2.それはまるで、夢のような

 聞き慣れた目覚ましの音がする──昨夜設定したスマホの目覚ましだ。


 寝ぼけながら枕の上に転がっているはずのスマホを手探りする。こつんと指先に触れた硬い感触を頼りに、液晶画面のボタンをノールックでタップする。


 きっとまだ朝の6時くらい。目覚ましも止めたことだし、せっかくの休日だから二度寝しよう……なんて邪な感情で再び布団に潜り込む。


 ……じゃない、今日、デートの日だった!


 一度覚醒すれば、瞼にのしかかっていた眠気は吹っ飛び、私の頭はクリアになる。人というのは単純なもので、急がないといけない時は勝手に眠気がさよならしてくれるシステムなんだ。


 ベッドから飛び降り、洗面所まで走って顔を洗う。今日のために厳選したスキンケアで保湿して、歯磨きをして、また自室に引きこもった。


 高校の入学祝いで買ってもらったドレッサーの前には、今日使うコスメたちが広げられている。そこから一つ、一つと手に取り、顔を作っていく。


 まずは、目力を出すために絶対に必要なカラコンを慣れた手つきで装着する。寒い時期だから、保湿系の下地を使って、ファンデもカバー力はそこそこに、コンシーラーもクマと口角の補正だけに留める。ルースパウダーを叩いたら次は眉。細めに描いて微調整して、手早くアイメイクに着手する。


 とっておきのピンクメイクに仕上げて、まつ毛を上げて、ブラウンのアイラインを引いて、可愛さ全開のチークを塗って……最後は、ぷくぷくになると噂のティントリップを添えれば完成。


 ボブに切った髪を緩く巻いて、前髪にアイロンを通して、触覚も少しだけ外巻きにする。

 ドレッサーの鏡には、自分でも胸を張って可愛いと言えるような子が映っていた。メイクを勉強していて良かったなって、努力していて正解だったなって、心から思える。


 仕上げにお気に入りの香水を振れば、甘い香りが私を包み込んだ。


 目まぐるしく場面は変わる。気づけば私は、最寄りの駅で人待ちをしていた。


 万全を期して用意した服。ちょっと気合いを入れすぎたかな……と不安になるけど、自信を持って立っていれば大丈夫だと言い聞かせた。


 フレンチガーリーと呼ばれている系統の服。私が好んで買っているブランドで、この日のために新しく購入したもの。トレンチコートも新調しちゃって……アルバイトで稼いだお金が無くなっちゃいそうだった。


 今日の予定は……初デートだからお買い物とカフェ巡りになってる。だから、底がふわふわで歩きやすい靴をチョイスした。


 褒めてくれるかな……なんて淡い期待を胸に、私はアミュプラザの入口で静かに佇む。


 視線をきょろきょろしながら、彼の姿を探す。けど……そんな私の前に、ひとつの影が差した。


「お姉さん、可愛いねー。連絡先教えてよ」


 おちゃらけたような声につられて顔を上げると、ストリート系と呼ばれる格好をした、金髪の若い男性が立っていた。顔はよく分からないけど、がっしりとした体つきと、手に持つスマホに少し尻込みする。


 どうしよう……これってナンパ、だよね。あまり経験がないから、どう対応すればいいか分からない……優しくてもお断りすれば帰ってくれるかな。


「あ、あのっ。私いま人を待ってるので、ごめんなさい」


「連れないなぁ。友達? それとも彼氏?」


「えっと……彼氏、です」


 思いがけないタイミングで、彼と付き合い始めたのだと自覚させられる。肌を刺していた寒風をものともせず、私の全身に熱が灯った。


 そんな乙女心を踏みにじるように、男性は面白おかしく話を続ける。


「いーじゃん、連絡先くらい。ほら、スマホ出してよ」


「いや……あの……ごめんなさい。私高校生ですし」


「マジ? 大人っぽいねー、大学生かと思った。なら、入試のコツとか教えるからさ。繋がってた方が良いじゃん?」


「あ、あの……」


 一方的に押し切られそうになり、私は戸惑いと恐怖が沸き上がる。スマホを寄越せと言わんばかりに差し出される手に触れないよう、ずりずりと後ずさる。


 関わりたくない、今すぐどこかに行って欲しい、助けて欲しい。誰か──


「──何してる」


 ぎゅっと目を瞑った瞬間、男性の背後から、聞きたかった声が聞こえた。


 胡乱げに男性が振り返り、遮蔽物が無くなったおかげで私も声の主の姿を捉えられる。


 視線の先には、一番会いたかった人が立っていた。


「りゅーくん……」


「え、もしかして彼氏?」


「……そうですけど。僕の彼女に何か用ですか」


 どこか不機嫌そうに顔を顰め、物言えぬ威圧感を発するりゅーくん。中性的でつい見惚れてしまいそうな顔立ちは、老若男女問わず好かれる反面、怒りを顕にした時の迫力は凄まじいものがある。


