歪み愛
神田(kanda)
歪み愛
私と先輩は学校の屋上にいた。晴れやかな空の光から逃れるように、屋上の入り口のすぐ側の日陰に、二人きりで。
今ここに来たばかりの私は壁に寄りかかって立っているのに対して、先輩は私の隣で座っていた。
「私はね、人は生きる上で、愛についてもっとたくさん論ずるべきだと思うの。」
先輩は悠然と、空に浮かぶ大きな雲を凝視して、あくまでも独り言みたいに、だけど、どこか楽しげに、私に言った。私と先輩の雑談は、いつも唐突に始まる。
「それは...また......どうしてですか......?」
私は先輩の、お人形さんみたいに綺麗な横顔を見ながら質問した。
「人が
先輩は私の方へ視線を運んで、何だか嬉しそうに言った。
「でも先輩、関係性っていうのなら、この世には色々あるじゃないですか。どうして『愛』について、なんですか?」
私の質問に先輩は眉一つ動かさず、顔色一つ変えずに答えた。その姿はお人形さんというよりかは、もはや、慈愛に満ちた仏のようだった。
「ええ、そうね。ごもっともよ。愛の他にも人と人とを繋ぐ抽象的な言葉なんていくらでもあるわ。」
だけどね、と先輩は一秒くらいの間を開けてから言って、壁に寄りかかっている私の前に悠然と立って、今度は私の目を直接見ながら、続けて言った。その姿は、例えるなら日本刀みたいなものだった。確固たる、何かの強い意思そのものが擬人化したような強さ。そして、それらを知性なき猛獣へと変貌させないためのしなやかさ、柔らかさ、あるいは古来からやって来た女性らしさとでも言うのだろうか。そんなものまでセットで付いている。強さと美しさを兼ね備えた人。それが先輩。
「愛と苦しみという二つの言葉だけには、恐ろしいほどに強い『現実性』があるの。愛に溺れれば、身体中が熱くなって、自分の色んな部分が変えられちゃう。苦しみに溺れれば、苦痛から逃れたいという素直な欲求に酔うことができちゃうの。だからね、愛と苦しみは、他の抽象的な言葉とは一線を
まあ、そうは言っても、愛というものについて、ほとんどは分からないのでしょうけれどね。と、先輩は、悲しそうに言った。
悲しいという感情。それは苦しみとは違うのだろうか。先輩は今、苦しんでいるのだろうか。強い苦痛から逃れたいのだろうか。だからこそ、唯一の希望の愛を求めているのだろうか。
「......救われるのが目的なら、別に愛でなくても、この世界には救ってくれそうなものはたくさんありますよ。」
私がそう言うと、先輩は、どこか冷たい悲しげな表情を崩して、ふっと優しく微笑んだ。この顔は、私だけが知っている。そんな微笑だ。
「そうね、確かにその通りね。だけどね、私は、形の見えない不確定なものよりも、まるで本当に存在しているかのように錯覚してしまうほどの強い何か。私の身体の全てを破壊し尽くしてくれる何か。そんな強くて恐ろしい、依存せずにはいられないような何か。そんな何かに酔いたいの。......きっと、それが......。」
そう言いながら先輩は私の首の後ろに両手を回す。私のすぐ前に先輩の顔がある。
私自身、自分の顔が不細工だとは思わない。可愛らしさはどこかに置いてきてしまったのかもしれないけれど、悪い顔ではないと思っている。その気になれば、恋愛というものをすぐに始められるくらいには、一応整っているはずだ。
だが、目の前のこの人は、そんな私とは比べられないくらいの『美』いうものを持っている。しかも、それと同時に可愛らしさも持っている。ただそれは、いわゆる通俗的な可愛さとは少し違っていて、美しさと混ざりあった、ある種の一つの新しい概念なのかもしれない。少しの恐ろしさを覚える人だっていると思う。引きずり込まれて、己の全てが奪われてしまいそうになる。己の全てを否定してしまいたくなる、自己嫌悪のトリガーになりかねない、そんな妖艶さがある。
だけど、決して拒むということをしたくなくて、むしろ欲してしまって、独占したくなってしまって、恐ろしさなどは消えてしまう。
......いや、この人を失ってしまったらという恐怖は残るのだと思うけれど。
「やっぱり私、貴方の顔、好きよ。かわいい。」
先輩はニコッとしながら、私の目を真っ直ぐ見て言う。
「それは......どうも。」
「嬉しくないの?」
先輩は可愛らしく頬を少し膨らませていた。
「いえ、嬉しくないことはないですけど、私は自分の顔を好きとも嫌いとも思ったことがないので。」
「あら、そうなの。......じゃあ、私の顔は好き?」
