風と竜
死者を乗せた船は行く当てもなく大海を彷徨っていた。初めに早那の父が病に罹ってから瞬く間に同じ症状を見せる人たちが増えていき、治す術もなく死んでいった。医者も早々に死ぬと、そこからは延命する手立てがなくなって、病に侵されてしまったら、明日の太陽を拝めずに死んでしまうようになった。
早那は父が死んだことすら受け入れられなかったのに、その後すぐに母も病死してしまい、心の整理が付けられずにいた。そうして呆けたままでいたら、いつの間にか仲の良かった子供たちも死に、目を掛けてくれた大人たちも死に、兄弟子も死に、船員の全てが死に、船には生きている者がいなくなった。それに気付けたのは彼らが放つ腐敗臭のおかげで、その時になって漸く、早那は目を覚ますことができた。晴れやかな青空が視界いっぱいに広がっていて、ただそれだけを眺めるように努めた。
腕の先、指に意識を向けて動かしてみると、ぎこちないが問題なく動く。体のどこにも痛みはなく、不自然でない気怠さだけが体の内側にこびりついていた。みんなと違って、病には罹っていない。自分だけが、どういうわけか生きてしまっている。国を捨て、家族と同志たちと共に新たな地で生きようとしていたのに、もう同じ夢を見てくれる人はいなくなった。帰る場所も当然ない。
「何を時化た顔してるんだ?」
早那は思わず視線を下げた。腐敗した死体ばかりの船の甲板に生気を纏った男が一人立っていた。雑に結わえた長髪と無精髭の男、それは早那の剣術の師匠だった。
師匠は布の塊のようなものを肩に担いでいた。それを持ったまま早那に近付き、早那が凭れ掛かっていた船縁に足を掛けて、えいやという声と共に布の塊を海に投げ捨てた。
「悪いが死体ばかりの船だと臭くてたまらんからな。ちゃんと供養してやりたいが、それは陸に着いてからにしよう」
布に包まれていたのは死体なのだと早那は気付いた。師匠は船室に戻り、また死体を持ってきて海に捨てた。再び死体を取りに行こうとする師匠に早那は声を掛けた。
「どうしてこんな無駄なことしてるんですか? どうせ私たちも死ぬんですよ」
師匠は大きな笑い声を上げた。
「何を陰気になっている。まだ死ぬなんて決まってないぞ。確かにこの船には俺とお前しか生きている人間はいないがな、それでも生きているのだからいくらでも足掻けるぞ。なんとか船を動かしてみようじゃないか」
それで新しい土地に辿り着いたとしても、もう大事な物は失っているではないか。何もかもを失っているのに、生き続ける意味はあるのか。早那はもう、生きていたいなどと思っていなかった。
次々と死体を捨てていく師匠を、早那はただ眺めていた。死体を包む布が足りなくなったのか、次第に顔を晒したまま、彼らは海に沈められていった。どれも見知った顔だ。船の中で出会った彼らと、新しい土地でどんな生活を送るのだろうと心を躍らせていたのに、希望を抱かせてくれた人たちはもう優しい笑みを浮かべてはくれない。苦しみと悲しみに固まった表情を早那に見せて、彼らは海の底へと旅立っていく。
甲板の死体も一掃されると、師匠は再び船室へと入っていった。戻ってきた時には二つの死体を引き摺っていた。丁寧に布に包まれた二つの死体を早那の前に置いた。師匠は顔に掛かっている布を剥がした。
「今生の別れだ。言い残したことはあるか?」
師匠が最後に持ってきた死体は早那の父と母のものだった。どちらも窶れて強張った表情で死んでいた。早那は二人の顔を見つめた。ただそれだけで、何も言わなかった。必要ないと思っていた。どうせすぐに自分も死ぬのだから。
師匠は待ってくれてたが、早那が無反応を貫いていたので、程なくしてから二つの死体を船縁に持ち上げた。早那を慮って、同時に海に落とそうとしていた。白い波が立つ海に向かって、慎重に滑らせて落とす。二つの死体は頭から海に入り、飛沫を上げて行方を晦ました。その後を追うように小さな影が船から落下していく。それに即座に気付いて、師匠は体をいっぱいに伸ばして早那を掴んだ。
早那は引っ張り上げられ、丁寧に甲板に下ろされた。もう少しで両親のいるところへ行けたのに、現世に戻されてしまった。恨めしげに師匠を見上げると、強い衝撃が頬に走った。痛みに遅れて、師匠に叩かれたことに気付いた。
「阿呆め! 命を粗末にするんじゃない!」
耳に突き刺さるような怒声だった。鍛錬の時ですら見たことのない師匠の怒りの形相も向けられて、早那は我に返った。
