第4話

「証人は名乗りなさい」

「お初にお目にかかります、大審官ジャッジ閣下。僕はレイファス。レイファス・ヴェネラビリス・アプ・メルリヌス・カレドニス……その後、通称やら祖先の名前やら生まれ故郷の名やら、合計十六ほどの姓がつくけど……まぁ長くなるから省略するよ」

 証言台に立った奇妙な男は、そう言って慇懃に礼をした。

 彼を中心に波紋が広がるように、広聴席がにわかに騒めく。

〝あいつはいったい何者だ?〟──皆のその疑問は最もである。何故なら彼を証人に喚んだ〝盾の騎士スクード〟のウィルですら、それを正確に理解していないのだ。

 半刻前──「僕を証人に立てたまえ」と言い出したレイファスの乱心ともとれる言動を、ウィルは半ばヤケクソになって同意した。

 そして結審の会議のため別室に入る〝大審官ジャッジ〟たちを必死で呼び止め、突貫で造った召喚状を足に縋りついて突きつけ、泥を啜る思いで必死に食い下がった。だからそれがあっさりと受理されたとき、その事実に一番驚いたのはウィル自身だった。

 しかもその後、召喚状が許可され、証人喚問が再開されるに至って、もはやウィルは死霊術師ネクロマンシーで生き返るゾンビを見るとき以上に飛び上がって驚いた。

「……気を抜くな」

 予期せぬ展開に、帝都大法廷の大回廊の真ん中で茫然とするウィルに、そう言って背中を叩いたのはマリー・ビスクラレット中尉だった。

「まだ法廷は終わってないぞ、ウィル」

 マリー中尉は、そう言ってキラリと犬歯を光らせる。それを見たとき、ウィルは召喚状の申請許可のゴリ推しが、すべて彼女の功績であると悟った。

「別にお前の味方をしたわけではない」──と、マリー中尉はウィルに語った。

「この事件は極めて物証が少ない。今でも変わらず、私の捜査に疑いはないし、私の出した結論は間違っていないと確信している。しかし……知りたかったのさ」

 そんな彼女の言葉にウィルは「何をですか?」と聞いた。すると彼女は答えた。

「私たちの信じる真実とは違う、本当の真実というものが他にあるなら、その真実というものを……な」

 マリー中尉はそう言って照れくさそうに不器用に笑い、頭を掻いた。食人鬼オーガ巨躯族トロールさえも逃げ出す鬼の陸軍近衛師団帝都警邏隊中尉の、それは意外な一面であった。

「ありがとうございます!」

 大法廷の廊下で、ウィルはレッドコートの女中尉に向かって、最高位の軍令で頭を下げた。

「舞台は用意した。ウィル、お前の意地を見せてみろ。帝国騎士としての、な」

 ガルウ族の女中尉は、そう言ってウィルを一瞥し、踵を返して法廷を後にした。

 最後に小さく腕を振る。それは感情表現に乏しい不器用な中尉の、精いっぱいの愛嬌だった。

「ありがとうございます──マリー中尉」

 その背中が見えなくなるまで、ウィルは深々を頭を下げ続けた。


 そういう経緯によって手続きは正式に認可され、そして今、本当に最後の証人喚問が開かれようとしていた。

「レイファスさん、職業は?」

「よくぞ聞いてくださいました。私、魔法使いをしております」

 広聴席のあちこちからクスクスと笑いが漏れる。しかし当のレイファス本人は、そんな周囲の嘲笑などお構いなしの風だ。

「それでは〝盾の騎士スクード〟、尋問を開始してください」

「は、はい!」

「〝大審官ジャッジ〟!」

 ウィルの返答を圧倒し、にわかに〝剣の騎士スパーダ〟が声を張り上げた。

「尋問の前に、まずこの証人が登壇する意義を問わせて頂きたい! 事件に無関係の人間を証人に立てるなど前代未聞!〝盾の騎士スクード〟は、単に結審を先延ばしにする時間稼ぎをしているに過ぎない。これは帝国法廷に対する背信行為! 法を愚弄する侮辱に他なりません!」

 多分に芝居がかった口調で〝剣の騎士スパーダ〟が訴える。先制攻撃だった。勝利を確実なものとするため敗者の出鼻を挫く、先手必勝の戦術だ。

「ええーっ、法を侮辱してるかどうかは、私の話を聞いてからにして欲しいなぁ」

 しかし壇上のレイファスはまったく動じない。法廷の大舞台ですらこの不敵な態度。ウィルは改めてこの謎の魔法使いの胆力を思い知った……いや、無神経さか。

「じ、尋問を開始します!」

 ウィルは間髪入れず本題に入る。ここは相手に隙を見せてはいけない。

「えーと、レイファスさん、被害者との関係を教えてください」

「……関係? そうだな、同業者という言葉が相応しいかな」

「……同業者?」

「被害者のランベリス卿は、グロスター大の元・魔法科教授だったからね。私と同じ魔法使い。だから彼の思考は誰よりも理解できると自負できるよ。ホラ、〝海の事は漁師に問え〟ってことわざもあるだろう?」

 レイファスの口から〝魔法使い〟という言葉が出たとき、再び法廷のあちこちで失笑が起きたのをウィルは聞き逃さなかった。今どき、自分を〝魔法使い〟と名乗るのは、誇大妄想に取りつかれた精神病患者ぐらいしかいない。

「オイオイ、そんな理由で、どこの馬の骨とも知れない輩を法廷に!?」

すかさず〝剣の騎士スパーダ〟が反論する。攻撃の間隙を与えぬよう、ウィルは慌てて言葉を継いだ。

「そ、それでレイファスさん、何か事件に関する証言はありますか!?」

「うん」

 レイファスが、陽気な口調で答える。

「実は、とっておきの情報があるんだ」

 そう言ってレイファスは内衣嚢ポケットからゴソゴソと何やらを取り出す。それは数枚の紙片だった。

「是非、法廷の皆さんにコレを見てほしくてね。いやあ、郵政局留めになってたから、探すのに苦労したよ。」

「……それは?」

「ランベリス卿からの手紙さ」

 その言葉を聞いた瞬間、法廷の空気が凍結した。ウィルも我が耳を疑った。ランベリス卿からの手紙? いったいこの男は何を言い出しているのだ?

「て、て、手紙!? そ、そ、そ、それはいったい!?」

「もちろんランベリス卿が僕宛てに書いた手紙さ。書かれた日付は……事件の半月前。つまり今から一か月半前──」

 次の瞬間、法廷内が微震するようにどよめいた。レイファスの持ちだしたその〝証拠品〟は、ウィルもまったく予期していない特大の切り札だった。

「な、なんで貴方が、そんなものを……!?」

「そりゃあ、私と卿は知り合いだったからね」

 こともなげにレイファスが言う。

 ウィルはレイファスと初めて出会ったときの会話を思い出していた。確かに、ウィルがレイファスに「ランベリス卿を知っているか?」という質問をしたとき、「良く知ってるよ」と答えていた。しかしそれは、名士である卿の名声と本事件のゴシップについて聞き及んでいる、という程度の意味ではなかったのか?

