世界から見たら煌びやかな終幕

 二千十六年、彼女は一歳になった。自分が歳を重ねたことなど気づいてもいないだろう間抜け面で、薄暗い電球に照らされる寝呆けた妹は俺の指をしゃぶっていた。


「本当に、この子はお前が大好きだなぁ」


 俺の腹ほど、背の高い椅子に腰掛けて、缶ビールをちまちま飲みながら俺たちを見つめるのは父。

 愛おしむような、はたまた憎むような。時折怖い目で妹を見る父だけど、俺は嫌いじゃなかったよ。




 二千二十年、彼女は五歳になった。五歳の誕生日にもなると、当然自分の年齢が理解できるようになっていた。

 「可愛いっ! 今何歳なのー?」俺の家に遊びに来た女子数人が、俺の妹を見ては口を揃えてそう言った。それに妹は照れくさそうに五本の指を弱々しく立てて「いつつ」って言うもんだから、全人類がハートを射抜かれるのは仕方なかった。

 相反して、父親の帰りは一層遅くなった。酒癖も悪くなり、ちびちびと嗜む程度に酒を飲んでいた父は浴びるように酒を飲むようになった。

 それでも、酔った父がこぼすのは今は亡き俺たちの母親への愛と、俺たち子供への愛だった。




 二千二十一年、彼女は六歳になった。晴れて保育園を卒園、小学生へと足を踏み出した妹は毎日が楽しそうだった。

 入学式なんかでは、父は盛大に泣いていた。俺も、あんなだった妹が立派になった姿に、少し泣いた。


「おに、泣いてるの?」


 生後九ヶ月、他の人より一足早く呼び名を理解した……かは定かではないにしろ、彼女は俺をおにと呼んだ。

 父が「こっちはお兄ちゃんだよ〜」なんて甘く問いかけていた甲斐か、初めて口にした言葉はおにだった。

 その呼び名は今も変わらず、小学生になってもなお俺をそう呼ぶ。

 そんな妹は、俺の自慢の妹だった。




 二千二十二年、彼女は七歳になった。習い出した掛け算、当時の俺もつまづいたことを思い出して、親身になって教えてやった。問題が解けるたびに大袈裟に褒めれば、妹は嬉しそうに「おに、大好き」って俺に抱きついた。俺も優しくぎゅっと抱き返した。

 父親は、以前よりさらに酒に溺れていた。出費がかさむ酒、それを「やめてほしい」と言い出せるほど、俺は偉くない。

 酒に溺れた父は幸せそうに寝るものだから、何も言えなかった。




 二千二十三年、彼女は八歳になった。今年で三回目の運動会、二連敗を喫している妹は今年こそと燃え上がる熱気を立ち昇らせながら意気込んでいた。「昼にはお弁当を作ってやる」なんて父子揃って見栄はったから、その日は二人して早起きして必死に弁当を作った。二日酔いにやられながらも弁当作りに真摯に臨む父親は、俺の理想の父親像でもあった。

 長い時間かけて作ったキャラ弁、題材は妹が好きなアニメのキャラクター。参考画像よりは少々出来が悪いにしろ、男二人で作ったにしては十分だったろう。

 起きてきた妹は「お弁当、出来た?」って聞いてきた。俺と父は自信満々に「昼を楽しみにしてなさい」と、口を揃えていったものだ。

 その日の昼前「そろそろ出ようか」と、俺と一緒に弁当を持って家を出た父親は、俺の半歩先を歩いていたから信号無視の車に轢かれて死んだ。

 現場には、あらぬ方向に四肢を曲げ血に塗れた父親と、見るも無惨に飛び散った弁当があった。即死だった。運転手は、飲酒運転をしていたらしい。酒に溺れる父は、酒に溺れた男に轢かれて死んだ。何も、上手くない。

 昼、妹はきっとさぞかし不安だったろう。探せど見当たらない父と兄、「お弁当楽しみだから、朝ごはん食べない」って家を出た妹は、腹を空かせて不安に駆られて、泣いていたかも知れない。俺は現場から動けなくて、妹を放置した。ごめん、ごめん。




 二千二十四年、彼女は九歳になった。大学を卒業した俺は就職、何とかそこそこの企業に勤められることになったから、短い間だが住まわせてもらった叔母の家を二人で出ることにした。

