翼のないカエル

七都あきら

翼のないカエル




 圭なんて、大嫌いだ!


 夕日が差し込む教室で、水風船が弾けたように僕は、わんわん、わんわん泣いていた。陸上部の先生が申し訳なさそうに言った言葉が今でも頭の中に響いている。


 ――勝負は勝負だから、今回は、ごめんね。


 嵐のなか一人で立っている気分だった。

 息が苦しくなるような向かい風に逆らって走った。だから僕の猫っ毛の髪はボサボサだ。

 額から何度も汗が伝い、床に落ちた。

 落ちた汗を消した悔し涙に腹が立った。

 泣いていない、これは汗。

 いや、泣いてるだろ。


 汗と涙が交互に上書きしあって、床の上で喧嘩している。

 僕の嗚咽以外は何も聞こえない。足はガクガク震えていた。体のバランスは、ぐちゃぐちゃなまま。先生の前で涙をこらえて教室に逃げ込んでしまった。ちゃんとクールダウンをしなかったから息が上がったままで苦しい。涙が止まらないから、もっと苦しい。

 先生が謝った理由を考えると、どんどん悔しくなるから、これ以上何も考えたくない。


 今すぐ助けて欲しい。


 そう思ったところで、僕が立っている嵐の中に、打ち上げ花火みたいな音が届いた。

 教室の前扉を乱暴にあける、ドンって音。

 僕は暗闇から真っ赤な夕日色に染まった教室の中へ呼び戻された。


「ゆうちゃん! 一緒に帰ろ!」


 そこには、さっきまで、校庭で一緒に走っていた圭がいた。いつまでも体操服のままの僕と違って、圭は私服の青いTシャツに着替え終わっていた。

 圭は僕のぐちゃぐちゃな泣き顔を不思議そうに扉のところから見ている。

 驚くとか、申し訳なさそうにするとか、先生がしたみたいな、もっとムカつく気の利いた顔をすればいいのに、こっちがびっくりするくらいに普通だった。


 えー、だって俺が勝ったしなぁ? ってとぼけた顔。


(たしかに、圭は悪くないよ。うん)


 さっきまで、大嫌いだって思っていた圭の顔を見たら、なぜか、あっさりと涙が引っ込んだ。

 圭が、謝らなかったから。

 もし勝負が終わって、圭が「ごめんサッカー部の俺が勝っちゃってさぁ」なんて言ってたら腕を振り回して殴っていたかもしれないし、もっと大嫌いになっていた。


 長距離走の勝負に負けたのは、僕だった。


 陸上の市の大会は、学年で一人しか出られない。だから勝負して一番だった子が出場するのは当たり前だった。

 頭ではわかっていても、勝負に負けた瞬間だけは、そのめちゃくちゃ腹が立つ結果を受け止められなかった。

 僕の方が、走ることが好きだし、僕の方が部活で練習している。僕の方が、僕の方が! って。


「うん、帰る。圭、大会がんばれよな」


 僕は強がりで圭にそう言った。でも俺の分までとは言いたくなかった。


「おう、絶対優勝すっから」

「ばか、サッカー部が優勝したら、ほかの小学校の選手からタコ殴りじゃん」

「でも勝つし」


 残った涙をタオルでごしごしと拭きながらだったから、圭がどんな顔をして「勝つ」と言ったのかは見ていない。


 そして宣言通り、圭はサッカー部なのに大会でメダルを取って帰ってきた。全校生徒の前で表彰されている圭の後ろ姿を、僕は体育館で「僕も一度くらい体育館で表彰されたかったなぁ」なんて思いながら見ていた。