「......ええ、まあ。好き、といえば好きですけど......。」
私がそう言うと、先輩は満足そうに、ふふふと静かに笑って、私に顔を近づける。
私は目をそっとつぶる。今の私には何も出来ない。何をすることも許されないし、何より、私自身がそうすることを望んでいる。望んでしまっている。
先輩の手が優しく私の髪の毛に触れた。私の髪を撫でるために。そして、私の顔を先輩の顔に近づけるために。先輩の方が、私よりも少しだけ身長が低い。だから、私は少しだけ首を前に傾ける。今の私の体は全て、先輩の思うがままなのだ。
先輩の呼吸が聞こえる。それと同時に先輩の体と私の体がくっついて、私の頭はこれから起こることへの予測がより正しいものであることを知る。先輩の華奢な腕が私のお腹に当たって、服を軽く掴まれていることに気づく。私の呼吸は少し乱れ始めていた。ドキドキしているのだ。私は今どんな顔をしているのだろうか。たとえそれを疑問に思っても、私がそれを知る術はない。知っているのは、ただ一人、先輩だけ。
そうして、それはやってくる。唇に伝わる感触は、冷たくもなく、温かくもなかった。私と先輩の唇の温度は同じらしい。
それが少し、ほんの少しだけ嬉しく思えた。
んっ、という甘い声が耳に入る。先輩の声だ。私だけが知っている声だ。目をほんの僅かに開けると、そこにいるのは、目を閉じて、私との繋がりを確かめて、悦びの中へと向かう先輩だった。
長いまつげ、整った艶やかな前髪、ほんのりと紅くなっている頬。その表情も先輩の体の仕草も、何もかもが私の理性を打ち砕いて、快楽を欲するという欲求に従順にさせてしまった。私は先輩の腰に手を回して、体をより一層、密着させた。すると、先輩の体がピクリと反応した。先程までの強い先輩は、その強さの性質を一時的に変えたのだ。今の先輩はただ率直に、私という人間に溺れて、自分の何もかもが破壊されているかのような感覚に酔っている。
私という人間を、欲している。
先輩は、先程までの言動とはどちらかというと対称的に、優しく私の唇に触れ続けている。だが、それはだんだんと着実に激しくなっていく。お互いの唾液を少しずつ交換して、まるで、繋がりを確かめるかのように、激しくなっていく。
そうしてゆっくりと、私は腰を下ろしてしまいそうになった。力が抜けて、立てなくなってしまいそうだった。それを先輩は、当然のように、自然なこととして、許してくれた。キスをしたまま、一緒に腰を下ろして、足を崩したまま、さらにキスを続けた。私の手は、もうすでに力という概念が抜けきってしまったようで、だらんとしていた。
対して先輩は、私の首の後ろから、手を前に持ってきて、私の頬を包み込むように触れた。ひんやりとしたその手に、私の体温が奪われていくのを実感すると同時に、私の心も奪われそうになっていることを自覚する。
口の中が先輩の思うがままに侵食されていく。先輩の小さな舌が、私の舌と絡み合う。口の中が先輩でいっぱいになっているのが、嬉しくて、脳から変な物質が生成されている感触がした。
そうしてされるがまま、求められるがままに私の口は侵食されていった。そんな中、まるで、誘っているかのような先輩の舌の運びに感化されて、残された最後の力を振り絞って、私も先輩の舌の中を侵食した。舌を精一杯伸ばしても、先輩の体の全てを侵食することが出来ないもどかしさを感じながら、先輩の口の構造を確かめるように、先輩の口の中を執拗に舐めた。
お互いをもっともっと底へ堕として、依存させて、自身に酔わせて、相手に酔って、取り返しがつかないくらいにお互いを破壊する行為。そんな行為を続けた。
どれだけの時間が経っているのかは、分からない。そんなものを知りたくもなかった。
そうして、お互いに疲弊してきたところで、私も先輩も目を開けて、そこにちゃんといるのかを改めて確かめるかのように見つめ合った。
幸福という感情は、いつもすぐに儚く消えてしまう。だから心配になってなのかは分からない。それが正しい気もしたが、違う気もした。
ずっと見つめ合っていると、だんだんとお互いの顔を見たくなって、自然と口が離れる。
先輩の口と私の口から、細く唾液が繋がっていた。先輩はそれに気付いて、私の唇を舌で舐めて、繋がっていた唾液をペロリと取った。
キスを終えて対面する。その時には、先輩も私も呆けていた。私の顔がどうなっているのか分からないが、先輩ときっと似たような顔をしているのだろう。頬を赤らめて、キスの余韻に浸って、幸せであると同時に、まだ続けていたかったのにという、少しの不満。そんな感情がつまった顔。
