クラミとエーミール
朝尾羯羊
Ⅰ 大フィッツランドの歴史において
石造りの講堂には、王国の主な産業である木材加工のいろはがふんだんにあしらわれていたから、人間の手の触れるところ、座るところ、またその上で作業するところには、暖かなチークやカバノキの木目が顔を出し、いかにも、高原にある小王国の、光とのたわむれを何よりのたのしみとする、明るく軽い空間をつくり出していた。日の光りは
朱・金いろでもってえがかれる荘重な大陸の光とはことなり、王国の画家たちは、石灰とアズライトのみを用いて、降り注ぐ光のやわらかな神聖性を描くことにかけては、大陸にもひけをとらなかったが、低地諸州が王国からの独立をはかってからというもの、何かと顔料が手に入りにくいこともあずかっていた。
天井画は、見上げるばかり、頭上に牛の目のようにあいたオルクスをめがけて、瑰麗な雲が、すぼまったようにたちあがり、それらの雲の上方にことに眩しい光があつまり、白銀の
神話をうごめくものたちは、今やいささか単純な線と、
紋章官補はしばらく口をつぐみ、画家がこのごろつかうという舶来のチョークが
上級紋章官臨席の上である。遠眼からでもそれと知らるる、色あざやかなベルベットのタバードは、
官補は、これが等級をあらわす、みごろよりも長いダマスク織のシルクの袖をひるがえして、聴衆に向きなおり、えがき了えたばかりの図形について解説を加えはじめた。
「ごらんのとおり、これらはみな、フェンニルのヂスプレイドをえがいたもの、またえがいたのではないかと思われる、違反紋章に属するたぐいを、簡単にではありますが、スケッチしました。さて、みなさんこれらのうち、どれがほんとうの正統なチャージで、どれがにせもののチャージであるか、見わけがつきますでしょうか」
九つのヂスプレイドはえがきなれたものと見え、よくその特徴をつかまえていた。みずからの翼をマントのようにΨ字形にかかげ、そこからさらに羽根の軸が、きれこみのある、つややかな弁をつれて伸び、放射状の線形は、ソテツの葉を思わせた。くちばしをえがく観点からか、アフロンテはなく、ふりたてられた頭は、デキスターを、あるいはシニスターを向いていた。趾からするどい爪にかけてなにかをつかんでいるものもあれば、単にベースに長い尾羽を垂れているだけ、というのもある。
ところで、翼をのすを
ところが、官補はいちばん左はじにえがかれたこれ以外の八つの図形の右肩にペケをうち、堂下の人たちを騒然とさせた。
「驚いてはなりません。よいですかみなさん、私たちはたしかにフェンニルの
という言葉も訖らぬに、フェンニルをめぐっては、白線で二重の堀がうがたれ、可惜や、白亜はこなごなと、スレートの斜面をころがり落ちてゆく。のみならず、堀は、デキスターチーフが内側にむかってまどかにくぼんでいることについて、説明が俟たれた。
官補に言わせれば、フェンニルは怪鳥よりもコウモリによって譬類されるのだそうだ。その翼には、細長くのびた指の叉のあいだに膜をはる、コウモリの翼手に似た筋が浮き出、角ぐんだ耳はコウモリのそれのようにそむき合っている。なるほど、胸のむくげはつきて竜骨があるとおぼしきに、さらにひとまわり小さい紡錘形の器官が透けて見え、そこをかなめにして、蛇のようにのたうつ筋が――
とは言え、そのあまりに先史的で抽象的な体のつくりは、出自に対するほまれを発揚しづらかったし、純血をあらわすチャージであるのに、なぜこうも
「ではいったい、フェンニルはいつから鳥のようなものと目されるにいたったのでしょうか。わかりますかな。それは、……ああ、それというのも、カールレスーリの時代に、やむを得ないとは言え、異教の神となれ合いはじめたときからですな。帝座に返咲くさいの持参金として、私たちの先祖は、営々とたがやすことなき空の鳥に身をやつし、あまつさえ、『三日目の復活』を象徴するところの、フェニキスと同一視されてしまいました。そのしのびやつすや、東方は聖地をはるにこえてセリカまでを旅したという、ジョヴァンニの証言によったものでして、もちろん、サル・カエサリスが紋章にしている双頭の鷲もさることながら、今のようななさけないしもべの姿に折衷されたのです。彼の証言は、いまさらここにくりかえすまでもありませんが、死期が近づいたのをさとると、フェニキスは杜松の枝をくわえ、身をもえさかる
息をもつがせぬ縁起絵巻をひとくさりそらんじ果せたれば、朗々たるものこそあれ、官補は陶酔からおどろいたように目をみはり、
「おほん。……ええ、どういたしまして。しつこいようですが、私たちの先祖は、みずからそのように身をやつしているだけであって、まかり間違っても、そのようなものになったわけではありませんので。よろしいですかな。フェンニルを模したチャージの濫造はそれからあとを絶ちませず、紋章調査はこの一五八年のあいだにかれこれ一四〇回おこなってまいりましたけれど、その数なんと六千の大台にのぼったほどです。なかんずくフェンニルの偽造は、厳罰に処せられますから、それこそ東奔西走のありさまで、紋章がしるされた家財はなんであろうと焼討ちにあいます。まことに身売りによるわざわいの根はたちがたく、国外にまで及んだ、この負の遺産にかんしてはいまさら回収もままなりません」
官補はあえて言及をさけたように、エーミールは思った。紋章院設立のきっかけは、典型的にノルディッシュな偶像としてフェンニルがあおがれるのを、直系がうれいたからではなく、たりない封土にかえて形なきものをあたえるべく、ひいては加増を、排他的にたいへんなほまれとするねらいからだったようだ。
「ユングリング朝では、たとい養子をむかえて王に立てたときさえ、決してフェンニルのチャージは継承させませんでした。それほどにフェンニルのチャージはもとは神聖な
みずから
みんなのうたた寝をおびやかすような調子が、官補にはあったけれど、エーミールのそれは、
カールレはフランク語風の洗礼名でよばれるのを好み、シャルル=ルイ・ド・カルスクロンを名のったから、この嫡流による治世はカルルスクローネ朝と呼ばれる。カルルスクローネは、低地にあった一領邦の名である。ユングリンガルの血を引くはじめてのフランクの王となり、のこっていた十三家の末流をあわせて北の辺境にすまわせ、この
しかし、通婚の禁をおかすことで、時のフランク王室の
「せんだって出されたお布れから、殿下のお考えをおもんみますに、私たちはますます自分たちの血に忠義立てをせねばならぬ時代に帰ってゆくのでありますが、そういったなかでも、私たちの忠義を、私たちのなかから、一身に担う者があらわれねばならぬということを、みなさんに知っておいていただきたいのです…」
一瞥はれっきとした視線となり、エーミールへとまっすぐにそそがれている。彼はしゃんと姿勢を正したのに、官補は注視するのをやめなかった。うたた寝を見とがめられたのではないのかしらと彼は思った。
官補がそれにつかれている、言おうようない狂熱は、彼の舌を詩人のように滑らかにしていたが、血の熱に発しているのではあるまいと思われた。彼自身はひじょうに量感のある黒髪をこまやかに
一人ひとりが長官の手の甲にじかに額を
目を飽かに、長大なる
かたむきかけた日の光りが、宮廷と棟続きの、今いるこの建物じたいが落としている
胸壁の
廊をいくどか折れたあとだった。同胞がうしろからやってきて、エーミールの肩に手を架した。ところが、折あしく人がとおりかかったので、二人はしばらく口を箝しなければいけなかった。苟も宮中である。石の床に音を立てまいと、かかとが高く、装蹄された馬のように裏打ちがされてある靴を、ぬきさしするならいだが、あいてが神殿付き祭司とあっては、秘書とその供廻りをつれてとおりすぎてしまうまではすれちがわないで、駝鳥の羽飾りのあるつば広帽子を胸のところにかかえて、待った。
