神の宮殿へ
風が吹き荒ぶ巨岩地帯を抜けると、突如として濃霧が立ち込め始めた。濃すぎる霧は視界を完全に遮り、数歩先すら不鮮明になる。松明を灯しても霧がぼんやりと炎が浮かぶだけで、それを持つ人の表情が分かるくらいにしかならなかった。
それでも前に進めるのは、足元に道があったからだ。霧を擦って雫を湛える雑草を脇に、丁寧に切られた石が敷き詰められている。凹凸もなく滑らかな断面は水気を帯びていて、油断していると足を滑らせてしまう。視界も足元も悪いので、自然と歩みは遅くなる。魔物や獣の襲撃は勿論、この先から来るであろうガライシアの騎士たちにも用心しなければならないので、サナも慎重に示された道を先行していた。
ブランは不服な様子であったが、それでも文句を口にせずについてきていた。橇をアルシャトと交代で曳いてくれた上に、既にこの地帯を抜けてきた経験から、自分たちが通ってきた道程と出てくる魔物の種類と出没頻度なども教えてくれた。どうやら、魔物自体はそれほど出てこないし、小物ばかりなようだが、それでも視界が不明瞭な霧の中で急襲されたら対処が遅れる。戦える者もサナだけだったので、ガーティもいち早く魔物を見つけられるように、何も見えないしサナのように気配を感じとることも出来ないが、周囲を覆う濃霧を見渡していた。
幸いにもまだ魔物にもガライシアの騎士にも遭遇していない。このまま出会わずに済めば良かったが、そうはいかないだろう。騎士はブランを探しているし、この霧の先ではガライシア王が自らの願いを叶えてくれる贄を待っている。ただ、ブランはこうも言った。
「神の宮殿に他の者が入らないように見張っておく必要もある。そこに人員を割かねばならないから、追っ手の数は少ないはずだ。追っ手も小隊を作って散り散りに捜索を行っているはずだから、それらを各個撃破していけば王の戦力を削っていける」
「だったら、遭遇しておかない手はない」
とサナは返したが、それを提案したブランは顔を顰めていた。一刻も早く神の幽谷から出るために、自分の命を狙う王が待つ場所へと向かわなければならないのだから、不安はあるのだろう。彼の望みも叶えてやりたいが、それを見届けることは出来ない。ガーティの旅は神に命を捧げることで終わる。ブランが無事に生き残れるかはサナに掛かっている。それだけでなく、アルシャトも家に帰してやらねばならない。旅の終わりが近付き、ガーティは自分が死んだ後のことも考えるようになっていた。未練はないが、サナやアルシャト、ブランがどのように生きていくのかが、気掛かりになっていた。
サナが掲げている松明は霧に絡めとられて弱々しく灯っていた。儚い炎に漫然と心を奪われていると、不意にサナが足を止めた。あわやぶつかりそうになりながらもガーティも止まり、サナの肩越しに声を掛けた。
「何か来た?」
敵が現れたのだと思い、ガーティは体を強張らせた。
「いや、後ろが遅れているだけだ。少し待ってやろう」
振り返ると、確かにアルシャトとブランが見えなかった。橇が引き摺られる音は聞こえるので、後ろにいることは確かだ。自分は全く気付かなかったのに、サナは背後を見遣ることもなく、アルシャトたちが遅れていることに気付いた。耳が良いのか、それとも気配で分かるのか、とにかく自分が持っていない注意深さに改めて驚かされた。
サナに促されて、ガーティは脇の濡れた草の上に腰を下ろした。霧のせいで地面も泥濘んでいるものかと思ったが、意外としっかりと固まっていて、疲弊した体を休めるには丁度良い柔らかさだった。
アルシャトたちを待つ間にサナに尋ねたいことがあったので聞いておくことにした。ねえ、と一声掛けると、霧の中にいるサナの顔が僅かに動いた。
「サナはこの旅が終わったら、どうするの?」
「どうするも何も、変わらん。また誰かから仕事を請けて、それをこなす。延々と、それの繰り返しだ」
「それがサナの生きる理由ってこと?」
「違う。生きるために仕事をしている。生きる術をこの刀と天恵の印に依存しているから、野蛮な生き方しかできんのだ」
「そうなんだ。じゃあさ、仕事以外で何かやりたいことはない?」
「前にも言っただろう。私は何も望んでいない。ただ、生きていられれば良い」
「分かった。ありがとう、サナのおかげで決まったよ、神様への願い」
サナの影がガーティに向き直った。ガーティは見えていないだろうが、ニヤリと笑みを浮かべてみせた。
「漸くか。それで、何を願うんだ?」
「教えない」
「おい、まともな願いか判断してやるのも私の仕事だぞ。言え」
「嫌だよ、秘密。でも、安心して。この願いなら神様も満足してくれる。それに俺も、これを叶えたいって心の底から思ってるから」
「……その言葉に嘘はないな」
ガーティは立ち上がり、サナに迫った。サナの険しい表情がはっきり見えるくらいまで近付くと、自信を漲らせて頷く。
「後悔のない願いが出来た。信じて」
サナが刃のように鋭い視線で睨みつけてきても、ガーティは視線を逸らずに見つめ返した。互いに譲らず、膠着し続けていたが、橇の音が間近まで迫っていることに気付いたガーティが視線を其方に逸らした。サナもそれに釣られて、ガーティから離れつつ振り返った。
