神を目指す者たち

 倉木正勝くらきまさかつ宇田部規道うたべのりみちが大将軍の座を手にしたことで、その命を狙われることになった。謂れのない罪を被せられて正勝と妻、幼い子供たちまでもが打ち首となった。宇田部の魔手は倉木の血を根絶やしにせんと瑞郷ずいきょう全土に伸び、もはやこの国で彼らが生きる術はなかった。


 武家の端くれでしかなかった小倉木重隆こくらぎしげたかはその身に危険が及ぶ前に、妻の芹乃と齢五つになる娘の早那さなを連れて、大陸へ向かう密航船に乗り込んだ。国を捨てる他に道はなく、無実の汚名だけが彼の地に取り残された。


 早那は船縁にしがみつき、遠ざかる故郷を眺めた。船に乗っている理由もよく分かっていなかったが、父も母も悲壮な面持ちをしていたので、早那の心も自ずと沈んた。しかし暫くすると、きらきらと太陽の光を照り返す海面や空から飛び込んでくる鳥、それから逃げるようにして跳ねまわる魚の群れに心を奪われていた。


 船に乗っている者たちは皆、脛に傷を持っていて、皆が皆、傷を舐め合うように同情と憐憫を互いに抱いていた。取り分け、乗船者の中で最も幼かった早那には誰しもが強い哀れみを覚えて、まだ幼い彼女を慰めようと愛情が注がれた。当の本人は、彼らの思いになど無頓着で、皆が良くしてくれることにご機嫌になるだけだった。


 船上での生活に慣れた頃、早那は甲板で木刀を振る二人の少年を見つけた。彼らの傍で無精髭の男が胡坐をかいてその様子を見守っていた。


 少年たちは真剣な表情で木刀を振り続けていた。髭の男はその動作をじっと見つめていたが、唐突に立ち上がって少年の手を取った。


「木刀の重さに頼るのではなく、腕の力で振るんだ。力を緩めずに、こうだ」


 男は手を添えながら少年に指導した。どうやら少年たちの剣術の師らしく、二人の素振りに対して、熱心に口を出したり、手本を見せたりしていた。


 そんな彼らの稽古に早那は見入ってしまっていた。女といえども武家の子である。刀への憧れが膨れ上がっていき、次第に羨望を含んだ眼差しへと変わっていった。


 視線を察した髭の男は早那に手招きをした。早那は喜んでそれに応じ、拙い足取りで男の下へ駆け寄った。


「やはり小倉木家のお嬢さんだけある。刀を振るいたくて仕方がないようだな」


 男は木刀を早那に渡した。小さい早那の手には木刀は大きすぎた。振り上げてみるも、主さに敵わずによろけてしまった。男は早那の稚い有り様に呵々と笑った。


「心意気だけが武士だったようだ。流石にまだ剣術を身に付けていないか。ぜひとも小倉木の剣を見てみたかったのだが、機を窺って重隆様にお願いするとしよう」


 男は木刀を取り上げようとするが、早那は抱え込んで返そうとしなかった。


「私にも刀の振り方を教えて」


「何を仰る。貴方は御父上という最高の師がいるのだから、その人に教えてもらえばいい」


 父は船に乗ってから鬱ぎ込み、船室から出なくなっていた。元気のない父から教えてもらえるとは思えない。寧ろ、剣術を学び、刀を流麗に操る様を見せれば、元気を取り戻してくれるのではないかと考えた。


「おじさんが私の師匠になって。刀を使えるようになって、父上に喜んでもらいたいの」


 男は髭を撫でて、熟考する素振りを見せた。それから間を置かず、わざとらしい溜め息を吐いてから、不承不承といった様子で言った。


「仕方ないな、分かったよ。ただし、やるからにゃ泣き言は一切許さないからな。それと、俺のことはおじさんではなく、師匠と呼ぶこと。いいな?」


 早那は満面の笑顔を頷いた。


「はい、お師匠さま!」




 船旅は長く、代わり映えのない空と海にも飽きてきた。しかし、毎日欠かさず行っている剣の稽古には飽きが来なかった。早那は兄弟子二人と並んで、身の丈に合わない長さの木刀を懸命に振っていた。初めに持った時は振り上げるのすらままならなかったが、もう兄弟子どちらにも勝るくらいに木刀を美しく操れていた。


 師匠を相手にした木刀での打ち合いも、兄弟子二人は簡単に打ち負かされてしまうが、早那は師匠と長い間、戦うことが出来ていた。師匠も手を抜いているとはいえ、早那の太刀捌きには時々、遅れを取っていた。


 海に太陽が沈み始めた頃合いで稽古は終わった。船内に戻る兄弟子たちだったが、早那はまだ師匠に引っ付いて、教えを乞うていた。


「おいおい、俺はもう草臥れてるんだ。また明日にしてくれよ」


「嘘です。だって、お師匠さま、本気で打ちあってないから、全然元気なはずですよ」


 疲れていないことも本気でなかったことも早那は見透かしていた。師匠は仰ぎ見てくる強い眼差しを見つめ返す。


「悪いが、本気では相手してやらないぞ。お前を怪我させたら、船に乗ってる奴ら全員に恨まれるからな」


「それじゃあ、もうちょっとだけ剣を教えてください」


 早那の気が急いているのは、未だに自室に籠りっぱなしの父が心配になっているからだ。父に完璧な剣術を披露すれば、喜んでくれるだろうと思っているから、一刻も早く師匠から免許皆伝を得たかった。自分が如何に疲れていようと、それが二の次になっていたのは、父への思いがあるからだが、それと同じくらいに刀を上手に操れるようになっていくのが楽しくもなっていた。


 黄昏の間だけ、師匠は早那に剣術を教えてくれた。暗闇で何も見えなくなると稽古は不可能になり、早那は渋々と船内に戻った。


 普通の乗船者たちは大きな船倉にまとめられて、そこを寝床としていたが、小倉木家には特別に一室が与えられていた。早那は薄暗い船室に帰ってくると、両親は既に重ねて敷いた着物を褥として眠っていた。


