嘘つき

綿来乙伽|小説と脚本

苦いブラックコーヒーと、甘い苺ミルク

 「まだそれ好きなの?」

 「一回飽きて、また好きになった」

 「流行りは戻って来るんだねえ」

 「死んだ人は戻って来ないけどね」


 口から生まれた彼の動きが止まった。私は彼の大好物であるブラックコーヒーを一口飲んでやった。奪われた側の彼は驚いていたが、私を止めなかった。


 「それ、新しい服?」

 「ずっと着てるやつ」

 「そう?見たことなかったから」

 「貴方の前でもずっと着てた」


 私は捲くし上がっていたワンピースの裾を引っ張った。私は昔から不器用で、人間が当たり前に出来る動作を当たり前に出来ない生物だった。誰よりも鍛錬を積むか、誰かに任せて寝転んでいた。掃除や料理や裁縫やネット回線の接続やラーメン屋に行くことや悩み事を人に相談することや洗濯が、私にとっては未確認飛行物体より恐ろしく、生まれたての赤ん坊のように手が付けられないものだった。中でも洗濯は、現世の私とは相容れないつもりのようだった。どんな服でも、洗濯機OKと書かれたものでも、洗濯で縮むことが無いと謳い文句のある服でも、私の手に掛かれば最低でも2サイズは縮んでしまった。今日着ているワンピースは本当は踝まで丈があるものだった。だけど気付けば洗濯かごに入れていて気付けば洗濯機の中にいて気が付けば膝が隠れるかどうか不安になるくらいの丈になってしまっていた。彼は私の服を見た時、私の足元を見ていた。きっと同じ柄のワンピースがお気に入りなのは知っているが、明らかに丈が短くなっていることが気がかりで、新しい服かと聞いたのだろう。彼はいつも直接的に物を言うのに、私の短所に関連すると察知すれば、回りくどく行動するのだった。


 「このコーヒーをそれにかけたら、次は太腿が見えるワンピースになるかな」


 彼の言葉は回りくどくて、直接的だ。


 「話って何?」


 私は彼の疑問を遮って苺ミルクを飲んだ。


 「話?」

 「お茶でもどうって言ったのは貴方でしょ」

 「ああ、まあ」


 彼はブラックコーヒーに映る自分を見つめていた。


 「元気かなって、思っただけだよ」

 「元気って、そんなに時間経ってないでしょ」

 「そうかな。生後一か月半の赤ちゃんは喋れるよ」

 「大人の私達にとっては一か月半なんてあっという間だよ」

 「俺はちゃんと、一か月半経ったなって思ってたよ」

 彼はブラックコーヒーに映る自分を見つめていた。

 「彼氏出来た?」

 「出来る訳ないじゃんこんな短期間で」

 「分かんないじゃん」

 「別に欲しかったわけじゃないし。貴方だから付き合ってただけだから」

 「言ってたね。恋人いらないって」

 「そうだよ。私はやりたいことがたくさんあるから」

 「例えば?」

 「え?」

 「例えば、何?」


 どこから生まれて来たと言われれば分からない私の体は、動きを止めた。彼の質問を遮る新しい話題も、彼の質問への返答も思い付かなかったからだ。私は彼に向けていた目線を、彼の斜め後ろに座っていた男女三人組に目を向けた。私が唯一顔が見えるのは男性一人。彼と迎え合わせに男女1人ずつが座っていた。顔は見えないけれど、隣に座っている男女が笑い合う声が聞こえ、顔が見える彼はそれを見て気まずそうに微笑んでいた。彼らはどんな関係なのだろう。名前を付けると終わってしまうような、儚いと言えば綺麗に見える関係だろうか。


 「宏太と付き合ってんだろ?」


 彼らに気を取られている時、私の前に座る彼が私の意識を戻した。私は自ら白状しなければいけない使命感から解放され、少し安堵して彼と目線を合わせた。


 「別れてからね」

 「俺は別れたと思ってなかったけど」

 「じゃあなんで連絡して……もういい」

 「宏太と結婚するから?」

 「……なんで知ってるの」

 「本人が言ってた。俺が眠ってる前で」

 「じゃあ、なんで私に会いに来たの」


 彼は都合の良い男だった。常に損得が前に出る人だった。楽しいと思えることしかしなかった。自分の信念に従って行動していた。大切な物は全力で愛して守った。守ってくれた。