「ランベリス卿とは何度も手紙のやりとりをしていた間柄でね。実は今回、田舎からわざわざ帝都までやって来たのも、以前から卿の手紙の内容が気になったのも原因のひとつなんだ」

「そ、そんな話、聞いてないですよ……!?」

「うん、言ってないからね」

 レイファスはこともなげに言う。

 ウィルは軽い眩暈に襲われた。この怪しい魔法使いは、どこまで人を煙に巻けば気が済むのか? 被害者と個人的な交流があった。しかもかなり親しく文通をしていた。そしてその手紙は、事件の半月前──つまり、殺されたランベリス卿の言質をとった、もっとも最新の物的証拠なのだ。そんな重要な証拠を、この男は今まで「聞かれなかった」という理由だけで、しれっと隠蔽していたのだ。

「レ、レイファスさん、その手紙を証拠として提出してください……!」

「うん、いいよ」

 レイファスは、手に持った〝重要な証拠品〟をヒラヒラと仰ぎながら言う。

 予想外の方向に転がりだした法廷に、公聴席の温度が上がる。いかがわしい謎の魔法使いは、今や法廷という舞台の主演になっていた。

「で、その手紙の中身はいったい……?」

 ウィルは逸る気持ちを抑えてレイファスに聞く。それに応えて優男の魔法使いがペラリと羊皮の手紙を繰った。

「えーと、手紙の内容は主に魔法使いとしての研究内容の意見交換だね。地獄蛭ネザーリーチの火属性活性触媒としての有効性とか、アダマンチウム結晶粒の組成についてとか──」

 そんな話はどうでもいい──という言葉が喉まで出かかり、必死に飲み込むウィル。

「とても有意義な内容だったんだけど、ただ一つ、追伸で気になることを書いていてね」

「……気になること?」

「〝自分の身辺に、怪しい犯罪の動きがある〟んだって──」

 瞬間、法廷内の空気が圧縮され、沸騰した。興奮と驚愕が波紋のように伝播する。

「そ、そ、そ、そ、それはつまり!」

 興奮のあまり、ウィルは呂律が回らなくなっていた。 

「ランベリス卿は、自らが殺害される可能性を、予測していたということですか……!?」

「うん。まさか殺害されるまでは想像できなかったにしろ、何やら事件に巻き込まれる予感はしてただろうね」

「〝大審官ジャッジ〟に上申!」

 すかさず〝剣の騎士スパーダ〟から異議が入った。

「証拠品は事件内容に何ら影響を及ぼすものではありません! たとえその手紙が本物だとしても、それで証明された事実は〝被害者は事件を予測していた〟という追加情報に過ぎず、被告が犯人であることと何ら矛盾するものではありません!」

「矛盾するんだな、これが」

 レイファスは口角泡を飛ばす〝剣の騎士スパーダ〟の反撃を、西風のようにいなす。

「卿は〝自分の身辺に、怪しい犯罪の動きがある〟ことを知っていたんだ。聡明な卿が、そんな大問題を放置しているとは思えないね。それにもしその犯人が被告人のキャス君だったら、そんな事実を知ってなお、彼女を自分の傍に置くような危険な真似をするだろうか?」

「そ、それは……!」

〝剣の騎士スパーダ〟が言葉に詰まる。確かに検察側の主張する犯人像は被告人の単独犯。か弱い少女の殺意を察知してなお、彼女を屋敷の使用人として放置するのは不自然だ。

「さらに、ランベリス卿はこうも付け加えている」

 レイファスは手紙を繰り、そこに書かれた文字を読み上げる。

「〝実は犯人の正体に目星はついている。今度、彼の魂胆を聞き出す所存だ。しかしそれには証拠が足りない。なんとしてもその証拠を掴む必要がある〟って──」

「〝彼〟だって!?」

「そう、つまり犯人は──男なんだ」

 ウィルの言葉に、法廷がざわつく。

「ち、ちょっとまて!」

〝剣の騎士スパーダ〟が上擦った声をあげる。

「ランベリス卿が指摘するその彼と、本件の犯人が一致するとは限らない! もしかしたら、卿の思い違いかもしれないだろ!?」

「それはちょっと論理的じゃないなぁ」

 その苦し紛れの反論をレイファスは一笑に伏す。

「ど、動機は何なんだ!? その彼とやらが、卿の命を奪うほどの事件っていうのは一体!?」

「そんなこと、私に聞かれてもわからないよ。金か、陰謀か……でもどんな理由であれ、君たちの捏造した卿とキャス嬢の醜聞よりは信憑性があると思うね」

「…………」

〝剣の騎士スパーダ〟が沈黙した、ぐうの音も出ない論破だった。それはこの法廷で初めて、弁護側が検察側を言い負かした瞬間だった。

 ウィルは傍らで、得意げに微笑む証言台のレイファスの横顔を見遣った。そして数日前のことを思い出していた。

 ウィルと初めて出会い、そして〝ランベリス卿殺害事件〟に首をつっこんだとき──確かクリムゾンフォードのエントランスで、ウィルがキャスの無罪を熱弁したときのこと。そんなウィルに彼はこう言っていた。

〝少なくとも彼女は犯人じゃない〟──考えてみれば、あの時キャスと面会したレイファスは、彼女を一目見ただけで、それ以上の詮索を一切しなかった。その理由が今になってやっと理解できた。つまりレイファスは既にそのとき、ランベリス卿との文通を通し、この事件の犯人が〝彼〟──つまり男であることを知っていたのだ。だから女性であるキャスを見た瞬間、彼女が絶対に真犯人たりえないことを確信したのだ。

 レイファスは知っていた。この事件には隠された謎がある。そしてフェルパ族の少女ではない、真の犯人がいることを──。

「茶番だ!」

〝剣の騎士スパーダ〟が叫んだ。それは法廷に相応しくない言葉だったが、もはやそんなことを気にする素振りはないようだ。

「じゃあ、証人はいったい誰が本件の真犯人だと主張するつもりなんだ!?」

〝剣の騎士スパーダ〟の怒声を、しかしレイファスは今まで通りの涼しい顔で受け流す。

「まぁ、そんな焦らないでくれよ。結論を急ぐ前に、まずこの事件の内容を再検証しようじゃないか」

 レイファスは、そう言って中空に人差し指を立ててクルクルと回す。

 もはや法廷にいる全ての人々は、この男の唱えた〝魔法〟の虜となっていた。


   ★   ★   ★


「まず私が最初に違和感を憶えたのは、犯行現場であるランベリス卿宅の書斎を見学させてもらったときだったんだ」

 レイファスがそう言って語りだした。

「何より驚いたのは、部屋に充満した〝燐光パーティクル反応〟の濃度さ」

燐光パーティクル反応〟──?

 公聴席が騒めいた。燐光パーティクル反応……魔法の痕跡を示す残留物質。極めて専門的な知識であり、一般人には聞き慣れない言葉だ。初耳な者もいただろう。

「つまりあの場所では、何かしらの〝魔法〟が使用された確率が高いということだ」

「ちょっとまて!」

 すかさず〝剣の騎士スパーダ〟が噛みついた。

「〝燐光パーティクル反応〟については、現場を指揮したマリー・ビスクラレット中尉より確認済みだ。彼女の報告書によると〝反応については認めるものの、被害者の立場や現場状況から鑑みて、事件への関与を考慮する必要なし〟とのことだ」

 確かにマリー中尉本人もそう言っていた、とウィルは思い出す。ランベリス卿は書斎にて日常的に魔法を使用していた。といっても巨大な火の玉を作り出したりするような大袈裟なものではない。せいぜいデスクに散らかったゴミを消し去る程度の──レイファス曰く小魔法ティッキースペル程度のものだろう。だから燐光パーティクル反応があっても別段不思議ではない。

「確かにそれはそのとおりだ。でもね、燐光パーティクル反応があるということは、その場所では確実に魔法が使われたってことなんだ。だから少なくとも本事件に魔法が使われたことを誰も否定することはできない。私は魔法使いだから、一般人である君たちより魔法についての知識を豊富に持っている。魔法というものは希少な触媒リージョンや面倒な儀式を伴うため、悔しいかな現在では科学技術の後塵を排する立場にいるけど、もしその知識と技術を正確に実行できるなら、それこそ科学なんか足元にも及ばない、驚天動地の奇跡を引き起こすことができるんだ。君たちが絵空事だと思っているようなこと……それこそ、百万の軍勢を一瞬で壊滅させる大爆破を巻き起こしたり、異世界から悪魔を召喚することだって不可能じゃない」

「……何が言いたいんだ?」

 レイファスの果てしない饒舌に〝剣の騎士スパーダ〟が業を煮やして聞き返す。

「魔法っていうのは、それだけ未知の可能性があるってことさ。そして──」

 証言台の魔法使いは、ニヤリと薄い唇を吊り上げて言った。

「この殺人事件では、確実に〝魔法〟の力が使われている」

 法廷が水を打ったように静まり返った。本来なら、爆笑の坩堝と化しているはずだったろう。しかしレイファスの言葉は、滑稽で時代遅れな〝魔法〟という言葉に、奇妙な説得力を付与していた。