 思わず私もたじろいでしまいそうなくらい、りゅーくんの表情には険が入り交じっていた。


 それでも、りゅーくんから"彼女"と呼ばれたことに、何よりも嬉しさが込み上げてしまう。


「……じゃ、じゃあ俺はこれで……」


 金髪の男性はさっとどこかへ行ってしまう。残された私たちの間には、どこか気まずい雰囲気が流れる。


 ……なんて言えばいいんだろう。でも、助けて貰ったから、お礼は言わなきゃ……。


「来るのが遅れてごめん。大丈夫? 怖くない? 何も……されてない?」


「う、うん……大丈夫だよ。助けてくれてありがとう」


 顔を覗き込まれ、光を宿した静謐な瞳に全身が吸い込まれそうになった。こくこくとすごい勢いで頷きながらお礼を言うと、りゅーくんは安心したように口元を緩ませた。


 モノトーンの落ち着いた雰囲気の服装。グレーにも見えるニットと、もふもふの黒いダウンジャケットがとても似合っている。首元に着けたシルバーの細いチェーンネックレスがきらりと光って、なんだか色っぽい。


 ぽーっと見つめていると、りゅーくんは訝しむように、「どうしたの」と尋ねる。


 思わず、『なんでもないよ』と嘘をつきそうになる。でも、今の私はりゅーくんの"彼女"なんだ。

 なら、少しくらい積極的になっても……自惚れてもいいよね。


「……かっこよくて、見惚れちゃった」


 今にも消え入りそうなくらい、小さな小さな呟き。心底から湧き出た自信とは裏腹にか細いものだった。

 それが何故だか恥ずかしくて、手に持ったハンドバックの取手をぎゅっと握る。もし聞き返されたら、それこそ羞恥で死んじゃう自信がある。


 でも、りゅーくんは少しの間きょとんとした後、私の言葉を咀嚼するように僅かに頷く。


「ありがとう。未來ちゃんも、いつも可愛いけど、今日はもっと可愛い。服、とても素敵だね。大人っぽいよ」


「ひゃぅ……」


「あ、髪も巻いてるんだね。長い髪も良かったけど、ボブはもっと似合ってるよ」


 声にならないささやかな悲鳴が喉の奥から迸る。


 幸せいっぱいの褒め言葉が雨のように降り注いで、私はあまりの甘々攻撃に全身から火が吹きそうなくらいの熱を一身に感じた。


 さっきまでは嫌悪感しかなかった『大人っぽい』という言葉も、りゅーくんの声で浄化されていくよう気がする。


 ……嬉しいな。早く起きて、メイクして、お洋服を見繕って……可愛く思ってもらえるのは大変だけど、でも、頑張ってよかったって本気で思える。


「時間も時間だし、そろそろ行こっか」


「うん。最初はどこに行く?」


「まだお昼まで時間があるし、先にアミュの中を巡ろう。どう?」


「賛成! 行こう、りゅーくん」


 差し出された手に、私はどきどきと脈打つ鼓動に連れるがまま、指を絡めた。


 コマ送りよりも早い速度で、景色は変わる。


 私がずっと行ってみたかったコスメブランドの店舗。りゅーくんが立ち寄りたいと言って入った書店。


 受験を頑張ろうって励まし合うために買った──お揃いのネックレス。


 なにもかもが最高の思い出。一生大事にしたい初デートの記憶。


 アミュプラザの建物を出て、少し離れたカフェで昼食をとって。少し時間が余ったから、即興で映画を見に行ったりもして。


 そんな、濃厚できらきらと輝くような一日を過ごした。まるで一瞬しか時間が経っていないように感じられてしまって、物寂しさが募る。


 気がつけば、夕陽がビルの隙間から射し込む時間になっていた。

 もうすぐ帰りのバスに乗らなきゃいけない。りゅーくんとは家が近くて乗るバスも同じだけど、こうしてはしゃいで遊び回る一日なんて、もう暫くは来ないだろう。


 私たちは受験生──本当なら、家や塾で勉強しているはずなんだ。


 だからこの日は、初デートでもあり、受験生としてお互いを励ますための、唯一無二の日なんだ。大事にしたい、もっと一緒に過ごしたいと思っても、現実は上手くいかない。


 いよいよバス停で帰りのバスを待つことになってしまった。あれだけ楽しく話していたのに、話題を思いつくよりも先に寂しさが生まれてしまう。


 ……何を話せばいいんだろう。本心で話したいけど、でもそれは……私の我儘かもしれない。


「ねぇ、未來ちゃん」


「あ……なぁに?」


 悶々としていた最中、りゅーくんの方から話を振られた。


「今度は一緒に勉強会しようか」


「え……いいの? でも私なんかいたら邪魔になるんじゃ……」


「そんな訳ないよ。僕も……残りの高校生活は、なるべく未來ちゃんと一緒にいたいからさ」


「っ……」


 不意打ちだった。


 そんな言葉を、まさかりゅーくんから聞かされるなんて思っていなくて。


 ずっと願っていた。いつかはりゅーくんとそう言い合える関係になりたいって。友達同士の冗談じゃなくて、本気で一緒にいたいって思われたいって。


 ……あの文化祭の日、私は屋上という素晴らしい舞台の中で、りゅーくんに想いを伝えた。


 その結果がこれだ。あの時、ほんの少しの勇気があってくれて、本当に良かった。


 私は一度、深呼吸をする。高鳴る鼓動を抑えながら、隣に佇んでこちらを見るりゅーくんに、私は笑いかけた。


「私も、一緒にいたいよ」


 ずっと、ずっと──誰にも邪魔されないような、ふたりだけの世界でいいから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る