんも元通りになる?」

 「勿論。ぜーんぶ元通りになるよ。君の人生も今よりもっとずっとキラキラと輝くようになる」

 「……分かった。行くよ私」

 「そう来なくっちゃ」

 シンさんは不気味に笑い、例の本を手に取り、ペラペラとページをめくった。

 パラパラとめくられていくページが勝手に途中で止まり、シンさんはガラスの破片のようなもので手首を切り付け、垂れた血を開いたままのページに落とした。

 「目瞑ってて」

 言われた通りに目を瞑りじっと待った。目を瞑っている間に、体が火照ったような感覚と、浮いているような浮遊感が私を襲ってきた。

 「数秒経って、寒くなってきたら目を開けて。そして、三影の家まで走って」

 凍えるような寒さを感じ、目を開けるとそこには真っ白な雪景色が広がっていた。

 「わぁ」

 強く吹く雪が、私の頬を擦って冷たさを残して消えていく。行かなきゃ。

 私は、積もった雪に足を取られながら必死に走った。少し小さな体は、行き先を体重に簡単に左右されて真っ直ぐ歩き辛い。おまけに雪のせいで滑って転びそうになる。

 見覚えのある場所を探しながら必死に走り続けた。雪で埋まったこの世界は、いつもと姿を変えて道が分かりにくい。それでも、必死に、ただひたすらに白い息を吐きながら走り続けた。

 「うわっ!」

 私は雪にブーツが埋まり、そのまま前に倒れ込んでしまった。雪に埋まった顔が冷たくて痛い。急いでブーツを一旦脱ぎ、雪の中から救出し、履き直してからまた走り出した。

 止まることは許されないと思った。止まっている間に三影は死んでしまうし、シンさんは手を汚してしまうと。この世界で、ただ一人私だけが未来を知っている。私だけが二人を救える。

 「行かなきゃ……」

 走り続けて数分、やっと見覚えのある公園に辿り着いた。この公園を右に真っ直ぐ行けば三影の家に着くはずだ。

 間に合え。どうか、間に合ってくれ。

 走れ。もっと速く。もっともっと速く。

 気付かないうちに、私は泣きながら走っていた。雪が涙を枯らして、頬に涙の跡だけを残して消していく。その跡が煩わしくて、走りながら強く頬を手で拭った。

 あともう少しという所で、ザリッザリッと雪をかき分ける音が聞こえ、白い吹雪の中に人影を見つけた。

 「晴美おばさん!」

 私の声に気付いたのかその人影は動きを止め、じっと私の方を見て静止を続けている。やっと人に出会えたという喜びから、さっきよりも少し足速になった。でも、近付いてやっと顔が見えそうな時、ソレが晴美おばさんでは無いことに気が付いた。

 「ウ、タァ、チャァァン」

 ヒッと言葉にならない悲鳴をあげ、私は一歩後退りした。過去の記憶にまで侵入してきているというのか。ソレは、アキと同じように目は真っ黒で澱んでいた。

 もうここまで来たのなら引き返すなんて有り得ない。こんなバケモノ、未来でたくさん見たじゃないか。捕まらなきゃいい。捕まらないように家の中に入ればいいのだ。

 「こっちおいで!私を捕まえてごらん!」

 家の前にいては中に入れないため、目の前にいるバケモノを挑発し、おびき寄せることにした。

 挑発にまんまと乗ったのか、バケモノは私目掛けて走ってきた。私は転んでしまわないようにブーツを捨て、裸足で雪の中を走り抜けた。

 足の裏に直に当たる雪が私の体温を徐々に奪っていき、感覚を無くしていく。何度か止まってしまいそうになるけれど、諦めずに追いかけてくるバケモノに捕まるものかと、感覚を亡くした足で走り続けた。

