第6話
部活終わり、すっかり忘れていたガットの張り替えにスポーツショップを訪れる。日曜ということもあって、張り替え待ちに二時間掛かると言われ断念した。別に待っても良かったのだが、スポーツショップが入っている商業施設は常に人で溢れている。もちろん、救いともいえるカフェや飲食店も軒並み順番待ちだ。娯楽に乏しい田舎らしい光景だ。
しばらくはサブのラケットで我慢しよう。
分かり切っていた無駄足に空虚な思いが広がる。バイトまでまだたっぷりと時間があった。
「一旦、帰るか……」
そんな呟きも、あっという間に陽炎に飲み込まれてしまう。
バスに揺られながら、思いだした。今帰ったら親父と鉢合わせになる。
「……くそっ」
目の前に座る老人に変な目で見られた。当たり前だ。
最寄りのバス停を通り過ぎ、四つ先で下車する。どうして二日連続で足を運んでいるのだろう。そうは思ったものの、俺は金のかからない時間の潰し方を多くは知らない。
だからと言って、病院はどうなんだ。
自問を重ねた結果、別にいっかと至極短絡的に結論付けた。彼女が迷惑そうにしていたら、さっさと帰ればいいだけの話だ。
一階の売店でアイスを買った。高いものを一つと、安いものを一つ。その足で受付に行く。二回とも無断で病室に居座っていたけれど、多分面会は申請が必要だと思ったからだ。
「今日はどうなさいましたか?」
そう訊かれると、やたら緊張する。また、無意識に頭の後ろを掻いていた。
「あの、面会したいんすけど。501号室のえーと、雲母さん」
「ご確認させていただきます。少々お待ちください」
アイス、後で買えば良かったと袋から漂う冷気を感じて後悔した。時間が経つほど、溶けるのはもちろん、病院特有の消毒臭さで美味しくなくなっていくような気がしてならない。もちろん、そんなはずは無いのだけど、こういうのは気分で味が変わる。
「どうぞおあがりください。右手の階段を上って四階になります」
受付の看護師に軽く頭を下げ、その場を後にする。
まさか、二日連続で来るとは思うまい。一体、彼女はどんな反応をするだろうか。
きっと、俺が見舞いに来たことよりも、アイスが食える喜びの方が大きいんだろうな。そりゃ、俺は彼女に好かれるような態度は取っていないわけだし、当然か。
非常口を示す緑の誘導灯に誘われるようにのらりくらり階段を上る。部活後と言うこともあってやけに足が重たい。
彼女の病室をノックしようと右手をかざした瞬間、目の前のドアが静かに開いた。突然のこと過ぎて、その場で動きを固めてしまう。どうして毎回訪れる度に驚かされるのだろうか。
しかし、ドアの向こうにいたのは彼女ではなかった。
身なりの整った女性だ。その透き通るような真っ黒な瞳と、控えめな唇には覚えがある。部屋を間違えたと思ったが、その背景は真っ暗だ。表札にも確かに『雲母』と表記されていた。
「あら、あなたは……?」
その尋ね方で、俺は目の前の女性を推測付けた。多分、彼女の親族だろう。
「えっと、蛍琉さんの見舞いで。あー、すんません。佐藤と言います」
ガリっと後頭部が音を立てる。
彼女の視線が自然に下から上に流れる。しかし、ここで俺が怪しいものでは無いですとは言えるわけもなく、ただ吟味されるがままに口を閉ざした。
「娘のお友達? 珍しいわね。きっと、あの子も喜ぶわ。ゆっくりしていってくださいね」
やっぱりと言うべきか。目の前の女性は彼女の母親だった。
「……うす」
「――でも、」
その言葉が俺を必然と制する。彼女の母親の刺すような視線は、俺の持つコンビニ袋に向けられていた。
そこでようやく、なぜ自分が止められたのかを悟る。
やっぱり、慣れないことはするもんじゃない。アイスを買ってから、二度目の後悔だ。
「娘に見舞いの品は必要ありません。何が毒になるのか分からないんですから」
とげとげしい言い方だった。でも、こればっかりは受け入れるしかない。面と向かって反論しても無駄だと分かり切っている。
