ぐしゃ

氷雨ハレ

ぐしゃ

 


 ぐしゃ




 例えばどうしようもないくらいの衝動が自分を襲った時、紙をぐしゃっと潰す。キュッとなった紙を見て満足するだけだが、やっぱり俺にとって大切な行為であるのに変わらなかった。今日潰したのは模試の結果、潰されたのは俺の進路……いや、退路というべきか。一面に咲いた最低評価の華にゲシュタルト崩壊を起こし、衝動的にやった。それぞれの言い訳と未来予知に想像を使って帰路につく。足取りは重かったが、路上の石を蹴り飛ばすほどの力は残っていた。その後のことは……言うまでもないだろう。




 俺が嫌いなものは二つある。太宰治の『人間失格』と俺自身だ。どっちも最低で、吐き気すら覚える。「クソピエロが。一人で死んどけ」とスマホの画面に言う。双方向の悪口に意味は無いが、それでも止めることはなかった。先は言わなかったが、恋愛に関しては半分だけ嫌いであった。だから街中に漂う逢引き肉共を見るとクソみたいな気分になる。その片割れが俺であったならどれほど幸せだろうか! 現実は非情である。




 久しぶりに引き出しの中を整理することにした。気分転換の一環だった。悪い癖だが、引き出しの中身を丁寧に入れようとする気概が全く起きないので、ぐしゃぐしゃの紙とかが沢山出てきた。紙、紙、ノート、消しゴムは鍵層、地質年代は奥が五年前、手前が今日だった。一枚の紙、自分のでないメモ用紙だったそれを手に取る。電話番号とメッセージ、「辛くなったらここに電話してね」とのこと。あぁ、そういえばと、俺は全てを思い出した。確かにそんな人もいたもんだ。他人の仮面の覗き穴から逆に深淵を覗きこもうとする人が、それでいてどこまでもお人よしで受験期にお世話になった人が、俺にはいた。




 俺は孤独だった。形式だけで有名無実の友人には仮面で会話して、心のうちは厳重に蓋をしていた。それが俺だった。そこに蜘蛛の糸を垂らしたのは彼女だった。中三の冬、一緒に勉強したのを覚えている。彼女は俺に夢や希望、愚痴などを話してきた。忖度も屈託もない朗らかな笑顔でいつも笑っていた。結局俺の心が融解して、蓋に穴が空くことはなかったが、それでも信用はあった。それがあの紙だった。




 最近会ってないな。元気かな。なんて思いつつ駅の改札をくぐる。なんだかんだ左ポケットに突っ込んだ例の紙を再見する。ふと見上げた先、構内のコンビニの会計にいる彼女の姿を俺は見た。彼女はこちらに来た。俺は「やあ、久しぶり」と言って右手を顔の横に挙げて、再会を祝福しようとした。すると彼女は「ああ、今人を待たせているの」と言って、俺の右手に左手の甲を返して、そのまま階下のホームへと行った。後に行くと、朝なのに既に香ばしい逢引き肉が映った。片方はよく知っていた人だった。今はもう知らないが。左のポケットがぐしゃっと鳴った。何が潰れたのか。思い出と心、その他大切なもの諸々だった。




 散々な日々でも、演者である以上はロールプレイをしっかりと。笑顔と狂言回し、「大丈夫大丈夫、出来なければ死ね」と言い聞かせて一日を過ごす。叱責と失望、冷笑と軽蔑だけが返答品だった。その度にぐしゃぐしゃぐしゃと、何もかもを潰してきた。




 ある日、もうくしゃっとするものが無くなってしまった。全部感情と一緒に丸めこまれてしまった。視界には一切が映らなくなった。自分の手を見る。そして自分の輪郭を確認する。なぁんだ。まだ残っているじゃないかと安堵する。



 ……



「えーっと、もしもし、どなたですか?」

「ああ、俺だよ。覚えているかな? ——なんか詐欺みたいだな」

「その声……うん、覚えているよ。どうしたの? というかどうして電話番号……あ」

「今一人? 電話は大丈夫?」

「私は大丈夫だけど、貴方が」

「まーまー。落ち着いて。————じゃあ簡単な話をしよう。俺の癖についてだ。俺には、悪い癖なんだが、よく物を潰してしまう癖がある。そう、クシャっと。手で簡単にね。大体、何か嫌な時にやってしまうんだ。その嫌な気持ちの解消の為にね。確かにその効果、嫌な気持ちまでもをクシャっとすることは出来る。でも他のもの、大事なものまでもを巻き込んでしまうんだ」

「今どこに居るの? 外なの?」

「ああ、外だよ。ここから沢山の物を見下ろせる。都会ながらも風を感じられるいい場所だよ。本当に、本当にね。もしかしたら、お互い見えるかもね。じゃ」

「まっ」



 ……



 威勢よく、吹っ切れたように電話を切る。手に持ったスマホを下に投げる。そして目で追い、自由落下の顛末を見届けた。眼下には沢山の人が居た。何も考えず下を向いて歩く人、上を見て指差す人、取り敢えずスマホで撮る人、遠くに見える周回遅れのランナー。「さあ、数奇に翔んでみようか」と、本来の自分への勇気づけか、それとも平生の自分の狂言回しかは知らないが、その言葉は口から出て、そして俺を引っ張った。人々は悲鳴を上げ、それに伴うように機械の目が俺を見る。数ある目の中で一対、それと目が合う。機械的でも無責任でもない焦燥の目が俺を見る。その顔が、まるで俺がくしゃっと潰したみたいで、思わず「嬉しいな」と声が出た。勿論、聞こえるわけはないが。やっぱり俺は大事なものまでもをくしゃっと潰してしまうようだ。




 例えば、どうしようもないくらいの感情が自分を襲った時、人は何をするだろう。俺はものをくしゃっと潰す。良いも悪いも一つに潰す。その一環。




 良いことがあった。彼女は一生、俺のことを忘れないだろう。


 悪いことがあった。俺は、そんな彼女の顔が、残念ながら見えないのだ。




 ぐしゃ

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