 「マッ、ァデェ、ェ」

 「待つもんか!私は三影を助けるために来たんだから!捕まってなんてやらないんだから!」

 公園をぐるっと一周し、そのままの勢いで三影の家まで突き進んだ。この時点で私の体力は限界に達していたし、息も切れ、喉からは血の味がした。それでも、走り続けた。

 ラッキーな事に家の玄関は開いていて、もたつかずに中に入ることに成功した。私は急いで玄関の鍵を閉め、バケモノが入れない状態にした。

 バンッバンッバンッと強く戸を叩く音が部屋中に鳴り響いた。これはきっと長くは持たない。

 「ナぁカ、イィれぇて」

 「絶対に入れないわ!あなたなんか雪で凍え死んでしまえばいいのよ」

 はぁはぁと息を切らして、しゃがみこみそうになった体を気合いで起き上がらせた。走っている間は気が付かなかった疲労が身体に降り掛かって、少しの間動けなくなった。小さくなった体で、ましてや冬に、こんなに走ったことなんてないから体がびっくりしてるんだ。

 三影の部屋は二階に上がって突き当たりの部屋。行かなきゃいけないのに、体が言うことを聞かない。重い体を引きずるように壁を伝い必死に歩いた。多分、すぐに良くなる。今の私ならばいける、出来ると自分を奮い立たせ、体を纏うアドレナリンに身を任せた。

 バンッバンッバンッ!

 バンッバンッバンッ!

 戸を叩く音に急かされながら一歩ずつ階段を登った。階段を登るのでさえ精一杯なこの足で、地面を踏み締めもがいた。

 痛い。座りたい。

 二段目を登ろうとした時、足が階段のヘリに引っかかり、顔から転んでしまった。口の中が血の味で溢れ、鼻からは鼻血が垂れた。でも、治療をしている暇なんてないから着ていたジャンバーの裾で鼻血を拭き取り、もう一度起き上がって上へ上へと進んだ。

 もちろん、この時も思っていたよ。

 なんで私なんだ、なんでこんなに痛い目に遭わなきゃいけないんだ。なんで周りの人間が消えていくんだ。私が何をしたって言うんだ。って。

 そんなん、どれだけ考えてもどれだけ悩んでも答えなんて出なくて。どの教科書にも参考書にも書いてなくて。私は一人で悩んだ。 私は三影を殺したシンさんを恨んだ。一緒にいてくれなかった母親を恨んだ。馬鹿みたいなことしか言えない人間も、大人も、簡単に殺された三影も、みんなみんな大嫌いになって恨んで、誰かを恨むことでしか自分を保てなかった私を嫌いになった。

 簡単に人を信じてしまう悪い癖も、素直に愛情を受け取れない癖も、誰かを守れなかった自分も全部大嫌いだ。

 春夏も、結局守れなかった。手の届く所にいただろ。そもそも、私が図書室なんかに行ってなかったら、素直に自習をしていたらこんなことにはなっていなかっただろ。アキもあんな姿に変わる必要なんて何も無かったはずなのに。

 ごめんなさい。お母さん。

 ごめんなさい。アキ。

 ごめんなさい。春夏。

 そして、ごめんなさい。三影。

 涙を流し、小さな嗚咽を繰り返しながらなんとか最後の段まで登り詰めた。私は最後の力を振り絞り、三影とシンさんのいる部屋まで走った。

 ガチャっと勢い良く開いたドアの先には、ナイフを持つシンさんと、机に突っ伏した三影がいた。

 「辞めて!」

 私の存在に気付き、驚いた表情を浮かべながら硬直するシンさんに飛び付き、ナイフを奪い取った。

 「ウタ……?なんでここに」

 「なんでじゃないわよ……。なにがなんでよ!なんで殺そうとするのよ。なんで、愛しているのに、好き同士なのに傷つけ合うの」

 これは紛れもない綺麗事だ。でも、私の必死の訴えであり本音でもあった。私を置いて自分勝手に消えて行った三影にずっと言いたかった不満で、言えずに溜め込んだ子どもながらの我儘だ。

 「ウタ、俺。腹括ったんだ。ここまで頑張って生きたんだ。これは、俺が救われる唯一の方法なんだ。だから、ほら。そのナイフを寄越して。お願い、良い子だから」

 「三影の未来なんて知ったこっちゃないわよ!」

 「え?」

 「私は、ずっとずっと後悔してたの。三影が死んだ後に、あの言葉は三影なりの助けての合図だったのかなとか、何か出来ることがあったんじゃないかなって。それに、三影に渡された課題、見せられてない。ナイフは絶対に返さない!」