 本当は、妹に何不自由なく暮らして欲しかったから、一人で出ようとした。でも、父親が死んだ時と同じくらい泣き喚く妹をおいて、俺一人家を出れるはずがなかった。

 本当に俺は、妹に何不自由なく暮らして欲しかっただけなのかは、考えたくない。




 二千二十五年、彼女は十歳になった。俺が契約した家が遠方の都合、妹は学校を変えることになった。それでも嫌な顔一つしなかったのは気遣いか、俺に嫌われたくなかったからか。

 学校の行事で二分の一成人式をやることになったらしい妹、俺は社会人になりたてで右も左も分からず、休みが欲しいと言い出せなかった。結果、俺は授業参観や運動会含めて、全ての行事に顔を出せなかった。それが理由で妹がいじめに遭い出したのは、伏せられていた以上俺に知る由はなかった。

 知る由は、なかった。だから、仕方なかった。仕方なかった。




 二千二十六年、彼女は十一歳になった。可愛いというよりは綺麗という方向に成長した妹、自分の妹という贔屓目無しに大衆からは群を抜いて綺麗になった。

 死んだ母親の遺伝で、微かに白みがかった黒髪。奇跡的な兼ね合いが生む髪色は、まるで雪が降りかかったみたいな。

 たまたま早く仕事が切り上がったから、俺は誕生日ケーキを買って帰った。「久しぶりに、一緒にお風呂入ろ」と言われて、困りつつも断りきれず、一緒に風呂に入った。局部からは出来るだけ目を逸らしたが、微かに膨らむ胸が成長を感じさせて、少し泣いた。

 風呂を上がってからは髪をといてやった。物をねだらない妹、俺が独断で買ったドライヤーと櫛を使えば、妹は心地よさそうに猫みたいに「ごろごろ」って喉を鳴らした。

 昔、母親の髪をとかせてもらったことを思い出した。子供ながらに分かるほど綺麗な髪、それを妹も受け継いでいるようだった。

 髪をとく最中、妹はスースーと寝息を立てて眠りについた。俺はそれを見て息を吐き、ぎゅっと抱きしめてからソファに寝かせてケーキを冷蔵庫にしまった。


 俺が借りていた家は、何だか不思議な家だった。玄関を開けてすぐに覗くのは階段。二十段ほど登った先にあるのは微かなスペースと扉。そこは、俺と妹二人の寝室にしていた。

 玄関を開けて中に入って、左手側にはリビングだ。少し湿った木の匂いがしたが、俺はそれが嫌いではなかった。妹が好きだったかは、分からないけれど。




 二千二十七年、彼女は十二歳になった。十一歳の頃より一段と綺麗になった彼女は、ありがたいことに反抗期など訪れずに俺に接してくれていた。


「おに、おかえり」


 そう言いながら、玄関を開けた俺に抱きつく妹。俺は一瞬驚いて、すぐに微笑んで「ただいま」と返した。リビングからするいい匂いに気づけば、妹は俺の手を引いてリビングにいざなった。前の家から持ってきたボロい机と椅子。俺用の椅子は昔父が座ってた背の高い椅子。机の上に置かれるのは、白米と味噌汁、それに生姜焼き。


「これ、お前が作ったのか?」

「うん。あ、お肉はお小遣いで買った」


 俺が妹にあげている、月六百円の小遣い。それで買ったという肉——どころか、俺の家には生姜なんてもののない。それら調味料を、自分の懐からやりくりして買ったとかいうもんだから、俺は盛大に涙した。