「莫迦莫迦しい! 」

〝剣の騎士スパーダ〟が真っ向から否定する。彼らは先ほどから公聴席の〝客〟が、レイファスによって魅了され、趨勢が一気に弁護側に傾いていることを察していた。

「魔法だろう奇跡だろうが、そんなものは証明されなきゃ意味がない! 法廷に必要なのは、厳然たる証拠と論理だ!」

〝剣の騎士スパーダ〟が言葉の剣に熱意の炎を灯し、状況の巻き返しにかかる。

「いいですか? 何度も言うが、この事件の全容は明々白々! キャス氏が銃でランベリス卿を撃ち殺した。その犯行の瞬間を、五人の証人が目撃している! 一人ではない、五人だぞ!? これに勝る事実が他にあるというのか!? これ以上屁理屈をこねるなら、法廷侮辱罪と騎士名誉棄損で断頭台にしょっぴくぞ!」

 熱を帯びた〝剣の騎士スパーダ〟は多分に過激になっていく。しかし一方のレイファスはそんな恫喝はお構いなしで、何やら思案を巡らせているらしかった。

「フム……そこだよ。そこが、この事件の最も重要な謎なんだ──ウィル」

「は、はい!?」

 出し抜けに名前を呼ばれ、ウィルは慌てて返答する。

「犯行の瞬間──屋敷にいた五人の証人が目撃したのは、書斎で銃を構え、撃つキャス君の姿だった──そう言ってたよね?」

 レイファスに聞かれ、ウィルは慌ててデスクに積まれた捜査資料を繰った。そしてそこからめぼしい目撃者たちの証言をピックアップする。

「は、はい」

「では、撃たれたランベリス卿が凶弾に倒れるのを目撃した証人は?」

「ええっ!? そ、それは──?」

 ウィルはその問いに面食らって戸惑った。レイファスの質問の意味が分からなかったのだ。五人の証人は犯行現場を目撃した。犯行現場とは〝殺した側〟と〝殺された側〟がいて初めて成立する。だからこの場合、〝殺した側〟であるキャスと〝殺された側〟であるランベリス卿の二人を目撃して、初めて〝犯行現場を目撃した〟と言える。

 しかし──まてよ? とウィルは捜査資料を繰る手をピクリと止めた。

 ランベリス卿が凶弾倒れるのを目撃した証人は誰か──?

 ウィルの頭の中に立ち込めていた濃密な霧が、微かに晴れ始める。レイファスの発した質問の意味がようやく分かってきた。

 そうだ、その証言はない!

「証人が犯行を目撃したのは、中庭に面した書斎の窓からです。当時、窓は西のデスク側──つまり撃たれたランベリス卿側のカーテンは閉まっていて、東側のキャスさんのいた側が明け放れていた。つまり証人が目撃したのは〝殺した側〟のみで〝殺された側〟は見ていない──」

 その事実に気付いてウィルは愕然となった。どうして今まで気づかなかったのだろう……? 目撃者が五人もいるという事実が圧倒的な先入観となり、冷静な判断を鈍らせていたと言わざるを得ない。そう、五人の目撃者は〝犯行現場を目撃した〟のではない。正確には〝犯行現場で犯人が拳銃を撃った〟ことを目撃したのだ。

「くだらない言葉遊びだ!」

〝剣の騎士スパーダ〟がけたたましい声を上げて議論を否定する。

「目撃されたのが犯人だろうと被害者だろうと意味はない! 犯行現場で被告人が銃を発砲した。それを五人の目撃者が証言した。そしてそれにより被害者が死亡した──この事実だけで充分ではないか! 疑問の余地はない!」

「まぁ、そう思うだろうね。凡庸な一般人の常識的には」

「……なんだと?」

〝剣の騎士スパーダ〟の動きが止まった。レイファスは、聞き分けの悪い子供に道理を諭すように、温厚な口調で告げる。

「さっきも言っただろう? この事件には〝魔法〟の力が使われている、と」

 レイファスの双眸に異彩が灯った。それは自信に満ち溢れた不敵な輝きだった。

「ウィル、以前、君と魔法について話をした時のことを覚えているかい?」

「え? えーと、いつのことでしたっけ……?」

「犯行現場を見学したときのことさ。先ほどの〝燐光パーティクル反応〟について議論を交わしたくだりだね」

 ウィルは再び、当時の記憶を呼び覚ます。

「君は魔法の知識は皆無の一般人だが、あのときとても素晴らしい意見を言ったんだ。まさしくこの事件を解決する糸口になる、決定的な発言を、ね」

 ウィルは必死になって頭の中にある無数の記憶の扉をノックし続ける。当時のレイファスとの会話内容を呼び覚まし、一字一句を検証していく。

 そしてついにその記憶の闇の中、たった一つの光明を見出した。

「あッ!」

 発見の驚きと共に、記憶の扉は開け放たれた。

〝例えば、犯人が他人に化けて変身する魔法を使ったら、目撃証言をひっくり返せるんじゃないですか!?〟

「…………もしかして」

変身ポリモーフ〟の魔法──!?

「大正解! ふふっ、あてずっぽうの発想にしては素晴らしいよ! 君には魔法使いの素質がある!」

 レイファスがパチパチと手を叩いて笑った。

「で、でも、レイファスさん!」

 ウィルは当時の記憶を遡り、その時の会話の流れを辿って反論する。

「あのとき、レイファスさんは僕の意見を真っ向から反対したじゃないですか! たしか……魔法はとても非効率的で、その使用方法が難解で一般人には到底取り扱えない。しかも〝変身ポリモーフ〟の魔法の……えーと〝触媒リージョン〟は、信じられないくらい高価でとてもじゃないが手に入らないって……」

「うん、確かに言った」

 レイファスが無反省に言い放つ。

「でも、それはあくまで一般論さ。確かに〝変身ポリモーフ〟は〝相転移変化学〟と呼ばれる応用魔法学体系の主要カテゴリで、その中でも主幹を為すかなり高位の大魔法だ。しかも人間を完全に〝変身ポリモーフ〟させ、一定の効果時間を持続させるために必要な触媒リージョンを揃えるとなると、軽く十万デナリスを超える資金が必要になる。だから結論として〝変身ポリモーフ〟の魔法が使える者は、必然的に高い魔法知識と莫大な資金力を持ち合わせた人物となる。そんな人材、この広大な連合帝国全土を探しても、両手の指に余るほどしかいないだろう。でも──」

「でも?」

 ウィルの合いの手に、レイファスは会心の笑顔で応えて、言った。

「いるじゃないか。この事件の関係者に高い魔法知識と莫大な資金力を持ち合わせた人物が──」

「──!!」

 刹那、ウィルは驚きのあまり雷に打たれたように硬直した。持っていた資料の束がドサリと床に落ちる。そして同時に心に立ちこめた霧が晴れていくのを感じた。頭の中を覆った暗く深い霧が。

「ラ、ランベリス卿!?」

 ウィルが呟いたその名は、他ならぬこの事件の被害者であった。そう、ランベリス卿──元・魔導院の公認宮廷魔術師にしてグロスター大の魔法科教授。そして現在は税務局の重鎮。その経歴がレイファスの挙げた人物像にこれほど一致する人物はいない。

「ご明察!」

 レイファスが嬉しそうに手を叩いた。まるで砂場に埋もれた玻璃ガラス片を発掘した子供のようなはしゃぎっぷりだ。

「ど、ど、どういうことですか!?」

「まだわからない? もう、察しが悪いなあ。それでも帝国騎士かね、ウィル」

 レイファスの皮肉も、もはや頭に入っていなかった。ウィルは必死に思考を巡らす。理解できたようで理解できない。レイファスはウィルの答えを待っていたが、出来の悪い生徒に業を煮やしたように解答を発表した。

「つまりランベリス卿は、事件当時、自らに〝変身ポリモーフ〟の魔法をかけていたのさ」

「なんだと!?」

 割って入ったのは〝剣の騎士スパーダ〟だった。まったく想定外の展開から飛び出した新推理。しかも自分たちの想像も及ばない〝魔法〟という概念から語られる論理に、彼らもうっかり闘争心を忘れて身を乗り出していた。