「待たせてくれたな」
橇を曳くのはアルシャトの番だったが、ブランも手伝っていたらしく、二人で手綱を持っていた。アルシャトは荒く息を吐くばかりで、返事すらも出来ずにいた。
「彼はもう限界に達している。今日はこの辺りで休むのはどうだろうか?」
ブランも言葉の合間に息が漏れている。橇の荷は日に日に減っているとは言え、それでも重い。橇を曳き続ける二人を憐れみ、ガーティも同調した。
「結構歩いてきたからね。俺も疲れたし、休もうよ」
サナは一瞬だけ間を置いた後、アルシャトの後ろに回り、荷物を降ろしていった。ブランもサナを手伝い、道の脇に天幕を張る準備を始めた。
ガーティはアルシャトを座らせて一緒に体を休めた。アルシャトの顔は汗なのか霧の水なのか、びっしょりと濡れていて顎からぽたぽたと水滴が垂れ落ちた。
「ブランさんが手伝ってくれたみたいだね。野宿の準備も積極的にやってくれるし、意外と良い人なのかも」
息が整い始めたアルシャトにガーティは話題を振ってみた。
「此処から早く出るためには、ぼくたちを神様の所へさっさと送り届けるしかないですから、必死にもなりますよ」
すげない言葉でアルシャトは返してきた。直接ではないにしろ仲間を殺したブランをまだ信用していないようだった。一方でガーティはブランを旅の仲間だと認識していたので、どうにかアルシャトとブランが仲良くなってほしいと思っていたが、ブランが手助けをしてくれたというのに、アルシャトは不信感を払拭しなかったことが残念でならなかった。どうにか仲良くなってほしいと、ガーティはこの休憩の合間にアルシャトの説得を試みることにした。
「わざわざ自分を探してる王様の所へ向かうわけだから、怖いはずだよ。それでも逃げずに俺たちについてきて、恨まれてることが分かってるのにアルシャトの手伝いもしてくれたんだ。アルシャトの言う通り、ブランさんは必死だよ。なにがなんでも生きたいっていうブランさんの気持ちは、俺たちが命に代えても願いを叶えたいっていう気持ちと同じくらい強いってことだ。そう思ったら、俺たちは似た者同士にならない? 自分と似た人は嫌いになんてなれないじゃないか」
「甘いですよ、ガーティさん。あいつがどれだけ媚びてこようとも、ぼくの憎しみは揺るぎません。たぶん死ぬまで、あいつのことだけは許してやれないと思います」
ガーティは言葉に詰まってしまった。ただほんの少しだけブランを認めてほしかったのだが、それを拒絶する意志があまりにも強かった。何も言葉が浮かばないまま気まずい沈黙が続き、天幕が張られると、アルシャトは逃げるようにしてその中に入っていってしまった。
天幕は狭く、入れるのは二人だけ。いつもガーティとアルシャトが使っていて、サナとブランは外で夜を過ごす。サナはほとんど寝ずに朝まで見張りをしてくれていて、ブランも眠気に負けるまで起きてくれているという。サナには甘えるしかないが、心も体も疲れているブランをこれ以上無理させるのは可哀想だとガーティは思い、今夜は天幕の中をブランに譲ることにした。
「有難いことだが、遠慮しよう。君があそこで休むと良い」
ブランは丁寧な口ぶりでガーティの申し出を断った。しかし、ガーティも譲らない。
「いや、ブランさんが使ってよ。俺のことはいいからさ」
ガーティは強引にブランを天幕に押し込んだ。ブランが固辞しようと天幕から顔を出すも、それを囁き声で制する。
「ほら、静かにして。アルシャトが起きちゃうから。今日はゆっくり休んで」
そう言うと、ブランは大人しく従い、天幕の中へと入っていった。ガーティは寝息を確かめてから天幕を離れて焚き火の前に戻った。
夜が染み込んだ霧は闇を際立たせて、焚き火の炎を蝕んでいる。じっとりと冷えていく体をか弱い焚き火に近付いて温めていく。スウォールマリートを登っている時も寒かったが、あの時の寒さとは違い、じわじわと気付かない内に熱を奪われていくような寒さだった。
「ブランの教えが活きた。霧に入る前に乾いた枝木を集めておかなければ、火は起こせなかった」
サナは薪を焼べながら呟く。橇を覆う革の布の下には大量の薪がある。霧の水気から守りながら運んできたので、着火するのに労せずに済んだ。前もって準備が出来たのは、既に踏破してきていたブランの助言のおかげだった。
「奴め、あれだけ嫌がっていたくせに私たちに有益な情報はべらべらと喋る。ガライシアの騎士たちの装備や基本とする戦い方も知ることが出来た。皮肉なことに、奴の生への執着が私たちの旅の糧となっているのだ」
「じゃあ、もし騎士と戦うことになっても負ける心配はないね」
「少数ならば、負けはしない。だが、手に負えないほどの人数を相手する状況になったら、全員の命は守れない。お前だけは守り切るが、アルシャトとブランは見捨てるという選択を取ることになるかもしれん」
アルシャトもブランも死んでほしいとは思っていなかったので、ガーティはぶんぶんと首を横に振った。