「死んでも何も解決しないぞ。お前の両親が救われるわけでもない。船にいた連中が喜ぶわけでもない。みんなもう死んでしまった。彼らは皆、生きたいと思って国を捨てて、何処とも知らぬ、安全に暮らせるかも分からぬ地を目指して海に出た。その生への渇望を軽んじるな。胸の中にしっかと刻んで、忘れるな。皆、生きたかったということを」
「どうして、私がそんなものに縛られなくてはならないのですか? これから先、彼らが望んだ世界が待っていないかもしれない。ましてや、其処に辿り着くことだって……不安と苦痛ばかりがあるのなら、生きているより死んだほうが楽じゃないですか」
言いながら涙を零して止まらなくなっていた。師匠は早那の前に膝を折り、そっと涙を拭った。
「心配するな、俺がいる。俺がお前を強くしてやる。艱難辛苦に耐えうる強さをくれてやるさ。それが身に付くまでは守ってやる。なあに、こう見えて剣術には自信がある。野武士でも熊でも、荒波でも病でも、俺が全部斬り伏せてやろう」
師匠の手が早那の頭を覆うようにして被さり、乱暴に撫で回した。ぐらぐらと頭を揺らされて、早那は煩わしく思ったが、嫌な気持ちが掻き回されて、よく分からなくなっていった。抱いていた感情を無理矢理はぐらかされて、それでも師匠の言葉だけはしぶとく生き残っていたので、それに従わざるを得ないような気がした。
海は穏やかに凪いでいた。鴎の声が聞こえてくる。師匠は不意に立ち上がり、海に目を凝らした。
「荒波を斬る必要はなくなった。ほら、陸が見えるぞ」
早那も立ち上がって師匠が見ている方向を見た。一面に広がる青い海の先に薄っすらと黒い影が見えた。
「皆の無念を晴らしに行くぞ」
師匠の言葉に早那は小さく頷く。見果てぬ海原を越えて辿り着いた新天地。それにまみえて、自分も希望を抱いていたことに気付いた。彼の地に辿り着けなかった両親、仲間たちを思い、その希望の灯が小さいことを自覚した。
死した皆の希望は私が灯さなくてはならない。生きたいという彼らの希望を全て抱いて、燃やし続けることが生き残った自分の役目なのだ。命という薪が尽きるまで、皆の希望を絶やさずに、生きよう。
黒土は徐々に色を薄くしていき、黄土色に変わると、土質も荒くなった。石も目立ち始め、木や草の類は一切見られなくなった。代わりに塔のように聳え立つ巨岩が並び、その岩肌に煌めきを伴った鉱石が散りばめられていた。
日中の異常なまでの暑さもなくなったが、常に風が吹き、時おり吹く強風が砂を巻き上げて視界を奪った。それが向かい風となると進むのは難しく、巨岩に隠れてやり過ごすしかなかった。ガーティは風に飛ばされてしまいそうなアルシャトを庇いながら、岩陰に潜り込んでいった。
サナも強風に煽られて橇を曳くのに苦労していたが、なんとか岩陰に辿り着いた。複雑な凹凸がある岩に風が擦れるようにして流れていき、笛のような音が鳴る。そのけたたましい風の音色でかき消されていたが、口の動きから溜め息が漏れているのが分かった。
「どうする? そろそろ暗くなる頃だけど」
ガーティは風音に負けないように大きな声でサナに尋ねた。サナは返事をしないで橇の荷物を解き始めた。今日は此処で休むという意図は伝わった。ガーティも勇んでサナの手伝いをしようとしたが、すぐにサナに制された。
「アルシャトの面倒でも見ていろ」
結局、アルシャトはガーティたちと同行することになった。子供一人を危険な地に置いてなどいけない。一つしかない願いを叶えてもらう権利を奪い合う戦いでもあるのに、その戦わなくてはならない敵を保護するのは愚かにも程がある、とサナに怒られたが、見捨てられなかった。
アルシャトには妹の不治の病を治してもらいたいという願いがあった。そのために己の命を捧げる覚悟を持ち、その覚悟の強さを神の幽谷に来たことで証明している。アルシャトの境遇、妹のことや旅の仲間を失ったことがとても不憫に感じ、彼になら願いを叶えてもらいたいとガーティは思った。そして、自分にはそんなアルシャトに匹敵するような強い願いを持っていないことに焦りを覚えた。勢いだけで此処まで来て、いつか思いつくだろうと楽観視していたが、もう間もなくで神殿に辿り着く予感があり、このままだと願いもなく神様に会うことになる。それどころか、神を守ると言われている竜に阻まれて、殺されてしまうのではないか。