「ランベリス卿が〝変身ポリモーフ〟の魔法をかけていただと? 何の為に!? 何に〝変身ポリモーフ〟してたというんだ!?」

「まぁまぁ、焦らない焦らない。それを今から説明しようとしてるんだから」

 レイファスが窘めるように言う、そして得意げに、再び人差し指を魔法の杖に見立ててクルクルと回す。

「ランベリス卿が事件当日、〝変身ポリモーフ〟したものとは──」

 たっぷりともったいつけて、魔法使いは回した人差し指を被告人の席へ向けた。

「他ならぬ、キャス君──君だ」

「ど、どういうことですか!?」

「どういうこともこういうこともない。ランベリス卿が〝変身ポリモーフ〟の魔法で化けた相手は、キャス君だったのさ」

 法廷のすべての目が、被告席の少女に向いた。突然の指名に、当の本人も思わず顔を上げてレイファスに向き直る。

「な、何のために!?」とウィルが問う。

「決まってるだろう。僕の提出した手紙を読み返したまえよ。彼は事前に事件の端緒となる陰謀を嗅ぎつけていた。そしてこう言っている。〝私の命を狙う者の正体に目星はついている。今度、彼の魂胆を聞き出す所存だ。そのためになんとしてもその証拠を掴む必要がある〟──つまり、ランベリス卿は犯人を問い詰めるために、犯人の動向を伺ってたんだ」

 レイファスは、手に持った証拠品の手紙をヒラヒラと仰ぐ。

「そして決定的な証拠を探るため、卿は一計を案じた。自ら〝変身ポリモーフ〟し、身を隠して相手を油断させ、自分の留守中を狙って、彼の書斎に忍び込む犯人をおびき寄せ、その現場を掴む。そのために化けたのがキャス君だったのは……まぁ、適任だったんじゃないかな。使用人の少女なら、誰も警戒しないからね」

「あっ──」

 そのとき被告席のキャスが、小さく声を上げた。

「あの日……私はお館様から特別にお暇を頂いていたんです。特に非番というわけではなかったのに……今日は自宅で休みなさいって……前日に突然、お館様に言われて……」

「それは道理だね。キャス君が屋敷に出仕していたら、彼女に化けた卿と本人がバッタリ出会ってしまう」

 キャスの言葉にウンウンと納得し、同意するレイファス。

「さて、ここでみなさんに事件当日の流れを順を追って説明しよう」

 彼は公聞席の方に向き直り、胸を張って両手を上げた。それはまるで万雷の拍手を受ける歌劇の主人公タイトルロールのような仕草だった。いや、それは比喩ではない。法廷にいた誰もが、今、証言台に立つこの主演男優の次の言葉を待っていたのだ。すなわち事件の意外な真相と結末を──。

 そして魔法使いは真相を語りだした。

「ランベリス卿は屋敷の中にいる人物の誰かが、不穏な陰謀を働いていることを察知し、それを炙り出す作戦を画策した。そのため自らは屋敷を留守にすると見せかけ、〝変身ポリモーフ〟によってキャス君に化けて屋敷に潜伏したんだ」

 レイファスは「ここまでが事件の前段階セットアップだ」と言葉を区切り、「そして事件当日──」と継いだ。

「卿のその作戦を知らない犯人は、卿の留守を信じて書斎に忍び込む。きっとデスクの中にある、卿の持つ何かしらの目的を物色していんだろう──見事に卿の策略に嵌ったわけだ。その瞬間を見計らい、キャス君となった卿は書斎に押し入り犯人と対峙する。そして犯人を問い詰めたんだ。〝何故、こんなことをする?〟〝いったいお前は何者なんだ?〟と──」

「その目的は?」

「それは現場にいた当事者しかわからないことだよ。おそらく金か、もしくは何かの資料か」

 レイファスは気の逸るウィルの質問を受け流す。

「ともあれ、犯人は卿の尋問に答えるつもりはなかった。その返答の代わりに卿につきつけたのが──これさ」

 そういうとレイファスは、握った拳の人差し指と親指を立て、その人差し指で法廷の中空を指し「バン」と声を上げた。他ならぬ凶器であるパーカッション式の単発銃マスケットの模倣だ。

「ち、ちょっとまて!! その話はおかしい! というか状況がまったくわからん! 犯人は……デスク側にいたのか!?」

〝剣の騎士スパーダ〟が異議を唱えた。もはや今までのような余裕はない。その額には脂汗が光っていた。

「そう、わかってるじゃないか」

 レイファスがにこやかに答える。

「犯人とランベリス卿が対峙したとき、拳銃を持っていたのは犯人だけじゃなかったのさ。卿も丸腰で犯人と対決しようとするほど馬鹿じゃない。犯人が拳銃を突きつけた時、卿もまた、持っていた拳銃を犯人に突きつけた。銃口を突きつけあって向かい合う──まるで貴族の決闘のように。そして銃声」

「銃声? どっちの銃の……!?」

「両方さ」

 レイファスは再び、右手の人差し指で拳銃を真似た。しかし今度はもう一つの左手をも拳銃にして、立てた指同士を胸の前でピタリと重ね合わせた。それは〝相撃ち〟という意味の具象表現だった。

「両方……!?」

「目撃者は銃声は一発のみと言っていた。しかしそれは間違いだ。弾丸は二発、ほぼ同時に発射されていたんだ。犯人から卿へ。そして卿から犯人へとね。」

 銃弾は二発発射されていた──それは、誰もが思いつかなかった新解釈だった。五人の証言によると〝銃声がした〟という証言は確実なものの〝何発発射されたか〟という問題に関しては一切の言及はなかった。いや、きっと目撃者たち自身も、〝撃たれた銃弾は一発である〟という事実を信じて疑わなかっただろう。撃ち合いによってほぼ同時に放たれ、重なった二つの銃声。それを正確に聞き分けるには、数多くの戦場を経験した軍人や傭兵並みの熟練が必要だ。そしてもちろん五人の目撃者に、そんな歴戦の古強者はいない。

「わかった……気がする」

 レイファスの説明が途切れ、静まり返った法廷内で、ウィルがポツリと言葉を発した。

「ふー、やれやれ、今さらかい? そう、君のその推理の通りだよ、ウィル」

 ウィルに対し、レイウァスが嬉しそうに声を張り上げた。いつまで経っても出来ない課題を抱えた劣等学生に、やっと数式を理解させた教師のような晴れやかな笑顔だった。

「そう、五人の証人たちが目撃した人物は、銃を撃った犯人のキャス君ではない。〝銃を撃ったが殺されたキャス君に化けたランベリス卿〟の方だったのさ」

 レイファスはついに事件の核心に迫る推理を披露した。

 ウィルはレイファスが証言台に立った時、彼がしつこく確認した議題を反芻した。

 証人が犯行を目撃したのは、中庭に面した書斎の東側半分。西のデスク側はカーテンが閉まっていて見えなかった。つまり証人が目撃したのは〝殺した側〟のみで〝殺された側〟は見ていない。

 その事実が今、同じ状況でまったく違う意味をもって明かされている。つまり──

「証人たちが目撃したのは〝殺した側である犯人〟ではなく、〝殺された側である被害者〟──つまり被害者と犯人が逆。正反対だった」

 その瞬間、法廷内でレイファスの推理を正確に理解できた者は、恐らく両手の指にも満たない数だったろう。それほどに彼の発言は突飛で奇妙で衝撃的だった。

 場内の理解力を振り切っていることもお構いなしに、レイファスは快調に弁論を続ける。

「つまり証人たちが見た者は、犯人に対して応戦するため銃を撃った、キャス君に〝変身ポリモーフ〟した被害者、ランベリス卿だったってことさ!」

 その言葉が決定打となって、驚きが理解と共に法廷内を伝播していく。熱した鉄のような高熱の興奮だった。

「……ランベリス卿が撃った銃の弾丸はどうなったのですか?」

 ウィルが率直な質問をぶつける。

 弾丸が二発発射されたのなら、当然、もう一発の弾丸の行方は無視できない。レイファスはその質問を予期していたかのような余裕さで答えた。

「これはあくまで推測だけど……弾は反れ、恐らく犯人の肩口を掠めて背後の本棚に命中したんじゃないかな」

「それはおかしい! 現場の報告では、デスク背後の壁にそんな弾痕は見つからなかったぞ!?」

 すかさず〝剣の騎士スパーダ〟が切り込む。

「だから、壁じゃなくて、本棚だってば」

 レイファスはウンザリしたように検事側の席を振り返った。

「ウィル、君は覚えているかい? 卿の書斎のデスクの背後にある本棚を。あのとき、棚にギッシリと並べられた魔法書の中にあった『魔法大全』全三十六巻の中で、十七巻目だけが欠本していたじゃないか。銃弾はあの『魔法大全』十七巻の背表紙に命中したんだ」