 生徒の前で表彰されるどころか、勝負の舞台に上がることなく、僕の小学校最後の大会は終わってしまった。

 でも圭の取ったメダルが、金じゃなくて、銅だったところが、なんだか当然の結果というか、現実味があって、僕の胸にストンと収まって、そこだけは理解出来た。

 本気でやっている人と、そうじゃない人の差だって思った。

 思いたかった。


 けれど、あの日僕と運動場で勝負した圭は、間違いなく本気だった。


 僕も圭と同じように本気だった。

 じゃあ、僕と圭の差って何だったんだろう。

 思い出すたびに悔しくて圭が、ますます嫌いになった。

 そして僕、佐伯祐一は勝負の世界なんてそんなものかって「一番」を諦めた。


 ――はずだった。





 僕は中学生になって、また陸上部に入っていた。


 走高跳は最低でも自分の身長プラス三十センチは飛べる。その話を先輩から聞いたとき、そんなの嘘だろって思った。

 僕の身長が百六十センチだから、それが本当なら百九十センチまでは飛べることになる。


 翼でもないと無理だろう。


 いまの僕の走高跳の目標は、隣にいる圭の身長だった。

 圭の身長は、現在百六十五センチある。残念ながら、僕は自分の身長の高さも飛べていないけど。


「昨日、初めて走高跳やったんだけどさぁ、あとハードルも」

「へぇ、そういえば小学校の陸上部って、普通に走るばっかりだったよな」

「うん」


 高跳びを教える先生もいなかったし、僕も走ることが好きだったから、それで何も文句はなかった。


「で、思ったんだけど、小さいカエルだって上手に飛ぶじゃん」

「カエルって、漫画の?」

「そう。別に変身しなくても、普通にさ、ぴょんって」


 小学校のときに読んだカエルが出てくる漫画の話。なんの脈絡もなく、あのカエルのヒーローを思い出した。


「けど、僕はできない。なんかおかしくね? 飛ぶ前に、棒に顔ぶつけたし。先輩にはウケたけど」


 僕が意味不明な愚痴をこぼすと、からからと圭は笑った。


「同じ飛ぶでも、高さがちがうじゃん」


 そんな紙飛行機と本物の飛行機の差みたいな答えが、欲しかったわけじゃない。

 サッカー部の山咲圭は、校舎の壁にサッカーボールを蹴り上げながら、大真面目に答えてくれた。

 圭の癖のある細い髪が、初夏の突然の突風に煽られて、ふわりと揺れた。サッカー部の紺色の練習着。日焼けした肌が赤くなってなんだか痛そうに見えた。

 僕が陸上部で圭がサッカー部。何も変わっていない。

 小学校の『あの事件』以来、陸上部の僕はサッカー部の圭が大嫌いだった。

 面と向かって嫌いと言ったことはない。これは真剣勝負に負けた僕の勝手な逆恨みだった。

 だから、まだ一応、圭が一番の友達だ。


「けどさ、ゆうちゃん」


 バン、バンと壁にボールが規則正しくぶつかる音の合間に、なに? と返事した。僕は圭の隣で練習の準備を淡々と進めている。

 砲丸を白色のチョークで円を描いた場所まで足でごろごろと転がしていた。

 手を使わず、こんな横着しているところを部の先輩に見られたら怒られる。ただ、いうまでもなく校舎の隅で練習している落ちこぼれの僕なんて誰も見ていない。

 近くにいるのは、サッカー部の練習試合まで遊んでいる圭だけだった。


「走るのが好きなら、百メーターも二百メーターもあるのに、なんで砲丸投げしてんの」

「なんでって」


 好きなことやればいいじゃん、という至極真っ当な友達の言葉にムカムカと腹が立つ。

 こういうときに、忘れていた過去のどうしようもない恨みを僕は思い出す。

 別に圭は悪くないのに。

 なんでだろう。ムカつく。


 好きなことを好きに出来ない人間の気持ちなんて、圭は一生分からないんだろうって、思う。


「さぁ、顧問の深山先生がやってみたらって言ったから」


 嘘、本当は違う。圭が知っている通り、僕は走るのが好き。

 百メーターとか二百メーターの選手になりたい。でも、周りの選手に勝てないって分かっているから、自分が一番好きな種目の競技登録をしない。

 最初からスタートラインに立たずに逃げている。あんな惨めな思いをするのは、もう嫌だった。今は、ただ走れたら、それでいいやって思ってる。


「それ主体性のないやつだ」

「なんだそれ」


 圭から見えない角度で眉間に皺を寄せた。でも振り返ったときには、ニコニコと人畜無害な顔で笑ってる。圭は僕に嫌われているなんて絶対気づいていない。