 母は父に寄り添いながら静かに寝息を立てていた。父は薄い着物を被ってその中で荒く呼吸をしていた。唸るような声も漏れ聞こえて、早那はそれを痛々しく感じた。由緒正しき家を失い、忠義を尽くしてきた国に裏切られて生きる術を奪われたのだから、心が病むのも仕方ないのだろう。 


哀れな父を救いたいという思いは日に日に強くなる。早那は両親とは反対の隅に寝床を作り、そこで眠った。父に寄り添うのは、まだ早い。剣術を会得し、立派な剣士になってからでなければ、父を慰められない。子供ながらに尋常でない覚悟を抱き、早那は孤独に眠りに落ちた。


 翌朝、ばたばたと騒がしい音で早那は目を覚ました。船室には壮年の初老の男が入ってきていた。男は横たわる父の前で膝立ちになり、頬や額を触っている。


 早那は男の後ろで呆然としている母の背中越しに何が起こっているのかを窺った。久方ぶりに見る父の顔はやつれ、青白い顔をして苦しそうに喘いでいた。はだけた着物から見える肌も痩せ細り、肋骨が浮き上がっていた。


 その病的な姿に唖然とするしかなかった。男が振り返り、伏し目がちになりながら母にこう言った。


「旦那様がご病気であることは間違いないと思います。ですが、その正体までは分かりませぬ」


 早那の頭の中で、男の言葉が何度も繰り返された。


 病気。父上が病気。


 その時はきっと、自分も父と同じくらい生気のない顔をしていただろう、とサナは死の気配を感じる度に思い出していた。






 ロバが死に、荷物もほとんどを失ったが、木々を組んで作った橇に残った荷物を載せて スウォールマリートを登る。橇を引くのは当然、サナだ。指を欠損したガーティに荷物を任せられないからだ。


 止血を終えた後、サナはガーティに下山を勧めたが、ガーティは頑なに応じなかった。脂汗を額に滲ませながら、笑みを作って言う。


「まだ命が残っているなら、行くしかないでしょ。あとは指がなくても、神様は許してくれるかどうかだね」


 軽口を叩けるだけの余裕はあった。サナの処置が良かったので指を失ったこと以外に、体に不調はなかった。サナは呆れることもなく、ガーティの判断に従って神の幽谷への旅を再開した。


 少なくなった荷物と増えた負担にもサナは不満を漏らさず、襲い来る魔物たちは慈悲なく蹴散らして、ガーティを守り続けた。先人の足跡を辿ること数日、二人は無事にスウォールマリートの尾根に到着した。草一つ生えない岩が転がるその場所は、続くはずの尾根の両端に反り返った岩壁が立っている。空を遮るほどに高く、それが落とす影の下には大きな水溜まりがあった。そのほとりには人が遺した野営の痕跡が古いもの、新しいもの含めて多数あった。


 サナは橇をその水溜まりまで引き摺っていくと、そこで橇を曳く綱を手放した。ガーティも息を切らしながら水溜まりに辿り着き、赤銅色の地面の上に座り込んだ。


「此処が山頂?」


 ガーティの問いにサナは水溜まりを覗き込みながら答える。


「そうだ。あとは下るだけ。今日は一先ず、此処で休もう」


 ガーティは這いずってサナの隣まで行き、同じように水溜まりの中を覗いた。透き通る水の中に魚たちが泳いでいる。何故このような高所、しかも魔物が巣食う場所に生き物が棲む水場があるのかは疑問だったが、これも神の助けというものだろうと考えるのを放棄し、今はその恩寵をただただ有難く賜ることにした。


 恩寵というのも、あながち大袈裟な表現ではなく、此処に至るまで纏わりつくようにして現れ続けた魔物も、登頂しきると気配すら失せてしまい、凍えるような寒さも冷たく吹く風もぱったりと消えてしまっていた。赤銅の土にも温かさを感じる。腰を下ろしたガーティはその温もりに疲弊した体が安らいでいくのを実感し、次第に気が抜けていって眠気に襲われた。


「なんだかあったかくて、居心地が良いなあ。ふわあ、眠くなってきたや」


 ガーティは大きな欠伸をすると、仰向けになってぼんやりと空を眺めた。薄青の空が一切の曇りなく広がっている。背中からじわじわと体が温まったおかげで眠気が急激に増していく。やがて碧落の空に幕が下りていき、ガーティは静かな眠りに誘われた。




「おい、起きろ」


 ガーティはぱちりと目を開けた。先程まで青かった空は既に闇に染まり、そこにいくつもの星々を煌めかせていた。


山頂に到着したことで空が近くなったためか、星の明るさで夜のどっぷりとした暗さは薄れていた。その上、焚き火も用意されていたので、今までの過酷で恐ろしさのあった夜は全く感じない。サナに促されて、椅子代わりの石に腰掛けると、澄んだ池で捕らえたらしい魚の串焼きを振舞われた。今まで保存の効く加工をしたものばかり食べていたので、新鮮でほろほろと柔らかい肉質にこの上ない喜びを感じた。


「美味い! 久しぶりに肉らしい肉を食べたよ」


 肉と言えば水気のない固い干し肉だったので、本来の肉の味をこの魚のおかげで思い出せた。ガーティは一本、また一本と串焼きの魚にがっついて、あっという間に食べつくしてしまった。満足しきった後になって漸く、自分が食べ過ぎてしまったのではないかということに気付いた。


「ごめん、サナの分も食べちゃったかも」


「かも、ではない。食い過ぎだ。阿呆め」


 溜め息はあったが、それほど怒った様子はなかった。サナの足元には魚を刺していた焦げて黒ずんだ鋭利な枝が一つだけ落ちている。それを見ると、ガーティの罪悪感も増していった。