「我儘なのは分かっているけど、そういう状況になったら俺じゃなくて二人を守ってあげてよ。アルシャトはまだ子供だから死なせちゃ駄目だ。ブランだって生きたいって気持ちで俺たちについてきて此処まで助けてくれたんだから、それに報いらなきゃ。俺はサナに守られなくても、自分でなんとかしてみる。神様まであとちょっと。そのちょっとくらいは、自分の力だけで頑張らなきゃ、神様に認めてもらえないよ」
「殊勝だが、戯言にすぎんな。所詮、奴らは荷を引くロバの代わりでしかない。しかも一人はお前と同じ目的を持つ敵だ。脅威となることはないだろうと踏んでいたが、しかし奴はお前に哀れみを抱かせてくれたからな。情に流されるな。その時が来て泣き縋られようとも、神への謁見を譲るなよ」
ガーティはもう、それを問題にはしていなかった。自分の中に揺ぎない願いが生まれていたからだ。アルシャトにどれだけ懇願されても、神様に会う権利は渡さないつもりだ。
「平気だよ。願いを叶えるのは俺だ。だからこそ、アルシャトのことをサナに頼みたい。どうか、彼を生きて家に帰してあげてほしい」
サナは重たい溜め息を吐いた。
「お前が死んだ後の方が大変そうだ。奴らの方が、金払いが悪くなさそうなのは救いだが」
自分がいなくなった後の世界。それを確かめる方法はない。だから、本当に願いが叶ったのかも分からない。それでも先人たちは大きな願いを叶えようとした。そしてそれが人を幸福たらしめ、時には禍すら撒き散らし、世界に変化を齎した。自分はそれほど大仰な願いではない。世界を変えて歴史を作るようなものではない。ただの凡人が抱ける、ちっぽけな願いを、命の代わりに置いていく。
神様に近付きつつあって、死が間近に迫ってきて、それでも怖いと思わずに済むのは、ちゃんと願いを見つけられたからだろう。この旅を通じて、やっと自分という人間の本質が分かった。ガーティは過去に出会い、助けてくれた人たちとの思い出を瞼に浮かべた。
そうして、うっかり目を瞑ってしまったために、ガーティは早々に眠りに落ちてしまった。思い出の数々が夢だとも気付かずに、安らかに夜を越していった。
ガーティたちは何事もなく濃霧を突破してしまった。会敵を予期されたガライシア騎士とは出会わず終いだった。魔物か何かに襲われてブランを探すどころではなくなったとも思われたが、そうではないということは霧の先の光景が即座に否定した。巨大な湖を見下ろせる丘の上には、巨大な天幕が張られていて、その入り口で鎧を着こんだ兵と思しき者が不動で立っていた。その周囲にも天幕がいくつか並び、同じく兵らしき者たちが気怠そうに歩き回っていた。
まさしくそれがガライシア王率いるの遠征隊の物であるとブランに告げられて、緊張が増した。生い茂る草の陰に隠れながら様子を窺う。
「生贄を探しに行こうという様子ではないな。落ち着きすぎている」
もしや、という言葉でブランは答えた。
「私を生贄に使うのを諦めたのではないか? 王からすれば、自分が死なずに済むのなら誰だって構わない。自分のために命を捧げてくれる者を今いる騎士たちの中から見繕う方が早いと考えたのかもしれない。恐らく、忠義に厚く自らの命を祖国のために捧げる気概を持つ騎士なら代わりになると思い、説得しているのでは」
「見境のない王だ。だが、好機には違いない。くだらんことで足踏みしてくれている間に神の宮殿へ行けるぞ」
丘の下に広がる空のように青い湖。その湖畔から一本の橋が伸びていて、湖に浮かぶ純白の宮殿の入り口に繋がっていた。あれが神の宮殿。遂にそれを見て取ることが出来て、ガーティの胸は高鳴った。
「だが、丘を下るには天幕を横切らなければならない。見張りも多いから、気付かれずに降りるのは難しいぞ」
「だったら、戦いは免れんな」
サナは顎を擦りながら、思案を巡らせているようだった。しかし時間は掛からず、すぐに顔を上げてガーティを見た。
「私が囮になろう。その間に神の宮殿へ行け」
「でもそれじゃあ、サナが危ない目に遭うよ」
「最後の最後で私を信用できないか。案ずるな。私はお前のように命を粗末にする阿呆ではない。勝てそうになかったら、適当に時間を稼いで退散するさ」
「……分かった。信じるよ」
ガーティは不安や心配を飲み込んでそう言った。サナは険しい表情のまま、頷いた。
「うむ。ブラン、ガーティを先導しろ。無事に神の所へ送り届けてやったら、お前の望みは私が叶えてやる。アルシャトも死にたくないなら、ついていけ。然らば、これにて御免」
サナは草むらから飛び出して、天幕へと駆けていった。ガーティはさよならが言えなかったことを後悔しながら、サナの最後の雄姿を目に焼き付けた。
サナは大きい天幕の前まで走り抜けた。そこで立ち止まり、刀を抜きながら大声で叫んだ。
「出てこい、ガライシアの王よ! マクリア皇帝より貴様への言伝を預かっている」
口から出まかせだったが、天幕から男が出てきた。蓄えられた立派な髭と丸々とした顔、派手な外套を纏っていることから、彼がガライシアの王であることが見て取れた。王は飛び出るのではないかというくらいに目を剥き出しにしてサナに詰め寄ろうとしたが、天幕を守る騎士が自然と王の前に歩み出て、近付くのを止めた。