 ウィルはなるほど、と手を打った。確かに現場検証に立ち会った際、彼はデスク側の本棚に並べられた豪華な本に言及していた。

「あの本は、二百年前に上梓された稀覯書だ。昨今の製紙工場が刷るようなクズパルプの粗悪品なんかじゃない、豪華で丈夫な羊皮紙だ。背表紙で弾丸を受け止めるには充分さ。犯人は弾丸の撃ちこまれた『魔法大全』十七巻を抜き取って隠蔽した。これで弾の証拠は残らない。なんともお手軽な証拠隠滅だ」

 確かにデスクの背後が本棚だったのは、犯人にとって好都合だったと言える。これが普通の壁だったら、壁の残った弾痕を隠すのは厄介だ。壁紙を張り替えるか、調度品を移動して隠すか、どちらにしても時間と手間がかかる。

「話を戻そう。魔法というものは術者が死亡すると付与エンチャントされた魔力が失効する。そのため死亡したランベリス卿は、その場でキャス君の姿から元の卿の姿に戻った。自分が卿を殺害したことを理解した犯人は、卿の死体を移動し、デスクの椅子に座らせる。これで舞台は完成さ」

 レイファスがパンと手を打った。これにて証明完了。そして最後に高らかに総括の弁を述べた。

「五人の目撃者の証言で、銃を撃ったのはキャス君であることは明白。そして現場ではデスクにうつ伏すランベリス卿の死体。この二つの状況証拠が揃えば、もはや疑問の余地はない。完璧な偽装殺人現場の完成さ」

 レイファスが巻き起こした旋風によって、法廷内は鋼鉄が溶けるほどの熱狂が飽和していた。もはや法廷内に謎の魔法使いを訝しがる者はいない。突然現れたこの正体不明の美青年は、真実をもたらす伝道師のような存在となっていた。

 地鳴りのように熱狂する公聴人たちに、見かねた〝大審官ジャッジ〟が「静粛に」と窘める。その冷や水によってようやく法廷内の興奮は終息した。

「……待てッ!」

 機会を伺っていたのか、すかさず〝剣の騎士スパーダ〟が発言した。

「証人は、最も大切な問題を無視している!」

 もはや法廷内の趨勢はレイファス率いる弁護側に傾いていた。しかし〝剣の騎士スパーダ〟はそれでも必死に食い下がる。

「証人は犯人はキャス君ではないと言う。では一体、誰が!? 貴様の言う〝犯人〟とは、何者なのだ!?」

 それは〝剣の騎士スパーダ〟の最後にして決定的な切り札だった。

 真犯人は誰か?──それは今までレイファスがあえて言及を避けていた、この事件の核心だった。これが判明しない限り〝盾の騎士スクード〟側の決定的勝利はなく、今までのレイファスの推理も砂上の楼閣と化す。

 だが、そんな乾坤一擲の〝剣の騎士スパーダ〟の攻撃を、レイファスはこともなく受け止めた。

「そんなの簡単じゃないか。まだ分からないの? 君、それでも騎士?」

 レイファスが人を小馬鹿にした態度でわざとらしく溜息を吐く。〝剣の騎士スパーダ〟がその挑発にまんまと乗り、「なんだと!?」と顔を紅潮させた。

「今までの法廷記録を確認すれば、そんなことは一目瞭然さ。五人の目撃者の証言を確認したかい? そのほとんどは〝中庭に面した窓から、キャス君が銃を撃った〟という犯行の瞬間を捉えたものだ。まぁ、これはもちろん客観的には事実なので、まったく事件とは矛盾しない。でも──」

 刹那、レイファスの整った目がギラリと異彩を放ったことに、ウィルは見逃さなかった。その眼は魔法使いというより、獲物を狙う狩猟者のそれに近かった。

「一人だけ……だった一人だけ、他の物とは違う証言をした者がいる。この事件の事実と異なる、矛盾した証言をした者が、ね」

「それは──」

 誰だ!? と〝剣の騎士スパーダ〟〟が叫ぶ声をレイファスが制した。

 しかし制したのは声ではなく、またしても人差し指だった。魔法使いの人差し指──数百年前までは魔法という未知の奇跡を振るい、人々に驚嘆と畏怖をもたらした古き伝説の存在。その伝説が今、法廷という場所で論理と推理に形を変えて顕現する──。

「君」

 レイファスの人差し指は──公聴席の最前列を示していた。事件の関係者が座る特別席。そしてそこには召喚に応じて証言を終えた者が座っていた。

 その該当者は──たった一人。

「君、えーと、名前は……………………なんだっけ?」

 レイファスがとぼけた口調で〝その男〟へと話しかける。

「ベルナール……さん?」

 ウィルによって名前が呼ばれた瞬間、法廷中の全ての視線が〝その男〟に殺到する。

 ランベリス卿の屋敷を取り仕切る執事長ベルナール・デクリエール。先ほど証言台に立った事件の第一発見者──。

「そうそうベルナーク君」

「……ベルナールだ」

 レイファスが呼んだ間違った名前をベルナールが静かに訂正する。その顔は鉄の仮面のように無表情だった。そこから彼の感情は推し量れない。

「…………私に何か?」

 低く抑揚のない口調でベルナールが返答する。レイファスはニコリと若き執事長に笑いかけた。

「君は証言台で確か、こう言ったね。〝犯行の様子を目撃して、急いで書斎に駆けつけた〟と。そしてそこで〝書斎から逃げ出すように通り過ぎていったキャス君と出くわした〟と」

「…………それが?」

「それは大嘘だよね、ベルナルディ君」

「ベルナールだ」

「そうそう、ベルナンデス君。君は嘘を言っている。だってキャス君は死んだランベリス卿だったんだから。あの部屋から出て行った人物は、犯人以外にあり得ない」

 ウィルはベルナールの微妙な変化に気付いいていた。痩躯で窪んだ眼窩の奥の瞳に静かな怒りと焦燥の炎が灯っている。

「君がそんな嘘をつく理由は一つしかない」

 レイファスの瞳が再び異彩を放った。

「ランベリス卿を殺害したのは……君だね?」

 それは、レイファス最後の切り札だった。

「君は現場で証拠隠滅をした後、何食わぬ顔で書斎に残り、そのまま第一発見者を装ったんだ。さも事件を目撃して駆けつけた体でね。キャス君に濡れ衣を着せる捏造証言も添えて」

「………………」

「何か反論はあるかい? ベロベーロ君」

 ベルナールが沈黙する。もはやレイファスの挑発に乗る状況でもない様子だった。定規で引いたように薄い唇を真直線に閉ざし、その瞳は瞬きもせず、目の前の魔法使いを睨んでいる。

 法廷はまるで闇森マークウッドの如き静寂に包まれていた。誰もが謎の魔法使いと若き執事長の対決を固唾を飲んで見守っている。

「……証拠はあるんですか?」

 ベルナールの口がようやく開いた。しかしそこから漏れたのは嘲笑にも似た言葉だった。

「貴方の言う推理は、あくまで憶測に過ぎない──」

 そう言ってベルナールがフンと鼻を鳴らした。それは反抗の狼煙だった。レイファスの果たし状を真っ向から受ける決闘者の態度だ。

 同時に席から立ちあがり、本格的にレイファスと対峙する。彼の表情、そして態度からは証言台に立ったときの誠意に溢れた少壮の学士の雰囲気は払拭されていた。

「先ほどから聞いていれば、随分と勝手な言い分だな」

 ベルナールは、相手を小馬鹿にしたような態度で首を振る。

「ランベリス卿が〝変身ポリモーフ〟してたって? フン、そんなインチキ、誰が信じるとでも?」

 そう言ってベルナールは左拳に力をこめて大きく振り上げた。まるで役者だ。

「貴方は魔法なんていう荒唐無稽な絵空事を持ち出して詭弁を吐き、法廷を煙に巻いてるだけだ。莫迦な聴衆は騙せても、私は騙せないぞ……! これは茶番だ。こんな男の言うことに耳を傾ける必要はない! なんなら、これは法廷の侮辱……ひいては帝国への反逆だッ!」

