クジラの国で会いましょう

秋犬

クジラの国で会いましょう

 目の前が真っ青になった。光の帯がさあっと下の方まで伸びていて、どこまでもどこまでも降りていけるような気がする。


 上も下もわからなくなった私は、その場でくるりと回ってみる。ふわりふわりと、まるで宇宙遊泳をしているように私の身体は思い通りに動く。この感覚を、私は知っている。私は宇宙なんかに行ったことないのに。


 ああ、誰かの声が聞こえる。


「早く救命具を!」

「早まるな! 救助を待つんだ!」

「これに捕まれ!」


 違う。その声じゃない。

 誰かが、何かを言っている。


 ――こっちに来て。


 私は声のほうへ体を動かす。どこかで聞いたことのある、懐かしい声だ。


 ――ありがとう。


 そして私は声と一緒に、光の帯をどこまでもどこまでも下っていく。

 銀色のきらきらした魚が私を見て、散り散りになって逃げていく。


 潜っていくうちに、気が付いた。

 あれ、私、息をしていない。もうずっと、海の中を漂っているというのに。


 ――呼吸なんて、十五年に一回でいいのよ。


 そうだったかな、そうだったような気がする。


 声が私の身体の中を通り過ぎていく。優しい、懐かしい歌が透き通った体に染みわたって、本当の私を思い出させる。


 私に生えた二本の脚は、生まれたままの鱗に覆われ始める。空気の中にいたことに慣れた肺には水で満たされ、泳ぐために必要なエネルギーを摂取できるようになる。泳ぐのに邪魔な衣服は脱ぎ捨てて、どんどん私は私を取り戻していく。


 ぼう、ぼう、ぼおう


 低く響くのは、優しいクジラの歌。私の帰還を知って、集まってきたクジラたちが海中に歓喜の歌を響かせる。


 ぼう、ぼう、ぼおう

 ぼおう、ぼう、おう


 あちこちで響くメロディーに、クジラだけでなく魚たちも踊り始める。魚は声を出せないけれど、その美しいひれは見る者の心を打つ。


 私は尾ひれを使って、海中を大きく泳ぎ回る。水が私のことを運んでいるかのように、私は水を支配する。水を、海を、そしてこの星をかつて私たちが支配していた。しかし、私たちは海から出て人間になった。人間は陸を制することができたが、海に戻ることはなかった。


 今日、私は海に戻った。この体で海中を探せば、私の仲間がまだどこかにいるかもしれない。体の中に湧き上がってくる太古の記憶が、クジラの歌に合わせて私を震わせる。


 ――おかえりなさい、私たちの祖。


 クジラたちが一斉に歌う。私も、クジラに合わせて歌った。


 ――どこかにいる誰か。私の知らない誰か。

 ――この歌がどうか、どうか届いたなら。

 ――クジラの国で、会いましょう。


<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クジラの国で会いましょう 秋犬 @Anoni

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説