3.糸屑みたいな、物語
音が聞こえる。
ああ、この聞き慣れた音は……私が愛用しているスマホの、目覚ましの音だ。
少しだけ眠気が覚めたような、でもまだ眠気がベッドへ誘っているような、曖昧な感覚を引きずりながら、私は手探りでスマホを探し当てる。
ノールックでアラームを止めて、液晶画面に映し出された電子時計を確認する。
8時過ぎ……土曜日とはいえ寝過ごしちゃったなぁ。
受験勉強の続きをしなきゃ……日本史の問題、分からないところをそのままにして寝ちゃったから、復習をしてノートにまとめて……やること多くて困っちゃうな。
私は緩慢そのものの動きで起き上がる。ベッド際の壁にある窓から、カーテンを透過して太陽の陽射しが降り注いでいた。
本来なら、太陽の光を浴びて体内時計をリセットして、元気よく一日を始めようとする。けれど今日ばかりは、どうしてもその気になれなかった。
「……私ってば、ばかだ……」
コマ送りのように流れた記憶が、昨夜の夢の余韻が、脳天からつま先まで電撃のように奔流する。ふわふわとした高揚感とやるせない虚無感が混同したような感覚が、全身をのたうち回る。
どうして、かな……どうしてあんな夢、見ちゃったんだろう。
そんなの絶対、現実じゃ有り得ないのに。
……ううん、違うんだ。現実になるはずがないから、夢に出てきたのかな。
私が欲しかったささやかな幸せ。解れた糸に縋って、手繰り寄せて、いつか夢物語じゃなくなることを祈った。
──あの文化祭の日。私は隆生くんに想いを伝えてしまったんだ。
答えなんて、もう思い出したくもない。
早まった。絶対、機会は今じゃなかった。まだタイムリミットまで時間はあったのに。
もう、恋心なんてどうでも良くなってしまったことだけは覚えてる。あの日から心が壊れてしまった、そんな曖昧な感触だけが奥底に残っていた。
結局、運命の赤い糸なんてなかったんだ。ううん……私とりゅーくんは、初めから繋がっていなかったんだ。
結局、少女漫画みたいな約束されたラブストーリーは存在しなかったんだ。ヒロインは……まるで誰もが二度見するくらいの可愛い子じゃないと、初めから成立しないんだ。
そうじゃなきゃ、私の10年は、ただただ虚しいだけの、空白の時間でしかなくなってしまうよ。
……既に、そうなってしまっているのかもしれない。嫌だ、嫌だ、嫌だ──私は一体、何をしていたんだろう。
『ありがとう。でも、ごめんね』
頭の片隅にこびり付いている、あの日の朧気な記憶。脳内再生される隆生くんの声の断片。忘れようといくら努力しても、何度も何度も頭の中を駆け巡る。
『これからも、大切な友達のままで……いて欲しいな』
……そんなの聞きたくない。思い出したくない。早く記憶から、頭から、私の身体から消えて欲しい。
けど……こうして夢に出るくらい、私はりゅーくんのことをまだ想ってしまっているんだと、実感させられる。それがどうしようもなく悔しくて、情けなくて……虚しい。
帰ってからたくさん泣いたくせに、涙はまだ枯れていないみたいだった。
大粒の涙が零れて、布団に水玉模様を作りだす。喉の奥が熱くなって、痛くなって、嗚咽が漏れる。
あぁ、嫌だ。私はどうやって生きていけばいいんだろう。
唯一無二の存在を失った。もう縋るべきものもどこかに消えてしまった。
あの日から自問自答を繰り返しては、自暴自棄になって……勉強もろくに手が付かなくなった。
ドレッサーの上には八つ当たりのせいで粉々になったコスメたちが乱雑に並べられ、いつかの日の為にと買い集めた服はクローゼットを飛び出して床に投げ捨てた。
今まで積み重ねてきたまとめノートは手当り次第破ってしまった。私の長い髪が好きだと、いつかの日に伝えてくれた言葉信じて伸ばし続けた髪も、無惨に切り捨ててしまった。
そうじゃなきゃ、私は正気でいられない気がした
正気を保つために、何かに縋っていたかったんだ。
りゅーくんへの恋心を抑えるために、私は信憑性も現実性も何一つない信念に縋った。
それすら砕かれて、拒絶されて──もう屑みたいなゴミしか手元に残らなかった。
──赤い糸なんて、無かったね。
私が本物だと思い込んで手繰り寄せ続けていたのは、何にも繋がっていない、使い古された糸だった。
途中で切れてしまったのか、そもそも私だけの糸だったのか。それも、何もかも、分からない。
「……お願いだから、もう、思い出させないでよ……」
目元からとめどなく流れ落ちる涙を両手で受け止めながら、私は虚ろな瞳で、虚空を眺めた。
そっか、私はただの──要らない糸屑だったんだ。そう自分に言い聞かせながら。
願ったささやかな幸せは、心の奥底深くに閉じ込めて。
ぼろぼろの糸屑を繋ぎ合わせて。
綺麗に結んだ──もう、開くことのないように。
不透明な糸屑 紫水柚音 @Cattleya_yuno
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