第3話 ユースティ

 ファルサが去った後。頬を流れる雨を誤魔化したくて、ミーティアは呪文を唱えて雨を招いた。

 さあさあと、天から恵みが降り注ぐ。ミーティアの魔力を糧にして、規格外の雨が空からもたらされる。

「すごい力だな」

 感心したように呟くユースティに首を傾げる。

 ゼノたちもすごいと言ってくれたが、いまいち実感がわかない。だってこれは、皇族の血を引く者であれば誰でも使える雨を降らせるだけの魔法だ。花に水をやったり、虹をかけたりするぐらいしか使い道のない魔法だ。確かに父よりも長く多く降らせることができるが、水を操るだけならミーティア以外にも出来る。雨だけを必要とする人がどれほどいるだろうか。

 褒めてもらえて嬉しい反面、戸惑いが胸中を占める。

 戸惑ったミーティアに気づいたのか、ユースティの眉が寄った。何か言いたそうに唇が動きかけ、引き結ばれる。

「怒ってやらないのか?」

 話題の転換を図ったのか、躊躇いがちに出された問いに細く息が漏れた。

 どうしてそんなことを聞いてくるのだろうか。ユースティには関係ないはずなのに。

「全部終わったことよ。わたしに恋は贅沢すぎたの」

 ちょっとだけ、悲しいけど、と。

 あの日ファルサから叩きつけられた殺意を思い返して、ずきりと痛んだ胸を抑える。

 殺意も敵意も身近なもので、裏切りだってありふれたもので、わかっていながら特別があると勘違いをしていたのがミーティアだった。そんなもの、あるはずがなかったのに。

 無邪気に恋をした。甘い言葉に目が眩んで、盲目になってしまった。

「命を狙われたこと、怒ってないわ。それもわたしの、グロッタ帝国に生まれた者の宿命だから」

「――」

「それに、一応ファルサには怒ったのよ?もう別れるって言ったの」

 それで十分だ。それでおあいこだ。手打ちにしなければ、また目の前から消えてしまう。ミーティアは、居なくなった誰かを心の中で数えるのがもう嫌だった。

「宿命を疑ったことは?」

「ないわ。皆そう言うもの」

 ミーティアは人の善性を信じている。一方で好意が裏切る現実も知っている。昨日笑った人が殺意を向けることも、肩を寄せ合った友が擦り寄るためだと陰で笑っていることも。

 そういう意味では悪意の方がミーティアにとっては誠実だった。悪意はミーティアを裏切らない。嫌いも憎いも殺してやりたいという思いすら全てが真実で、ひっくり返ることは無かった。なんて優しい感情だろう。それだけは信じても絶対に大丈夫だなんて、夢みたいだ。

「ね?何も心配いらないわ」

 とんでもないことを宣うミーティアに、そんなはずがあるか、と言う言葉をユースティは飲み込んだ。

 ミーティアの目は澄んでいた。そういう世界で生きてきたのだと物語っていた。それ以外の世界を知らないのだと声なき声で歌っていた。

 彼女の世界は、ひどく寂しくて残酷だ。あなたを愛しているわと歌うその口で、私死んでもいいわと囀っている。首を絞められても笑い、藻掻くための手足をだらりと下げて、無防備に命を明け渡しながら薄氷の上で踊っている。命の価値が、軽すぎる。

「それにね、わたしの力はそんなたいそうなものじゃないのよ」

 ざあざあと、雨が降る。ユースティが踏み込めなかった境界線を容易く取り払ったミーティアが目を細めた。

「だって、みんな、みんな、そう言ったのよ」

 疑心とは無縁のミーティアにユースティは唇を噛み締めた。

 呪いだ。全身に刻まれた呪詛を祝福だと微笑むミーティアこそが、ユースティの目には毒だった。

 いっそ疑ってくれと叩きつけたファルサの姿が瞼の裏に浮かぶ。その気持ちがずっと理解できないでいたが、今なら少しだけ共感できる。

 彼はただ、糾弾して欲しかったのだ。お前なんて嫌いだと、喚いて欲しかったのだ。あまりにも真っ白な存在を前に浮き彫りになる醜さがひたすらに苦しかったのだ。

 ミーティアは何一つ悪くない。子どものような彼女は何一つ罪を犯してはいない。心の赴くままに信じたいものを信じているだけだ。

 それでもファルサの恋人としての矜持が、ユースティにはわかる。その彼が踏み躙った信頼がそこにあることを許容できないのもわかってしまう。

 だってそれは、あんまりにもあんまりだろう。

 人の言うことを素直に信じて受け入れて、殺意すらその身に受け止めて、しょうがないのよと言われるなんて。

 それでも友達でいたいのだと、語られるなんて。

 一度でも泣き喚いてくれたなら良かったのに。お前なんてと責め立ててくれたなら救われたのに。

 誰よりも幼く誰よりも無垢な少女が誰よりも神様みたいな顔をするなんて、とんだ悪夢だ。

「そう、か」

 だが。ユースティはミーティアを否定してやれない。そうやってここまで歩いてきたのだと痛いほどに伝わってくるから、その生き方を否定してやれない。

 いつかのミーティアが目指した理想の果て。

 いつかのミーティアが一生懸命模索して辿り着いた答えの在り処。

 否定するには、彼女の十七年は重すぎた。

 間違っていると指摘するには、友人になりすぎた。

 今のミーティアを友だと思うからこそ、ただ『ミーティア・グロッタ』としてここまで生きてきた彼女を拒んでやれない。

「あ」

 黙り込んだユースティを不思議そうに見つめていたミーティアの髪が解ける。地面に落ちる前にパッと取っていたが、リボンはしとどに濡れていた。たいそう重たそうなそれを情けない顔で見下ろしたミーティアが、仕方なさそうにくすくすと笑った。

