第3話 再会の日に――チトセとシュゼット

 この向こうにはあのがいる。

 胸をどきどき高鳴らせて、チトセは意を決してドアを開けた。


 さっきまでいたベンジャミンは、急に用事ができたとか言い出して駆け足で去っていた。

 いい年した大人が廊下で走ったせいで、思いっきり通りすがりの看護師に怒られていた。


 ……まあ、急にとはいえこれで二人きりでの再会という場が整えられた訳で。


 ゆっくりとドアを開けば、ふんわりと甘い香りがした。


 ――フローレス様の香りだ。


 妖精狐は嗅覚と聴覚に優れている。一発で大切な人の香りを、声を当てられる。そんな特技が、チトセにもある。


「失礼します」


 真っ白な病室のベッドの上、うつむいていた小柄な少女が顔を上げてこちらを見た。


 鳥の巣みたいにくしゃくしゃの長い髪。

 恐ろしいくらいに青白い顔色。

 どう見ても栄養が足りていないであろう痩せ細った体。

 光を失ったくらい瞳。


 にも、にも関わらず、美しく可憐であることが見る者すべてに伝わる少女だった。


 たとえるなら、水分が足りずにしおれてしまった花だろうか。


 ――嗚呼。


 刹那、チトセは目一杯に空色の瞳を見開いた。じわり、と熱いものが込み上げてくる。

 かつて元気いっぱいだったシュゼットを知る身とすれば、今の状況は複雑だ。


 ――でも、元気がないから何だって言うんだ?


 シュゼットが酷くやつれた。その程度で、チトセの恋心は変わらない。


 その場で軽く一礼し、病室の白い床の上を彼女のほうへと歩く。

 やっと、やっとシュゼットの近くに来ることができた。


「フローレス、さま……」


 遂にこらえきれなかった涙がチトセの双眸そうぼうから溢れた。次から次へと、温かく塩辛いしずくが流れ出ていく。

 ずっと会いたかった相手だ。再会の涙が出て当然だった。


「ホクラニさん」


 シュゼットがチトセを呼ぶ。そのことが嬉しくて、チトセは余計に泣けてしまった。


「フローレスさま。そうです、チトセ・ホクラニです……」

「どうして泣いているの……? あなたは何も、悪くないのに……」


 あなたは悪くない。


 シュゼットはチトセと交流して別れた後、かなり酷い目にっていた。

 生い立ちからして痛ましい過去を持つむすめだが、今ここに至るまでに起きたこと程苦しいことはなかったはずだ。


 確かに、それはチトセのせいではなかった。

 それでもチトセは思うのだ。


「いえ。ぼくが……ぼくが何もできなかったから。だから、あなたがつらい思いをされたんです……」

「それは、違うわよ……」


 いつの間にか、シュゼットの声も震えだしていた。


「これからはぼくが、アテンドとして、お守りします。だから、もう、大丈夫ですよ」

「……ほんとうに、守ってくれるの?」

「それは、どうして……」


「だってわたし、心が壊れてしまったわ。きっとあなたたちともうまくいかない」


 長い睫毛を伏せて、少女は憂いた。その大きな目が潤んでいる。


「あれほどの事があって、壊れない人間などいません。あなたは正常です」


 チトセはしゃくり上げながら告げた。そう言いたくなるほどのことが、今までにあった。


「ぼくと二人のサブアテンドで、全方位からあなたをお守りします。フローレス様さえお望みなら何でもできます」

「何でも……してくれるの?」

「はい」


「じゃあ、ホクラニさんと一緒にお風呂に入れるの?」

「ぶふぉっ」


 チトセは思いっきり吹き出してしまった。


「すみません……。『何でも』にも限度はありましたね」

「気にしなくても、冗談なのだわ」


 シュゼットの冗談に、急にチトセの肩から力が抜けた。

 するとシュゼットが淡く、本当に淡く微笑んでくれた。やっと見ることのできたささやかな笑みに、チトセは舞い上がりそうになる。


「大丈夫ですよ。心が壊れたくらいでは、ぼくはあなたから逃げませんから。雨が降ったら一緒に濡れます。冷たい風が吹いたら温めます」


 少年に嘘偽りはない。

 心が壊れたくらいじゃ、変わってしまったくらいじゃ、チトセはシュゼットから逃げない。それくらい熱く強い想いが確かにある。


 やっと涙が止まったチトセが片手を差し出す。おずおずと、シュゼットの小さな手が差し出した手を握った。

 少女のその瞳からも、涙が一粒こぼれる。

 手のひらをとおして伝わり混じり合う互いの体温が嬉しかった。


「わかったわ。じゃあ……、これからよろしくね、ホクラニさん」

「はい、こちらこそ」


 ――うれしい。

 ――うれしい、うれしい、うれしい!


 

 大好きな女の子に再会できたことは、チトセにとって最上の幸福だった。

 



 これから語られるのは、二人が恋路こいじく途中で出逢うことの話。


 これは厳しい過去を受け入れるための、優しい未来へ進むための。


 救われ幸せになるための、生きるために生きるための。


 家族の、友の、大人の、子どもの、きょうだいの、近所の人の、異国の人の、人間すべての。


 愛と夢、そして想いの御伽話だ。

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妖精狐が歌姫を愛す御伽話 七草かなえ @nanakusakanae

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