惨禍の夜姫《カラミティクイーン》①
それからの世界は、本当にドラゴンが空から現れる前の時間だった。
放課後、黄昏の時間。それは間違いなく、空が割れる寸前の状態。
試しに放課後の学校へ行ってみた。
校舎は壊れていないし、生徒達も普通に過ごしている。無事な栞を見かけた時はさすがに泣きそうになったが。
とにかく、本当に世界は戻っていた。ドラゴンの襲撃など、なかったことになっていた。
……いや、違う。
痕跡一つ、記憶一つ残らず、時間軸さえも逆行している。
本当に、何もなかったんだ。
楪紅葉は言っていた。
あの出来事を覚えているのは、魔力を持つ者だけだと。
俺には元々魔力なんてあるはずもなかったのだが、楪紅葉から魔力を渡されたらしく、それで覚えているんだとか。これが彼女が言っていた、自分と関わることになるということなのかもしれない。
更に楪紅葉は言っていた。
「大前提として、世界が巻き戻った時には私達の肉体も巻き戻っている。でも気を付けないといけないのは、ドラゴンとの戦闘で受けた傷は残るということよ。例えば致命傷を負いながらもドラゴンを倒した時、世界も自分自身も確かに巻き戻るけど、巻き戻った先で肉体には致命傷が残っている……ということよ」
これは受けた傷が魂に刻まれるからだとのことだが、その辺の魔導知識はチンプンカンプンでよくわからん。
細かいことは抜きにして、めでたく世界は巻き戻ったわけだ。
今はそれでいいじゃないかと、俺自身に言い聞かせてやりたい。
「――ねえ、聞いてる?」
ふと、一緒に登校していた栞が顔を覗きこんで来た。
「え? あ、ああ、聞いてるって。……で? なんだって?」
「やっぱり聞いてないじゃん! もう! 朝からボーっとして! せっかく今朝は珍しく迎えに来てくれて嬉しかったのに」
「ははは、たまたまだって……」
色々とわかってはいたが、一晩寝たら、本当に栞が生きているのか不安になったわけだし。
おかげでなかなか寝付けなくて徹夜。
そりゃ迎えにも行けるだろうよ。寝てないんだから。
「……でも、嬉しかったのは本当だからね。朝起きて玄関を開けたら、そこに悠がいる……なんだか新鮮だったし、その、気分が上がるっていうか……」
「栞……」
すると栞は、ハッとした。
「と、とにかく明日からもちゃんと起きてってこと! それだけだから!」
「……はいはい、善処するよ」
そして俺達は、いつもの交差点へとさしかかる。
相変わらず車の量が多い。この交差点だけでどんだけ排気ガス垂れ流してんだろうか。せっかく地球を救ったんだから、もっと大切にしやがれ。
などと考えていると、ふと昨日のことを思い出した。
「……この時間は、集まったりしてないんだな」
「え? ああ、いつもの夜姫信者さん達のこと?」
夜姫信者とな。
ついにあいつは教主様になりやがったのか。
「いつもはもっと遅い時間なんじゃないの? 昨日は
「あー、それより今日の授業のことなんだけど」
「話を逸らすの下手くそか!」
いやはや、雑談のおかげで信号待ちも早く感じる。
歩行者信号は青。
横断歩道を渡るために一歩踏み出した――時だった。
「――市ノ瀬くん」
背後から、どこかで聞き覚えのある声で呼ばれた。
足を止め振り返ると、そこには、楪紅葉が立っていた。
「ゆ、楪? なんでここに?」
「市ノ瀬くんを見かけたから声をかけたの。おはよう、市ノ瀬くん」
彼女は笑顔で挨拶をする。
そして何食わぬ顔をして、隣に並んできた。
「いやいや、お前って月叡館だろ? こっちだと反対方向じゃねえか」
「今日は早く家を出てしまって、ちょうど時間を持て余していたのよ。……それより」
「…………」
楪は、栞を見る。
栞は無言のまま、やや視線を細くさせて楪を見ていた。
「……はじめまして、楪紅葉よ」
「はじめまして、牧原栞です」
「…………」
挨拶を交わした後、二人は黙り込んでしまった。
どちらからも敵対心のようなものが垣間見える気がするんだが。しかしながら、栞が初対面の奴にここまで無愛想にするなんて相当珍しい光景である。
「……ねえ、ちょっと悠」
ふと、栞が小声で呼んできた。
「この人、夜姫って人じゃないの!?」
「ああ、そうみたいだな」
「やっぱり! めちゃくちゃ綺麗なんだけど! 気味が悪いくらい綺麗なんだけど!」
「落ち着け。褒めてんのか貶してんのかわからん」
「そんなことはどうでもいいから! え!? どういうこと!? 悠と知り合いだったの!?」
「ええと、知り合いだったというか、知り合いになったというか……」
「――私と市ノ瀬くんは、昨日知り合ったばかりなの」
割って入ったのは、楪紅葉であった。
「えっ。あ、あの……ええと……」
栞は聞こえてるとは思わなかったのか、とてもばつが悪そうな顔を浮かべてやがる。
いやいや、割と声張ってたからそうなるよ栞。
「……そ、その、昨日ということは、放課後でございまするか?」
栞、敬語が不細工になってるぞ。
「ええ、そうよ。彼との出会いはとても
「そうそう。帰ってたらバッタリ遭遇しちゃったんだよ」
「そんなRPGのモンスターじゃないんだから……」
似たようなもんだと思うけど。
普通の人間じゃないって意味で。
「…………」
……などとしていると、楪は今度は真顔で俺を見て来た。ただ一点に顔を、目を見つめてくる。
その無駄にデカくて二重でキラキラした視線はどうやって生み出されているのか。反則だぞ楪紅葉。
「ええと……なに?」
「市ノ瀬くんは、北沢高校なのね」
「あ、ああ……まあ」
「でも、市ノ瀬くんの家の位置としては月叡館の方が近そうだけど、どうして北沢に?」
なぜ俺の家を当然のように把握しているのかは聞かないでおこう。
「単純に俺の学力じゃ無理だったからだよ」
「そう……。私に言ってくれれば、なんとか出来ていたのに……残念ね……」
俺とお前は昨日知り合ったばかりだろうがぃ。
何を素っ頓狂なことを。
「ほ、ほら悠! いい加減行かないと遅刻しちゃうから!」
栞は、いきなり強引に腕を引っ張ってきた。
「いやいや、まだ時間には余裕あるじゃねえか!」
「そ、そういう油断している時が一番危ないの! だから急いで!」
「なんだよまったく……。楪! またな!」
「ええ、また……」
楪は実におしとやかに手を振っていた。
さすがは容姿端麗。さすがは才色兼備。まさに淑女が服を着て歩いてるようだった。
……しかし、その時の俺は、まだ知らなかった。
楪紅葉が、淑女とは程遠い存在であることを。
まだ出会ったばかりの俺には、そんなことなど知る由もなかったのだった。
カラミティ“ウィッチ”クイーン・イン・ザ・ダーリンシンドローム ぬゑ @inohirakai
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