 僕は擬態が上手いから。例のカエルのヒーローみたいに仲良しの友達を演じている。


「この前、母ちゃんに言われた。圭は主体性がないってさ」

「圭のおばちゃんが「主体性」って言いたいだけだろ」


 主体性しかない圭には一番似合わない言葉だ。やりたいことを他人の意見に左右されずに好きなようにやってる。

 そして、なにをやっても、やると決めたことは全部、結果を出している。

 完璧な僕の友達。


「だよなぁ。スーパーで魚と肉どっちでもいいって言っただけだぜ?」


 圭に肉って言われて急にお腹が空いた。まだ放課後練は始まったばかりだった。


「主体性あるよ。僕は肉がいい。圭、帰りにコンビニ行こ。つくね串と肉まん食いたい」


 帰り道の買い食いが親にバレたところで、夕飯はちゃんと全部食べるから問題ない。もし問題があるとしたら、帰りに先生に見つかったときだけだ。


「聞いてねぇよ、行くけどさ。俺はハムカツな」


 圭は歯を見せてニカッと笑う。


「驕らねーよ」


 あの大会のあとから、圭は僕の前で走っていないし、好きなサッカーだけやっている。そうして僕は、なぜか走って飛んで投げている。

 高飛びも砲丸投げも苦手だ。できるならずっと走っていたい。

 でも、一番好きなことをする勇気がない。


 小学校で出場枠があったように、中学校でも誰がどの種目に出るかは成績順だった。最終的には顧問の先生が競技種目を決める。

 僕が通っている中学校の陸上部自体はそれほど大所帯ではないけれど、それでも三人の枠の中に四人希望者がいれば、一人は出場できない。


 僕は、どの種目もそれなりだったから、じゃあ、混成種目をやったらどうかと先生に勧められた。

 四種競技は、短距離、中距離、走高飛び、砲丸投げ。なんでも満遍なく出来ることを目指す競技だ。

 僕は、部活の中で人気がない種目に逃げている。

 学校には、走ることを教える先生はいるけれど、高飛びや、砲丸投げがわかる先生はいなかった。だから、まずは、部室にあったぼろぼろの教科書でルールと投げ方を覚えた。


 砲丸投げは、あごの下に、鉄の玉を乗せる。タンタンターン、とリズムを刻んで、腕を前に押し出すように投げる。

 壁に狙いを定めてぶつけた。普通なら校舎の壁に鉄の玉なんて、当てたらダメ。校舎のコンクリートの壁にひびが入るから。


 けど、だれも校舎の端でやってるこの練習を叱ったりしない。

 ここで練習してもいいと言ったのは陸上部の先輩だ。

 誰も僕のことを見ていない日陰での練習は楽だった。上も下もない。競争する相手もいない。代わりに張り合いもない。


(四種で夏に大会出たら、今と何か変わるんだろうか)


 そう思いながら、隣で遊んでいる圭の横で、黙々と鉄の玉を投げている。

 誰も見ていないと思っていたが、圭が僕を見ていた。


「あー、なんか、ゆうちゃんの腕折れそう、バキって」

「ばか折れるかよ!」


 筋肉隆々でもないし、本気でやってる選手みたいに首も太くないから、そう言った圭の気持ちは分かる。

 怪我しそうで練習姿が、周囲に不安を与える。

 もしかしたら、毎日一人で砲丸を投げている僕が心配で、圭は見に来たんだろうか。

 考えすぎか。

 同じ力で投げたとして、サッカーボールなら、僕の胸まで跳ね返ってくるが、鉄の塊は壁にぶつかると地面に落ちた。

 ゴトンと鈍い音のあと、鉄の玉は、壁のそばで止まって転がりもしない。

 この鉄の玉を、人より遠くに飛ばしたいとは思ってない。高跳びで誰よりも高く飛びたいとかも思っていない。


 ――誰よりも早く走りたいとも思っていない。


 陸上競技場の広いトラックを走っている自分を想像した時、一瞬思考が停止した。

 走ることに関しては、まだモヤモヤが消えない。


「じゃ、ゆうちゃん、あとでなー」


 グラウンドの中央でサッカー部の集合がかかった。練習試合が始まるらしい。

 陸上部のスパイクと違ってサッカー部のスパイクシューズはアスファルトに擦れても鉄が軋むような嫌な音がしない。僕のスパイクは長い鉄のピンが付いたままだった。個人練では走らないのに脱ぐのが面倒でつけたままだった。

 だいぶ削れて先は丸くなっていたけど、歩くたびにグラウンドの砂に擦れてざりざりと嫌な音を立てる。走れば走るほど、削れて小さくなるこのピンが努力の証らしい。継続は力なり。

 小学校のとき先生が言っていた。

 いま陸上用のスパイクシューズで走ったら、僕は圭に勝てるんだろうか。

 また、負けるんだろうか。


(もう、どうでもいい)