 「何だこの小娘」

 「神!やめて!」

 シンさんはズケズケと足音を立てながら私に近付き、私の手からナイフを奪い返そうとした。それでも私はナイフを握りしめ、取られないように守った。

 「さっと返せ!じゃなきゃお前を先に殺すぞ」

 「殺せるものなら殺してみなさいよ!死んだってこのナイフは渡さないんだから!」

 シンさんは私の上に馬乗りし、髪の毛を掴みながら殴った。一回一回、次々に私に降り掛かる大人の拳は、子どもを殺してしまうのには十分な力だった。ボロボロになったってこの手は離さない。シンさんが諦めたって言うまで、三影に手を出さないって言うまで、絶対に離さない。この手を離したら、私が来た意味がなくなってしまう。目の前で三影が殺されてしまう。

 「さっさと離せ!これは、俺と三影の愛し方なんだよ!普通の人間には理解できないだろうがな、俺らは同意の上で殺し合ってんだよ!」

 「分かるわけない!分かりたくもない!こんなの愛なんて言わない!ただの呪いで、依存で、愛なんてものとは無縁の行動よ!愛しているのなら、三影を抱き締めてあげるくらいしなさいよ!愛してるって好きだって、生きてて欲しいって言葉にしなさいよ!」

 「うるせぇ!それが出来ねぇから殺すんだろ!三影を殺して、俺も死んで、あの世で一緒になるんだよ!」

 「やめてよぉ……。もう、ウタを傷付けないでよ。ウタも、神を傷付けないでよ」

 三影は、必死にシンさんに覆いかぶさって私を殴る手を止めようとするけれど、シンさんはそれでも殴り続けた。三影の声なんて届いてない。三影が泣いてることになんて気付いてない。シンさんはきっと、今は私を殺すことしか頭にない。

 「私は必死に三影を追いかけてきたの!三影が大好きなの!だから生きてて欲しいし笑ってて欲しい。これが、この気持ちが愛情なの!大好きって愛してるって気持ちなの!」

 「お前みたいなガキに愛情の何が分かんだよ!俺らは、昔から、小さい頃から一緒に居てきた!時間を過ごしてきた!その時間が、日常がどれだけのものだったのかお前は知らないだろ!どれだけ三影が苦しんできたかも知らないだろ!」

 「あなただって、三影が今どんな顔してるか知らないでしょう!必死に、あなたを止めようとしてる三影の顔を、あなたは一度でも目に入れたの?私を殴って気が済むのなら、いくらでも殴ってもらって構わない!でも、三影を悲しませることは絶対に許さない!」

 私の髪の毛を掴んでいたシンさんの手が、私の首へと移動した。強く、ただ強く殺意を感じて、ここで死ぬんだと確信した。

 「殺す。絶対にお前だけは殺す」

 器官を圧迫され、次第に息が出来なくなった。それでも、私はシンさんの手を掴み力一杯に抵抗をした。意識が遠のいていく中で、手の中にあるナイフの存在を思い出し、力を振り絞り、私の首を掴むシンさんの腕目掛けてナイフを振り下ろした。

 「いってぇぇ!」

 首を掴んでいた手が緩み、息ができるようになった。ナイフで刺したシンさんの腕からは大量の血が流れ落ちていた。

 「正当防衛……だよね」

 「てめぇ」

 「もう辞めてよ!」

 三影の声が三人だけの家に響き渡り、シンさんの怒りも一瞬静まったようだ。血が垂れている腕を強く握り、シンさんは三影の方を向いた。

 「傷付け合わないでよ。ウタは関係ないでしょう。ウタを傷付ける必要なんてないはずでしょう。やっぱり、みんなから見たらおかしいんだよ俺たち」

 「三影、そんなことない。俺らは正しい」

 「もう、もう無理だよ。無理なんだよ耐えらんないんだよ」

 「三影……?落ち着け三影。考え直せ」  「考え直してるよ!神より深く考えてる。俺が窮屈だったのは、みんなに避けられ始めたのは、全部お前のせいじゃんか。お前が変なこと周りに言うから、俺までおかしい奴だって思われたんじゃん」