「マクリアの使いだと? 我の計画を嗅ぎつけてやってきたか。鼻の利く奴め。マクリアを滅ぼす前に、貴様から嬲り殺してやろうか!」
王は騎士の合間から、サナに向かって怒鳴り散らした。サナは王というものに見えるのは初めてだったが、品のなさには覚えがあったので、心の内に嘲笑した。
「何を懇願しようとも、もう間に合わんぞ。我が宿願は間もなく達成する。オルド! もう決心できたか? ガライシアのために其方の命を我にくれんか?」
ブランの予想は当たっていたようだ。ブランを探すのを諦めて、部下を代わりに立てたことが窺える。オルドと呼ばれた者が天幕の中からのっそりと出てきた。鎧を纏った巨体の男だったが、頬がげっそりと削げ落ちていた。
「陛下。私には近衛騎士の長としての使命があります。彼らを残して死ぬわけには参りませぬ。どうか、今一度お考え直してください」
「ならぬ! 見ろ、もうマクリアの犬が此処まで来ているのだ。其方が死なねば、祖国はマクリアに食われる。決断するのだ! 英雄となれ! オルド!」
王は凄まじい剣幕でオルドに詰め寄ったが、オルドは頑として首を縦に振らなかった。こうして、彼らのやりとりを眺めていられれば楽だったが、全ての騎士に敵意を示さねば囮にはならない。サナは刀を抜き、天に向けて掲げた。
「王よ、貴様の願いは私が阻止させてもらう。皇帝が手を下す前に、ガライシアは此処で滅びるのだ」
刀を持つ手から雷を無差別に放った。天幕が焼かれ、騎士たちも地に伏していく。崩れた天幕は王と騎士たちを飲み込んだ。雷を避けた騎士たちは一部が炎の塊となった天幕から王を救おうとし、他の者は皆、剣を手にしてサナに向かってきた。サナは彼らと刃を交えることなく、雷と鍛え磨かれた剣術で一方的に倒していった。
近衛騎士というだけあり、恐れをなして逃げる者はいなかった。誰もが果敢に立ち向かい、散っていく。次第に混乱は収まって、陣形を整えて襲い掛かってくるようになった。それだけならまだ苦戦しなかったが、ブランの情報通り、天恵の印を持つ騎士が現れた。一人は炎を操り、もう一人はサナと同じ雷を操る者だ。騎士たちは連携を取りながら、交代で斬りかかり、絶えず攻撃を加えてくる。その中に天恵の力を持つ騎士がその力を行使しつつ、剣や槍で攻めてきた。
一切の暇ない攻撃に反撃の隙は少なかった。しかしサナの集中力は極限まで高まっていた。呼吸の間合いすら間違えてしまえば死ぬような境地に至ったことで、死への恐怖心が思考を冴え渡らせた。四方から来る波状攻撃も踊るように躱して返り討ちにしていく。
それでも騎士たちは果敢に攻めてくる。増援らしき者も何処からか現れていた。ガーティたちの姿は草むらから消えていた。後は祈るしかない。神になど祈ったことはないが、この時だけはそれ以外に縋りつくものがなかった。
騎士たちに気付かれることなく丘を降りて、湖に架かる橋の前に辿り着いた。馬車がすれ違うのも容易いくらいに幅の広い橋は木で作られているようだったが、何処にも継ぎ目がなく、木目が切れることなく続いたまま荘厳な宮殿まで伸びていた。
ガーティは振り返り、丘を仰ぎ見た。炎が上がり、雷鳴のような轟音の中に怒声が紛れて聞こえる。サナのおかげで此処まで来られた。橋を渡り切れば旅の終わり、命も終わる。その覚悟は充分あり、寧ろ宮殿を目の前にして湧いてきたのは神という存在への好奇心だった。この地を創造し、人々の願いをいくつも叶えてきた神様とはどのような人物なのだろうか。その思いが逸り、橋へと進もうとしてしまったが、気を取り戻して踏みとどまった。横に立つアルシャトに視線を落とす。
「アルシャトは此処で待ってて。俺が神様に会いに行くから」
「……譲ってはくれない?」
低く小さな声でアルシャトが尋ねてきた。しかし、ガーティの心は既に決まっている。この願いは絶対に叶えたいものだった。
「君はまだ死ぬべきじゃない。ブランさん、サナが来るまでアルシャトと何処かに隠れてて」
ブランは頷き、アルシャトの肩を掴んだ。
「ああ。短い間ではあったが、世話になった。旅の間、気遣ってくれたことを感謝する。さあアルシャト、観念するんだ。私は恩義ある者の味方だ。君が駄々をこねるなら、力尽くでも黙らせてやるぞ」
「力尽く? 面白いことを言う」
アルシャトは肩に乗った手を振り払い、勢いのままブランに体当たりした。ブランは低く呻くと、顔色が急速に青白くなっていき、そのまま地面に倒れ込んだ。ガーティは何が起こったのかを理解できず、呆然とアルシャトを見ていた。
ブランの口からは、か細い息と血が漏れていた。何かを言おうと口を動かしても、声が出ないようだった。腹からは血が溢れ出していた。その傷を作ったのは、アルシャトが持つナイフに違いなかった。
「存分に苦しむがいい。お前のせいで、俺たちの宿願が潰えそうになったのだからな。お前たちの邪魔さえ入らなければ、惨めな子供の真似などせずに此処まで来ることが出来ただろうに」
「ア、アルシャト?」
ガーティは状況の整理が付かないまま、その名を口に出した。アルシャトは振り返り、眼帯を外した。眼帯で隠されていた目の中に見覚えのある印が刻まれていた。サナの手首にあるものと同じ、天恵の印だ。