どうにかして願いを絞り出さなくてはならない。自分一人ではもう思いつかなそうなので、偉大な願いを持つアルシャトと話すことで端緒を開こうと考えた。
「すごいところだね、神の幽谷って。前までいたところは暑くて動物もいっぱいいたのに、今はそんなのが幻だったんじゃないかって思わせるくらい、無茶苦茶な場所になってる」
アルシャトは膝を抱え込み、体を丸めた体勢で休んでいた。眼帯をしていない左目に砂が入ったのか、目を擦る仕草もした。
「おかしな気候ですよね。神様がいるところだから、ぼくたちの常識は通用しないんでしょう。もしくは、過酷な環境を乗り越えられる強さを持っているかを試しているのかも」
「どれだけ辛くても挫けない人だけが神様に会えるってことか。いやはや、困ったなあ。もう既に辛い目に遭っちゃってるから、まだまだある、っていうなら死んじゃうかもしれない」
ガーティは苦笑いを浮かべながら、指のなくなった手をアルシャトに見せびらかした。
「此処に来るまでに無くしてしまったんですね、その指」
「うん。山を越える途中で魔物に襲われてね。サナのおかげで命までは取られなかったけど。アルシャトのその目も此処に来るまでに怪我しちゃったの?」
眼帯に視線を注ぎながら尋ねた。アルシャトは眼帯の表面に触れながら答える。
「これは今よりもっと小さかった時に無くしました。妹が生まれたばかりの頃、全然両親から構ってもらえなくなって、なんとか自分を見てもらおうとしてこっそり家を出て、町の外れにある森に行ったんです。その森の中で野犬に襲われてしまい、右目を抉られました。たまたまいた猟師の方に助けてもらえたので死なずに済みましたが、今となってはなんて愚かなことをしたのだろうと後悔しています。あの時は本当に妹が羨ましくて憎かった。お父様とお母様の関心が全て妹に向けられていて、自分が蔑ろにされていると思ったから。今となってはなんであんなに妹を敵視していたのだろうって思っていますけどね」
「なんせ、妹を助けるために自分の命を捨てるくらいなんだから」
ガーティが言い添えると、アルシャトは小さく笑んで頷いた。
「ええ。妹のためなら、命なんて惜しくない。あんなに心優しくて愛おしい存在が、この世界から消えていいわけがないんです。こう思ってるんです。ぼくは妹を生かすために生まれたんじゃないかって。ぼくは死ぬことで、己が背負った使命を果たせる。だから、死ぬことも怖くはないんです」
「使命かあ。重たいな」
そんな重たいものが、ふっと湧いて出るだろうか。アルシャトのように大切に思うことが出来る身内は先に死なれてしまっていたので、その人たちに願いを使えない。では、誰にならと考えると、一番長くお世話になったのは宿屋の主人だが、特別報いたいという気持ちも湧かない。そもそも、孤独の身となってから働かせてくれた人たちは皆、小さな悩みは持っていても、生きるのに苦労していたり、死に瀕していたりなどなく、日々を朗らかに生きていた。自分はそんな彼らの日常の中に居座らせてもらって生き延びてきただけだったので、何もない空虚な人間になってしまったとも言える。大いに反省しなければいけないが、それを活かす場は来ないだろう。
ガーティはかなり悩んだ。この旅の間も悩み続けていたが、同志であるアルシャトから思いを聞かされて、それを自分と重ねてしまい、己の浅はかさに悩まされた。もう志高いアルシャトに神様への謁見を譲るか、とさえ頭に過った。そうした考えを表情から読み取ったのか、サナが言葉を掛けてきた。
「他人に絆されて、己の願いを捨てるなんてことはするなよ。なんのために、此処まで来た? 指を失っても逃げずに来た意味を考えろ。お前はお前の願いを見つけろ。絶対に、だ」
「分かってるよ。ちゃんと自分で考えて見つけるから」
ガーティは不貞腐れながら返事をした。誰かの願いに負けない自分だけの願い。それを持たなければならないのは承知しているが、その願いを持つ人が目の前にいると、彼の願いを押しのけてまで願いを叶えるのは気が引けることでもあった。
神様は一つだけしか願いを叶えてくれない。次に願いを聞き入れてくれるのは百年の歳月の後、つまり一生に一度しか叶える機会は訪れない。自分が叶えれば、アルシャトの願いは叶えられず、彼の妹は死んでしまうだろう。彼の切実な思いを無碍にしてまで、己の願いを叶えたいという意志を全うすべきなのだろうか。そうした思いを完全に拭い去ることはできなかったが、サナの言うことも尤もだ。此処まで来て他者に譲るなんて、それは自分自身の努力をなかったことにする行為だ。