「申し訳ないっす。あの、これアイスなんで溶けても何だし、よかったらお持ちください。いらなかったら、捨ててくれていいんで……」
変なことを言ってるのは分かっている。でも、溶けてしまうんだから仕方がない。まさか、彼女の前で二つとも俺が食べるわけにもいかない。
彼女の母親も俺の言わんとしていることが伝わったのか、無言で財布から大雑把な値段分のお金を取り出した。
「いや、頂けません……」
「いいから、受け取っておきなさい。あなたのその気遣いは私も娘も理解しています」
そこまで言われたら、受け取るしかなかった。代わりにコンビニ袋を手渡す。
握りしめた硬貨がとても重たく感じた。
「それでは」
「……はい」
女性が角を曲がるまで見届け、声もなく大きな息を吐いた。この廊下の薄暗さがちょうど俺の胸中を表しているみたいで皮肉に思える。
病室に入ると、彼女はベッドに座り、壁に背を付けてこちらを見ていた。そして、こう言ったのだ。
「――ごめんなさい」
無意識に舌を打っていた。彼女は申し訳なさそうに俯く。ただでさえちっこいのに、今はもっと小さく見える。
こんな顔をさせるために来たわけじゃないのに。
「食事制限ないって、嘘じゃねえよな?」
彼女が俺を一瞥する。そして、すぐにまた俯いてしまう。
「はい。ちゃんとお医者さんに自分で確認しましたから……」
今度は音を立てて息を吐いた。
「ちょっと、待ってろ」
そう言い残し、病室を後にする。早足で階段を駆け下り、もう一度売店で同じものを買った。店員は不思議そうにしていたけれど、そんなの関係ない。
普段、暗闇で何も出来ずに過ごしているのなら、せめて好きな物くらいいつ食ったっていいだろ。医者が問題ないと言っているんだ。
あの母親の気持ちも分かる。
でも、親の意見は医者よりも正しいのか? そんなわけないだろ。
足早に病室へと戻り、変わらない体勢の彼女に袋をかざす。
「おい、食え」
彼女は微動だにしない。大方、俺に迷惑をかけただとか、そんなことを考えているのだろう。ウジウジしているのは自分を見ているみたいでイライラする。
「いらねえなら、俺が全部食うからな」
ドアを閉めると、完全な暗闇に飲み込まれた。あの母親の様子を見るに、恐らく普段はサイドランプも付けさせてもらえないのだろう。
手探りで椅子に座る。目と鼻の先に彼女がいるはずなのに、その姿は寸分も見えない。ただ、そこに気配がある。
彼女には、俺の姿が見えているのだろうか。
不意に、手を握られた。俺の手よりも一回り小さく、温かかい。でも、少し震えていた。その手を握り返してよいのか分からず、結局何も出来なかった。
「ごめんなさい」
また、彼女が同じ言葉を口にする。
握られた手に微かに力が込められた。
「あのランプは点けていいのか?」
「……お医者さんはこの距離なら身体に害は無いと」
「そうか」
立ち上がり、暗闇をすり足で進む。途中、空気清浄機に足をぶつけた。
「くそっ、何も見えねえな」
「……もう少し左です」
背後から彼女の声が聞こえた。やっぱり、彼女には見えている。この暗闇でずっと生活していたら、さぞ夜目が効くようにもなるのだろう。
伸ばす左手に丸型のランプが触れる。スイッチを押すと、お世辞にも明るいとは言えないぼんやりとした明かりが点った。
「ありがとうございます……」
「最初から謝んないで、そう言っておけばいいんだよ」
袋からカップアイスとカトラリーを取り出し、彼女に押し付ける。
「いいから、食え。溶けるだろうが」
ようやく、彼女が俺を見た。その瞳に悲しさを残しながらも、無理して笑おうとする仕草が気に入らない。
俺の分のアイスはもう雫が滴っていた。垂れないように急いで食べると頭の奥が殴られたように痛む。
「俺が汗水垂らして稼いだ金で買ったんだぞ。残したら許さねえからな」
その言葉で、彼女もようやくちまちまと小動物みたいに食べ始めた。