「素直に俺に譲っていれば、こいつも死ぬことはなかったのに。愚かな選択をしたな」
ブランから呼吸の音が聞こえなくなった。体も動かなくなり、口から血の泡だけが際限なく流れていた。驚きと苦しみの表情で固まったまま、ブランは死んでしまった。
「そこまでして妹を助けたいの?」
可哀想なブランを思い、悲しみがせり上がってきて声が震えた。
「まだ嘘だと分からないか。そんなちっぽけな理由で神に会いに来たのではない。俺の願い、いや、俺たちの願いはもっと崇高なものだ。命と引き換えに世界に魔物を齎したシォーグ様。かのお方の望みは世界の破滅だった。しかしその望みは叶わず、今なお世界は続いている。既に召されたシォーグ様に代わって、俺たちが世界を破滅させる。そのために神に会いに来たのだ」
アルシャトはガーティに近付いてくると、右手を掴んだ。包帯を引き剥がし、欠けた指の先に爪を立ててきた。そこから炎のように熱い何かが入ってきて、掌、腕を通って全身に駆け巡った。頭の中がずきずきと疼き、体が痺れて立っていられなくなった。その場でばたりと倒れて、顔すら上げられずにいた。
「俺はあの女のように乱暴な力は持っていない。天から与えられたこの毒の力で、苦しみを味わいながら死ね。どうせ捨てるつもりだった命なのだから、惜しくはないだろう?」
高笑いを残してアルシャトは行ってしまった。彼を呼び止めることは出来なかった。熱と痛みは激しくなり、耳鳴りが鳴り続ける。視界が白くぼやけていき、何も考えることが出来なくなっていった。
立ち向かってくる者はいなくなった。どれほどの数の敵と戦ったかは戦場を見渡せば分かるが、数える気は起きなかった。当初は全員を倒すつもりなどなかったが、逃げる隙などなく、戦い続ける他なくなり、集中力も極限に高まっていたので、刀を振るい続けてしまった。
結果としては完全なる勝利で終わったので、憂いなくブランたちを迎えにいくことが出来る。既にガーティは神の宮殿へと入った頃だろう。結局、ガーティの願いがなんなのかは分からずじまいだった。なぜ教えてくれなかったのかが気に掛かったが、あくどい願いではないだろう。そんなものが思いつく頭をしていないことは旅を通じて熟知した。
もしかしたら、ブランやアルシャトが願いについて聞いているかもしれない、などと思いながら、サナは戦場を離れて丘を滑るようにして下っていった。
下る最中、神の宮殿へと続く橋の前に倒れている者を見つけた。その瞬間、体から血の気が一気に引いていった。足が勝手に駆け出しいき、橋の前まで急ぐ。誰が倒れているかは明らかだった。だからこそ、信じたくなかった。こんな結末はあってはならなかった。
ブランが死んでいるのは明白だった。憐れみを込めて一瞥した後、その先で倒れている者に駆け寄った。抱え起こして、大きな声で呼び掛けた。
「ガーティ! おい、目を覚ませ! ガーティ!」
まだ体から温もりは消えていなかった。しかし、間違いなく失われつつある。青ざめた顔、閉じた瞼が僅かに開いた。半開きになっていた口から囁くように小さい声が漏れた。
「止めて……アルシャトが……」
それ以上は聞き取れなかった。しかし、重要なことは伝わった。アルシャトが裏切ったに違いない。子供であったがために、願いを叶えたいという執念を見誤り、侮っていた。ガーティを死に至らしめたアルシャトを許せなかった。沸々と怒りが込み上げて、体が震え出した。
「分かった。少し待っていろ。すぐに戻ってくるからな」
サナは懐から丸薬を取り出してガーティに飲ませた。症状を見るに毒を盛られたらしいが、その毒を治せるかは分からない。ただ、痛みを鎮める効能もある薬だったので、死の苦しみを和らげてやることはできた。
死に行くガーティを仰向けに寝かせてやり、サナは橋を渡った。アルシャトを神の下へ辿り着かせてはならない。神に願いを叶えてもらえなかったガーティの最期の願いを、サナは叶えてやらなくてはならないと思った。
旅を始めてから蓄積されていった疲労などお構いなしに全速力で橋を駆けた。湖は透き通るよう青さで、日の光が反射して波打つたびに煌めいている。見惚れてしまうほどの美しさが橋を進むにつれて増していくが、サナの目には映らなかった。ただ真正面の大きく聳える純白の宮殿を見据えて走っていた。
丁度、橋の中ほどまで来たところで、アルシャトを視認した。サナはその背中に雷を放った。雷が当たると、アルシャトは体を硬直させて倒れそうになったが、足を踏ん張らせて耐えた。それでも動けずにいたので、サナは遂に追いつくことが出来た。
「観念しろ」
息を整えながら、刀を抜く。アルシャトは振り向き、両の眼でサナを睨んできた。隠されてきた右目に、天恵の印があった。サナは侮蔑の表情を作り、切っ先をアルシャトに向けた。
「天恵の印がある者は神に見えることは出来ん。そんなことも知らずに此処まで来たのか。何を企んでいるのかは知らんが、お前の望みは叶わん」