 妹はそんな俺を笑って「冷めちゃうよ?」と食事を急かした。


「美味しい……っ。美味しいよ、美味しい。世界一美味しい」

「大袈裟」


 妹の作った生姜焼きは、きっと天才的にちょうどいい味だったのに。俺の涙が加わって、白米と食べなくては塩辛くなってしまった。

 そんな俺を、妹は優しく笑った。




 二千二十八年、彼女は十三歳になった。小学校の卒業式には、俺は会社から休みをもらって行けた。ある程度社会での生き方が分かって、休みの貰い方も学んだ。

 俺ははちゃめちゃに泣いた。二人で写真を撮って、家に帰ってから父も映る入学式の写真を見返して、もっと泣いた。

 中学の入学式は、俺と妹の二人で撮った。小学校と違い、少し寂しい入学式の写真になった。無論、むせ返るほど泣いた。

 そして、妹は六月の下校中、最近有名な通り魔になんてことなく刺されて死んだ。




   ***




「おに……泣かないで」


 俺の前に妹が現れたのは、それから半年が経った頃だった。

 論ずるまでもなく、それが幻影であることなんて歴然だった。それでも、そんな幻影に縋らなきゃ、俺はやって行けなかった。


「泣いてなんかないさ、我が妹よ。そんなことよりさ、この家に二人で住み直すなら取り決めを決めよぉぞ」

「ん。面白そ」


 妹は眉一つあげず、言葉とは対照な表情。それでも、妹がそこに見えるのが、俺は嬉しかった。


「まず一つ、俺の部屋に入る時はノックを……」




   ………



 それから半年、俺は幻影と生活を共にした。そして気付いたのはただ一つ、嫌な難点があることだ。

 それは、階段を十段ほど降りれば幻影が消えること。初めて気付いた時は大層取り乱したものだ。どうやら、階段の十段より上にいれば妹の幻影が見えるらしい。それに気付いてからというもの、俺はできる限りの行動を上で済ませることにした。飯を溜め込んでは二階に篭り、家中を元気に巡る幻影の妹を溺愛する。

 それだけで、十二分に幸せだった。




   ///




「……おに?」


 妹を呼んだはいいものの、俺は何も言えずに黙りこくっていた。黙りたくて黙っていたわけではない。ただ、込み上げる嗚咽が言葉を発する邪魔をする。


「お……前っ、はさ」


 ひっくと嗚咽を漏らしながらも、俺は語り出す。


「俺っ……の見てる、幻影っ……だろ?」


 恐る恐る、騙し騙しやってきた現実を、非現実に問いただす。

 どうして、俺は知りたくないことを聞いているのだろう。


「…………」


 それに、今度は妹が黙りこくる。


「答えてっ、くれよぉ……」


 力なくこぼして、俺は込み上げる嗚咽を盛大に吐き出す。


「おにが、さ」


 不意に、妹は口を開いた。正確には口を開く動作を俺の脳がさせて、声を俺の脳が再生しているだけだ。


「幸せなら……それで、いいよ?」


 その答えは、俺の質問に答えたにしては、少々ズレた答えだった。


「こんなのが……っ、俺、の。幸せなら……俺は、死んだ方が、お前に、お母さんに、お父さんに、会えて……」


 苦しい。苦しい、苦しい苦しい苦しい。


「幸せだ……そう、だろ? お母さん、は。お前を産んで、死んだ。お父さんは、お前のために、運動会に向かって死んだ。お前は……身勝手な、頭のイかれた変態にっ、刺されて死んだ……おえぇぇぇ……」


 自分で言っていて、反吐がでる。文字通り、口からはヘドロのような吐瀉物が出る。


「——おに」


 そんな、みっともなく泣き喚く俺の頭に、暖かな手が触れた。

 それもきっと、正確には俺が感じてる幻影で、幻想——。

 それでも、俺はその暖かさに縋りたかった。


「おには。死んじゃ、やだ。ママもパパも、そう言ってる」


 ——何を言ってる? 嫌だ、やめてくれ。俺が間違ってた。幻想なら消えてくれ。

 俺は咄嗟に立ち上がって、幻影の体をすり抜けて階段を転げ落ちる。あちこちを打ってズキズキと、衝撃が身を蝕む。


「だから」


 それでも、声が消えなかったのは、どうしてだろう。


「やめてくれぇ……」


 掠れた、弱々しい声が、俺の口から紡がれる。

 そんな紡ぎを、生成を無視して。俺が生成する幻影は、言ったんだ。


「——おには、生きて」


 スーッと、透明な影のように、その一言を最後にして、俺の幻影は姿を消した。

 最後の最後に、ぎゅっと俺に抱きついた妹は、不思議と生前と同じ柔らかさと暖かさを持っていて。


 ——そして何より、俺は呪われた。

 きっとこの先、二度と見ることはないだろう幻影に。

 死ぬなと、生きてと。

 仕事は辞めた。妹が死んでから。

 妹の葬儀だって、未だ取り行っていない。

 それでも、死ぬな、生きてと。

 妹が、彼女がそういった。




 最悪だった。




 死にたい。




 死ねない。




 俺は、この何もない、真白の世界で。




 何に縋って、何に願って、何を追い求めて。




 ——生きればいい?




 きっとこれを、世界は地獄と呼ぶ。




 己が見せた幻影が、地獄を生む。




 俺は、地獄に居た。




「なんでだよぉ……ゆきぃ……」




 力なく溢した妹の名は、俺がこの世で一番好きなもの。




 窓を、降り落ちる粉雪が弱々しく打ちつけていた。

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妹と俺が一つ屋根の下生活する話。 無知秩序 @reruruy

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