 「いや、だって。三影も、俺が好きだろ」

 「好きだよ。でも、今の神は嫌いだ。無差別に傷付けようとする、自分の非は棚に上げたままのお前は大嫌いだ」

 久しぶりに部屋に静けさが戻った。三影の一言で世界の秒針が止まったように、吹雪の音も風の音も聞こえなくなった。

 「なんだよ、それ。お前が死にたいって言うから殺してやろうと。俺の手で逝かせてやろうとしてたのに」

 「うん。ごめんね神。俺は、この世界が嫌いなわけじゃないんだ。誰かの視線も、別に怖くない。俺はただ神を楽にさせてやりたかっただけなんだ」

 「楽になんかなるかよ」

 「ごめん。軽率な考えだった。俺が死にさえすれば、神を縛るものが無くなると思ったんだ。俺のせいで、俺に囚われている神を見てられなかった。俺を止める人間なんて、誰もいないと思ってた」

 「三影……」

 「ごめんねウタ。ウタが、俺のためにこんなに動いてくれるだなんて思ってなかったんだ。沢山傷付けた。二人とも、ごめん」

 「なんだよそれ……。傷付き損かよ……」

 血が大量に出過ぎて足りなくなったのか、シンさんは意識を無くし床に倒れ込んだ。不思議と、三影に焦る様子はなかった。まるで今日起こること全てを分かっていたかのように、ふぅっと息をついた。

 「三影」

 「大丈夫だよ。神はこんなんで死ぬような男じゃない。……ウタは、今日のこと知ってた?何が起こるとか」

 「え?」

 「あぁいや、昔から勘は鋭いから分かってたのかなって。あんなに焦ってるウタは初めて見たし、もしかしたら何かを察知して来てくれたのかなって思って」

 「そう、そう。嫌な予感したんだよね」

 「やっぱり?ふふっウタには敵わないや」

 久しぶりに見る、生きていて、動いている三影の姿が懐かしく感じて目が熱くなった。死ぬ決意をした時には、私には到底分かりきっこない様々な葛藤や不安があったはずだ。自分のことだけでなく、シンさんのことも考えながらあの決断をしたのだろう。 

 「少し、散歩しようか」

 「外に出ちゃダメよ。外には変なバケモノがうじゃうじゃしてるもの。それにシンさんはどうするの」

 「大丈夫だよ。悪夢はもう去ったから。神は時期に血も止まって目が覚めると思うよ。だから、久しぶりに公園に行こうか」

 三影に手を引かれ、抵抗もないまま三影の行く先に従った。三影の暖かい手を握り返すだけでも私の心はいっぱいになった。

 「雪、ちょー冷たい。俺も靴を捨てて裸足になろうかな」

 「ダメよ風邪引いちゃう」

 「あははっそれウタが言うー?今更風邪を引いたって大丈夫だよ。俺はもう大人になったから、治し方もよく分かってる」

 そう言って、三影は履いていた靴を脱ぎ捨て裸足になった。冷たいとはしゃぐその姿は三影であって三影では無い気がした。この世界はおかしい。晴美おばさんに似たバケモノがいた世界だ。私の手を握っている三影が、本物ではなくバケモノの可能性なんて腐るほどにあるのだ。

 「三影」

 「んー?」

 「……」

 ただ、この時間が短くなることを惜しいと思ってしまった。たとえ偽物でも、姿も声も三影のものだ。私は三影だと思い込みたいのだ。

 「ウタ、雪だるまつくろぉよ!あと、雪合戦もしよう。かまくらも作ろう。そして、それから」

 「うん。全部やろう」

 公園に着くまでに、道路に積み上がっている雪を手で掬い上げては丸めて、出来上がったものをお互いの体に投げつけ合った。寒さは感じなかった。

 「あははっ!そーれ!」

 「うあっ!顔を狙うなんて反則よ!やり返してやるんだから!