「本当にごめん。俺、今から魚を捕まえてくるから待っててよ」


「出来もしないのに何を言っている。少しくらい食えなかっただけで死にはしない。大人しくして、腹に溜まったものを消化することに専念していろ」


 サナはそう言って腰を浮かせたガーティを再び座らせた。


「幸いにも魔物はこの山頂には近付こうともしない。恐れるべきは人間の夜襲だけだから、今夜は幾分、気を楽にして休める。命からがら登ってきて漸く到達した安寧の地で、わざわざ醜い命の取り合いをしようと思う輩もいないだろうが」


「じゃあ、誰かが此処に来ても、サナは手を出さないってことだね」


 ガーティは神に会おうとする同志との対話を諦めていなかった。それがサナに邪魔されないのなら、この一時の争いのない場所で出会いたいと思った。


「向こうに敵意があるのなら容赦はしない。ただ、お前の望みが叶う可能性は少ない。そう易々と山頂まで到達できないことはここまでの旅路で理解しているだろう?」


 ガーティは右手に視線を落とす。魔物に襲われて指を失った。危うく死ぬところだったと考えれば、これだけで済んだとも言えなくはないが、それでも神に会うために払った代償は大きい。自分はサナのおかげで命を失わずに此処まで来ることが出来たが、同じように相応の実力と幸運を持った者が大勢いるとは考えづらかった。サナから言外に、人とは出会えないことを告げられて、道中で会った同志の死体が過り、無性に虚しくなった。


 このまま誰とも会えずに神様の下へと行くのか。それとも神様にも会えずに、死した同志たちと同じ結末を辿るのか。


 未だに思い浮かばない願いにも煩悶としながら、床に就かされた。昼間に寝てしまったことも相まってなかなか寝付けず、夜空に浮かぶ星の中から一番強く輝いているものを探す遊びに耽った。あれこれと吟味をしている内に、思考が鈍くなり、輝く星が薄れていった。


 眠りは浅く、目覚めは早かった。ひんやりと心地よい冷たさの風に頬を撫でられて起き上がる。辺りを見回してサナを探すが、何処にもいない。焚き火は綺麗に始末されてあったので、何か不測の事態が発生したわけでもなさそうだ。


 ガーティは周囲を散策してみることにした。山頂には魔物は来ないとサナが断言していたので、それを信じて水辺から離れた。足は山頂まで来た道とは反対の降りていく方へ、つまり神の幽谷側に自然と向かっていた。大小様々な大きさの無骨な岩々の間を抜けていくと、迫り上がって伸びる崖のような場所が見えた。その突端にサナの背中が見えた。ぺたりと座って、身動ぎ一つもしない。ガーティは悪戯っ気が湧き、気付かれないようにこっそりとサナに近付いていった。


 緩い傾斜を静かに上がっていく最中、見え始めた光景に息を呑み、足が止まった。東にある連峰ジッカムの頂から射す力強い朝日が、眼下の世界を鮮明に映す。


 炎と見紛う真紅の葉を繁らせる木々が山肌から下るようにして群生し、裾野までの一帯を赤々と染めている。その先はぷつりと木々が途絶え、黒い大地へと変わる。大地と同じく黒ずんだ幹と灰色にくすんだ葉を持つ喬木が点々と立ち、極彩色の花を咲かせていた。その上空では鳥が群れをなして飛んでいた。更に地平へと視線を移していくと、黒土は次第に黄土色へと変わっていくのが見えたが、所々に隆起する様々な色に輝く岩場を確認できただけで、それ以上のことは判別できなかった。


 もっとよく見ようと思い、崖の先へと進んでいく。サナを脅かそうと思っていたことも忘れて、彼女が座る崖の先端の傍に立った。


「残念だが、此処からでは神の住まう宮殿は見えないらしい」


 サナは振り返らずに、そう呟いた。


 ここが神の幽谷。神が願いを抱く者を待つ地。その中心には神が彼の者を待つ宮殿が立っているという話だ。ガーティは荒涼としていて急峻な崖がそそり立つ場所を想像していたので、それとは全く違う異質な光景に圧倒されてしまった。今見えている光景の先に神様がいると思うと、胸の奥の方から、ぞくぞくと何とも言えない感情が湧き上がってきた。


「今のうちに噛み締めておくといい。今生で見る最後の絶景になるやもしれんからな」


「まだだよ。きっと神様が待っててくれている宮殿の方が綺麗なはずだから」


 サナは鼻で笑って返した。


「この世の物とは思えぬ極上の宮。それだけのものでなければ、神と呼ばれて祀り上げられんか。美しさは保証できないが、恐ろしい事実は伝えておこう。宮殿には神に仕える一匹の化け物がいる。竜と呼ばれるその化け物は、鱗に覆われた巨体に翼を持ち、口からはあらゆるものを溶かす炎を吐くという。竜は神の守護者として、神の御前に相応しくない者を排除する使命を帯びているらしい。お前も竜に焼き殺されんように、身なりと振る舞いを正しておかねばならんな」


「翼があって、鱗がある……なんか想像しにくい生き物だな。でも、そうだよね。身なりは、まあ出来る限りの努力をするとして、振る舞いはしっかり出来るようにならなくちゃ。それに、願いごとも」


「そうだぞ。願いのない奴なんて、竜が通してくれるはずがない。絶対に、神殿に辿り着くまでには願いを決めておけ」


 再三言われ続けていたし、考えるのを怠ったこともなかったが、それでもまだ願いは思いついていなかった。適当なものすら思いつかなかったのは、願いというものを抱いたことがなかったからだ。お金や力が欲しいとも思わず、今いる場所でただ不満なく生きていたために何かを望んだり、誰かを羨んだりしたことすらなかった。そうした経験のなさが、今になって己を苦しめ、なんの糸口さえ見つけさせてもらえない原因となっていた。ましてや、神様への願いとなると、それに見合うものでなくてはならないから、余計に頭を捻らなくなり、普段から深く考えることなどないので、すぐに頭が痛くなって考えを中断せざるを得なくなった。