その時、急に空が翳り出した。見上げる間もなく、目の前に巨大な生物が降りてきた。ずしん、と重たい音がしたにもかかわらず、橋は全く揺れず、ただ降りてきたものが起こした風が湖を波立たせた。翼を持ち、鱗に覆われたその生物に見覚えがあった。神に会う資格のない者を排除する、その役目を果たさんと竜が降り立ったのだ。
竜は耳を劈くような咆哮を上げて、翼を広げた。サナは竜から距離を取った。最早アルシャトの野望もこれまでだ。天恵の印を持つ者を竜が通すはずがない。強引に進もうとすれば、その圧倒的な力によって殺されるだけだ。
しかし、アルシャトは退かなかった。奇妙な高笑いを上げて、手に持つナイフを己の右目に突き刺した。笑い声が苦悶の叫びに変わるが、それでもアルシャトは目に刺さったままのナイフを穿るように捻り、絶叫と共に勢いよく引き抜いた。
放り捨てられたナイフには目玉が刺さっていた。アルシャトは大きく肩で息をしながら、弱々しくも狂った笑い声を上げた。目に宿った天恵の印。それを目玉ごと取り去ったということか。天恵の印さえなければ、竜に襲われないと考えたのだろう。
その考えが正しかったことは竜の視線で分かった。竜は足元にいたアルシャトから興味を失い、サナだけに殺意のある瞳を向けてきた。アルシャトは嘲る様な笑い声を残して、悠然と竜の股の間を潜って宮殿へと向かって言った。
なんとしてもアルシャトを止めなくてはならない。だが、眼前には竜が立ち塞がっている。巨大な魔物さえも容易く蹂躙する化け物を屠らなければ、道は開けない。
絶対的な死を齎すものを前に、サナは震えた。敵う相手ではないことは明らかだ。死にたくない。死んではならない。両親や師匠、仲間たちの無念を背負って生きなくてはならない。だから逃げるべき、なのに、退くことが出来なかった。
彼に抱いていたものは同情でも共感でもなかったらしい。親も住む場所も何もかもを失った彼が此処まで生きてこられたのは、そうした性質によって他人を誑かしていたからだと気付いた。
放っておけない、憎めない、人を惹き付ける何かをガーティは持っていた。だから、はした金でも、旅の護衛を断れなかった。我儘を言おうと、従ってやれた。願いを持っていなくても、それを得られるように助言してやれた。その性質に惑わされて、彼の理不尽な死に怒りを覚え、とうとう竜と戦わなくてはならなくなった。
死ぬつもりはない。故に、竜を屠る以外に道はない。サナは雷の力を体に流し、更には刀にも纏わせた。天恵の力も無尽蔵ではない。もうほとんどを使い切り、疲労も限界に達している。それでも、竜を屠る意志は鈍らなかった。
竜は口を開くと、そこから炎を噴射させた。滂沱のごとく吐き出された炎に、サナは敢えて突っ込んでいった。炎に紛れて竜の足元に近付くと、その足から背中まで駆け上がっていった。
慌てた竜が羽ばたきだして、宙に浮かんだ。首を伸ばして、背にいるサナに噛みつこうとしたり、激しく体を揺さぶったりしてきた。牙が掠めて、固くて鋭利な鱗に傷付けられても、サナは必死にしがみついて堪えた。
竜が大人しくなった一瞬の隙に、サナは頭へと飛んだ。鬣のように生える角を躱して、眉間に降り立ち、あらん限りの力を込めて刀を突き立てた。刃が鱗を貫通し、肉に到達すると、雷の力の全てをそこに注いだ。竜は雄叫びを上げて暴れるが、サナは柄をしっかり握って離さなかった。
しかし、竜が強く首を振った瞬間、刃が折れてしまい、サナは空中に放り出されてしまった。そのまま橋の上に落ち、竜も力尽きたのか、湖に落ちて大きな水飛沫が上がった。体を焼かれ、無数の傷を負い、落ちた衝撃を和らげることも出来なかったサナは、もう虫の息だった。
竜は仕留めたが、まだ終わってはいない。アルシャトを追いかけなくてはならないのに、もう動けなかった。やらねばならぬことははっきりと分かるのに、意識は遠のいていった。
消えていく視界の端に人が映った。ふらふらと、覚束ない足取りで宮殿の方へ進んでいく。力を振り絞って腕を伸ばしたが、その人には届かなかった。
行くな、という声も出ず、それだけを思ったまま、意識がぷつりと途切れた。
瑞々しい血痕が残った白い床の廊下を抜けて、辿り着いたのは大きな広間だった。天井を支える白い石柱が、広間の奥にある玉座まで連なっている。玉座も当然のように真っ白で、これも石で造られたものらしく、背もたれが石柱に負けないほどの高さまで伸びていた。玉座の上は天井がないらしく、眩いほどの光が降り注いでいた。
玉座の前でアルシャトが跪いていた。彼を認識して、漸くガーティは我に返った。サナがくれた薬のおかげが、なんとか起き上がることが出来て、アルシャトを止めなければという思いだけで、橋を渡った。その最中の記憶はなく、宮殿に入った覚えもないが、間違いなくこの場所が神の宮殿であることは分かった。アルシャトの邪な願いを叶えさせまいと、玉座の方へと向かっていった。
玉座を照らす光が強くなり始めた。アルシャトすらも光に飲み込まれると、光は広間の中へと流れてきた。眩しさに目を閉じたが、それも一瞬で終わり、元の明るさに戻った。再び目を開けると、玉座に少女が座っていた。光を湛える長い髪が玉座から垂れていて、少女は背もたれにぺったりと背中を付けて、頬杖を突きながらアルシャトを見下ろした。