 「やれるもんならやってみなぁ!」

 雪合戦は公園に着くまで続いた。手や足は悴んでピリピリとした痛みを感じる。それでも雪を触る手は辞めなかった。

 「雪だるま作ろ!俺が頭作るからウタが胴体ね」

 「早く作り終えた方が勝ちにしようよ」

 「何それめっちゃ面白そう!」

 手の中で雪玉を作り、それを雪の上でコロコロ転がし大きくしていく。夢中になって雪だるまを作っている三影の横顔は、私が知っている無口な三影より幼く見えた。だから、変な違和感があったんだろう。三影はこんな笑顔を見せたことなんてなかった。

 「早く作んなきゃ俺に負けちゃうよ」

 「あぁ。あー、うん。ぼーっとしてた」

 「ウタが聞きたいことも気になってることも何となくわかるよ。一番は三影っぽくないって所が引っかかってるんでしょう?」

 「ごめん」

 「謝る必要なんてないよ。俺も、俺じゃない気がするから。なんか、ずっとハイになってるんだ。これがなりたかった自分なのかも分からないし、俺が一番困惑してる」

 「三影。三影は本物?」

 「さぁ。分からない。俺は俺でしかないから、ウタの望んでいるヒトでは無いのかもしれない。分からないんだ俺も。全部」

 「三影はどこまで知ってるの?この世界のこと」

 「んー、ウタより知ってることは確かなんだけど、どこまでって言われたらな。俺もウタのように急に呼び出された。死んだはずなのに、体温もあるし痛覚もある、それに感情も」

 「三影はずっとこの世界にいたんじゃないの?ここは過去じゃないの?」

 「過去なんかじゃないよ。確かに過去に沿ってよく出来てるけれど穴だらけだ」

 「穴……」

 「人間であるものが人間じゃなかったり、あるはずの物が無かったり。俺はもう動けなくなっていてもおかしくないのにまだまだピンピンしてるし」

 「じゃあ、この世界は一体何?」

 「普通じゃないって事だけは分かるよね。とにかくウタは早くここから出た方がいい」

 「帰り道……分からない」

 「大丈夫。俺が連れてったげる」

 本当にこのまま帰っていいのだろうか。何かがおかしいこの世界で、やらなきゃいけない事は本当にこれでお終いなのか。私が帰った後にシンさんが三影を殺してしまうかもしれない。

 お母さんは……?

 お母さんはどうなるのだろう。

 「帰る前に行きたいところある」 

 三影の手を掴み、公園から出て私の家に向かった。さっきまで落ち着いていた吹雪が、家に近付くにつれ強さを増していった。雪が冷えきった顔にあたる度に、刃物で切られているような痛みを感じる。