死んで何かを成し遂げたい。光の柱を見た時に抱いた思いは今も変わらない。何も持っていない自分でも何かを達成して人生を終わらせる。清々しく死ぬには神様に願いを叶えてもらう以外に方法はないのだ。
ガーティはアルシャトに出会えたことで漸く真剣に己の願いというものに向き合えた。命に関わる願い、それと対等なものでなければアルシャトに失礼だろう。自分の願いの中に、アルシャトすらも救える力があれば良いだろう。今までぼやけていた願いという存在に、とうとう輪郭が形成された。これならば神様に会う前に自分の願いは完成するだろうと思い、安堵した。
とは言っても、肝心の中身はまだ空洞で、そこに埋めるべきものについては相変わらず思い浮かばなかった。それでも焦りは湧かず、寝て目が覚めたら思いつくんじゃないかと呑気に構えて、願いについて考えるのを一旦打ち切った。
風は闇と共に弱まった。静寂の夜に焚き火の音だけが鳴る。疲れていたのだろう、アルシャトは食事を終えるとすぐに天幕の中に入って寝てしまった。ガーティはまだ眠気が襲ってこなかったので、サナと一緒に、露骨に怪訝な顔をされたが屈することなく隣に座って、火を見守った。
今日もサナが火を守りながら夜明けまで見張りをしてくれる。まともな睡眠など旅を始めてから一度もしていないだろう。そんな彼女を慮って何かをしてやりたかったが、ガーティにはそれをする能力に欠けていた。サナに守られなければ生きられない無力な人間であることは痛いほど理解していたので、代わって見張りをするなど出来ない。勿論、サナがさせてくれるはずもないが。此処まで体と精神をすり減らしながら、守ってくれているサナを労うにはどうすべきか。それは多分、彼女が再三、くどすぎるほど何度も言ってくる願いを思いつくことで、一つの安心という形で与えられるのだろう。
「どうだ?」
サナはそれだけで尋ねてきたが、もうガーティには伝わっていた。いつものように首を振るが、進展があったことは伝えた。
「でも、あとちょっとで思いつきそう。アルシャトのおかげだよ」
「あの子供を生かしておいて正解だったか。漸く、少しではあるが前向きな答えが返ってきた」
「やっぱり他の人の願いを聞くのは大事だったんだ。もっと色んな人と会ってみたいけど……」
「図に乗るなよ。無害な人間に会える方がおかしいんだ。現にあいつも、何者かに襲われてたまたま生き残ったに過ぎない。力のない者は殺されて、力を持つ者は全てを蹂躙して神へと向かう。これから先、環境が過酷になればなるほど、弱い者は消えていく。お前の話を聞いてくれる者など神に会うよりも難しくなる」
サナの言うことに理がありそうだったので、ガーティは反論できなかった。
「そうかあ、残念だな」
それから沈黙が続いたが、ガーティはあることを思いつき、興奮気味にサナに話しかけた。
「なんで今まで気付かなかったんだ。サナに聞けば良かったんだよ。ねえ、サナ。サナなら、神様にどんな願いごとをする?」
サナは返事をせず、焚き火をじっと見ていた。それでもガーティは答えを待ち、サナを見つめる。それからまた、長い沈黙があった後、サナが唐突に口を開いた。
「考えたこともない。どうせお前は知らないだろうが、天恵の印を刻まれた者は神に会うことは許されない。神に会って願いを叶えようなどと考えるだけ無駄だ。それを抜きにしても、願いなどない。飢えず病まずに慎ましく生きていられるだけで充分だ」
「ちょっと勿体なくない? 俺がサナくらい強かったら、もっと欲張りたくなるけど」
「具体的には?」
「それは、えっと……」
ガーティが答えに悩んで言い淀んでいると、サナは鼻で笑った。
「想像力が足らないな。だから願いが思いつかないのかもしれんが」
「待って。本気で考えてみるから」
これも自分の願いを見つける助けになるはずだと、ガーティは必死に想像した。天恵の力を持ち、類稀な剣術を身に付けて、敵う者なしの女傑。それだけのなんでも自力で叶えられそうな力がありながらも何を欲するだろう。自分がサナだったら、と考えた時、以前サナが何気なく呟いた言葉を思い出した。
サナも家族がいなかった。仲間も帰るべき場所もないという。自分と境遇が同じではないかと思ったが、もう一つ、大事なことを思い出した。師匠という人物がいるという。その人と共にこの大陸に来たと言っていたから、サナは孤独ではないはずだ。きっと願うなら、たった一人同郷の誼であり、師と仰ぐその人のために何かを願うのではないだろうか。ガーティはその閃きを表情にしながら、答えた。