少しの間見つめていると、先輩は、無言で私の胸に顔を
先輩の髪の毛の香りがほんのりと漂って、私の理性を逆撫でした。しかしそれは同時に、私に理性という存在を思い出させる働きをした。
ああ、私はこんな可愛い人と、さっきまであんなにも激しくキスをしていたのか、という事実が、私に少しの気恥ずかしさを与えた。
私は、そんな気恥ずかしさを感じていないと言い訳するかのように、挑戦的に、先輩の頭をほんの数秒の間だけ、髪の毛がぐちゃぐちゃにならないように軽く撫でた。
「......あら、サービス精神が旺盛なの?」
先輩は子猫のようになって、ふふっと笑みを溢しながら言った。
「いえ、そういう気分なだけです。」
「そういう気分って、どんな気分なの?」
先輩はゆっくりと、私の胸から顔を離して、満足そうな笑みを私に見せながら、続けて言った。
「私のことを愛おしいと思うような気分......とか?」
上目遣いで、どこかいたずら気に言うその様が、私の心をより一層、先輩に染めていった。
「......まあ、きっと、そんな感じだと思います。だって、恋人...なんですから......。」
「ふふふ、嬉しい。ありがと。」
先輩も私と同じように少し照れているようだった。ただその顔は、微笑みそのもので、私と先輩が愛というもので結ばれている証明のようなものだった。私の今の心情も、きっとそれを示している。
私は、この人のことを守りたいと思った。
傲慢にも、そう思った。
こんな考えが浮かぶのは、今この場所は二人きりの世界だからだ。もっと広い世界へ行ってしまえば、私はたちまち恐怖にさらされる。
私と先輩が、恋人という関係に至るまでに、私と先輩を繋いだのは、この世界の絶望しているという想い。その強い現実性のある絶望の二文字から生まれる苦痛から逃れたくて、必死に逃げながら毎日を送っていた。私も、先輩も。
そんな暗黒の中で、私と先輩は運命的に出会った。この世で唯一の理解者に。
私も、先輩も、自身がこの世界を理解できないということを、あるいは、理解することを拒み続けているということを、身体で理解していた。
あらゆるものが無根拠で、空虚な存在であるこの世界。全てが徒労の世界。
私も、先輩も、この世界に馴染めない。馴染むことが、苦痛なのだ。だけど、そんな所に居続けなければいけない。
どこにも、行けない。
行けるだけの力がない。
だから、この世界の内側で、誰もいない場所を見つけて、二人だけの世界を作るのだ。
私と先輩、二人きり。
いつか人は死ぬ。
私も、先輩も、死ぬ。
いつかはきっと一緒にお互いを滅ぼす時が来る。
この世界から離れられる機会がやって来る。
だから、その日が来るまで、その日が私たちを迎えに来てくれるまでの間は、二人で一緒に、お互いを慰め合うのだ。
先輩は、こんなことを考えていた私の考えを、私の表情から読み取ったのか、
「これからも、ずっと、ずっと、一緒よ。たくさん、たくさん愛し合いましょう。たくさん話したり、キスしたり、デートしたりして、余生をそれなりに楽しく過ごしましょ。いつかやって来る、破滅の日を迎えるまでの間はね。」
と、私の目をうっとりとした様子で見つめながら言った。
私と先輩の結末は、決して変わらない。
それは不幸な終わりではなくて、私と先輩の完璧な最後。私と先輩に与えられた理想の運命。
「先輩......愛してますよ。」
私は先輩の手を優しく握って、指と指を絡み合いながら言った。
「ふふふ......私も、愛してるわ。」
先輩の笑顔、きれいで素敵な顔。
私が守りたいと思う顔。
ああ、先輩という人を守りたい、と再び思う。
そうだ、だからこそ、破滅が必要なのだ。
この世界の苦痛への反抗。
たとえそれが無意味なものだと知っていたとしても。どこまでも、どこまでも、二人で一緒に愛に堕ちて、溺れ続ける。
お互いに酔って、現実から逃げ続ける。
きっと傍から見れば、これは歪んだものに見えるはずだ。だが、歪んでいないものが正しい道理はない。だから、私たちにはきっとこれが適切なのだ。どこまでも歪んでいて、されど真っ直ぐで純粋な愛が。
雲はいつの間にかどこかに消えて、快晴となっていた空の下で、大好きな先輩を見ながら、私はそう思うのだった。
―歪み愛―
歪み愛 神田(kanda) @kandb
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