沈黙が痛々しい。本当なら、俺が話題を出すべきなんだろうけれど、生憎とそんなに器用な性格じゃない。
「怒って、いないんですか……?」
ぽつりと彼女が呟く。
「この病室が売店まで遠いことにはキレてる」
「そうじゃなくて……」
「なら、訊くだけ無駄だな」
彼女が押し黙る。そうしてまた、静寂が流れる。
本当、気の利かない性格だな俺って。
「おい、一口くれよ」
仕方なく、そう言った。話題に困ったから、シェアハピとやらを出してみたのだけれど、間違いだったかもしれない。今日は慣れないことをして失敗ばかりだ。
それでも、彼女がちょっと笑ってスプーンを差し出してくれたので、良しとしよう。
昨日ぶりのそれはとても甘ったるかった。一日で味が変わったんじゃないかとすら思う。
しばらくして、彼女が意を決したように姿勢を正した。
「日影くんは何も訊かないんですね」
まっすぐ見つめられるその目が、俺は苦手だ。別に彼女だけじゃなく、誰が相手だろうと、俺は人と真摯に向き合うのには向いていない。
「漫画の鈍感キャラじゃねえんだ。どんな病なのか、想像くらいはつく」
彼女は掴めない表情をしていた。豆鉄砲を食らったような、感心したような、とにかく口が半開きだ。
「まっ、娯楽が無いってのは不便だよな」
独り言に近いぼやきに、彼女はほんのりと笑みをつくる。そして、ゆっくりと語りだした。
「照度の単位って、分かりますか?」
口でアイスの棒を遊ばせ、肩をすくませる。
「まず、そのしょうどってやつが分からん」
彼女は「そこからですか」と声の調子を戻しながら言う。癪だけど、水は差さないでおいた。
「照度って言うのは、特定の範囲を照らす光の明るさの事を言います。そして、その単位がルクスです」
彼女の話を聞いても、到底なるほどとはならなかった。科学だか物理だか分からないけれど、とにかく聞いたこともない。
真っ暗闇はもちろん0ルクス。ろうそくからニ十センチほどの距離だと約10ルクス。病院の廊下なんかは約200ルクスらしい。
「そして、晴天下では10万ルクスにもなるそうです」
「おい、一気に跳ね上がりすぎだろ」
「そうですね。太陽って凄いんですよ」
彼女は何故か嬉しそうに声を弾ませていた。己を蝕む天敵だというのに変なやつだ。
「この部屋はどれくらいになるんだ?」
俺の問いかけに彼女はベッドから立ち上がり、窓際のサイドランプに近づく。
「詳しくは分かりませんが、私に害が及ばないようになっているので、3.5ルクス以下なのは間違いないですね」
つまり、彼女にとってはろうそくの火でも身体に悪影響を及ぼすと言うわけだ。そりゃ、窓なんて開けられるはずもない。
「ヤな病気だねぇ。俺なら二日でギブだ」
今さら気が付いたけれど、アイスの棒に当たりの文字が刻まれていた。
「おや、日影くんはこの話を聞いて、悲しんではくれないんですか?」
意地悪気に彼女が尋ねるから、俺もきっぱり返した。
「悲しんでほしいなら、俺の後輩を紹介してやるよ。そいつは俺が泣けって言ったら、多分泣いてくれるぞ」
彼女は少し驚いたようだった。しかし、ややあっていつも通りの明るい笑顔を見せてくれた。
それでいいんだよ。いつも、そうやって笑ってればいいんだ。
そんなこと、言えるわけもないけれど。
「日影くんって、いじめっ子だったりします?」
「さあね」
いつの間にか、暗がりに目が慣れ始めていた。彼女の瞳に映る自分の鏡像が見える。
口角上がってだらしねえな。
帰り際、彼女はやっぱり名残惜しそうに廊下まで見送ってくれた。
「あの、」
呼び止められて、振り向く。その瞳が、やけに潤いに満ちて暗闇の中で一筋の輝きを放っていた。
「また、来てくれますか……?」
こめかみを意味もなく掻く。
「まあ、暇つぶしに困ったらな」
帰り道、なるべく街灯を避けるように歩いたのは、彼女には内緒の話だ。
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