 「俺と付き合ってたこと、言ったの?」

 「言ったら悲しむじゃない」

 「言わないで結婚するつもり?」

 「言わないで別れるつもり」

 「……は?」


 私は宏太の優しさに甘えた。目の前に座る彼がいなくなった時も、宏太が心を埋めてくれた。理由も無く陥没した底の見えない穴を、たくさんのドロドロしたアスファルトで埋めてくれた。見栄えは良かった。心も落ち着いた。でも陥没した跡は何をしても消せなかった。車や人が使えば陥没したことなんて忘れて元に戻る。私の心だって、宏太や友達や仕事や趣味を経験すればいつかは元に戻る。でも少しでも記憶に残っているのなら、それは元に戻っているのではなく、元に戻ったフリをしているに過ぎないのだ。ブラックコーヒーに映る自分を見つめる彼が、私の中にずっと存在していると願っているのだ。


 「宏太が悲しむこと、したくない」

 「俺が言うよ」

 「付き合ってたって?馬鹿じゃないの」

 「俺が寝とったことにする。付き合ってなんかないことにする」

 「出来ないよ」

 「出来る」

 「出来ない。だって和真、もう死んでるから」


 ブラックコーヒーが波打った。彼の落ちるはずのない涙が、落ちたように液体に染み渡った。


 「何も言わなくて良いじゃない、何も言えないの。和真のこと、私しか見えてない」


 このカフェに来たのは、彼が四十九日前にここで通り魔に刺されたからだ。歩道に寄せられたたくさんの花束を見ていると、見覚えのある靴が目に入り、顔を上げると和真が立っていた。いつものように片方の口角を上げて笑う彼に、私は同じ感情になることが出来ないと後悔した。ブラックコーヒーとイチゴミルクを注文し、目の前に苺ミルク、彼の前にブラックコーヒーを置いた。飲めない彼はただ見つめるだけだったけれど、苺ミルクに飽きて少し苦さが欲しくなると話した私に、一口だけ飲ませてくれる彼が好きだった。


 「今日、いなくなるの?」

 「いなくならないよ」

 「今日、なんで私がここにいるか分かってる?」

 「俺に会いに来たんでしょ?俺のこと好きだから」

 「分かってるなら、どうしてそんなに笑顔なの」

 「悲しい顔の俺より、笑った顔の俺の方を思い出して欲しいから」

 「最後みたいなこと言わないで」

 「最後だよ」

 「いなくならないって言ったじゃん」

 「いなくはならないよ」

 「本当、意味分かんない」


 彼のことは、誰も見えていない。店員にも、他の客にも、彼の後ろに座る男女三人組にも見えていない。だから私が涙を苺ミルクに落としたら驚いて注目されてしまう。私は涙を流すことも、涙を啜ることも出来なかった。どうせ座るなら、店内に背を向けられる彼の席に座れば良かったと後悔しても遅かった。


 「泣くな。泣いたら宏太に逃げられるぞ」

 「宏太はそんなことしない、親友ならわかるでしょ嘘つき」

 「じゃあ俺が逃げる。カフェで泣く女と知り合いだと思われたら困る」

 「逃げない。和真はいつだって逃げない。私の涙を全部掬ってくれる」

 「じゃあ」

 「嘘つき。和真のこと好きだったけど、うつも嘘ついていなくなる所だけが嫌いだった。私が最後に思い出すのは、笑顔の和真でも、悲しい顔の和真でもない、嘘つきの和真だ」

 「一生幸せになるな。一生泣いてろ。それで宏太に逃げられて、誰よりも不幸で、誰よりも悲しい顔して生きろ。そして、俺のこと、忘れろ」


 彼は立ち上がって店のドアを開けた。私はブラックコーヒーに映る自分の顔を見つめた。

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