 野営場所に戻り、支度を済ませると、いよいよ神の幽谷へと下っていくことになった。山頂から離れた瞬間から、肌を刺す冷たい風が吹き始めて寒さが戻ってきた。雪はなく、赤銅の土の緩やかな傾斜が少しだけあった後、斜面に逆らって真っすぐと林立する真紅の木々の地帯へと入っていった。土の質も変化し、枯葉を多分に含んだその土は踏み込むと沈むような柔らかいものになり、足への負担は掛からなかった。その上、傾斜も緩やかなまま麓まで続いているようだったので、滑落の心配も少なく、登りよりも歩くのに苦労はしなかった。


 魔物への警戒は怠らず、サナは周囲を気にしながら橇を曳く。傾斜と土の柔らかさのおかげで橇は勝手に滑ることはなかった。ただ、木々の間を抜けるのには工夫しなくてはならず、それで道程を大きく迂回することもあった。


 それでも暫く止まることなく進んでいたが、突如サナが足を止めて、ガーティにも止まるように指示した。ガーティはそれに従って立ち止まり、サナの顔を覗き込んだ。


「どうしたの? もう休憩?」


「静かにしろ。絶対に動くなよ」


 サナは何かを探るようにして視線だけをちらちらと動かした。ガーティはサナの顔を見たまま固まった。何かがいるのだろうか。魔物だとしたら気を付けなければならない。サナの妨げにならないように半歩、後退したその瞬間、背後から何かが駆けてくる音が聞こえた。


 ガーティは振り向く間もなく、サナに前方へと引っ張られて地面に転がった。ぐるぐると回る視界の中に、サナと何者かの姿が見えた。人間だ。男が三人、いや四人。剣を構えて此方に向かってきていた。


 サナは動揺した様子もなく、するりと腰の剣を抜く。片刃の細長いその剣は、男たちの刃をいなして、返しの斬撃を浴びせた。誰一人としてサナを傷付けることは叶わず、反対に自分たちが傷付けられていた。それでも深手を負った様子はなく、無理な攻勢に打って出る様子もなかった。一定の距離を保ったまま相対し、膠着状態となると男の一人が声を上げた。


「撤退!」


 それに無言で応じた他の男たちは、木々を利用して身を隠しながら、何処かへと消えていった。サナは剣を握ったまま、彼らの行方を凝視し、完全に見失うに至ってから刃を鞘に戻した。


「だ、大丈夫?」


 ガーティは動転したまま、サナに駆け寄った。


「妙だ」


 その呟きの真意を問う前に、サナは言葉を続ける。


「戦い方に癖がなかったし、撤退判断も早くて、それに至るまでも迅速だった。何か特別に訓練された連中であるように感じた。まるで何処かの国に属する兵士、それも下っ端などではない上等な兵のように」


「それでもサナには勝てなかった。敵わないって分かったから逃げていったわけだし、もうあの人たちに襲われる心配はないよね?」


「呑気なものだ。体勢を立て直すために撤退したに過ぎない。或いは、新たに仲間を引き連れてくるために逃げたとも考えられる。奴らが帰ってくる前にさっさとこの場から離れるぞ」


 ガーティはサナに急かされて、彼女の後を必死に追いながら急速に山を下っていった。下山の間、魔物の襲撃はあったが、人間との遭遇は強襲された一度きりで、とうとう山を下りきるまで、彼らが再び姿を見せることはなかった。


 地面が平らになっても真紅の森は続いた。神の幽谷に降り立ったのに、特別な変化は感じられない。緊張感も相変わらずで、サナは日中から夜が明けるまで眉間に皺を寄せ続けていた。


 寒さも薄れて気持ちの良い風が木々の間を抜ける様になり始めた。徐々に木々は減っていき、前方が開けていく。同じような景色に飽きてきていたガーティは、景色の変化の兆しが見えてきて胸が高鳴った。


 地面も腐葉土から下草の生えたしっかりとした黒土になった。ガーティは先の景色を見たくて、時おり、橇を運ぶサナを追い越そうとしたが、歩調が速くなっているのに即座に気付かれて、鋭い視線で睨まれながら叱られた。仕方なくサナの隣を歩くことで我慢し、真紅の森の最後の名残りを惜しむ気持ちもなく見送って、新たな大地に目を瞬かせた。


 広々とした大地はそこに生える草の緑を呑むほどに黒い。太陽のせいか幻影のようにゆらゆらと揺れて見える木々は大地から栄養ごと吸い取ったらしいくすんだ黒い色をしていて、葉すらも灰色に侵されていたのだが、咲かせている花は鮮明なほどに明るい色をしていた。赤、黄、青、緑。樹木によって色は異なっていて、平べったい樹冠の下から垂れるようにして咲いていた。


 大地には獣の姿も見え、ガーティはそれを魔物だと認識して怯えたが、博識なサナにそれらが獣であることを教えてもらうと、安心して獣たちを観察できた。長い鼻に大きな耳を持つ巨躯の獣はゾウと呼ばれるものらしく、その獣は黒土に出来た水溜まりに鼻を突っ込んでいた。ゾウの背中にはこれもまた見たことのない形をした鳥が止まり、忙しなく背中を突いていたが、ゾウは気にした様子もなかった。


 他にも様々な種の獣が見えたが、魔物の姿はなかった。見通しのよい平地、魔物の急襲も怖れる必要がないとなると、足取りも軽くなるはずなのだが、そうはならなかった。


 気候も一変し、まだ冬であるはずなのに夏のような日差しと暑さを感じる上に、空気も渇き、体から水気が奪われていった。時おり吹く風も熱を帯び、気力と体力を攫っていく。二人は着込んでいた服を脱いで薄着となり、熱風を防ぐための外套だけは羽織って、灼熱の黒土を進んだ。