「サナには師匠がいるんでしょ? だったら、その人のために願うんじゃない?」
「確かに師匠が生きていたなら、そういう考えに至った可能性もあるだろう。だが、もう遅い。幸いにも、何者にも縛られない天涯孤独の身だ。他者に気を煩わせずに済む故に、欲望にも苛まれないというわけだ」
あまりにも悲しい話だ。唯一である頼れる存在すらもこの世からいなくなったという。ガーティは言葉を失い、ただ力なく首を振った。
「らしくないぞ。お前が落ち込むことでもないだろう。それにもう昔のことだ。今更、寂しいと感じることもない。まあ、お前が想像力を働かせて、そう言った答えを導き出せたのは感心できる。阿呆でも知恵を絞ることは出来るらしい」
「酷いよ!」
サナは愉快そうに頬を緩めた。が、一瞬で表情が強張った。地面が大きく揺れて、巨岩の表面からぱらぱらと小石が剥がれて落ちてきた。サナは立ち上がり、剣を握って辺りを見回す。天幕からアルシャトも慌てて飛び出てきた。
「なに?」
アルシャトは不安そうにガーティにしがみついた。また、大きな衝撃が地面に走る。今度はより強く、そして低く重たい音が何処からか聞こえてきた。それから寸断なく衝撃は襲い掛かり、徐々に近づいてきているのを感じた。
「魔物?」
「さあな。なんにせよ、不味い状況だ」
衝撃に呼応するかのように背後から風が強く吹き始めた。焚き火は薪ごと吹き飛ばされてしまい、ガーティもアルシャト共々、体を岩壁に押し付けられてしまい、身動きが取れなくなってしまった。
反対側からも何かが着実に接近しつつある。ガーティはアルシャトをしっかりと抱きながら、サナを探した。明かりがなくなった上に吹き付ける砂のせいでよく見えなかったが、一瞬だけ迸った雷光に人影が映った。
「そこから動くなよ」
その言葉を置き去りにして、サナの姿が消えた。最早サナを信じるしかない。今まで幾度となく危機を斬り伏せてきたサナなら、この正体不明の何かも一刀両断にしてくれるはずだ。ガーティはアルシャトを砂塵と強風から守る事を役目として、サナの帰還を待った。
サナは追い風に乗って駆けた。闇にも目が慣れて、前方から迫るもの正体が見えてきた。巨大な球体が天から落ち、地面を打つ。砂埃に舞い上がる中、球体に何かが付着して覆っていく。粘性の強い液体だろうか。それが球体の形に沿って垂れ落ちていくと、地面に溜まって蠢いた。
強風で波打つ液体はずるずると風に押されると、再び球体へと登っていった。液体から透けて見える球状の物体は岩のようなものだった。微かに煌めきを帯びていることから、この辺りに林立する巨岩と同じものであるとサナは推察した。
岩を纏う液状の魔物だろう。未知の魔物ではあるが、早急に排除しなければガーティたちがあの岩に潰されてしまう。様子見の暇もなく、サナは雷の力を魔物に放とうとした。その寸前、液体に絡めとられる人影を見つけた。
必死に足掻いていたが、そのまま為す術もなく取り込まれてしまい、魔物の表面に浮かんだ。手足をばたつかせて脱出しようとしていたが、無駄な抵抗のようだ。まだ辛うじて生きてはいる。雷を放てば、あの人間にも影響は及んで死ぬことになるだろう。だが、それをどうして自分が気にしなければならないのか。優先すべき命は決まっていて、それを脅かすものは消すのが仕事だ。あの人間も神の幽谷に来ている以上、ガーティの敵と見做して良い。だが、魔物諸共殺すことが憚られてしまった。此処にいないはずのガーティから、止められたような気がした。
迷ったまま雷を腕に溜めていると魔物が動き始めた。サナに気付いたらしく、鎌首をもたげるように岩を持ち上げると、後ろに傾けた後に勢いよく前方に振った。粘着する液体の尾を引きながら、岩が向かってくる。サナは掌中に溜まった雷を手の内側に押し込み、体全体に流した。雷の力は仇為す者を焼き焦がすだけでなく、己の中に留めることで体が冴えて機敏に動けるようにしてくれる力も秘めている。
空気を切り裂いて巨岩が迫る。凡人であったなら、それから逃げ切れずに潰されるだろうが、雷の力で尋常でない身体能力を得たサナはまさに雷の如き速さで巨岩を避けた。砂が舞い、小石の雨が降る中、巨岩に付着した魔物の伸びて細くなった一端が膨れていくのを見た。岩を飛ばした反動で魔物も飛び込んできていて、水が弾けるような音を立てて岩に衝突した。だが、魔物そのものは弾け飛ぶことはなく、そのまま岩を飲み込み、球体の形へと変化していった。