 僕は圭に怖くて聞けないことがあった。

 どうして、走るのが一番好きじゃなかったのに、小学生のとき陸上の大会に出たのかって。

 僕から選手の座を奪いたかった。

 そう言われたら、僕は今度こそ、面と向かって圭のことが大嫌いだと言える。

 けれど意気地なしだから聞くことも出来ない。

 何より圭は、そんなこと言わないと僕は知っている。だから余計に大嫌いって気持ちが募っていった。




 このまま、何も変わらず圭との歪な友達関係は続くんだと思っていた。

 小学校から数えて競技人生が三年目になった日。

 体育祭のクラス対抗リレーで選手に選ばれた。

 圭とは二度と勝負したくないって思っていたのに、隣のクラスの圭と再びリレーで勝負することになった。僕は、陸上部だからと言われてクラスで最終走者に選ばれて、圭はクラスに陸上部がいないから運動部を理由に選ばれたらしい。


 正直、また圭かよって思った。


 僕は、圭に対してずっと、嫌いと好きを抱えたままだった。


 体育祭。クラス対抗リレーは最後の種目だった。僕たちは校庭のトラックの内側で走る順番を待っていた。


「なぁ、ゆうちゃん今週号もう読んだ?」


 第一走者が百メーターを過ぎたところで、圭は呑気に僕に話しかけてきた。

 こっちの気も知らないで。他にも仲のいい友達なんてたくさんいるのに。


「絶対、ネタバレすんなよ。帰ってから読むんだから」

「えー内容喋りたいからさ、あとで部室読みにこいよ」


 当然来るだろ? みたいな顔で言われて、うげって思った。こういうところが大嫌いだ。


「圭以外知ってる人いないのに何で部外者の僕が入れると思った。絶対先輩に怒られるじゃん」

「なんで? 余裕だろ。俺の友達って言っとけばいいじゃん」

「そういうの、さぁ」

「なんだよ」


 その言葉だけで圭が、人気者で周りから好かれているんだなって分かる。日陰者とは違う。圭は僕と違って小学校のころから友達が多かった。けど、どんなに周りからもてはやされても、鼻にかけることがないし嫌味なところがない。誰から見てもいいやつだ。

 僕だって、こいつ何考えてるんだってイライラすることもあるけど、圭だし別に悪気はないしと思ってしまう。そういう男だ。だから嫌い。

 そして、そんな圭の底抜けの明るさが好きなのは、他でもない僕だ。


 ――あのときだって。


 試合の前は、いつもあの真っ赤な夕日の教室が頭に浮かぶ。

 いい加減忘れてしまいたい。トラウマだ。

 未だに過去の勝負事を恨んでモヤモヤしているのは僕だけで、圭は僕が出場したかった大会でメダルを取ったことすら、きっともう忘れている。

 ちらりと隣を見たとき、圭は何か思い出したような顔をして口を開いた。


「あ、そうだ、ゆうちゃん、久しぶりに勝負しよ」

「は?」


 そういうところだぞ、と思った。

 圭のダメなところ。僕が大嫌いなところ。


 嫌味なく、勝負しようとか言ってくるところ。昔、僕に勝ったことをちゃんと覚えているところ。

 たちまち頭の中が大混乱。

 勝てるのか、また負けるのか。これ以上傷つきたくない。そんな気持ちがぐるぐる回っている。

 けれど久しぶりに勝ち気な僕が姿を現した。

 体力測定でやる百メートル走じゃないし、今日は余裕で勝てる気がした。陸上部は普段その何倍も練習で走っている。何本も、何本も。何なら、競技場の四百メートルのトラックだって走っている。


 そう思った瞬間。あ、僕、今のコイツに絶対勝たいって思った。


 思ってしまった。負けたくない。そもそも負ける気がしない。

 圭に勝ちたいと思ったのは、あの小学校の勝負以来、初めてだった。


「……いいよ」


 出来るだけ軽く返すつもりだったけど、声が少し上擦った。悪魔みたいなことを考えている悪い僕が、今日こそコイツを泣かせてやるぞって思っていた。たかが体育祭のリレー。僕に負けたところで圭が泣くとは思えない。

 それなのに武者震いしていた。小学校の選手選抜の勝負だって、こんなに手は震えなかった。だって、あの時は絶対、隣の男に勝てるって自信があったから震える必要もなかった。