 「ここってウタの家?」

 「そう!もしかしたらお母さんが帰ってきてるかもしれない」

 「辞めた方がいい」

 三影が急に立ち止まり、私の体が後ろへ引っ張られた。三影は深刻そうな、悲しみを帯びた顔をしている。

 「辞めた方がいいってなんでよ」 

 「何でもだ。ウタには背負いきれないよ」

 「何を言ってるの!早く行こうよ。お母さんが待ってるかもしれないのに立ち止まってる暇ないんだよ?」

 何度、強く手を引っ張っても三影は一向に動こうとしなかった。早く帰らなきゃいけないという焦りと、動かない三影に対するイラつきが、私の脳内を満たしていく。

 「いい加減にしてよ!三影が行かないなら私だけ行ってくる」

 「ダメだウタ!戻れ!」

 三影の言葉が聞こえてきた時には、私はもう既に家の扉を開けていた。家の中からは、えげつないほどの異臭が放たれていた。

 「うっ……何この匂い」

 私はリビングから漂ってくる異臭に嗚咽をしながら部屋の奥へと進んだ。リビングと玄関の間を隔てる薄い扉を開けようとした時、走ってきた三影に邪魔をされた。

 「ウタ!これは振りなんかじゃない!中には入らずに早く元の世界に帰ろう。大丈夫、きっとお母さんは無事だから。お願いだから言うことを聞いてくれ」

 「なんでそんなに引き止めるのよ。三影は一体何を隠してるの。この変な匂いはなんなのよ」

 「分かった。話すから落ち着いて聞いて」

 三影が一瞬、手の力を緩めた隙に手を振り払い、制止の声も聞かずに部屋に入った。

 「えぇ……?」

 私の目に映った光景は、三影の言った通り私には到底背負いきることのできないものだった。

 「え……?なんで、私がいるの。それに、お母さんもお父さんも、なんで。ねぇなんでよ三影!」

 血溜まりの中に浮かぶ、私と両親の死体は酷く腐敗していた。また、体の一部だけをなくして浮かんでいる。

 「神だよ」

 「いやそんなわけないじゃん。だって、シンさんは今眠ってるはずよ」

 「死体の状況から見て、二、三日前ってとこかな。神は死体の一部を盗んでいくんだ。集めているわけでも、売っているわけでも無いみたいだけど、これは神の殺し方だ」

 「なんで私がここにいるの。私は生きてるはずで、未来から来て。あれ……?私どうやって生きてきたっけ」

 私の脳内から記憶が消えていく。どうやって生きてきたか、どんな友達に出会ったか、お父さんやお母さんとの記憶も思い出せなくなった。アキや三影との大切な思い出も、何一つ思い出せない。

 「だから早く帰ろうって言ったんだ。早くここを出よう!じゃなきゃ、ウタはウタじゃなくなってしまう。感情も脳のコントロールも何も効かない、ただのバケモノになってしまう」

 「私ってなに?私って、ヒト?」

 上手く処理できない。オーバーヒートしてバグっているかのように、同じ言葉しか言えない。

 目の前にある絶望から抜け出せない。

 「くそっ」

 三影に身体を抱き抱えられ、強制的に家を出た。抱き抱えられても、私の視線は目の前の死体から離れることは無かった。

 嘘だ。悪い夢でも見ているんだ。だって、私はちゃんと生きてきたはずだもの。春夏や杏菜と一緒に笑い合ったはずだもの。動物園だって水族館だって一緒に行った。映画も観たしショッピングだって沢山した。その時に買った服も、貰ったパンフレットも私の部屋にあるもの。

 ちゃんと、形に残っているもの。

 「嘘よ。これは悪い夢で、私は死んでなんて居なくて、今日だってちゃんと学校に行って」

 「ごめん。ごめんウタ。守れなくてごめんね。弱くてごめんね」

 こんな記憶無いのに、無いはずなのに三影の泣き顔が鮮明に浮かんだ。血だらけの床に膝をつき、蹲りながら泣き叫んでいた。私を抱きしめて、ごめんごめんと謝りながら必死に私の身体を暖めていた。

 その光景を、私は後ろから見ていた。三影の背後に立って、よく分からないという顔をしてずっと話しかけていた。触ることの出来ない体で必死に慰めようとして、次第に三影の姿が見えなくなって。

 「私がいた世界ってなんだったのよ。春夏も杏菜もアキもみんな居たのに、みんなちゃんと私を見てくれて、話をしてくれて。全部が私の想像だったって言うの?妄想でできた世界だって言うの?」

 真っ白な地面にポタポタと赤い水が落ちていく。どうやらそれは私の体から出た水のようで、目から落ちた水が頬を伝い、地面に落ちていっているようだった。

 痛みも無く、感情さえ分からなくなって、私は操り人形の糸が切られたように動けなくなった。私は、神様に、悪魔に遊ばれていたのだろうか。娯楽として糸で繋がれ続けて、行動全てを操られていたのか。

 「ウタ。すぐに良くなるから。時期に雪も止んで、ウタの怪我も治って歩けるようになるから。目も元通りになるから。だから、どうか、まだそこにいてくれ」

 夢の中にいるようにパッと場面が切り替わり、私は本棚の前に座り込んでいた。さっきまであった体温が身体から抜けていく。

 パンッパンッと皮肉を込めたような拍手の音の正体を私は分かっていた。近付いてくる足音は、憤怒の感情を露にしていた。

 「いい気味だね」

 「シ、ンさん」

 「やっぱり死人って自分が死んだこと気付かずに残り続けちゃうんだね。君が今まで見てきたもの、関わり続けてきた人は君の妄想でしかないし、ただの君の一人芝居だったんだよ」

 「杏、菜モ、春夏も、ちゃんト、トモダチだっ、たの。わたシが、見テきたものは、うそ、なんかジャなく、て、ちゃんと、アッタの」

 「そうだね。確かにいたよ。でも、彼女たちは君の存在なんて知らない。彼女たちはいつも二人だったし、君が両親と呼んでいる人間の間にだって、ウタという名前の子供なんか存在しない。君は怪異として生まれ、怪異としてこの場に存在する」