サナは目を凝らして魔物を見た。透明な体の中に男が浮いていた。もう先程のようには動いていない。生死の判断は救い出してからだ、と自分に言い聞かせて魔物に接近する。
男は魔物の中腹あたりで漂っていた。そこまで跳躍し、魔物の柔い体に刀で斬り払おうとした。刃は魔物にするりと入っていったが、途中で全く動かなくなってしまった。咄嗟に柄から手を離したが、真下から魔物の体が伸びてきてサナの体を飲み込んだ。
男が藻掻いていたのも分かる。息が出来ない。体も水の中にいる浮遊感がありながら、それほど自由に動かせない。男を助けようと逸り、用心が足りなかった。こうなってしまったら、男を諦めるしかない。雷の力を解放して魔物を内側から焼き殺す以外に死なずに済む方法はない。例えそれで男が死ぬことになろうとも己の命が最優先だ。
サナは体の中に溜めていた雷の力を外へと出そうとした。その時、急に視界が回り、体に強い圧力が掛かった。何事かを察する前に、魔物の体内から弾き出された。受け身を取り損ねて体を地面に打ったものの、すぐさま立ち上がって状況を確認する。眼前には不自然なまでに月の光が注がれており、それに照らされて、翼を持った巨大な怪物が咆哮した。
竜だ。全身を覆う鱗、大きく雄々しい翼、太く逞しい尾、鋭い牙と爪。伝え聞いたままの姿を見せる竜は前腕で巨岩ごと魔物を鷲掴みにし、地面に強く押し付けて砕いた。尚も魔物を踏み潰し続け、巨岩の破片が魔物の体から押し出されていく。破片だけでなく、サナの刀や男も飛び出てきた。
魔物は完全に潰れ切って、干からびたナメクジのようになった。竜はそれを掴んだまま羽ばたくと、強風などないかのように優雅に上空を旋回し、遥か高くへと上昇しながら何処かへと消えていった。
月光はいつの間にか弱まり、風もぴたりと止んだ。サナは唖然と竜が消えた空を見ていたが、人の声が聞こえた我に返った。
「サナ!」
ガーティは息を切らしながら駆け寄った。その後ろにはアルシャトもいた。
「今のって、竜?」
ガーティが興奮気味に聞いてきたが、サナはなんとも答えなかった。一つ息を吐き、魔物が竜に連れ去られた跡地へと向かった。巨岩の破片が地面に煌めきを齎している中、刀を見つけ出し、その近くで倒れていた男をついでとばかりに確かめた。
意識はないが、死んではいないようだ。軽く頬を叩いても起きない。呼び掛けても反応は返ってこない。追いついてきたガーティとアルシャトが心配そうに男を見下ろす。サナは右手を男の胸の上に置くと、そこから極めて弱い雷を流した。男の体がびくりと跳ねる。それから少し様子を見ていると、男は薄っすらと目を開けた。
「これは……夢か?」
男の口からか細い声が漏れる。
「現実だ。名を名乗れるか?」
男は呻き声を上げた後、サナの腕に縋りついた。
「ブラン。ガライシア王国宰相だ。助けてくれ。このままだと王に殺される。王は私を生贄にして願いを叶えようとしているのだ。頼む、助けてくれ」
哀れにも泣き出したブランと名乗る男に、サナは困惑と疑念の眼差しを向けた。きつく掴んでくる手を引き剥がして立ち上がると、ブランから目を切って後方へと下がった。この男をどうするかは雇い主が独断で決めるので、向かい合って話を聞いてやる意味もない。どうせ、お人好しを発揮して助けてやろうと言い出すのだろうが。その思惑通りにならずに済むことを願いながら、サナはブランの前に膝を折るガーティを睨んだ。
ガーティは慈しみを目に宿しながら、ブランの手を取った。少しぬめりがあって気持ち悪かったが、滑り抜けないようにしっかりと握った。
「大丈夫。俺たちが守ってあげるから。とりあえず、落ち着ける場所に行こう。立てる?」
ブランはガーティの手を握ったまま、がくがくと足を震わせながら慎重に立ち上がった。皆で荷物が置いてある岩の陰へ戻る道すがら、ブランは徐々に落ち着きを取り戻していき、自らに起きたことを具に語るようになった。