 始めは未知の大地の光景に興奮していたガーティも、暑さに屈して心と体が疲弊していった。それを察したサナは日除けとなりそうな木へとガーティを導き、幹の下で休憩をすることにした。


 生い茂る葉で日光が遮られ、ガーティは一時の安堵を得た。逞しい幹にもたれてサナから革の水筒を受け取る。温い水を一気に飲み干し、潤いのある息を吐く。


「暑すぎる。もう日差しを浴びたくない」


「珍しく弱気なことを言う。神に会う気もなくしたか?」


 ガーティは弱々しく首を振る。


「その気はあるけど、神様がこっちに来てほしい、という気持ちが湧いてきた」


「何様のつもりだ。願いの対価は命だが、その命を差し出す覚悟と度量を試すために過酷な道程を用意しているんだ。願いもない上に気概もないのでは、神どころか竜も呆れて追い返すだろうな」


 サナは野営用の天幕を張る準備をしていた。まだ日は高かったが、今日は此処で夜を明かすらしい。ガーティとしてはもう立ち上がる気力すらもなかったので、サナの判断はありがたかった。


「今日はここまで?」


 その問いかけにサナは「いや」と返す。


「日がある内に移動するのは熱で体力を奪われて危険だ。日が落ちて涼しくなる夜になってから移動を再開する。それまでしっかり休んでいろ」


 朝まで休めると思っていたガーティはかなり気落ちした。サナが用意した天幕の中に泣く泣く這いずるようにして入ると、全ての力を使い果たしてしまって眠りに落ちた。ただ、夕暮れに泥む頃に目が覚めて、溜まっていた疲れや気怠さはなくなっていた。外に這い出ると、サナが木の根元に座って茜色の空を眺めていた。


「おはよう」


 サナは一瞬だけガーティの顔を見たが、すぐにまた空へと戻した。


「まだ起きるには早いぞ。それとも、腹が減ったか?」


「なんか目が覚めちゃって。もう元気になったから、いつでも出発できるよ」


 サナは鼻で笑って返した。


「まったく、子供を相手しているようだ」


「子守りの仕事もしてたの?」


「まさか。ただ、昔の自分と重なっただけだ」


 ガーティはサナの隣に来て腰を下ろした。


「へえ、サナの小さい時って、俺に似てたんだ。意外だなあ」


「そうだな。意外にも似ているんだ。なにせ、私も身寄りを失っているからな」


「え?」


 ガーティが驚いている間に、サナは言葉を続けた。


「子供の頃だ。家族で祖国を捨てて、この大陸に渡る最中に父が病で死んだ。母もその病に罹って死んだのを皮切りに、船内で流行り始めて、乗船していた者たちは為す術もなく病に侵されて死んでいった。船が何処とも知れぬ地に漂着した時、生き残っていたのは私と私に剣術を教えてくれた師匠の二人だけだった。私と師匠は家族も仲間も国も、全てを失ってこの大陸に辿り着いたんだ」


 ガーティは混乱して何を言うべきか分からなくなっていたが、何かを言わなくてはならないと思い、考えもまとまっていないのに言葉を発した。


「え、えっと、まさかサナって瑞郷の人だったの? ってことは、サナは神様の使い?」


「大陸の人間はつまらん迷信が好きらしい。私もお前も何も違わない、ただの人間だ。しかし幸か不幸か、私は神から力を授かってしまったがな。だが、それだけだ。たったそれだけしか、違いはない」


 ガーティはまた何かを言おうとしたが、それを遮るようにしてサナは立ち上がった。


「もう充分、涼しくなったな。明るさが残っている内に進んだ方が良いだろう」


 サナは野営の片付けを速やかに済ませ、茜色に染まる空の中、出発となった。僅かに地面に残っている熱が空気を歪ませていて、木がゆらゆらと動いているように見えたり、地を這うようにして飛ぶ鳥がおかしな飛び方をしているように見えたり、群れを作る獣たちの数が残像を持ってしまって正確に測れなくなったりと、次第に暗くなっていくのも相まって認識がぼやけていった。ただ、太陽が沈んだことで、強い日差しによって体力を奪われて頭が働かなくなるような事態にはならなくなり、歪な光景を眺めて面白がる余裕はあった。


 ガーティは波のように揺らぐ影を求めて、四方を見回していると、獣ではなく人間のような影をいくつか見つけた。追いかけ、追いかけられ、何か棒状の物を振るって叩き合う。朧気ではあるが、その動きに間違いはないように見受けられる。サナに声を掛けて、その影を失った指で差す。サナは足を止めずにその無い指の先を目で追って、人間たちらしき影を凝視した。


「間違いない。あれは人間だ。なにやら悶着を起こしているようだが」


 長大な棒、おそらく剣であろうそれを一つの影が振り回すと、周りにいた大小様々な影たちは次々と倒れていった。そして、彼の周りに誰もいなくなると、その影は剣を引き摺りながら小さくなっていき、地平の闇に沈むようにして消えていった。


 ガーティは自然と、その影たちがあった方に歩いていた。サナはそれを強い言葉で制する。


「行くな、阿呆。あれは明らかに敵意を持つ人間だ。追いついたところで、お前の話など聞かずに斬りかかってくるぞ。前に遭った連中のことを思い出せ」


 ガーティは下山の最中に襲われたことを思い出した。しかし、それがガーティの足を止める理由にはなりえなかった。


「怪我をしてる人がいるはずだ。助けに行かなきゃ」


 サナは大きな溜め息を吐く。


「確かに生き残っている奴もいるかもしれんが、助けた恩を仇で返される可能性は高い。この幽谷に来ている以上、奴らの目的と私たちの目的は同じで、それを果たせるのは一人だけなんだ。ああやって争いが起きたのも、ごく自然の成り行きで起きたことだろうし、彼らに借りを作ったとしても、神への謁見を譲ってくれる優しさなど持ち合わせていないだろう」