いちめんの石灰華の壁には、あの幾何級数的なめまいのようなもののあとはかなく、ちいさな虫を宿しているかのように、無数の穴があいている。見るものはおぞけをふるった。宮廷作法は繁縟であり、彼らは講義のたびに綺羅をかざった。しかるに、たどるたどると室内装飾がことそがれていくにつれ、相対的にそのよそおいの華美がきわだってくるのは、騎士課程のだれもがとおる道である。
「あの人はいったい、どういう人なんだい?」
とエーミールから口を切った。講堂を出しなに、あの木の枠にはまった大きな石盤をもつのを手伝いましょうかと、ハラルドが申し出ているのを見ていたから、おおかた、見知り越しだろうとの見当をつけていた。
「あの人っていうのは、どの人のことかな?」
こうハラルドは応じたが、その問いを予期していただろうことはようすでわかった。彼は彼なりに運動をはじめているふうだった。
「きまってる。あの黒髪の紋章官のことさ。耳のわきはきれいに剃っているけれど、どう見ても彼は、同胞っていうかんじじゃない」
「ご名答。あの人はたしかにジューダス系だってじぶんで言ってたよ」
「それにまだ若いのに、たいした弁士じゃないか」
「あれくらいでないと、軍使はとうていつとまらないだろうからね。もとはグリーンベリル隊の旗持をつとめていたらしいけど、あのよくとおる声のおかげで、出世が早まったんだと」
「いや。そういうことを言ってるんじゃないんだ」
エーミールはことさらとがった言葉を同胞の前ではつかってみせたが、抑揚はへんにおさえられており、まるで、さざなみが立つくらいの関心しか、もっていないようにも聞きなせるのであった。
おそらくそこで支えたらしい、ハラルドの
「ぼくが言いたいのはさ。ちょっとも血を分けてない民族の昔のことなんかを、あんなにわが事のように語れるものかと思うと、ふしぎだってこと」
と言った。
「まあまあ…」
「それも、ぼくたちみたいなのを前にして、だぜ」
「それどころか、彼はじぶん自身をもふくめて、私たちって言ってるくらいだし…」
「そうだった、そうだった。……それがなんだか引っかかってたんだ。大胆すぎやしないかって」
「われわれを奮起させようとの考えからでは?」
「いや。それだと好意的にとりすぎてる」
「要職の、高等法院やなんかで、ジューダスの人が緋いろのシャウベを着ているのはいまさら見慣れたものだし、昔っから、彼らからいくたの文化人が輩出してるじゃない」
「やれやれ…また君のひいきかね。そんなんだから、いつだったかの大国も急速に衰えたんだろうに」
そこに疑問をもたないことが、いかにもわれわれらしいところだとエーミールは思っている。ジューダスもそのかみは、しばしば外国から指導者をえらんだことがあったらしいが、それに似た、きみょうな性癖がフェンニーにもあった。自分たちのことについて少しあなたまかせなところがありすぎた。
いっぽうハラルドは、自分がジューダスの人々に親しみをいだくことの争いがたさを、この友人にはわかってもらいたいと日ごろから思ってもいた。
ジューダスによって、フェンニルが、預言者の跡にしたがうものとされたのに徴すれば、フェンニーは他の教典の中におのれのすがたを見つけることができ、かくして彼にあるやすらぎが与えられた。のみか、民族全体の上を手をひろげたようにおおっている、予と名を告らす主の不在感への、やすらぎでもあった。クロマニッヒの主は、フェンニルを使者として送り出しているからこそ、そこには主がなぜそうせよと命じるのかという説明がない。預言のえも言われぬ法悦のあとに、子孫に言葉がなんらのぞまないよるべなさは、ともづなを解かれた舟のごとく、見はなされたもののくるしみを、ジューダスの釈義につながることで、いやされるように思われるのだった。
大陸統一は第二神殿時代である。習合はそれだけ、カールレ以前から、神学上の懸案でながらくありつづけたが、付会によるほかはなかった。先に起こったことの原因を、あとの出来事のなかにもとめるにひとしかったからだ。いっぽう、フェンニーがすみやかに聖公同教会を受容したことで福音はあまねく伝わることとなり、洗礼者ヨハネの伝で、道をまっすぐにととのえたわざはあらそわれない。教典の外においてカソリックとかたくむすびついたのだが、肝腎の付会のほうは、むしろジューダス教がフェンニルを併呑するための便宜をはかったようなものだった。