「ファルサが怒るわ」

「……風邪を引くからか?」

「それもあるわ。でもその前にこれ、自分で結べないのよ」

 ミーティアは貴人だ。帝国の皇女で、第一帝位継承者だ。彼女の国の風習などユースティは知らない。彼女のできないことにももしかしたら理由があって、できるようになることすら罪なのかもしれない。それでも、思う。

 そんなことも出来ないのか。そんなことすら、自分でやらせてもらえなかったのか。それでも不満を漏らさず、求められるままに在ろうとしているのか。

「貸してくれ」

 喉奥で飛び出した言葉を殺し、悲哀を堪えて手を伸ばす。初めて触れたリボンは冷たくて、重たくて、泣きそうだった。

 嬉しそうに鼻歌を奏でるミーティアとは裏腹に、ユースティの気持ちはどこまでも沈んでいった。

 ミーティアは一人では何も出来ない。驚くぐらい身の回りの全てを他者に委ね、手を借りることを当然だと思っている。それをユースティは過保護だと思っていた。周囲が蝶よ花よと大切にしすぎているのだと思い込んでいた。簡単なことぐらいは覚えさせてあるべきだと思っていた。

 とんだ思い違いだ。ミーティアは一人では何も出来ないが、それはそういう風に教育されていたのだ。きっと彼女の身分と力がそうさせたのだ。足に手にいたるところに鎖をかけられて、鳥籠の中に繋がれていたのだ。

 風切羽を切られた鳥は、高く飛べない。飼い慣らされた動物は、野生に放たれたら死んでしまう。無菌室で育った生き物は、外界の毒素に極端に弱くなる。

 大切に大切に囲われた生き物を前に、ユースティの目が眩んだ。密猟者に慣れてしまった生き物は、どこまでも箱庭の世界に適応して生きている。それはさながら牙を抜かれた希少生物のようで、簡単に縊り殺せてしまう絶滅危惧種を前にした気分だ。

 祀り上げられたそれが同じ人なのだと、どうして誰も気づいてやれなかったのだろう。お日様のように微笑むそれがそうなるしかなかったのだと、どうして誰も気づいてやれなかったのだろう。

 ざあざあと雨に打たれながら、解けたリボンを結ぶ。二、三度触って仕上がりを確かめたミーティアがふわりと破顔する。

「ありがとう」

 本当に嬉しそうに言うものだから、堪らない。

 ユースティとミーティアを同類だと言う人がたまにいる。優しいとか真っ直ぐとか、お前たちは似たもの同士だとか言ってくる人がいる。

 けれどやっぱり、違う。傷だらけになっても刃を振りかざせない弱さを、強さを、ユースティは持っていない。

「助けを、求めないのか」

「求めたら誰か助けてくれるの?」

 心底不思議そうに尋ねてくるミーティアに言葉を失う。きらきらと輝く目もあどけない顔も見慣れたものなのに、不確かなものを見ているようで息が詰まった。

「護衛、は」

 入学に条件のある学園という閉鎖的空間では望むべくもない、然して必ず彼女が持っているはずの盾と鎧の在処をようやっと口にすれば、そうじゃなくて、と首を振られる。

「一時的な対処じゃなくて恒久的な対処の話」

「――――」

「皆が宿命だと言った皇女の運命から助けてくれる人なんて、いると思う?」

 いつか白馬の王子様が現れて攫ってくれるかも、などという甘い幻想はとうの昔に捨てている。

 ミーティアは命を狙われる。命を脅かされる。それは帝国の皇女として生きる以上必然的に起こるものであり、ミーティアがその道以外を選べないのもまた必然的なものだった。

「だから、つらいことも悲しいことも、数えていたらわたしは生きられない」

 だって、と。瞳を細めたミーティアがユースティを仰ぎ見る。

「嬉しいことや楽しいことよりも、そっちの方がずっと多くて身近で、今後も降り続けるものだから」

「――――」

「それでも平気だったの。ただのミーティアを愛してくれる人がいるって信じられたわ。そうじゃなかったんだって、そう思っていたのはわたしだけで、最初から違ったんだって、今はわかってるのよ?でもね、わたし、この先もその思い出だけで生きていけるわ」

 それぐらい幸せだったの、と。泣きそうにそう言ったミーティアがユースティの胸元に頭を預ける。震えている気がしてそっと抱き寄せれば、ひくりと喉のひきつる音が聞こえた。

「愛した時間は、本物なの」

 騙されていたのだとしても。殺意が潜んでいたのだとしても。過去の全てが偽りだったのだとしても。

 ミーティアがそこで幸せを感じていたのが変えられない事実なのは、ユースティにもわかる。

 そして、それはきっとファルサに限らないのだ。ミーティアを裏切った誰もが裏切るその瞬間までは優しくて、親切で、かけがえのない誰かだったのだろう。

 嘘で塗りたくられた愛情が空虚なものでも、笑った時間はミーティアの心の中で今も寂しく煌めいている。

「助けてくれたの。昔から、たくさん護ってくれたの。手を差し伸べてくれたの。愛してるって言ってくれたのよ。それが全部嘘だったとしてもいいの。その時間にわたしは救われて、今もここに立てているのだから」

 だからね、と。

 無邪気にミーティアは笑った。風切羽を切られ、生きる術を奪われ、人としての尊厳を踏みにじられてもなお無垢な目で。

「さよならって、すぐに手放してあげられないわたしの方が残酷だわ」

 明るく微笑む少女に俯く。芽吹いた恋心が痛い。

 彼女が一言、攫ってくれと言ってくれたら、救われたのに。

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