第九話
結局、パフェは半分くらい上げてしまった。
人並みに甘いものは好きだけど、三分の一を食べた辺りで脳が「もういいよ」と言い出し、ついでに胃袋もちょっと持たれ気味で、結局、カロリー摂取の罪悪感に負けた。
いばらは「わーい」と食べかけのパフェをもりもり完食し、ご馳走様でした、と私とアキさんに頭を下げていた。
さて。
カフェインレスのコーヒーも頂いたし、そろそろ。
「お会計お願いします」
「はい、毎度あり」
前回分と合わせた代金を支払って、席を立つ。
「ご馳走様でした。美味しかったです。ではまた」
「ちょちょちょ待って待って待って」
いばらが私の腕を掴んだ。
「お姉さん、なんで帰ろうとしてるの」
「当たり前でしょ、夜なんだから」
「私と一緒に寝てくれるんじゃないの?」
「ひと言も言ってない」
「ひどっ。じゃあ、なんで来てくれたの」
「だから、昨日の清算のためで」
「どうせ帰って寝るだけなんだよね。なら、わたしと寝てくれてもいいじゃん」
いばらが、きゅっと下の唇を尖らせた。
「一緒にいて。わたし、お姉さんがいないと眠れない」
ぎゅん、と。心臓を鷲掴みされたみたいだった。
一瞬で絆されかけた自分自身を叱咤して、腕を掴む手を引き剥がす。
「やっぱり駄目だよ、こんなこと」
「なんで?」
「それは、だから……つまり、こんな方法じゃなくて。ちゃんと病院に行って、お医者さんの言うことを聞いて、地道に治すべきだと思う」
「そういうの、もう全部やったって言った」
「私が悪い大人だったらどうするの」
「一緒に寝るだけじゃん」
「無用心でしょ。物を盗まれたりとか」
「財布とかは持ってないよ。スマホだけ」
スマホだけでも、盗難されたら色々被害がありそうだけど。
でも、それだけじゃなくて。
「それに……その、身体を触られたり、とか。寝ている間に」
いばらが、とろんとした半目で私を見上げた。
「お姉さん、私のこと触りたいの? そういう人?」
「いや違くて」
そうじゃなくて。もう全然そうじゃなくて。
今のはただの例えだ。なのに、いばらは平然と言う。
「いいよ。一緒に寝てくれるなら、好きに触っても」
「い、いいわけないでしょ」
「寝かせてくれるなら、キスでもハグでもセックスでも、何でもすればいいよ。寝てる間、わたしのこと好きにしていいよ」
「馬鹿なこと言わないで」
そう告げた途端、ゾッとした。
いばらの顔から、すとんと感情が抜け落ちたからだ。
とっさに抱いた感情は、多分、恐怖だった。
「……お姉さん、知ってる? 昔はね、数分置きに人の眉間に水を垂らして、一切眠れないようにするって拷問があったんだよ。中にはね、耐えきれなくておかしくなっちゃう人もいたんだって」
手のひらで乱暴に目を擦って、いばらが片頬を吊り上げる。露悪的な顔だった。
「わたし、今、そんな感じ」
絶句する。
本当の不眠。いばらの辛さは、私の想像の埒外にある。
「なりふりなんて、構ってらんないよ。お金でも身体でも、払えるものがあるなら払うに決まってるじゃん」
「いばら……」
「もうさ、意味わかんないんだよ。ずっと眠いのに、横になっても全然寝れないの。昼間はずっと眠くてズキズキ頭が痛くて、夜は目が冴えて寝ようとしてるのにちっとも眠れなくて、気づくと朝になってる。やりたいことも、やらなきゃいけないこともあるのに、全部投げ出すしかなくて」
手のひらで顔の半分を覆ったまま、いばらが呪詛のように吐き捨てる。
初めて見る顔だった。とろんとした半目の、ゆるくてふわふわした女子高生。そういう印象を吹き飛ばすような、割れたガラス片のように尖り、苛立つ声。
「なんでわたしだけ、こんな目に遭わなきゃいけないの」
ぽろり、濃い隈の浮いた目から涙が落ちる。
ざりざりと、心をやすりで削られている気分だった。
──どうして私ばっかり、こんな目に。
ああ。
この子は今、雨に打たれているんだ。
目には見える雨よりずっと冷たい、いつ止むともしれない通り雨に。
無意識に、手が伸びていた。
折り曲げた指の背で、透明な雫を掬い上げる。
溢れたばかりの涙は、温かくも冷たくもない。
「……ごめんね。今日は、帰らないと」
びくっと、鞭打たれたようにいばらの肩が震えた。
下を向いたあどけない顔に、さあっと暗い影が落ちていく。
それが自分のことみたいに痛い。胸が軋んで、心臓が縮こまる。
嫌だな、と思う。
この子に、悲しい顔をして欲しくない。傷ついて欲しくない。
羽で包むように甘く、優しくしてあげたい。
降り注ぐ雨に、傘を差しかけてあげたい。
彼女が私にしてくれたみたいに。
だから、思わず言ってしまった。
「うち、泊まりにくる?」
「え」
俯いていた顔が、ぱんと跳ね上がった。
半分閉じたままの目の奥に、ぴかぴかと光が灯る。
眩しさが照れ臭くて、思わず横を向いてしまった。
「い、言っておくけど、一人暮らし用の1Kアパートだからね。ベッドも狭いし、予備の布団もないし、結構年季入ってるし」
「いいの?」
まだ信じられないとばかりに、いばらが私に詰め寄った。
「ほんとに? これから毎日、お姉さんの家にいってもいい?」
「そんなことは言ってません。調子に乗らない」
「ちぇ。お姉さんのけち」
いばらが、羞じらうように萌え袖で口元を覆った。
「……うそ。ほんとは、すごくお人好し」
「っ、」
「やさしぃね、時雨さん。好きになっちゃいそう」
あ、名前。
──こいつめ!
「年上をからかわないの!」
「はぁい」
くふふ、と嬉しそうにいばらが笑う。
小さな指先が伸びて、きゅ、と私の袖を掴んだ。か弱い力なのに、絶対に振り解けない気がした。
もう引き返せない。
ああぁあぁ、女子高生を家に連れ込む大人になってしまった。いいのかな。いやダメでしょ。
でも、仕方ないじゃないか。こんな顔をした年下の女の子、放っておけるわけがない。
誰だって、そうに決まってる……はずだ。
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