「はやい話が、一方的な
とエーミールが言うと、ハラルドの眉は、おもいなしか、櫂のように手前に引き寄せられた。
天蓋はようやく二人の上からとりさられて、見上げた空に、はやくも星がさんざめいている。
十里のあなたを遠しとせざる、万弩とじりり、ちょうと引かれ、市壁の外、野はまだいちめんのくれないである。フェンニーの目はその射程にまさるものがある。牧場の丘のむこう側に影がうずくまった。しかし野らでは、まだまだ多くの人たちが立ち働いている。
斜路をへて、ここから下ベイリーまで馬が駆けそうにきつい勾配をくだらなくてはならないところで、
「さっきの話だけど……」
とハラルドがめずらしく話をむし返した。
「じつはもう、そんなくくり方では追っつかないくらいに、事態は進行してるんだ」
「そんなってのは、何のこと?」
「シンクレティズムだよ」
「ふむ……いや、僕が理解してるところでは、だよ。なんでも、フェンニルの活動期は、預言者が絶えたのと、ヨシュアがあらわれた時期のちょうどさかいだったから、そこに預言のつづきを見て、クロマニッヒの終末観を容れることで、すでに来てしまったメシアをうまくかわす、というか、あたかも成就したあとの預言書の、もぬけた殻みたいな、さく然としたかんじをぬぐうために考え出された、まあ、修正案みたいなつもりで、言ったんだが」
ハラルドとしては、一方的という点に異を唱えたかった。すなわち習合は、カソリックへのそれよりも、一部フェンニーののぞむところであった。ところが、エーミールが習合主義それじたいをただし、そこで話は思わぬかたへ逸れたみたいだ。
「まちがってはないよ。未達の預言部分をもつことは喫緊事だし、それが聖典を聖典たらしめてるわけだからね。なまじ、福音に相続されるよりは、こっちからクロマニッヒに相続されにいくことの方が、預言のみずみずしさを保存する上で、利益は大きいよ。でも、ヒスパニアの大迫害からこっち、される側にとどまらないことが多いんだ」
「はあ……というと?」
「きいたことないかな?
「さあ」
「その
根拠はあげたらきりがなかった。そのなかの一つ、ゼカリヤ書第八のまぼろしによれば、北の国にむかって出て行った黒馬がひきいる戦車が、その地に主の霊をとどまらせた、とある。主の霊とは、異邦人がけっしてもち合わせることがないという、人間に
エーミールはすこしうろたえた。
「いや…しかし待てよ。フェンニーとジューダス。僕とあの紋章官。みためからしてまるでちがうじゃないか。さすがに、それはどうかと思うんだが」
「もちろん、それはそうなんだけど……ジューダスはもとより地縁的なもので、血縁にかかわる区別じゃないからね。ネシャーマーが宿っているか否かが、彼らが自他をわけるときのかなめなんだよ」
「だから髪いろ、目のいろ、肌のいろなどは関係ないと…」
エーミールの口をしばらくきけなくするには、これでじゅうぶんであった。霊がからだのちがいをのりこえようとするのは、一見、平和そうな考え方に思えなくもない。されど、後覚の徒のあとに先達がつづくということは、いくら兄弟どうしでもできにくい。当然、後覚の徒は先達にその根源的なものをゆずらざるをえない。フェンニーはジューダスのかたわれなのである。それにしろ、十三の天使を、かつて召し上げられた預言者の転生したすがただとするのは、いかにもジューダスらしいやり方だと彼は思った。彼らのセフィロートの体系をとりかこむ堆又堆は、けっきょくのところ、横断的象徴による世界観以上のものではない、とエーミールはきめつけていたからだ。
クラミとエーミール 朝尾羯羊 @fareasternheterodox
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