「我々は王の願いを叶えるために神の幽谷に来た。ガライシアを脅かす憎き敵国、マクリア帝国を滅ぼす。そのために王は己の命を神に捧げると仰っていた。死の遠征には王の近衛騎士たちと宰相である私が同行することになった。騎士たちは王を無事に神の下へ連れていき、王の願いの妨げとなるものを排除するため、特に優れた能力と忠誠を持つ者が選ばれた。私は王の最後を見届けて、国で待つ者たちに伝える役目を賜っていたのだが、それは偽りの役目だったのだ。幽谷に入り、順調に行軍し続けて神が待つ宮殿が見え始めた頃、その日の行軍を終えた夜にふと、王の天幕から声が聞こえた。宰相を説得する準備は出来たか、と。王は騎士長と密会し、私を王の代わりに神に捧げようと画策していた。それを陰から聞いた私は、その夜の内に野営地を後にして必死に逃走した。そうして逃げ続けている内に、魔物に見つかり、捕らえられてしまったところを其方の剣士殿に救ってもらい、今に至るというわけだ」
「救ったのは私ではなく、竜だがな」
サナは事も無げに呟いた。
「竜? そんなもの、ただの空想の生き物だろう?」
「空想だの噂だの、此処では全くの出鱈目なものや事象も真実として存在しているように感じるがな。お前だって、それは旅をしている間に嫌というほど味わっただろう。そうした実感があるなら、竜がいたとしても不思議ではないと思うはずだが」
「確かに、この場所は異常だ。だったら、本当に竜が……しかし、なぜ竜が私を助けてくれたのだ?」
「さあな。考えるだけ無駄だ」
サナはそれっきり口を固く閉ざした。サナに代わって、アルシャトがブランに話しかけた。
「ようやく分かりました。ぼくたちを襲ってきたのは、ガライシアの騎士だったんですね。王の願いの妨げとなるものって、ぼくたちのような願いを持つ者ですから、魔物とか獣なんかよりも真っ先に排除すべき存在ですものね。貴方が殺すように命じたんですか?」
ブランは目を見開いてアルシャトを見つめた。アルシャトも隻眼でブランと視線を交わす。
「生贄にされる話を聞くまでは、命を賭す覚悟を持つ王に報いるために私も最善を尽くしてきた。騎士たちを要所となるであろう場所に配置し、王と同じ志を持つ者たちを待ち伏せて排除させたのは、紛れもなく私だ。今にしてみれば、なんと愚かなことをしたのだろうと思う。命を捨てる覚悟もない王のために、私は残酷な行いをしてしまった。謝って済むことではないだろうが、許してほしい。私をこれ以上、追い詰めないでくれ。信じるべきものも守ってくれるものも、もうないのだ」
「貴方や貴方の主のように命を惜しむ人間に仲間は殺されたというのが悔しい。ぼくたちは死ぬことなんて怖くなかった。みんな違う願いを抱いていたけど、命を捨てる覚悟は全員一緒だった。その命が本来、使われるべき場所に辿り着く前に潰されてしまった。貴方が邪魔しなければ、まだみんな生きていられたと思うと、どうしても怒りが湧いてきてしまう。のうのうと生き延びようとしてることに、腹が立って仕方がない」
アルシャトは丁寧な口調は崩さなかったが、語気は強かった。その顔にも怒りがありありと見てとれる。その憤怒の表情はサナの背中へと向けられた。
「サナさん、この人を生かしておく意味はないと思います。殺せ、とまでは言いません。捨て置いてしまって良いんじゃないでしょうか?」
サナは振り返らずに応える。
「私が決めることではない。どうする、ガーティ。恐らく、下山の最中に襲ってきたのも、こいつの手先だと思うが」
ガーティは「いやいや」と言いながら首を振った。
「だとしても、助けないのは可哀想だ。犯した過ちは全部が終わってから償ってもらおう。ここで死なれたら、きっと気持ちが晴れないよ?」
アルシャトに向かって言ったものの、彼は憤然とした表情を崩さなかった。アルシャトがどれだけ仲間と心を通わせていたのかは測れなかった。だから、ガーティは同情しづらかったのだが、彼の怒りは一目で分かる。大事な人たちだったのだろう。それに羨ましさを感じながらも、ブランの命を守りたいという意志を見せてアルシャトを説得したかった。
「ブランさんも王様に騙された可哀想な人なんだ。許してあげてとまでは言わないけど、哀れな人だとは思ってほしい。だって、もう王様のところには戻れないわけでしょ? きっと国に戻っても居場所はないよ。宰相っていう地位もなくなる。それでもブランさんは生きていたいんだ。そうだよね?」
ガーティに問われて、ブランは頷く。
「逃げようとした時から、腹は決めている。どれだけ惨めでも意地汚くとも、私は生きたい。死にたくなんてない。長い道程を経て手に入れた宰相という地位も、もう惜しくない。生きるためなら、なんだってする。犯した罪も、償えというなら償う。それに一生を費やすことになろうとも、正しく生を全うできるのなら本望だ。だが……」