「でも、悪い人たちじゃないと思うんだ。あの剣みたいなのを振り回してた人は悪そうだったけど、やられちゃった人たちは一方的にやられてるってかんじで、悪そうに見えなかった。なんとなくだけど、たぶん、とても良い願いを持ってる人たちなんじゃないかな」


「つまらん願望は抱けるんだな。なんであろうと、わざわざ助けてやる理由は此方にはないぞ」


 視線を前方に戻したサナの前に、ガーティは立ち塞がるようにして躍り出た。


「命を捧げる理由、死んででも叶えたいことって、他人のためにあることなんじゃないの? 聞いたことあるよ。みんな平等に生きていけるように、人々に知恵を与えるために神に会いに行った人が人間の歴史の始まりだって。それから、この世界に獣とか植物とかの生き物が栄えるように願ってくれた人もいたって。今まで命を捧げてきた先人は、そうやってこれから生きていく人たちのために死んだんでしょう? 誰かのために行動したら、神様への願いを思いつくかもしれない」


「確かに神への願いは人類に大きな恵みを与えるものだった。あの魔物除けの香を生む木もマクリアの皇帝が国家の繁栄を願ったことで帝国に芽生え始めた。しかし、元を辿れば、魔物という存在も人間が生み出したものだ。善も悪も神には関係ない。ただ、強い意志と覚悟があれば、どれだけ自分勝手な願いでも神は叶えてくれる。それでも、お前が助けようとしている連中の中に、邪悪な思想を抱えている者がいないと断言できるか? お前自身がそいつらに毒されて、邪な願いを生む可能性を否定できるか?」


「あるわけないよ、そんなこと。サナが行く気ないなら、俺一人でも行くからね」


 ガーティは焦れて、サナを置いて向かおうと走り出した。サナは呼び止めながらもガーティを追いかけ、肩をしっかりと掴んで、逃げられないようにした。


「分かったから、一人で行こうとするな。結局、面倒を請け負うのは私だというのに。良いか、油断だけはするなよ。私が許可を出すまで、お前は何もするな。全て私が先に確認をする」


「うん、それでいい。ありがとうサナ、俺の我儘に付き合ってくれて」


「ああそうだな、今更だ。お前に振り回されるなんて、最初から今の今までずっとだったんだ。漸くそれに気付けて、自分に呆れてしまう」


 サナは憤懣やるかたなく橇を乱暴に引き摺り、ガーティを置いていかんばかりの早足で影たちがいた場所へと進んでいった。


 その近くに着いた頃には夜が訪れていて、空に無数の星が現れた。その星々の輝きでは到底、明かりを賄いきれなかったので、ガーティが松明を持って周囲を照らした。はっきりと見えるのは足元だけで、辺りは闇に飲まれてしまっている。それでも、近くにいるはずの人々を探して、松明の灯を其処彼処に傾けた。


 静寂の闇の中から微かな物音が聞こえた。それに気付いたサナは、音がした方へと寄っていく。ガーティはサナを後ろから照らし、その先にある何かを探した。足元には靴の跡が不規則に並び、黒っぽい血のようなものが飛び散っていた。そして、ガサガサと下草が風ではない何かによって撫でられる音もはっきりと聞こえるようになった。すると、サナが立ち止まり、橇の手綱を放して剣の柄に手を掛けた。


 前方にはまだ何も見えていなかったが、サナは何かを気取って剣を抜いた。ガーティは目を凝らして闇を見ると、そこから突然、獣が飛び出してきた。狼らしきそれは口元から血と涎を撒き散らしながら、此方に牙を向けた。サナはそれを即座に斬り伏せると、また闇の中から狼が一頭、二頭と続けざまに襲い掛かってきた。それにもサナは冷静に、刃を無駄なく振って斬り殺していった。


 狼たちはサナにもガーティにも振れられずに死体となった。闇からの急襲はなくなり、サナは周囲に目を配らせつつ、剣を鞘に戻した。


「手遅れかもしれんな。あのイヌども、此処でくたばっている人間を食いに来たのだろう」


 サナがガーティの手から松明をひったくり、周囲を巡る。すると、惨い姿をした人間たちが照らし出された。ガーティは唖然としながら、内蔵が食い散らかされている血塗れの彼らを眺めた。


 誰もが悲痛な表情を顔に残していた。斬られたような跡が残っている人もいて、狼によって殺されたのではないことが分かる。老いた人もいれば、若く逞しい人もいる。大半が男だったが、女の死体が一つだけあり、長旅でやつれた頬が居た堪れなさを増長させた。


 それだけでなく、小さな子供の死体もある。蹲るようにして倒れる少年は、衣服は裂けてボロボロだったが傷は少ない。ガーティは妙に思って少年の前で膝を折り、頬に触れた。横向きの顔を仰向けにした時、右目に眼帯が装着されていたことに気付いたが、それよりも少年に生きている温もりを感じて驚いた。


「サナ、この子まだ生きてる!」


 サナが急いで近付いてきて、ガーティと同じように少年の前に跪いた。その時、少年の口から微かに声が漏れて、眼帯を付けていない目が薄っすらと開いた。何か言葉を話しているようだったが、上手く声を発せず聞き取れなかった。


 大きな怪我もなかったので、ガーティが少年を見守り、サナが引き続き他の生存者を探した。しかし、少年以外で生き残った人は見つからなかった。少年も気を失うようにして眠ってしまったので、ガーティたちは再び獣の襲撃に遭わないように血の臭いがしない場所に移動して長い夜を明かした。


