第十話

 築三十年、二階建て。貧乏美大生の頃から住み続けている1K八半畳のアパートを見上げて、お泊まりセットを抱えたいばらは「ほぅ」と息を吐き出した。


「これはなかなか、風情があるね」


「年季入ってるって言ったでしょ。嫌ならお店まで送ります」


「嫌なんて言ってないし。ていうか、寝られるならどこでもいいよ」


「……じゃ、どうぞ」


 コンクリート製の階段を登って、二階奥へ。


「でも実際、無用心だと思うけど。お姉さんみたいな美人さんが、オートロックもないアパート暮らしって」


 美人さんかはさておいて、痛いところを突く。


「単純に手取りの問題だよ。この辺、治安は悪くないから」


「シェアハウスとか」


「……昔、大学の友達に誘われたけど。色々あってね」


 正直、今でもちょっと憧れはある。

 ちゃんとした2LDKか貸家を借りて、気の置けないメンバーでわいわい暮らす。イメージ先行なのは否めないけど、楽しそうだ。

 ここだけは、と自前で交換したディンブルキーで扉を開ける。

 電気を点けると、「へええ」といばらが感心したような声を上げた。


「思ったより、全然綺麗じゃん」


「一応、リノベ済みだから」


 床も畳ではなくフローリングだ。水回りとか怪しい場所はあるが、見た目はそれなりに整っている。

 荷物を下ろして……さて。


「もう遅いから、シャワーだけね。先に浴びちゃって。タオルは洗面所の棚の二段目、好きに使っていいから」


「はぁい」


 と言いながら、辺りをキョロキョロしている。


「どうかした?」


「知らない部屋でシャワー浴びるの、なんか変な感じ」


 そんなに面白いものがあるわけでもないのに、いばらはあちこちに目を向けていた。

 ふと、視線が一点に止まる。

 その先にあるものを見て、「しまった」と心の中で歯噛みした。

 絵だ。

 キャンバスボードに貼り付けたままの人物画。

 モナリザみたいなポーズをした女性が、油彩で描かれている。

 美大生時代に描いたものだ。この前収納用クローゼットの整理をしたときに外に出して、そのままにしていた。


「あの女の人の絵、時雨さんが描いたの?」


 へー、と感心したように息を吐く。


「すごい。めちゃ上手いじゃん」


「まさか。ただのゴミ絵だよ」

 

 空気が凍りつく音がした。

 いばらの顔を見て、ハッと口を押さえる。

 しまった、やらかした。馬鹿か、私は。


「あ、あー……えーっとね。その、あれは確かに私が描いた絵なんだけど。別に特別出来がいいとかじゃなくて。ただ、モデルが友達だから捨てにくくて取ってあるだけなの」


「……ふーん?」


 いばらは立ち上がり、キャンバスボードへ近づいた。正面から側面から、じろじろと私の絵を見つめる。

 あまり見ないでほしい。一介の──それも才能のない落ちこぼれの美大生が描いた絵に、そんな価値はないんだから。


「綺麗な人だね」


「え?」


「このモデルの人。大学生くらい? 友達だったんだよね」


「あ、ああ。うん。同じ美大生で……仲は、良かったかな……昔は」


「へー……」


 何を思ったか、突然いばらはくるりと振り返って、肖像画と同じポーズを取って見せた。


「どっち?」


「へ?」


「この絵のモデルの人と、わたし。どっちが可愛い?」


 なんだそれ。


「どっちって、それはやっぱり──や、でもな。うーん……待てよ……」


 突然のクエッションにどう回答したものか迷っていると、いばらが「むー」と不満げな顔をする。


「時雨さん、迷ってる」


「だってその子、ほんと美人だったんだよ」


「それは認めるけど……でも、わたしのほうが可愛いよ。ほら、ね? これならどう?」


 緩く握った拳を顎に当てて、あざとさの化身みたいなポーズを取って見せる。

 おどけた仕草に、ふっと笑ってしまった。

 沈みかけていた気分が軽くなる。過去に囚われた心が、ふわっと掬われたみたいだ。

 もしかして、わざとふざけて──どうなんだろう。

 だけど素直に認めるのはちょっと癪で、私はなんてことない態度を装う。


「はいはい、いばらは可愛いよ」


「あ、子供扱いした。今、子供扱いしたよね。私、もう十七歳なんですけど」


「つまり未成年ってことだよね」


「また! そりゃ、この絵の人よりは年下だけど──」


 と、改めて絵を見たいばらが目を瞬いた。


「……あれ。この人、どっかで見たことあるような……」


 ぎくりとした。妙なところで鋭い。


「いいからもう、早くシャワー浴びてきなよ。眠るの遅くなっちゃうよ」


「あー、誤魔化してる……あ、そうだ」


 いばらが口元に手を当ててニンマリ笑った。


「時雨さんも、一緒に入る?」


「は、入るわけないでしょっ」


「あは、じょーだんだよ、じょーだん!」


 きゃあきゃあふざけながら、いばらが洗面所へ駆け込んでいく。

 なんなんだ、もう。女子高生ってあんなテンション高い生き物だったっけ。ほんの……ほんの七年ばかり前のことなのに、全然思い出せない。

 私は部屋の隅に向かい、キャンバスボードを手に取った。クローゼットを開ける。

 一瞬、絵の中の女と目が合った気がした。

 私の友達。

 嘘じゃない。

 だけど彼女とは、もうしばらく会っていない。

 合わせる顔がない、というほうが正しいかもしれない。

 アーティストとして大成した今の彼女と、雇われデザイナーの私の間には、埋められない深い溝がある。

 淡く眩しく、そしてほろ苦い過去の思い出ごと閉じ込めるように、私はキャンバスをクローゼットの奥へ押しこんだ。


 浴室からシャワーの音が聞こえてくる。

 改めて、おかしなことになってしまったと思う。

 社会人三年目にして、女子高生を部屋に連れ込むことになるなんて。

 でも、さすがに二晩続けてソファは身体がキツいし。

 いばらの部屋に泊まるのはもっと駄目だし。

 あそこで見捨てられなかった以上、これは止むなしだ。不可抗力なのだ。


「……なんだか、久しぶりだな」


 ベッドに他人を迎えるのは、だいたい三年ぶりになる。ちゃんと寝られるといいけど。明日も仕事だ。最近はただでさえ眠りが浅いのに。

 やっぱり、断るのが正解だったんだろうか。でも、あんな顔を見てしまったら。

 キャンバスを片付け終えたとき、ふと気づいた。


「あ。そうだ、枕」


 枕があったほうがいいだろう。

 私はクローゼットの奥から、仕舞い込んでいた枕を取り出した。

 昔、その友達がここに泊まるとき使っていたものだ。すこし埃っぽいけれど、防虫剤はセットしてあるし大丈夫だろう。

 枕をベッドに並べる。

 これでよし。

 ……。

 …………。

 なんか、あれだな。

 二つ並んだ枕って、ちょっとアレな感じだ。

 まるで恋人──じゃなくて!

 ええと、そう。姉妹。

 まるで、仲の良い姉妹みたいだ。そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る