第十一話
水音が止んで、いばらが戻ってくる。
自宅から持ってきたもこもこでパステルピンクのパーカーに、ショートパンツ。期待どおりのガーリー具合だ。すらりと伸びた生足が眩しい。
「時雨さん、シャワーありがと。あれ、枕あったんだ」
「使う?」
「うん、使う使う。持ってこなかったし」
はっと気づいたように、いばらが口元を押さえた。
「もしかして、彼氏さん用? いやぁ、それはさすがに」
「違うよ。昔、女友達が使ってたの。さっきの絵のモデルの子」
「あ、ふーん……」
「なに?」
「別に? いい枕だね、これ」
低反発だかなんだかで、それなりの高級品だったはずだ。元々私が使って、使い心地が良かったから彼女の誕生日にプレゼントした。
あの子があんまりしょっちゅうこの家に泊まりにくるものだから、枕があったほうがいいと思ったのだ。
いい物だから捨てられず、今に至るまで仕舞ったままになっていた。
ぽすん、といばらがベッドに横たわる。
「枕、箪笥の匂いがする」
「防カビ剤の匂いだよ」
「あと、こっちはお姉さんの匂い」
上掛けを鼻先まで引っ張りあげて、すん、と嗅ぐ。
「よく寝れそ」
「ばか」
罵倒するにも何かもっと他に語彙はないのか、と自分に呆れながら着替えを手にした。
洗面所に入って、ぎょっとした。縦型洗濯機の蓋に、黄緑色の下着が置かれている。
なんとなくブラのサイズをチラ見して、ふむ……と思った。
やっぱり、という感じだ。
メイクを落として浴室に入ると、知らない匂いが鼻を掠めた。
朝の通勤電車で出会ったときに嗅いだ、シトラスレモンのようなこれは。
──いばらの匂い。
ゴン。
私は風呂場の壁に額を打つけた。
大丈夫か、私。ちょっとキモいよ。
本当にどうかしてる。好きだのいい匂いだのと七歳も年下の同姓におちょくられて、変に意識して。
情けない。それでも大人か。
やめやめ、と温いシャワーを頭から浴びる。
就寝前だから手早く、眠気が飛んでしまわないように。
ナイトウェアに着替えて、部屋に戻った。
いばらは不眠症で、私が彼女に添い寝するのは、いわば治療行為の一環で。
人工呼吸みたいなものであって、照れたり羞じらったりする筋合いはないはずだ。
髪にドライヤーを掛けて、部屋に戻る。
いばらは部屋の照明を落として、目を閉じてベッドに横たわっていた。
……まさか、もう寝てる?
暗い藍色に染まった室内で、足音を殺して近づく。
なるべく静かにベッドへ腰を下ろして、整った顔を覗き込む。
緩く閉じた目に、規則的な呼吸。
長い睫毛をじっと見ていると、音もなく瞼が開いた。
「寝てていいのに」
「目、瞑ってただけ。時雨さんを待ってた」
「やっぱり、眠れない?」
「ん……」
薄闇の中で、小さく頷く。
上掛けから出ている右手が、私の上着の裾に触れた。
切迫感すら感じる目で、いばらが私を見つめる。
「早く」
強請るような、祈るような声。
なんて答えればいいのか分からないまま、私はベッドに潜り込んだ。
布団はもう、いばらの体温で温まっていた。
すぐに腕を掴まれて、抱き寄せられる。スウェット越しに、緩やかな鼓動が伝わってくる。
彼女がまとうタオル生地と、その奥にあるふわふわとした柔らかさも余すことなく。
「……眠れそう?」
「……わかんない。でも……」
私の心臓がある左側へ、いばらが頬を寄せた。
目を閉じて、夢をみるように囁く。
「……心臓の音がする」
「まあ、生きてますので……」
「……時雨さんって、朝、何時に起きる?」
「だいたい、七時くらいかな……」
「…………じゃあ、わたしが起こしてあげる……」
とくとくと鳴る鼓動が伝わってくる。
身体の強張りが溶け出すようにほつれていく。
眠れるかどうかなんて、すぐに杞憂だとわかった。
いばらの少し高い体温が、冷たい私の肌に心地いい。
足の裏と指の先がぼんやりと熱い。
「……おやすみなさい。時雨さん」
すっかり名前呼びだ。
別にいいけど。
「……おやすみ、いばら」
吐き出される息が、肌に触れてくすぐったい。
もこもこのパジャマを着たいばらは、実家に置いてきた馬鹿でかい羊のぬいぐるみにちょっとだけ似ていた。
だからだろうか。抱き寄せる感触が心地いいのは。
いつしか欠けてしまったピースが、ぴたり嵌まったような錯覚を覚えてしまったのは。
肌寒い十月の夜、私たちは身を寄せ合うようにして眠りにつく。
やがて全てが夜に溶けるまで、私はいばらの寝息だけを聞いていた。
いばら姫とおやすみ。 深水紅茶(リプトン) @liptonsousaku
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