 ベルナールは怒りに燃える瞳で、レイファスとウィルを交互に睨む。

「貴様らを訴えてやる! 次の法廷では貴様たちが被告人席に立つんだ! 貴様の地位も名誉も、すべてを奪い、大法螺吹きの狂人としてこの帝都から放逐してやる! 法廷でいい加減な推論をわめき、人々を惑わせた罪は、万死に値するッ!!」

 そう叫び、ベルナールは振り上げた左拳を目の前の法廷柵に叩きつけた。ベルナールの主張は公聴人たちにどのように映ったか、傍らのウィルには判別つかなかった。しかし一つだけ確信したことがある。

 法廷は戦争だ。弁舌をもって相手を組み伏し、勝利する。そこに剣や槍も必要ない。あるのはただ一つ、論理。それと──。

 今、ベルナールはその憤怒を得物にして〝盾の騎士スクード〟たちに斬りかかっている。

「証拠だ! 証拠を示せッ!!」

 ベルナールの重突撃が炸裂する。しかしそれを受けるレイファスの防御は、驚くほど無防備だった。

「あちゃ~弱ったな、この人、聞き分けの悪い人だ。どうしよう、ウィル」

 魔法使いは頭を掻き、とぼけた口調でウィルに問う。

「ど、どうしようって言われても……」

 あまりに気の抜けた態度に、ウィルは慌てて言葉を詰まらせた。

「証拠ねぇ……そうだなぁ……」

 レイファスがフムと頷き、顎を撫でた。

「ウィル、ちょっとペンを借りるよ」

 そして唐突にウィルのデスクに置かれた鉄ペンを掴み取る。

「あっ、何を──」

 ウィルが聞く間もなく、レイファスはそのペンをベルナールのいる公聴席へと放り投げた。

「ホラ」

 ゆっくりと放物線を描いて飛んでいくペン。

 突然の行為に、熱弁に浮かれたベルナールに刹那、逡巡の色が灯る。そして反射的に左手を伸ばして飛んできたペンを掴もうとした。しかしその反応は鈍い。

 直後、ペンはカツンと硬質な音を立て、法廷の床に落ち、転がった。

「…………!」

「あれ? 君はたしか右利きだったよね? どうして左手で捕ろうとしたんだい?」

 レイファスのその言葉を聞いた瞬間、ベルナールの顔色が変わった。

 激昂の紅から蒼白へ。そして憤怒の顔から狼狽へ。執事は瞬時に狡猾な魔法使いの術中に嵌ったことを悟った。

「過去、三回あったこの事件の法廷記録を確認させてもらったよ。君が証言台に立ったのは合計二回。今回を含めると三回だ。そのとき君がサインした法廷内誓約書の写しがコレだ」

 畳みかけるように、レイファスが手元の資料を突きつけた。いつの間にかウィルの纏めていた資料を抜き取っていたのだ。

「ずいぶん下手糞な字だねぇ……まるで毒蚯蚓ポイズンワームがのたくってるみたいだ」

 わざとらしく嫌味を言う魔法使いの視線が、茫然と立つベルナールを射抜く。

「君、右腕を怪我しているね?」

「…………!!」

 それは決定打だった。完全と突進してきたベルナールの舌鋒の槍を受け止め、跳ね返し、そして続けざまに放った会心の一撃──。

「初めて会ったとき、すぐにわかったよ。怪我というものは平然を装っても無意識で庇ってしまうものだからね」

 レイファスの一撃は、過たずベルナールの心臓──確信を貫いたのだ。

「さぁ、〝大審官ジャッジ〟閣下にご覧に入れてもらおうか。その右肩に刻まれた動かぬ証拠を──!」

 法廷内にレイファスの言葉が木霊した。

 もはや勝負は決していた。そう、それは決定的な証拠。ベルナールがランベリス卿の撃った銃を受けた、その銃創の所在の指摘であった。

 法廷にもはや語る者はいなくなっていた。その場の全員が事件の真相を知り、確信し、そして法廷の終焉を予期していた。

 そこにいたのは、もはや星雲の志をもって地方からやってきた少壮の学士でも、有能な執事長でもない。第一発見者を装い、主君ランベリス卿を殺害した殺人鬼だった。

「………………う、う……」

 殺人鬼が頭を垂らし、地面に向かって低く喉を鳴らした。それは餓えた獄犬ヘルハウンドの唸りに似ていた。

「うあああああああああああああああッ!!」

 突然、殺人鬼が吼えた。

 そして目にも止まらない速度で自由の利く左腕を持ち上げる。

 ギラリと光が反射した。

 殺人鬼の左手に握られていたその鈍色の鉄塊の正体を、ウィルは瞬時に理解した。

 最新式のドラゴンスレイヤー社製単発銃マスケット──ランベリス卿を殺めた凶器と同型の得物。

 殺人鬼が言葉にならぬ金切声を上げ、その銃を突き付ける。

 無謀な悪あがきだった。もはや殺人鬼自身も、その銃で誰を狙おうとしているのか、判断はついていなかっただろう。証言台のレイファスか、〝盾の騎士スクード〟のウィルか、被告席のキャスか、はたまた檀上の〝大審官ジャッジ〟か──どの相手の命を奪っても、もはやこの状況は決して覆らない。法廷に凶器を持ち込むこと自体、狂気の沙汰だった。いや、このとき殺人鬼は確実に狂っていた。自暴自棄と言っても良い。とにかくその引き金によってもたらされる悲劇に殺人鬼の躊躇はなかった。

 一瞬の迷いの末、単発銃の銃口が定めた相手は、被告人席にいる少女だった──。

「ひっ」と、キャスが小さく悲鳴をあげる。

「危ないッ!!」

 刹那、ウィルは駆け出していた。

 もはや理性的な判断力ではない。それはほとんど本能に近い行動だった。あるいはキャスを守りたい──〝盾の騎士スクード〟としての使命感が、彼の足を突き動かした。

 ウィルはキャスを庇って盾になり、その無防備な背を殺人鬼に向ける。その背に突き付けられる銃口――殺人鬼が引き金に乗せた指に力を入れたのは、その直後だった。

「グオッ!!」

 次の瞬間、法廷に轟いたのは銃声ではなく殺人鬼の咆哮だった。

 間髪入れず、ボボボッと奇妙な炸裂音が立て続けに巻き起こる。

 何事かとウィルは振り向き、殺人鬼を見遣った。

 そしてそこで奇跡を見た。

 空気が火を噴いた──!

 それは、そう表現するしか名状しえない光景だった。ベルナールの撃った銃からは弾丸は発射されず、代わりに彼の周囲で爆発が巻き起こっていた。その爆発の衝撃により、ベルナールの左手の五指は吹き飛び、逆火バックファイアの直撃を受けた彼の顔面が燃焼する。

「グオオオオオオオオッ!!」

 断末魔の悲鳴をあげてベルナールがその場に崩れ落ちる。無残に焼けた顔は、もはや目も鼻の口も判別できないほどに爛れていた。

「……銃の暴発!?」

 それは偶然か奇跡か──。

「違うよ。魔法さ」

 ウィルの背後で声がした。

「レイファスさん……!」

 振り向くと、そこには自信たっぷりの笑顔をした魔法使いがいた。

「〝光爆ブレイズ〟──大気を可燃物質に置換させ、高温に反応して誘爆させる魔法さ」

 そう言って魔法使いは小さくウインクをして見せる。

「何、下らない小魔法ティツキースペルだよ」

 その言葉でウィルは改めてこれがレイファスの仕業であると理解した。

 この男──恐らくベルナールの乱心狼藉を予想していた。だからあらかじめ、彼の周囲に高温で発動する魔法を仕込んでおいたのだ。なんという策士──いや、命の恩人にこの表現は失礼だ。なんという知略と機転であろう。