 熱を伴った朝が来た。寝ずに夜明けを待っていたサナとガーティは少年の目覚めを待った。灰色の葉が茂る木の陰は早々に強烈な日差しを浴びせる太陽を遮ってくれた。


 今まで頼りない松明の炎でしか見られなかったが、日光のおかげで少年の姿がやっと鮮明になった。少年は浅黒い肌と少し縮れた黒い髪をしていて、黒い眼帯には花と荊を模した刺繍が施されていた。シャツは破れているものの、白地の中に金と赤を織り交ぜた柄が細々と入っていて質素ながらも気品を漂わせていた。


「富豪の倅か。それとも、そういう奴らに使われている従僕か」


「大丈夫だよね? このまま目を覚まさないなんてこと……」


 ガーティは少年の瞼がゆっくりと開き始めたことに気付いた。少年は目を虚ろにしたまま体を起こして、ガーティとサナを見た。


「あなたたち、誰? 此処は? それにみんなは?」


 動揺を示す少年にガーティは昨日の出来事を語った。争いが起きていることに気付いて、助けるために向かったこと、狼の群れに襲撃されたこと、その狼たちが人間の死肉を貪っていたこと、そしてその中に少年が倒れていたこと。


 自分の見てきたことを語り終えて、ガーティは少年の顔を見た。少年は驚愕か恐怖か、とにかく負の感情を表情にして固まっていた。次に何を話すべきか困っていると、ガーティが話している間は黙っていたサナが口を開いた。


「お前の目的はなんだ? どういう理由で神の幽谷に来た?」


 脅しのような声色で少年に尋ねた。ガーティは窘めようとするが、サナに一瞥を食らって牽制されたので尻込みして終わった。


 少年は項垂れて、サナを見ようとはしなかった。サナは返答を貰うまで何も言うつもりも、諦めるつもりないらしく、じっと少年を睨んでいるだけだった。沈黙は長くは続かず、少年が俯いたまま、声を詰まらせつつ答えた。


「い、妹がいるんです。病気の。治らないってお医者様に言われて、お父様もお母様ももう妹を見捨ててしまって。ぼくはイヤだから、妹が死ぬなんてイヤだから、絶対に治してあげたくて、神様にぼくの命をあげようって思ったんです」


「どうやってここまで来た? 誰の助けを得た?」


 サナは続けざまに詰問する。少年は怯えながらも、懸命に答えようとした。


「お金を払ったら神に合わせてくれるって人たちがいて、その人たちに連れてきてもらいました。ぼくだけじゃなくて、他にも神様に会おうとしている人たちも一緒に連れてきてもらって、此処まで来たんですけど。急に知らない人たちに襲われたんです。それで彼らから逃げていたらみんなバラバラになって、やっと見つけたと思ったら鎧の人が来て、みんなを斬ったんです。その後は記憶がなくて、気付いたら今になっていました」


 少年はそう言った後、「あっ」と声を漏らして顔を上げた。


「まだ仲間全員と合流してないんです。生き残りがいるかもしれない。一緒に探してくれませんか?」


 サナはガーティに顔を向けた。お前が答えろと表情で言っている。ガーティは少年の肩に手を置き、笑みを作って言った。


「勿論だよ」




 少年はアルシャトと名乗った。死体があった場所、と言っても死体は狼や猛禽の類によって既に骨だけになっていたが、そこからアルシャトが覚えている限り、逃げてきた道を遡り、灼熱の大地を彷徨った。


 本来ならば、暑さが和らぐ夜に動くべきだが、殺戮者に殺される前に生存者を見つけ出す必要があったので、すぐに出発した。暑さに耐えながらアルシャトの先導で進むが、アルシャトは自信なさげに針路を決める。それも無理はなく、見渡す限り代わり映えのない黒土、そこに稀に木が立っているだけの景色だったので、自分が歩いてきた道を思い出すのは難しい。いよいよ迷いだして立ち止まってしまったアルシャトに、サナは見切りを付けて、こう告げた。


「もう良い。お前に期待しても無駄だと分かった。私が探してやる」


 手綱をアルシャトに押し付けて、サナは地面を観察しながら歩き出した。渇ききった地面は足跡が残りづらかったが、それを探して生存者を探そうと考えた。


「貸して、アルシャト。俺が橇を曳くよ」


 ガーティがそう宣ったので、サナは振り返って睨んだ。


「そいつの仕事だ。それだけのことをする義務がそいつにはある」


「でもこんな大荷物、子供じゃ運べないよ」


「指のないお前でも同じことだ。絶対に手伝うな。一度手を貸してやったら、また貸してもらえると思って付け上がるからな。私たちはこいつに施しを与える側だ。立場が上だということを分からせてやらねばならん」


「子供にそんなこと強いるのはおかしいって」


「子供でも、お前よりまともだぞ。ちゃんと願いを持って此処まで来たんだからな」


 ガーティは短い呻きを漏らした後、黙った。サナはそれで再び足跡を探して地面を注視し、それらしきものを見つけて、跡を追っていった。


 アルシャトは文句も言わずに橇を曳いていた。ただ、足を止めずに曳くことは出来ず、何度も息を切らして止まってしまったが、サナは構わずに進んだ。時おり、ガーティが手伝おうとするが、その都度サナが睨んで手を出させないようにした。それでも、アルシャトがあまりにも遅いと、サナは仕方なく近くの木の根元で一休みし、勿論ガーティもそこに留めさせて、アルシャトを待った。


「サナがこんなにひどい人だなんて思わなかった」


 ガーティは額の汗を拭いながら罵る。


「サナは子供が嫌いなの? それとも逆に俺のことが好きで、アルシャトへの態度が普段のサナなの?」


「自惚れるなよ。お前は私の雇い主というだけだ。そしてアルシャトは私にとっては雇い主の目的の妨げとなる者。だが、お前のお節介で生かさなければならないから、利用してやってるだけだ。あいつの仲間を見つけてやるのも、私の本来の仕事を優先するならすべきことではない。雇い主であるお前の命令には極力従うが、その過程は私のやりたいようにさせてもらうし、その後も私の判断で処遇を決めさせてもらう」