「神よ」
アルシャトは少女を見上げて言った。
「願いを、俺の願いを叶えてくれ。シォーグ様の命をもってしても叶わなかった、世界の破滅を俺の命と引き換えに叶えてくれ。どんな形でもいい。竜に並ぶ強さの魔物を……」
「うるさいわね」
捲し立てるように言うアルシャトの言葉を少女は癇癪気味な一言で遮った。それからアルシャトの顔を覗き込み、「あーあ」と溜め息混じりに呟いた。
「あの子ったら、こんな小細工に騙されるなんて。印を取り除いたって無駄よ。あなたが神から力を授かった事実は消えない。資格なき者が此処に踏み入るのは許されてないの。あとは分かる?」
まるで答えを求めていない口振りで言った後、少女はアルシャトに向かって息を吹きかけた。すると、アルシャトの体がぼろぼろと崩れていき、黒い砂となって玉座の前に積もった。
少女はその黒い砂の山を飛び越えて、ガーティの方へ歩いてきた。裸足の足が床をひたひたと鳴らす。それが面白いのか、稚い笑みを浮かべながら、跳ねるようにして向かってきた。
少女が目の前でぴたりと止まると、ガーティは少し屈んで少女に視線の高さを合わせてこう問いかけた。
「君が神様?」
少女は深く頷いた。
「ええ、そうよ。でも、ちゃんと名前があるわ。イシュアルって呼んで。あたしもあなたのこと、名前で呼んであげるから。ガーティくん」
どうして名前を知っているのだろうと思ったが、彼女が神様なら人間の名前くらい名乗らずとも分かってもおかしくない。ガーティはどこか得意げな様子のイシュアルの前に膝を折った。
「失礼しました、イシュアル様。わたくしは、貴方様に願いを叶えていただきたく、この地に参った次第であります」
「ああもう、面倒くさいのはなしよ。畏まらないでちょうだい。これから長い付き合いになるんだから、他人行儀でいられたら、気が滅入っちゃうわ」
「長くなる?」
自分はもう此処で死ぬはずなのに、どういう意味なのだろうか。ガーティは目を丸くして、イシュアルを見上げた。
「そうよ。あたしたちは人間の命を奪うために地上に来てるんじゃない。類稀な才を持つ人間を天上に連れて帰るために来てるのよ。願いを叶えるのは死の代償じゃなくて、地上から人間を貰う代わりに、それに見合ったお返しをしてあげてるってだけ。あなたを死なせるわけにはいかないから、毒も消してあげたし、指も治してあげたんだけど、気付いてる?」
ガーティは右手を見た。いつの間にか、欠けていた指が元に戻っていた。それに体の調子も良くなっている。思えば、宮殿に入ってから意識を取り戻したし、その時にはイシュアルに治してもらったのだろう。神様の持つ力は天恵の力以上に常識外れだ。しかし、それならば、人間の力なんて借りる必要もないのではないかと思った。
「本当に俺の力が必要なの? 傷も毒も治せるくらい凄い力を持ってるんだから、君だけでなんとかなりそうなんじゃない。それに、俺は特別な才能なんて持ってないし。期待に添えられないと思う」
「いいえ。あなたにはちゃんと才能がある。だって、此処まで来られたんだもん。普通の人間ならどうあったって辿り着けない。どれだけ腕力があろうが、頭が良かろうが、お金を持っていようが、その才能がなければ、この宮殿に入れない仕組みになってる。そして、その才能はあたしも天上の奴らも持ってない素晴らしいものなの。それがなんなのかを、あなたが理解してなくても、あたしは分かってるから安心してちょうだい」
イシュアルはガーティの腕を引っ張り、立ち上がらせた。そのまま玉座の方へと進んでいく。
「まあ、お喋りは後にしましょ。願い事を言って。それを叶えたら、天上へ行くわよ」
自分が叶えようとしていた願い。玉座の前に積もる黒い砂を見て、彼もその願いの中にあったことに虚しさを覚えた。しかし、嘘偽りであっても、アルシャトのおかげで願いを見つけられたのは確かだった。もうアルシャトには与えて上げられないが、その願いは変わらない。
「此処まで旅についてきてくれた人に、笑っていてほしい。ずっと、ずーっと、笑って生きていてほしい」
サナはいつも眉間に皺を寄せていた。それはいつ何時襲ってくるかも分からない脅威に立ち向かうために、気を昂らせているからだろう。だが、そんなサナも野営で火を囲んでいる時だけは、その表情を崩して話に付き合ってくれた。その束の間の安らぎが、いつまでも続いていてほしい。そうした思いから、ガーティはこの願いを生み出した。
「おもしろい願いね。でも、嫌いじゃないわ、そういうの」
イシュアルはそう言って、自分の額をガーティの額にくっつけた。
「……うん。こんなもんかしら。それじゃあ、行きましょう。分かってると思うけど、地上に帰れないからね」
玉座の上から一際強い光が降ってきた。光は大きな柱となって天高く伸びていた。
イシュアルに引っ張られながら、ガーティは光の柱へと進む。思い残したことはない。自分の願いに全てを込めたので清々しかったが、一方で呆気なさも感じた。
願いを叶えたら死ぬと思っていたし、その覚悟はしていたから、叶ってもまだ生きていることが奇妙に思えた。死なずに済んでしまったのだから、あとはもうイシュアルに身を任せて生きていくしかなかった。