 ウィルは、ふと我に返ったように自らの腕の中にいる存在に気付いた。

 恐怖に震えていた少女の華奢な肩からは、今は安堵の呼吸が感じとれる。自らが命を張って守ったこの幼気な少女の無事に、ウィルの胸が充足に満たされていくのを感じた。

「もう大丈夫です」

 ウィルがそう呼びかけると、キャスがゆっくり頭をあげる。その整った顔がウィルの鼻先に近づく。

「ありがとう……」

 少女がウィルを見詰めた。フェルパ族特有の縦長の瞳孔から、一筋の涙が零れた。

「……う、うううううう……何てこった……」

 突然、レイファスが唸りだした。ウィルは慌ててキャスから目を離す。

「ど、どうかしましたか……!?」

 レイファスは頭を抱えて、嘆くように天を仰ぐ。

「こんなことのために……こんなくだらないことのために貴重な〝火蜥蜴サラマンダーの尾〟を使ってしまった……あれ、なかなか手に入らないのに……!」

 レイファスの滑稽なまでの嘆き声を聞いて、ウィルは思わず吹き出した。そして再びキャスを見遣る。彼女も小さく微笑んでいた。

 その笑顔を見た瞬間、ウィルは改めて〝盾の騎士スクード〟としての自らの本分を実感した。


   ★   ★   ★


 昨日までの土砂降りの雨が嘘のように、その日の帝都は再び快晴を取り戻していた。

 あちこちに残った水たまりに空の光が反射し、薔薇窓のように多彩な色彩を描く。帝国大法廷の頭上には、見事な虹の橋ができていた。

 スラッシュクロス・アビー地区の一画にあるオンボロ長屋の二階。〝騎士〟の仕事場兼自宅に、ウィルフレッド・ブライトリングの姿があった。

 彼は山と積まれた、今回の法廷資料の整理を行っている最中だ。しかしその膨大な書類の山をやっつけるには、一人では多勢に無勢、極めて旗色が悪い。

〝ランベリス卿殺害事件〟最終法廷から、三日が経っていた。

 あの後──真犯人であるベルナール・デクリエールが狂気による狼藉を行った後、レイファスの最終証人喚問はしめやかに終了を迎えた。それはまるで祭りの後の侘しさにも似た状況だった。

 そして速やかに行われた、その後の最終判決。

 連合帝国憲章に基づいた大法廷裁判は、原則七人の〝大審官ジャッジ〟による多数決を以て採択される。今回、計四回にわたる〝ランベリス卿殺害事件〟の法廷全てを睥睨し始終を網羅した〝大審官ジャッジ〟の下した判断は──〝無罪〟五票、〝保留〟二票。

〝保留〟に投じた二票の論拠は、事件最大の重要事項である〝変身ポリモーフ〟の魔法が事件現場で果たして本当に使われたか? その信憑性を問う慎重意見だった。しかしこの問題はランベリス卿の残した触媒リージョン購入の出金記録や、使用した魔法書や触媒配合表レシピの書かれた文書の存在が証明されることで、いずれ解決される問題であろう。

 ともあれ圧倒的多数票を以て、晴れて被告人キャス・パ・リューグの冤罪と無実が証明されたのだ。それはすなわち〝盾の騎士スクード〟である弁護側、ウィルの逆転勝利を意味していた。

 一方、真犯人であったベルナール・デクリエールはどうなったか?

 そこに関して、ウィルの知っている情報は曖昧であった。結審後、上半身に重度の火傷を負ったベルナールは虫の息で診療所へと搬送された。そしてその後、改めて彼を被告とした〝ランベリス卿殺害事件〟の再法廷が開かれる。しかしその法廷はウィルの仕事の領分ではなかった。それにきっとあの重症では、ベルナール自身出廷は困難であろう。そもそも帝国の唯一無二の聖域とも言うべき神聖不可侵な法廷に重火器を持ち込んだ罪は、想像以上に重い。その罪だけで、彼は終生を監獄で過ごす懲役は免れないだろう。

 かくしてウィルの絶対不可能と呼ばれた無謀な〝帝国騎士〟としての初法廷は、幕を閉じた。

 そのときコンコンとウィルの自宅の扉を叩く音がした。

「あ、はい」

 書類の山に右往左往しつつ、ウィルが戸口へと出迎える。

 開け放たれた扉の先には、フェルパ族の少女がいた。

「いらっしゃい」

 ウィルはにこやかにキャス・パ・リューグを部屋に招き入れる。キャスはウンとうなづき、フェルパ族特有のしなやかな身のこなしで部屋へと滑り込んできだ。

「下のパン屋で買ってきました。よかったら食べてください」

 キャスは手に持った土産をウィルに差し出した。それは少女の顔ほどの大きさもあるライ麦パンだった。ウィルは「ありがとう」とお礼を言ってそれを受け取る。

 少女の顔に可憐な花が咲いた。それは三日前まででは考えられない彼女の表情だった。

 世間から殺人者の汚名を着せられ、身寄りのない大都会で孤独と辛酸を味わっていた少女は、今、その苦役から解放されて心の底からの自由を味わっていた。

 元来、彼女はこういう顔で笑うんだ──ウィルは驚く。それは小さな発見だが、大きな喜びだった。

「あ、それと……」

 不意にキャスが顔を赤らめる。その表情と継いで出る言葉を邪推して、ウィルの鼓動が少し高鳴る。

「な、な、なんだい?」

「そこの路地で一緒になって──」

 キャスの答えとほぼ同時に、二人の間にニュッと人影が割り込んできた。

「やぁ! ウィル、久しぶり!」

 レイファスだった。三日前と変わらず薄汚い黒い外套コート旅人帽トラベラーズ・ハットを被ったみすぼらしい身なりの魔法使い。

「いやぁ~、偶然だなぁ!」

 レイファスは白々しくそう言って、ウィルの了承も得ずにズカズカと室内に踊りこむ。

「うん、ここは相変わらず狭くて小汚いね! 最低だ!」

 屈託のない笑顔で失礼な発言をぶちまけるレイファス。そしてあちこちに散乱する書類の束を抜き取り、書類の山を崩したりして、まるでここが自宅であるかのように振る舞う。

「レイファスさん……何しに来たんですか……」

 突然の招かれざる客にウィルはゲッソリとなって訊く。レイファスは得意げな顔となり、ウィルとキャスに向き合った。

「そんなつれない顔をしないで欲しいな。ランベリス卿の事件の続報をもってきたんだ」

「えっ?」

「犯人だったベルナール君のことだけどね。彼がランベリス卿を殺した動機が判明したよ」

「ホントですか!?」

 ウィルが思わず身を乗り出す。

「彼の出身は隣国フレアス州だが、母方の実家は東方──ファラージの貴族だったんだ」

「ファラージ!?」

 その地名はウィルも知っていた。

 ファラージは連合帝国の東方圏、大陸の果てにある小さな辺境の王国だった。そのさらに東には、連合帝国さえも支配が及ばない、風土も人種も文化も違う異教の国々が版図を広げている。つまりファラージは帝国の東方支配の橋頭保ともいうべき場所で、常に紛争が絶えない、通称〝東の火薬庫〟と呼ばれる土地だった。

 つい昨年にも、親帝国である王党派に対して、自主独立を目指す解放軍によるテロルが勃発し、王党派筆頭の第二王子が暗殺される事件が起こっていた。

「彼はその解放軍の一員だったらしい。つまりファラージ解放軍が帝都に送り込んだ間者だったということだ。事実、彼はランベリス卿を利用してミットフォード大学の文壇や宮廷社交界に潜入し、かなり有益な情報を解放軍に流していたらしい。しかもそこで得た人脈を使って莫大な活動資金の横流しにも加担していたって話さ」

「そんな陰謀が……」

 ウィルは事の重大さにため息をついた。単なる貴族の殺人事件の裏には、国家的な陰謀が働いていたというのか。

「ランベリス卿は清廉潔白な学究の徒だ。学問に政治や戦争を持ち込むことを何より嫌うからね。図らずも自分がその陰謀に加担してしまったことが、許せなかったんだろう」

 レイファスが「惜しい人を亡くした」と、珍しく真面目な顔で目を伏せた。

「すべては祖国の独立の為だったのね……」

 レイファスの話を黙って聞いていた少女、キャスが呟いた。その顔が曇っている。

 ウィルは彼女の様子を見て思い出す。たしか彼女の出身地であるバルバリアもファラージ同様、連合帝国の侵攻の犠牲になった土地であった。彼女はその戦役によって焼き出された戦災孤児である。だから失われた祖国のために戦うベルナールの気持ちに酌量と同情の念を抱いているのだろう。

「でも、それは詭弁さ」

 しかしレイファスは、にべもなく断言した。

 ウィルも彼の意見に同意だった。例え祖国を救う崇高な志があろうと、それが人を殺め、無実の少女を貶めて良い理由には決してならない。それを大事の前の小事というのであれば、そんな大事に正義などない。〝世界で唯一清廉なるもの、それが正義〟──それは尊敬する父の言葉だ。