 仮にアルシャトの仲間が生きて見つかろうとも、彼らに必要以上の援助をしてやるつもりはなかった。アルシャトを引き渡して、見逃す。それで彼らとは別れ、次に会うことがあれば、敵として容赦なく斬る。ガーティを神に会わせるには、そうするしかないとサナは思っていた。


「それなら、雇い主として先に命じておく。生きてる人がいたら、彼らと一緒に神様の所へ行こう。彼らを俺の友人と思って接してくれ」


向こうがお前を敵と見做すことは考えないんだな、と言いたかったが、それを言える段階は過ぎていた。ガーティは呑気に構えているが、実際、生き残りがいたら敵対するのは必然だ。神に捧げられる命は一つ。それが奪い合いにならないはずがない。だから、アルシャトの話には疑問が残る。同じ目的を持つ者が結託する意味が分からない。もし、彼らが無事に神の宮殿に辿り着いたとして、どうやって神に会う人を決めるのか。


その追究はアルシャトの仲間を見つけてからしようとサナは考えていた。子供にそれを聞いた所で確かな答えを得られない。アルシャト自身もよく理解せずに運び屋に連れてこられたのかもしれないから、正確な答えはその運び屋を尋問することで得られるはずだと思った。


「善処はしよう」


 適当な返事で濁し、アルシャトが追いつくのを待った。既に日が暮れ泥み、ガーティも疲労を顔に見せている。雇い主を過労で殺したくはないので、今日の捜索は打ち切ろうとサナは考えていたが、赤みが差す青空に鳥の姿を見つけた。


 猛禽の類であるその鳥は追跡していた足跡の方から飛んできていた。その猛禽の後ろから上昇して飛んでくる仲間らしき鳥が一羽、二羽とやってくる。本来、上空で獲物を見つけて旋回する猛禽だが、彼らは獲物を食らい終わり、今しがた地上から飛び立ったかのような高さを飛んでいる。


 此処から遠くない場所に彼らの獲物の残骸があるだろう。そう思ったサナは木を跳ねるようにして登って、梢から地上を見下ろした。


 隆起した岩場のような場所の傍らに壊れた馬車があり、その近くに鳥の群れを見つけた。鳥が集りすぎていて何を食らっているのかは分からなかったが、銀色の鈍い光を放つ何かが紛れているのは分かった。遠くはない場所だったので、サナは木から飛び降りて、鳥が群がるものを確かめに向かおうとした。


「少し様子を見てくる。待っていろ。余計なことはするなよ」


 ガーティに釘を刺しつつ、駆け出した。岩場から飛び立つ鳥は増えてきている。日が落ちる前に巣に戻ろうとしているのだろう。サナが其処に辿り着く頃には、死肉を貪る鳥たちは僅かだけになっていて、サナの気配を察知して彼らも残らず飛び立っていった。邪魔者がいなくなり、残っていたのは骨と襤褸切れ、そして鋼の剣と細々とした防具だった。


 跡形もない死骸で仲間かどうかをアルシャトには判別させられない。サナは彼らが身に付けていたらしいものをかき集めて更に馬車の残骸に残っていた荷物も回収し、ガーティのいる木へと戻った。


 丁度、アルシャトも追いついてきていたので、サナは疲れ切って倒れそうになっているアルシャトの足元に持ってきたものをばら撒いた。


「何か、知っているものはあるか?」


 剣、革の胸当て、血で汚れた布の数々。アルシャトは倒れ込むようにして膝を突き、それらを一つひとつ手に取りながら確かめていた。全てを検め終えると、アルシャトは四つん這いの体勢のまま頭を上げることなく言った。


「仲間の物です。どれにも見覚えがあります」


 振り絞るように言った後、アルシャトは黙り込んでしまった。サナは蹲るアルシャトを横切り、橇の荷を下ろして野営の準備を始めた。日は翳り、夜がもうすぐやってくる。サナは天幕を張っている最中、アルシャトを慰めているガーティの姿がちらちらと視界に映った。


 すっかり暗くなった頃には天幕も張り終わり、焚き火も用意できていた。炎の傍で寒さを凌ぎながら、干した肉で腹を満たした。


「あの、これもどうぞ」


 アルシャトは革袋をサナに差し出した。その革袋はサナが馬車の中から見つけ出したものだ。中の物を摘まみだして、焚き火の灯に翳す。それはどうやら乾燥した果物のようだった。


 サナはそれを僅かに齧った。水分が抜けて甘さが増していた他、程よい酸味もあった。食べられるものだと分かったので、革袋をガーティに投げ渡した。


「そいつは馬車の中にあったものだ。叩き壊されていたが、夜が明けたら見に行くか?」


 ガーティとアルシャトのどちらにも問うようにして言葉を吐いた。ガーティはアルシャトに礼を言った後にサナに応えた。


「見に行こう。まだ生き残っている人の手掛かりが残っているかもしれない」


「もういいです」


 アルシャトが弱々しい声で言った。眼帯を擦りながら、言葉を続ける。


「もう大丈夫です。これ以上は迷惑をかけられません。多分、みんな殺されてしまったんです。死を味わうのは覚悟していたことです。ぼくだけでなく、仲間たちみんな、死を覚悟して神様に会いに来たんですから、道半ばで仲間が死ぬのも仕方ない、いずれ誰かしらは死ぬんだと割り切るべきです。ぼくたちにとって、生きてこの旅を終えることこそ異常なんです」


 年端も行かない子供が尤もらしい死生観を宣ったので、サナは昔のことを思い出してしまった。自分もアルシャトと同じように、それどころかガーティと同じように、死ぬことを望んでいた。彼らとは異なり、そこに希望を見出してなどいなかったが。


 薪が大きな音を立てて爆ぜる。炎は変わらず、穏やかに揺らめいていた。

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