天上とはどのような場所なのだろう。どんな人たちがいるのだろう。食べ物は口に合うだろうか。寒すぎたり、暑すぎたりするのも嫌だ。
ガーティは気楽に構えながら、光の柱の中に入っていった。
雨が降っていた。雷鳴は止んでいた。静かだった。雨音が気にならないくらいに、静かだった。
師匠は胸を抉られて、死に瀕していた。魔物に襲われそうになった私を庇ったために、命を失うことになった。もう助かる見込みはない。虚ろな目をしている師匠の傍らに跪き、冷たい手を握った。
魔物は既に殺した。師匠が致命傷を負った刹那、右手の辺りに何かを感じた。それが天恵の印だと理解する前に、その力を使っていた。手足を動かすのとさして変わりはしない。実に容易くその力は操れて、それをありったけ使って、魔物を焼き殺した。
師匠は何かを言っていた。あまりに小さな声。微かな雨音にさえ、かき消されるほどに小さな声だった。耳を口元まで近付けて、その言葉を聞く。
「早那……死ぬな……死ぬなよ……」
「師匠も死んではなりません! 一緒に船で死んでしまった者たちの分まで生きようって誓ったじゃないですか」
その問いかけに師匠は答えてくれなかった。いくら呼び掛けても、目を覚まさなかった。
師匠は死んだ。異国の地で、遂に私は独りになった。師匠も背負ってくれていた、皆の思いを、私一人で背負わなくてはならなくなった。そして、師匠の分も。
その重たさはすぐに心を押し潰してきた。悲しみは苦痛となり、あの時の思いが蘇った。
死にたい。死んだら楽になれる。
だが、死ねなかった。背に乗る皆が死なせてくれなかった。生きたいと願った彼らのために生きなくてはならない。天涯孤独となろうと、故郷を失おうとも、己の命を諦めることは許されない。
私は生きることを宿命づけられたのだ。この剣術も、天恵の印もそのために授けられたのだろう。だから、戦い続ける。誰かを斬り、焼き焦がして、生を得続けなければならない。私の命はそのためだけにあるのだ。
昔の夢を見ていた。それに気付いてサナは目を覚ました。同時に、素っ頓狂な声が耳に届いた。
「あらまあ、起きなさったよ」
ふくよかな体型の女が驚きと喜びの混じった表情で顔を近付けてきた。サナは状況が理解できず、体を起こして辺りを見回す。
自分が倒れたのは橋の上だったはずだが、どういうわけか家の中にいて、ベッドで眠っていた。窓から見える景色も、神の幽谷とは明らかに違う。澄んだ青空に、緑豊かな森と草原、建てられて間もないような、くすみのない木材が使われた家が近くにいくつか立ち、子供たちが楽しそうに駆け回っていた。
「此処は何処だ?」
そう呟くと、女が答えてくれた。
「何処と言われても難しいね。シュリンって国の南の方にある辺鄙な村だよ。ほら、遠くに山が見えるだろ? あれがスウォールマリートって山だよ」
確かに遠くからでもはっきりと見える山脈があり、それがスウォールマリートだというのも分かった。しかし、いつの間に神の幽谷から脱してこんな所にいるのかは分からなかった。
「あんた、村のはずれで倒れてたんだよ。それも覚えてないのかい?」
サナはますます困惑した。まだ夢でも見ているのだろうか。頭に手をやろうと上げた時、手首を見て唖然とした。
天恵の印がなくなっている。くっきりと刻まれていたそれが跡形もなく、消えていた。触れても、擦っても、印が浮かび上がってくることはなかった。
竜から受けた傷もなくなっている。あまりにも不自然だった。自分が神の幽谷へ行った形跡が一つも残っていない。だが、その不自然さが逆に真相の手掛かりをくれた。
「最近、数日前くらいに光の柱が立たなかったか?」
「ええ。それはもうはっきりと立ったわ。ついこの前、神様がいらっしゃったばかりだってのに、もう誰かが願いを叶えたみたいね」
「……そういうことか」
ガーティは願いを叶えた。その願いによって、傷を癒されて神の幽谷から追い出されたに違いない。
願いの全貌は分からない。天恵の印がなくなったのも、意味があるのだろう。ガーティの考えを推測してみたが、全く見当が付かなかった。
思わず大きな溜め息が漏れた。吐き切ると、どうしてか、表情が緩んでしまった。結局、死んでも憎めない男だったらしい。それなのに、悲しい気持ちも湧いてこなかった。何者でもなく、何一つ持っていない男が、歴史の一部になったのだから、褒め讃えるべきだ。
天恵の印がなくなったのは、神様に願いを叶えてもらったという証なのかもしれない。その目で最後を見届けた唯一の人間として、ガーティという人間を忘れずに覚えていられるように。即ち、また一人の生を背負え、ということだ。
だが、重たさは感じなかった。寧ろ背負わされて、今まで背負ってきた命一つひとつの軽さを覚えた。
案外、命を託されるというのは大したことではないのかもしれないと思い、また一つ溜め息を吐いた。
碧落の死路 氷見山流々 @ryurururu
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