「まぁ、そんなこと、もうどうだっていいじゃないか」

 レイファスが億劫そうな態度で無理矢理会話を断ち切った。その顔はあからさまに面倒そうだ。きっと心底この話に興味がないのだろう。まったく、自分で話を切り出しておいて、なんて勝手な態度。筋金入りの身勝手な男だ。

「とりあえず……まずは引っ越し祝いだ」

 自儘な魔法使いが気を取り直して明るい顔となり、パンと手を叩く。

「引っ越し……祝い?」

 傍らのキャスが、不思議そうに質問する。

「なんですか? それ」

 ウィルも同様に頭の中に疑問符が浮かぶ。しかしレイファスは訝しむ二人をまったく意に介さず、ニコニコ上機嫌で部屋の中をうろつき始めた。

 そしてキャスの土産のライ麦パンを始め、キッチンに放置した生ベーコンやピクルス、冷めたランフォード・スープの残りや、飲みかけの安葡萄酒ワインなどを勝手に持ち出し、テーブルの上に無造作に置く。どうやら本気で〝引っ越し祝い〟を始めるらしい。

「ちょ、何やってるんですか! 誰が引っ越しするんですか?」

 するとレイファスは、お決まりのとぼけた顔で答えた。

「誰って……私に決まってるだろう」

「……どこに?」

「そりゃあ、もちろん……ここさ」

 こともなげにレイファスは軋む板張りの床を指座す。

 しばらくウィルは、この男が何を言っているのか理解できなかった。ここはもちろんウィルの自宅である。この魔法使いは、ここに引っ越ししてくると言う。それはつまり──

「ええっ!?」

 ようやく遅れてウィルが仰け反る。レイファスがアハハ、と笑った。

「いや~、しばらく帝都に滞在していたら、意外と都会の空気というものを気に入ってしまってね。人々の欲望が渦巻き、秩序と混沌、聖俗と愛憎が入り混じるこのゴミ溜めが、なんとも最高に最低だ」

 腕を組み、勝手な意見を述べるレイファス。

「だからもうしばらく、ここに居てやってもいいと思ったんだ」

 そして最後に言った言葉は、これからここに居候を決め込もうとする者とは思えない、最高に無礼で厚かましい物言いだった。

「ちょ、ちょっとまってください! こ、ここに住む気なんですか!?」

「うん。こっちの部屋が空いてるんだろ?」

 レイファスはあまりに軽い返答と共に、早速部屋の間取りを物色し始める。居間の隣の物置部屋の扉を開け、舞い上がった埃に咽たりしている。

「う~ん、魔法の実験場にするには少し狭いな……まぁ、贅沢は言ってられないか」

「勘弁してくださいよ!」

 ウィルが頭を抱えて懇願する。実験!? 冗談じゃない! もしかしてこの男、このオンボロ小屋でこの間みたいに空気を爆発させたり、悪臭や毒の霧をまき散らすつもりなのか!?

「だって帝都で家を借りるには市民証が必要なんだろう? 生憎私は、そんなものを持っていない。それにドヤ街の木賃宿はもうウンザリなんだ。不潔で不愉快極まりない。あそこに暮らすぐらいなら、ここの方がなんぼかマシだ」

「そんな勝手な──!」

 ウィルは困惑と混乱で泣き顔となった。

「フフッ──」

 ウィルのあまりの情けない顔に、隣にいたキャスが思わず噴き出す。

「笑い事じゃないですよ!」

「ごめんなさい」

 キャスが慌てて謝り笑いを必死に抑えようとする。しかしウィルとレイファスの顔を交互に見て、耐えられなくなってもう一度、肩を揺らして笑い出した。

 ウィルはその光景を見て苦笑しつつ、この話の流れに抵抗することが無駄なことであると悟った。この魔法使いは言い出したことは決して曲げない。そんな彼の性格は、知り合って数日の間に痛いほど分かっていたのだ。

 せめてものささやかな抵抗に、とウィルは大きく、わざとらしい溜息を吐いた。

「まぁ、いいじゃないか。代わりにたまには君の仕事を手伝うよ。もしかしたら魔法の力が役に立つときがあるかもしれない。今回の事件のときのように、ね」

 諦めるウィルの肩を、ポンとレイファスが叩く。

「それに──誇り高き騎士の傍らに、有能な魔法使いがいるのは、御伽噺の定番じゃないか」

 そう言って飄々とした魔法使いは、新米騎士に小さくウインクをした。

 隙間風が吹く粗末なこの部屋が、不意に温かな空気に満たされた。それはとても心地よく清々しい空気だった。これもまたレイファスの唱えた魔法なのでは?と、疑うほどに、ウィルの胸は、熱い充足感に満たされていた。

「改めて、お礼を言わせてください、レイファスさん」

 ウィルは少し照れくさそうに頭を掻き、目の前の魔術師に向き合う。そして彼の灰瑪瑙グレイアゲート色の瞳を正視した。

「あなたがいなければ……勝てなかった。騎士も辞めていたでしょう。今回の裁判で、僕はただ空回りしてだけの道化師に過ぎなかった──」

 ウィルは微かに目を反らし、拳を握りしめて唇を噛んだ。それは〝ランベリス卿殺害事件〟の終結から三日、勝利を勝ち取ったウィルの晴れやかな心の中に一点だけ微かに残った黒い染みだった。今回の裁判はウィルにとって生まれて初めての〝騎士〟の晴れ舞台だった。帝都中の全ての人間が敗北を疑わなかった無謀な挑戦。その逆境に打ち克つため、この一ヵ月、ウィルは血の滲む努力をした。連日不眠不休で資料に目を通し、長靴ブーツが擦り切れるほどに現場やクリムゾンフォードを往復し、何百回もの法廷模擬訓練を繰り返して法廷に臨んだ。

 しかし──彼のその努力はすべて無駄だった。結局、キャスの無実に貢献したのは自分ではない。目の前にいる魔法使いの、まさしく魔法の如き天才的な推理力と洞察力の賜物なのだ。果たして自分に存在価値があるのだろうか? ウィルは消え入りたくなる気分になる。自分はただ騎士号を所持しているだけの、単なる弁護人席に立つ木偶なのではないだろうか──?

「それは違うよ」

 しかしレイファスの答えは、明快だった。

「前にも言ったじゃないか。勝利を勝ち取ったのは、君の硬い〝決意〟の力だ。被告の無実を信じ、最後まで諦めない君のその強い心こそが、法廷の勝利を掴み取ったんだ。私はほんの少し、知恵と魔法を貸しただけに過ぎない」

 真摯なる敬意を瞳の光彩に宿し、魔法使いは断言する。

「その正義を信じる〝決意〟こそが、騎士にとって最も大切なこと──そうだろう?」

「はい!」

 ウィルの心にある最後の陰が払拭された。そこには一転の曇りもない青空が広がっていた。

 ウィルは大きく息を吸い込んで顔を上げた。彼の視線の先──居間の壁、彼の簡素な執務デスクの奥には、古びた肖像画が掲げられていた。

 そこに写っているのは、彼の最も尊敬する人物。父であり〝騎士の中の騎士〟と呼ばれた伝説の男、ヴァリアン・ブライトリング。その峻厳そうな中年男の遺影に、ウィルは恭しく礼をする。

「ウィル、お前は俺を超える騎士になれ──〝ダイアモンドの騎士〟に」

 肖像画の中の父が、ウィルにそう語りかけた──ような気がして、ウィルは再び礼をした。

 硬く光り輝くダイヤモンドのような〝決意〟を持った騎士になる。

 今はまだ、壊れやすく危うい玻璃ガラスのような心だとしても、いずれきっと、なってみせる──。

「見ててください、父さん──」

 肖像画の中にいる父からの返答を確信し、ウィルは振り向いた。

 そしてそこにいる魔法使いの友に、ウィルは力いっぱい頷いた。


 ──こうして〝新たなる騎士団ニユーオーダー〟が、今、まさに誕生した。




                 エピソード 1 『ニューオーダー結成!』了

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ニュー・オーダー! 二度寝沢 眠子 @nidonezawa_nemuko

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