 何を言っているのシンさん。

 私は人間よ。みんなと同じように勉強をして、受験をしてこの高校に入学した。

 クラスが同じになった春夏と杏菜が話しかけてくれてそれで仲良くなって。ずーっと一緒にいてくれて。水族館で三人お揃いのキーホルダーを買って、一緒にスマホケースに着けて、「うちら親友だね」って言い合って。

 「君がどれだけ頑張ろうと、みんな君の存在になんて気が付いていないんだよ。話しかけてくれた、一緒に出かけてくれたって勘違いをして二人に付き纏っていただけのただの悪霊でしかないんだ」

 「暖かカッた。触レてもらエた。ずっと、イッショって……」

 言って貰えたんだ。名前を呼んでもらったんだ。手を引いて一緒に歩いてくれたんだ。

 夢なんかじゃなかった。絶対に絶対に、二人は私の親友だった。パフェを食べて美味しいねって言い合って、それから、二人に触れなくなったんだ。

 単に喧嘩をしただけだと思ってた。二人はニコニコ笑ってるのに、私もそばにいるのに見てもくれなくなった。悪いことをしてしまったんだと思って二人に謝りに行ったけど、話も聞いてくれなくて。

 下校時間に下駄箱で待っていたけれど、二人は待てど暮らせど来なくて。

 「お前は学校の怪談七不思議の一種。お前の本当の名は鈴鳴。首に縄を掛け、鈴を持ちながら学校を徘徊している番人だよ」

 「違ウ。ワタしは、高バウタ。高校一ネン生の、女の子」

 床に雫が落ち、そこを濡らしていく。ゆっくり、ゆっくりと現実を突きつけるように黒く汚れていく水溜まりに映った姿は、片目を亡くした汚い女の子だった。

 「でも、一つだけ胸を張っていいことがある。君は俺の宣言通りに未来を変えた。俺はまた生きれるようになったし、三影も死なずに済んだ。この事は俺が責任を持って伝えていく」

 私は私じゃなかった。

 夢見た世界じゃなかった。ヒトとして生きていたかった。

 またみんなでご飯を食べて、一緒に出かけて授業を受けて、テスト終わりに打ち上げをして、バカをやりたい。せめて、卒業までは夢を見ていたかった。どれだけふわふわした世界でも、ぐちゃぐちゃで汚れきっている世界でもみんなと一緒ならそれでよかった。

 私の体は、私とは違う誰かのものをコピーしたもので、実体なんてない。その現実を数百年間認められなかった。

 私も女の子だから可愛くありたい。可愛いキラキラのお化粧をして、フリフリの服を着て私が一番って顔して街を歩くのよ。でもこんな汚い顔じゃ姿じゃそんなこと出来ないもの。

 借りるしか無かったの。すごく可愛いと思ったの。

 「消えなきゃダメなのかな」

 「お前は役目を果たした。もうこの学校に七不思議は必要ない。時代が変わってお前がこの場を守る必要も無くなった。来世に乞うご期待ってやつだな」

 「シンさん。また会えるかしら。次はちゃんとした体で、自分自身の顔であなたの前に現れられるかしら」

 「お前の運次第だな」

 「そう。ありがとう。ありがとう……」

 首に巻かれた縄が私の依代。これさえ切られてしまえば私は消えてしまう。

 でも、もういいの。楽しい思い出も沢山できたし、沢山遊んでもらった。それだけで満足。

 私も少しは大人になったのかしら。

 悔いがあるとしたら、最後にアキのオムライスが食べたかったことくらいかな。

 「さようなら。七不思議、鈴鳴様」

 

 ねぇ、知ってる?

 何を?

 旧校舎を彷徨ってる、鈴鳴様って妖怪。

 えぇ何それ。

 怖い妖怪じゃないんだよ。とっても優しい可愛らしい妖怪なんだ。旧校舎に迷い込んだ生徒に鈴を鳴らして、こっちだよって出口を教えてくれるんだ。

 へぇ。そんなに良い妖怪がいるの?お友達になりたいかも!

 そういえば、なんで神君は同じ妖怪の話ばかりをするの?

 

 「また、会えたらいいなって思ってさ」

 

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傀儡はヒトの夢を見る 涙仙 鳳花 @ho_sen_610

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