 あれから毎日、走ってる。だから、今度は大丈夫。


 勝てたら飛び上がるほど嬉しいだけで、競技場の掲示板に記録が載るわけでも、ましてや全国大会への切符が手に入るわけでもない。

 体育祭で圭に勝ったって何の意味もないのに、大嫌いな友達に勝てるかもしれないと思った途端、俄然やる気が出てくる。


 毎日ジャンプしているカエルは、当たり前のように飛べる。

 あの日より走ることが当たり前になった今の僕なら、大丈夫だと思った。


 目の前で流れるようにバトンが渡っていく。参加している選手は全員運動部だった。

 だからそれほど差はついていない。圭との勝負にうってつけのシチュエーションだった。

 サッカー部に、バレー部に、野球部。卓球部。

 意外に卓球部の足が速かったことに内心焦る。


(え、大丈夫だよな。僕)


 さっきまで絶対勝てると思っていたのに、また惨めな思いをするんじゃないかって気持ちへ傾きだす。とにかく順番が回ってくるまで頭の中が忙しかった。

 やっと最終組がスタートラインに立ち各々バトンを受け取った瞬間、ふと横を見ると、圭の顔は僕を見ていなかった。


 その瞬間「なんでだよ!」って圭の胸ぐらを掴みたくなった。


 さっきまで僕と勝負しようって笑って言ってたのに、今は「違う誰か」を見ていた。圭は獲物を見つけたオオカミみたいな鋭い目をしていた。

 短距離走だから後半を意識したペース配分なんて必要ない。がむしゃらに走っている間は、ほとんど息を止めている。息をしたかなんて覚えていない。隣で誰が走っているかも、その間だけは忘れていた。

 走る前に一瞬見た「圭が見ていた誰か」の存在も走り出したら忘れていた。それどころか、圭のことも忘れて僕は走っていた。


 この何も考えずに無心で走っている時間が、僕は好きだった。


 だから走っている。


 勝ち負けなんて、どうでもいいって思っている瞬間が好きだった。

 上だとか下だとか、記録だとか考えているのは、いつだって走る前と走った後だけだ。

 走っている間の、この無の時間が永遠ならいいのにって思う。

 けれど、勝負は一瞬でついた。

 僕を含めた上位の三組は、同時にバトンを受け取った。ゴール直前まで差なんてなかった。

 けれど僕は終わりの瞬間を、ちゃんと見ていたし、圭もゴールの瞬間だけは左右を視線に入れていた。


 勝ったのは、一組のサッカー部のエース。


 僕の知らない誰か。


 けれど、それは圭がよく知っている人だ。サッカー部だから。

 僕は、不思議とその名前も知らないサッカー部の誰かに負けたことが悔しくなかった。あと、僅差で圭にも負けたのも悔しくなかった。


 ――山咲、足速いんだなぁ。


 豪快に笑うサッカー部のエースは、さらりと僕たちに勝って、そう言った。

 顔を真っ赤にして、らしくなくイライラしている圭の横顔を、僕は、肩で息をしながらぼんやりと見ていた。


 陸上部なのに、サッカー部の二人に負けた情けない僕。その僕をおいてけぼりにして、圭は、夕日みたいな真っ赤な怒りの中にいた。


 走る前まで圭のことが大嫌いだった。でも、その瞬間、圭のことが好きだと思った。


 あと自分が負けたことより、圭が、知らない誰かに負けたことの方に腹が立っていた。


 意味が分からないよな!

 理不尽だよな!


 って、圭の肩を叩きたい気分だった。現金な僕だ。

 僕が絶対負けたくないと思っていた圭にも、絶対に負けたくない人がいたらしい。

 それが分かった。


「なぁ、圭さ」

「なんだよ」


 らしくない不機嫌な声だった。こんな態度が悪い圭は初めてだ。けれど、これはあの時の僕だと思った。真っ赤な夕日の中で、情けなくてわんわん泣いていた僕が、隣にいる。

 中学生の圭は泣いていなかったけど。

 正直、怒ってる圭を見て、僕は嬉しくてたまらなかった。


「やっぱマンガ部室読みにいく」

「え?」

「そんで、一緒に帰ろ」


 別に圭のこと、大嫌いでもいいやって思えた。大好きだから。

 胸がすっとしていた。

 飛べるのに、届かないところがある。


 僕たちカエルには、翼がない。



 おわり



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

翼のないカエル 七都あきら @akirannt06

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画