少し言い淀んだ後、嘆くように言葉を呟いた。
「妻と子供だけは幸せであってほしいな」
「勝手なことを言うなよ!」
アルシャトは感情を露わにして怒鳴った。ブランはびくりと肩を震わせた。
「そんな我儘、許されるわけないじゃないか。自分だけ幸せを守り通そうなんて卑怯だ。みんなの幸せを奪っておいて、どうして悪びれることもなくそんなことを言えるんだよ!」
「まあまあ、落ち着いて」
ガーティはアルシャトを宥めようとするが、アルシャトの怒りは収まる様子は見えなかった。礼儀正しく、子供とは思えないほどの落ち着きがあるアルシャトがこれほどまでに感情的になるとは、余程旅の仲間に思い入れがあったのだろう。アルシャトの気持ちに配慮しつつ、ブランの同行に納得してもらうにはどうすれば良いのだろう。次の言葉に悩んでいると、不意にサナが口を開いた。
「お前もお人好しの気まぐれで生かされている立場だというのに、随分と偉そうな口を利くんだな。良いか、肝に銘じておけ。私たちと一緒にいるのならば、どんな文句も許さんぞ。お前のせいで旅に支障が出るのなら、雇い主が何を言おうともお前を斬り捨てる。お前もだ、ブラン。ガーティがお前を連れていくと決めたのなら、私はそれに従う。お前のことはまだ信用していない。少しでも怪しい素振りをしてみろ。その刹那にお前の首が宙に舞うことになるからな」
ブランは慌てふためいてサナに詰め寄った。
「ま、待ってくれ。私は幽谷から出たいだけだ。神を目指す旅に付き合うつもりはない。お前たちは神を目指すのだろう? それならば、必然的に王の下へと戻ることになってしまう。どうせ王は私を捕まえるまで此処に居座るつもりだ。精鋭の騎士たちもいるから、その間に他の人間が神に見えることもない。一度、私を逃がし切ってから、また戻ってくれば良いのではないか?」
「傲慢な奴め。お前の都合など知ったことではない。旅程に口出しすることも、不満や文句も許さん。そんなに神の幽谷から出ていきたいのなら、一人で勝手に行くがいい」
ガーティも流石に神の幽谷を往復する気力は湧かなかった。それに旅路が長くなるほど、サナの負担も増していく。自分が此処まで来ることが出来たのはサナの力があったからというのはしっかりと認識していた。気丈に振舞うがサナも過酷な旅に辛さを感じているに違いない。
ふわり、と頭の中に考えが浮かんだ。突飛で曖昧なものだったが、ガーティはそれが消えていかないように気を付けながら、不服そうなブランに声を掛けた。
「サナは強いから、もし騎士たちと戦うことになってもなんとかしてくれるよ。サナって剣術も凄いけど、天恵の印も持ってるんだから、相手が騎士でも負けないよ」
「近衛騎士にも天恵の印を持っている者はいる」
沈んだ声でブランは呟いた。
「剣士殿の実力が如何程かは知らないが、ガライシア騎士は長年の間、大国たるマクリアの侵略を防いできた戦績がある。数ではマクリアに敵わないが、個々の能力なら渡り合える、それほどの力を騎士たちが持っている。その中でも精鋭と呼ばれるのが近衛騎士だ。此度の遠征でも彼らの力があったからこそ、どのような魔物に襲われようとも滞りなく行軍できたのだ。それだけの実力を持った者が集う上に、天恵の印を持つ騎士が二人いる。果たしてそれに貴殿一人で勝てるのか?」
サナは鼻で笑って返した。
「無意味な問答だ。何が待ち構えていようと、私たちは神を目指して進む。それが嫌なら何処へなりとも行くが良い。無論、一人でな」
ブランは言い返そうと唸っていたが、暫くすると肩を落として溜め息を吐いた。それを確かめたサナは正面に向き直って歩き出した。それに倣い、皆、サナの後ろについていく。
誰も何も言葉を発しなかった。アルシャトもブランも口には出さないが思うことはあるのだろう。共に険しい顔を作って俯きがちになっている。ガーティも、先程浮かんできた考えに気を取られていた。
神様への願い。それは感謝なのではないか。此処まで連れてきてくれたサナや、願いの尊さを教えてくれたアルシャトへの感謝を願いにすれば良い。どのような願いで感謝を伝えるべきだろう。二人の幸せ、それを同時に満たせるものが何かを、ガーティは必死に考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます