魔物の山
日持ちのする食料、酒が詰まった樽、長旅に耐えられる若い雄のシュリンロバ。それらを買うのにサナの雇用金が使われたが足りるはずもなく、半分以上はサナが自分の持ち金で払った。自分に何の得もない仕事だとサナは何度も愚痴を零しながらも、ガーティと共に神の幽谷へと出発した。
神の幽谷は四つの山脈によって形作られている。北に横たわる峻厳峰ラマーナ、東方と呼ばれる地の最果てに待ち構えるジッカム、戦乱の西部地方には巨大な湖を麓に置くアバナ、そして南にあるスウォールマリート。ガーティたちはこのスウォールマリート山脈を越えて幽谷へ向かう。
スウォールマリート越えが最短経路であるのは、ガーティたちが南のシュリンという国にいるからだというのも理由ではあったが、それ以上の重要な要素がスウォールマリートにはあった。ガーティは荷物を背負わせたロバを引きながら、蒼天の下に聳えるスウォールマリートを仰ぎ見て呟く。
「高い山だなあ。あれを越えるのか」
先頭を歩くサナはその呟きに振り向かずに応える。
「高いと言うが、スウォールマリートは四つの山脈の中で最も低い。あの尾根を見てみろ。一際低くなっているものがあるだろう。あそこから幽谷へと下っていくんだ」
ガーティはサナの指さす辺りに目を凝らした。凹凸のある白い尾根の中に、確かに異様に凹んだ部分があった。それを見つけて、「おお」と声を上げた。
「確かに低くなってる。詳しいんだな、サナは」
「この程度の知識は常識だと思っていたのだがな。神に会いに行く者たちはほとんどスウォールマリートから神の幽谷を目指すという。それゆえに山道もある程度整備されていると聞くが、それはあまり期待できないな。とにかく、最も山越えが簡単であるということに関しては事実だ。そしてどれだけ越えるのが簡単な山であろうと、あれが魔物の巣であることも事実。油断はするなよ」
サナはぎろりと厳しい視線をガーティに向けた。ガーティはサナの目をしっかりと見つめ返して力強く頷いた。
「魔物の怖さなら分かってる。俺じゃ太刀打ちできないこともね。サナに全部任せるから、頼むよ」
「あまり信頼してくれるなよ。所詮、私も人だ。もし私が殺されそうになったら、構わず逃げて山を下りろ」
「嫌だ。そうなったら俺も一緒に死ぬ」
家族も友達も世話になった人たちも、故郷の村の人は全員、魔物に殺された。たまたま、旅人の道案内のために村の外にいたガーティだけはその惨劇から逃れた。村に帰り着いた時、血溜まりに沈む死体たちは四肢を捥がれ、肉は飛び散り、原型を留めているものはなかった。
僅かに残った顔の表面の皮でそれが誰なのかを知る度に、ガーティは数多の思い出が頭の中を過っていった。幼い頃から共に悪戯をして遊んでいたモロ、魚の釣り方を教えてくれたアベル爺さん、甘えん坊で人懐っこい妹のような存在だったリリィ。思い出の中ではいつも笑顔だった彼らが、恐怖と苦痛を、一部分だけしかない顔にはっきりと残して死んでいた。そして、愛すべき両親と祖父母もまた、崩壊した家の中で惨たらしい姿となっていた。
今まで重ねてきた大切な思い出。それが、多くの死によって塗り潰された。ガーティはもう楽しかった日々を思い出すことが出来なくなっていた。記憶にあるのは魔物に蹂躙された村と数々の死体だけで、自らそれを思い出そうともしたくなかった。そして、再び同じような死を目の当たりにしてしまったら、もう心が耐えられないであろうとも悟っていた。
ガーティにとってサナは赤の他人ではなく、命を救ってくれた恩人である。だから護衛で雇っているとはいえ、サナには犠牲になってほしくない、共に神の下まで行きたいと強く思っていた。
ただ、そうした胸の内は秘めたままにサナと一緒に死ぬなどと宣ったので、サナの眉間に皺が寄るのは当然と言えば当然だった。
「神に会いに行く、という行いそのものに己の矜持を見出しているのではあるまいな? その道半ばで死ぬも本懐、寧ろ楽にそれを果たせて良かった……もし、そう思っているのなら、今すぐお前の首を斬り落としてやる。私も無駄に命を張らずに仕事を終えられるから助かるのだが」
サナは急に立ち止まると、剣の柄を握って鞘から僅かに刃を晒した。ガーティは慌てて声を詰まらせながらも、首を勢いよく振って否定を示した。
「待って待って、違うよ。神様に会いに行きたいに決まってるって。君には死んでほしくないってことを言いたかったんだ。俺も足手まといにならないように頑張るから、サナも死なないように頑張ってよ」
サナはガーティを一瞥した後、刃を納めて再び歩き始めた。
「私はお前とは違って命を惜しいと思っている。事切れるまでは足掻く腹積もりはある。余計な心配などしなくて良い。お前はただ自分の命の代価を考えておけ。神に問われて何も答えられなかったら、そこまで連れてきた私にも恥が生じることになる」
旅が始まったことに浮かれていたせいか、ガーティは神への願いを完全に失念していた。サナに言われて漸く思い出したが、今になってもこれといった願いは頭の中の何処にも見当たらなかった。
行く手に立ちはだかるスウォールマリート山脈を仰ぎながら考えてみようとするも、何も思いつかない。元々、頭を使うことが得意ではないので、何かが思いつきそうになっても、掴み切れずに霧散させてしまう。それを探し出そうとするがそれっぽい断片が見つかるだけで、しかも役に立ちそうにもない。また一から何かを考えようとしても同じ事を繰り返すだけだった。そうして無駄に労を重ねている内に、スウォールマリートがいつの間にか迫ってきていた。
「おい」
意識を頭の中にだけ向けていたガーティはサナに声を掛けられて我に返る。景色は新雪が積もった喬木が疎らに立つ森の入り口に変わっていた。
「この森は山麓まで続いている。山から下りてきた魔物も潜んでいるだろう。そろそろ日も暮れるから、この辺りで夜を明かそう」
空には夕闇が訪れ始めていた。サナはガーティをその場で待機させると、一人で森の中へ入っていった。程なくして戻ってくると、調達してきた枝葉を慣れた手付きで組んでいく。ガーティは手伝おうとしたが、「じっとしていろ」と怒られてしまったので、サナの作業をしおらしく眺めていた。
枝葉を組み終えると、サナは右の掌をそれに向けた。手首に刻まれた天恵の印が微かに光る。同時に掌から小さな雷が迸り、枝が弾けて燃え上がった。見る見るうちに火は大きくなり、温かな焚き火となった。ガーティは安らぎを覚える柔らかい炎には目もくれずに、サナの右手を凝視していた。
「珍しいのは分かっているが、まじまじと見られるのは敵わん。さっさと慣れてくれないか?」
「ごめん。でも、どうしても気になっちゃってさ。どういう感じで雷が出るの? 痛いとか熱いとかはある? 勝手に出たりとかしない?」
ガーティは答えを待たずに次々と疑問を口にしていった。サナは辟易した様子を見せながらロバの背荷物から何かを取り出して、それを焚き火の中に放り込んだ。それはたちまちに炎に溶けていき、独特な香りを発して煙に混じっていった。雨に濡れた草から漂う青臭い匂いと瑞々しい果実を口に含んだ時に感じる甘ったるい匂いが混じったようなその香りに、ガーティは思わずむせてしまった。
「うわっ、なんだ、これ。何を入れたの?」
「用心のために魔物除けの香を入れた。かの大国、マクリア帝国にしか存在しない樹木の皮で、この辺りには流通していないから知らなかっただろう。マクリアにはこの香があるから、人々が魔物に襲われることは滅多にない。魔物の心配がないからこそ、マクリアは憂いなく他国を攻めることができ、大陸北部の覇者となれたのだ」
強烈な匂いは消えずに残り続けている。ガーティは会話のために再び口を開いたが、喉に飛び込んでくるその匂いで言葉を詰まらせられた。ただ、サナは返ってきたであろう言葉を汲んで答えてくれた。
「価値は想像通りだ。だが、これなしでは山越えまで私は不眠でお前を守らなければならなくなる。どうせ、普段はこんなものに用はない。この旅で手持ちを使い切ってしまっても困りはしないから、お前は何も気にせずに休んでいれば良い」
「う、うん。それはいいんだけど……」
ガーティはまた一つ咳をしてから言葉を続ける。
「こんな匂いの中じゃ眠れそうにはないね。まあ、魔物除けの効果があることの証だと思えば、安心は出来るけどさ」
サナはむっと顔を歪めてガーティを睨んだ後、またロバの荷物を漁る。そこから乾いた魚肉を取り出して、ガーティに投げつけた。
「今日はこの程度で許してやる。だが、明日から文句の一つでも言ってみろ。その不遜な舌を引き千切ってやるからな」
「そんな怖い顔しないでよ。サナが俺のために尽くしてくれてるのは分かってるさ。なんとかして匂いに慣れておくように、この失礼な鼻にはきつく言っておこう」
ガーティは鼻の頭に指を押し付けて説教した。だが相変わらず、香の強い匂いは鼻の中に溜まって、そのまま喉に入ってくる。むせ返りそうになるのを堪えて、サナに笑ってみせる。
「もう平気だってさ。これで心配事は減った」
「ならば大人しく、その肉を食って休んでいろ」
サナはそう言って、ロバから荷物を降ろしていった。日が完全に落ち切るまでに寝床も作り終えて、漸くサナも落ち着いた。ガーティは簡素で小さい天幕の中に押し込まれ、その入り口、焚き火の前でサナは剣を傍らに置いて座り込んでいた。
「まさか、見張りをするつもり?」
天幕は香の匂いを防ぐどころか充満させてガーティを悩ませた。切れ目のような入口から顔を出す方が却って匂いから逃れることが出来た。
「魔物は来なくとも、野盗はこの匂いと煙に釣られる。まあ、それも今日を凌げば杞憂に変わる」
サナの野盗相手の実力は間の辺りにしていたので心配はしていなかった。余計な労わりを見せても鬱陶しいと思われるのは自明だった。まだ数日の付き合いではあるが、サナという人間の性格をガーティは捉えていた。
「サナって、思っていた以上に頼れる人だったみたいだ。前に浪人って言ってたけど、こういう護衛というか、傭兵みたいなことが生業なの?」
「そうだ」
サナは焚き火に枝を投げ入れながら答える。
「刀を振るう以外に飯を食っていく術がないからな。神は私に畑を耕したり、羊を育てたりする才能は与えてくれなかった。代わりに殺す力ばかり寄越してきた。おかげで食うにも困らず、死に瀕するような危機にも遭遇しなくなったが」
「物騒な世の中だから、死なないための力があるのは良いことだ。それにその力は人を救うために使えているんだから、誇れることだと思う。天恵の印をくれた神様には感謝しなくちゃね。あっ、そうだ。俺がサナの代わりに直接、感謝を伝えておくよ」
「果たして本当に感謝すべきかな」
サナはガーティに聞こえないほどの小さな声でそう呟くと、手近にあった小石を摘まみ、ガーティに向けて投げた。幸いにもガーティには当たらず、天幕に当たっただけで済んだ。
「早く寝ろ。気が散って仕方ない。寝てる間に、願い事を考えておけよ」
「ああ、そうだった。何が良いだろう」
ガーティは天幕の中に引っ込んで、横になりながら考え始めたが、自覚のない疲労が溜まっていたせいで忽ち深い眠りに落ちてしまった。
森を歩むこと二日。野盗や魔物にも遭遇せず、足元の雪だけが深くなっていく。獣の気配も薄れていき、木々を撫でる冷たい風の音だけが増していった。
踏み抜く雪の下の地面に勾配が出始めた。いよいよスウォールマリートの麓まで来たのだと、ガーティは感じた。今まで木々はぎっしりと並び立っていたが、不自然に開けた空間に出てきた。それは街道のように伸びて、斜面に倣って続いていた。
「どうやらこれが先人たちの築いた死の軌跡らしい」
神に会うためにスウォールマリートを最短で登ろうとする者たちは、一様にしてこの経路を辿ってきた。数多の挑戦者がこの道を利用し、その過程で進みやすいように木々が切り倒されていき、徐々に道として整えられたという。唐突に現れたその道を、サナとガーティは有難く使うことにした。
薄い雪に覆われた先人の道にはぽつぽつと足跡が残っていた。ガーティはそれを見つけると、嬉々としてサナに報告した。
「サナ、見てよ。誰かがこの道を使ってるみたいだ」
サナは足元には目もくれずに言葉を返す。
「世界でお前だけが神に殺されたいと思っているわけでもあるまい。今まで願いを叶えた者が十数人程度にも関わらず、こうして道が整備されているのだから自明だろう。そして、此処が最も楽な行路なのだから、誰かしらの痕跡はあるに決まっている」
冷めた対応をされてしまったので、ガーティは少し凹んだ。だが、同じ目的を持つ人がこの先にいる、ということは喜ばしい報せだった。此処に至るまで未だに願いを思いつかないガーティにとって、願いを持つ者の考えは自身の願いを導き出すのに役立つと思った。どうにかして、この足跡の主に追いついて話がしたい。サナにそう告げると、鼻で笑われた。
「阿呆。此処から先で出会う生き物は全て我々の敵だ。人間であるなら尚のこと。神は一人の願いを叶えたら、天に帰っていく。良いか、一人だぞ。たった一人しか、願いは叶えられない。同じ目的を持つ者は邪魔だと思って当然だ。お前のように能天気な思考の奴はいないだろう。出会っても、面倒なことにしかならん」
そこで話が終わったかと思うと、付け足すようにして言葉を続けた。
「面倒というのは、喧嘩なんていう可愛らしいものじゃないぞ。殺し合いだ。お前たちは同志などではなく、憎き仇敵なのだ。無駄な争いなどしたくもないが、もし、やむを得ず遭遇した場合は躊躇なく斬るつもりだ。お前も相手が人間だからといって気を許すなよ」
ガーティは同志との交流を期待していたので、サナの言葉が酷く辛辣に感じた。しかし、反論するにも考えはなく、この旅を支えているサナの言うことは絶対であることも理解していたので、ささやかな反抗として返事はせずに、露骨に俯きがちになってロバの顎を撫でた。
足跡を追うようにして先人の道を進んでいく。次第に左右で密集していた木々は疎らになっていき、周囲の様子が見渡せるようになった。それでも代り映えしない風景が続くばかりで、獣の姿も見えなかった。スウォールマリートの山肌はなだらかで雪も深くなかったので、滑りやすくはあるものの、登るのに特別苦労することはなかった。
道らしい道が完全に消えて足跡だけが前に続くようになった。依然、何にも遭遇はしなかった。もしかしたら、大した危険を冒さずに山を越えられるのでは、とガーティが思い始めた頃、ずんずんと前進し続けていたサナが急に立ち止まった。
「魔物だ。伏せていろ」
あまりにも冷静にそう告げるので、ガーティには実感が湧かなかった。辺りを見てもそれらしいものは見当たらなかった。しかし、ロバは俄にそわそわとし出していて、ガーティは手綱を持っていかれそうになった。
ロバに逃げられないように強く引っ張りながら踏ん張っていると、バチバチと激しい音が鳴った。サナは剣を左手に持ち、右手に雷の力を発現させていた。サナの正面、青く広がる空に鳥の影が見えた。だが、ガーティがそう錯覚していただけであり、実際にはそれが魔物だった。ガーティも影が大きくなっていく内に気付いた。蝙蝠のような翼を持ち、槍のように鋭い嘴を持った灰色の鳥が二匹、此方に向かって凄まじい速さで向かってきていた。
サナは右手を魔物に向けて突き出した。すると拳に留まっていた雷が弾き出されるようにして魔物へと飛んでいき、一匹に命中した。雷を浴びた魔物は黒く煙を上げながら墜落していった。だが、もう一匹は怯むことなく、少しずつ下降しながら突進してきていた。
サナは再び雷を放った。雷は翼を掠めただけで、魔物を止めるには至らなかった。鋭利な嘴を鉾として、魔物はサナを貫こうとする。サナはそれから逃げずに正面から剣で払った。刃の鈍い音と同時に、魔物が雪の上に転がった。すかさずサナが魔物に飛び掛かり、切っ先を喉に突き立てた。魔物は低い呻き声と黒い血を嘴から漏らした後、程なくして動かなくなった。
ほとんど一瞬の出来事であったため、ガーティはサナが剣を納めた後も呆気に取られたままだった。ロバが暴れて指から手綱がすり抜けていくのを、サナが寸前で掴んでくれたことで、やっと夢から醒めたように意識を引き戻した。
「大丈夫か?」
「う、うん」
サナから手綱を受け取りながら魔物の死骸を見る。人間とほぼ変わらない大きさのそれは翼を無様に広げて倒れている。周囲の雪は魔物の血を吸って黒く滲み、その熱で湯気を放ちながら溶けていく。家族と故郷、何もかもを奪った存在を前にしても怒りは湧かず、特別な恐怖も抱かなかったことにガーティは不思議な安堵を覚えた。ただ、事態が始まってから終わるまでの速さについていけずに驚くばかりだった。
「ダリンメイル。番いで狩りをする魔物だ。他に仲間はいないだろうが、用心は続けよう」
サナはロバを落ち着かせるためにニンジンの葉を与えていた。ロバが暴れなくなると、ガーティを促して辿るべき道を歩き始めた。
「魔物、初めて見た」
平常心を取り戻しきったガーティは、おもむろに呟いた。
「今まで見なかったということは、相当な防衛能力と戦力がある所で暮らしていたということだ。それに運の良さもあるか。村の人間が殺されつくしているのに、お前だけがそれを逃れることが出来たのだから。だが、同情するほどに不運でもある。村を滅ぼすほどの力を持つ魔物に襲撃されるなんてな」
「そういうのってやっぱりあんまりないんだ?」
「近年、魔物が活発になっているとは聞くが、村を壊滅させたという話は聞いたことがなかった。まあ、それでもお前は生き残ったんだ。神の御加護とかいうものがあるのだろう」
神様が助けてくれたのなら、尚更この命は自分が持っておくべきではないな、とガーティは思った。神に会う理由が増えた。この命は返すべき命なのだ。
「参ったな。願いを叶えてもらうなんて、厚かましいじゃないか」
サナは少し沈黙した後、意味を理解したかのような声を漏らした。
「真に受けるなよ。偶然を神の仕業だと誤認しても虚しくなるだけだ」
「それはそれで悲しくなる。どっちにしたって聞いてみれば分かることだよ。どうして俺を助けてくれたんですかってさ」
サナは足を止めた。そして、振り返らずに言葉を返す。
「そう。お前だけ、お前だけが生き残るように仕向けたのは何故かと聞いてやれ。きっと適当にはぐらかされるだけだ。結局、この世は生き残れる奴はしぶとく生き残れて、死ぬ奴はあっさり死ぬのさ」
急にサナが止まったのでガーティは訝しみ、行く手に目を向けてみた。そして、その先に見える光景を見て、緊張が高まった。再び歩み出したサナについていくようにして近付き、それを確かめて息を呑んだ。目の前には人間の残骸が転がっていた。腹が抉れて腸を抜かれた死体が四つ、横たわっている。傍には捥がれた頭や腕、足が落ちていて、辺りは赤い血で塗れていた。
おそらく、今まで追ってきていた足跡の持ち主たちだろう。ガーティは彼らと会うことを望んでいたが、このような形で会うとは思っていなかった。強い期待を持っていただけに、彼らの残酷な死は重たい衝撃となって伸し掛かってきた。
「想定とは違うが、こういうことだ。人間に会うと面倒なことにしかならん」
サナはそう言うと、死体を避けて先へと進もうとする。
「待ってよ!」
ガーティは思わず大きな声を出した。そのおかげか、サナは歩みを止めて振り返った。
「なんだ、急に命が惜しくなったか?」
ガーティは大きく頭を振って否定した後、胴体だけしかない死体の前に跪いた。
「このままにしておくなんて可哀想だ。弔ってあげなきゃ」
「冗談じゃない。徳を積めば神から会いに来るとでも思っているのか? こんなところで祈ったって、来るのは神じゃなくて血の臭いを嗅ぎつけた魔物だ。とっとと離れるぞ」
「俺にとって、この人たちは同じ目的を持った同志だ。志半ばで死んでしまった後悔は強いと思う。本当は神様にあげたかった命を、魔物に奪われたんだから」
願いを抱えたまま死んでいったのだと思うと尚更、彼らをこのまま放置しておけなかった。ガーティは死体を恐る恐る持ち上げると、それを一本の細い木の下に横たえた。そして薄い雪ごと地面を掻き分けて、彼らを埋める穴を掘ろうとした。
「正気か? もし生きて出会っていたら、殺し合いをしていたかもしれない奴らだぞ。それでもお前は同志だと認めるのか」
「俺は今死んでも願いなく死ぬってだけ。でも彼らは明確に願いを持っていたはずだ。この体にはその無念が詰まっているのは分かる。俺が持っていない、持ちたいと思っているものを持つ彼らを敬うのは当然でしょ。それに彼らに触れることで、俺の願いが湧いてくるかもしれない」
最後の一言が効いたのか、サナは反論しなかった。悔しそうに口を歪めて、握った拳を震わせていたが、舌打ちと共に早足でガーティに接近して穴掘りに加わった。
「これで願いを思いつかなかったら、お前も此処に埋めてやるからな」
その後もサナの悪態は止まなかったが、手際良く作業を進めて、日が暮れる前に彼らを埋葬することが出来た。魔物除けの香をいつもより多く焚き、墓の前に野営地を作った。魔物は襲ってこなかったが、香と死臭が混ざった酷い匂いでガーティは気分が悪くなった。ただ、文句は言わないという約束は守って、必死にそれを飲み込み続けた。
冷たい夜が訪れる。天に近付いたからか、夜空の星々は地上で見るよりも多く、輝きも増していた。豪雪地帯に生息しているというシカの毛皮で作られた外套を纏って火に当たり、夜の雪山の寒さを凌ぐ。ずっと穴を掘っていたので、ガーティの指先は冷たさと痛みを伴って悴んでいた。
焚き火に手を当てて熱を取り戻そうとしていると、サナが酒を持ってきた。それを飲むと、体の内側から温まっていくのを感じた。
「ありがとう。こんなに強い酒は初めて飲んだ。一気に体が熱くなってきたよ」
「あと二、三杯は飲んでおけ。それだけ飲めば、死体のことを忘れて眠れる」
サナも酒を飲みながら焚き火に当たる。疲労からか、飲み終わった後に息を長く吐いた。サナが吐き出した白い息がなくなるのを見て、ガーティは話し始めた。
「村が襲われた時のことも、忘れようとしても忘れられなかった。今でも、皆の死に顔は頭の中にはっきりと浮かぶ。でも、悲しみに囚われたのは最初の一年くらいで、それからはもう思い出しても、そういう感情は湧かない。みんな死んだんだなあ、って変だけど、懐かしい感じになるだけだ。この人たちのことも忘れられない。俺の命は残り少ないから、懐かしさなんて抱かないだろうけど」
「意外だな。そうやって達観できるとは」
「深く考えるのが得意じゃないだけなんだけどね。だから、願いが思いつかないんだ。せっかく同志に会えたのに、これだ、っていうのは思い浮かばなかったなあ」
ガーティは溜め息を吐きながら地面に倒れ込んだ。その瞬間、地面から背中を乱暴に掴まれて、強い力で地中に引きずり込まれそうになった。突然のことに驚き、跳ね起きようとするが、背中を掴む力が圧倒的に勝った。体が地面の中へと一気に沈んでいき、そのまま抗うことも出来ずに、何かによって暗い地中を引き摺られ続けた。
不格好な穴だけを残してガーティは忽然と消えた。続いて、ロバも悲痛な声を上げながら地面へ引きずり込まれていく。ロバの後ろ脚には目のない大蛇が巻き付いているのが一瞬だけ見て取れた。
サナは刀を抜き、足元を見る。すると、地面から前触れもなく目のない蛇が飛び出てきて、鋭利な牙で噛みつこうとしてきた。胸に飛び込んでくるそれを即座に切り落としたが、頭を失くしたそれは黒い血を噴出させながらも、地面の中に引っ込んでいった。掴んで引っ張り出してやろうと考えていたが叶わずに、サナは舌打ちをする。
地面に落ちる頭を見ても、それの正体は分からなかった。ただ、魔物であることは間違いない。迂闊だった。香を過信していた上に、魔物が己と同じ土俵に立っているという先入観を持ってしまっていた。魔物と戦った経験は多く、知見も充分に持っていると自負していたが、まるで知らない魔物に遭遇したようだ。
サナは驕りを認めて、努めて冷静に状況を把握しようとする。ガーティが引きずり込まれた穴を覗くが、そこにガーティの姿はなく、暗闇が充満しているだけだった。穴の中に入れば追えるだろうが、現実的ではない。それよりもこの穴の行き先を探る方が賢明だ。そう考えるや、サナは周囲を歩き回った。足の裏で地面の固さを確かめていき、柔くなっている箇所を見つけた。そこは穴が開いている分、地面が弱くなっている証だ。柔い部分は途切れることなく何処かへと続いていた。それを足で捉えながら、魔物の行方を追っていった。
幸い、ガーティは魔物が嫌う香を纏っている。魔物にとっては強烈な悪臭だから、臭い獲物をすぐに食おうとはしないだろう。時間の猶予はまだあるから、匂いが消える前に見つけ出さなければならない。その思いが焦りに転じないように、足の裏に意識を集中させて、只管に進む。
ガーティが考えたらずで世間知らずのただの阿呆であれば、サナの諦めも早かったかもしれない。そもそも、神に会うまでの護衛なんて引き受けもしなかっただろう。適当にはぐらかして、さっさとおさらば御免していた。しかし、そうはしなかった。何故なら、サナもガーティと同様に家族を亡くし、故郷を失ったからだ。
同情か、共感か。それを問われても、サナは答えられない。ただ、自分と違って、ガーティは命を捨てて何かを得ようと考えている。何を引き換えにしても死ぬことが正しいとは思わないが、それを否定してやれる立場にはいないことも承知している。同じ境遇でありながら、思想は全く異なっているガーティに関心を抱いていると言えば、ひとまず収まりの良い答えになるだろう。
サナにとって特別な仕事など存在しないが、今回の護衛は自分にとって意味のあるものになるだろうと、なにせ身銭も切っているのだから、そう思っているのでガーティには目的地に着くまでに死なれては困る。その死の境地に彼が立たされている今、護衛としての役目を果たさなければならなかった。
段々と地面そのものに痕跡が現れ始めた。盛り上がった雪混じりの土を目で追いながら進むと、その先に大きな横穴が待ち構えていた。あれが魔物の巣穴だと断定し、気負いながらその穴に駆け込んでいった。
死を思わせる暗闇が内部に漂っていた。吹き込んでくる風の音が人の呻き声のように聞こえて、常人であれば恐怖で引き返していただろうが、サナは闇も風の音も一切気にせずにずんずんと奥へと入っていった。
天恵の雷を手中で生み出して明かりとしたが、それでも闇を払い切れなかった。注意深く目を凝らし、刀を握る手を一時も緩ませずに進む。途中から、覚えのある匂いがしてきた。最早、嗅ぎ慣れた魔物除けの香の匂いだ。手中の雷を更に激しく滾らせて、壁と天井に走らせた。その残光を頼りに掛けると、開けた空間に辿り着いた。残雷はぱちぱちと鳴りながら、壁と天井を伝って、巨大な影を映し出した。
サナはもう一度、今度はより強い力を込めて雷を壁と天井に走らせた。岩壁に雷が留まり、空間に明かりを齎す。その明かりによって影が正体を見せた。蕾を思わせる巨大な球体、下端は地面から浮き、上端から牙だけを持った蛇のような触手が無数に伸びて、天井、地面、壁に這っている。球体の中心に大きな切れ目があると思いきや、俄かに上下に開いて牙を覗かせて、中から大きな目玉が現れた。
今まで戦ったこともなければ、見たこともない大物だった。情報のない魔物とは戦わず、逃げるのが鉄則だと、剣の師から教わっていたが、サナはこの魔物からガーティを救い出さなければならないという使命があった。辺りを見るが、ガーティは見当たらない。入念に探したいところだが魔物が邪魔だ。なので、師の教えに背くが、未知の魔物と戦うしかなかった。
戦うと決めた瞬間から、サナは迅速に動き出した。雷を四方に放ち、壁面を這う蛇触手たちに浴びせていく。敵が何をしてくるのか分からないため、機先を制して常に攻め続けることが肝要だと思った。蛇たちは痺れて動きを鈍らせた。その隙を突き、本体である球体の目を狙おうという算段だった。
球体に向かうサナを妨げるものはなかった。雷は蛇たちを伝って球体にも届いているのか、瞼が痙攣しているような様子が窺える。好機を逃すまいとサナは跳躍して、目玉を斬ろうとする。両手で柄を握り、全身の力を使って刀を振るう。
切っ先が目玉を捉えようと瞬間、甲高い叫び声が上がった。真ん中がぽっかり空いて空洞になっている目玉からその声が響き、加えて強く吹きかかる息に負けて、サナは刀を振るうことなく地面に落とされた。
魔物は更に大きな叫び声を上げた。サナは耳を塞がざるを得ず、身動きも取れなかった。 その間に、無数の蛇触手は正常な状態に戻り、怒りを露わにして威嚇しながら、怯むサナへと伸びてきた。
サナは大きな音で意識を失いかけながらも迫ってきている蛇を追い返すために雷を放とうとする。だが、朦朧とした頭では集中できず、雷は生み出せるものの、思い通りに放つことが出来ない。掌の上で無秩序に弾けた雷は何処とも構わずに飛び散っていき、そのほとんどは蛇に当たることなく消えてしまった。運悪く雷を食らったものを除いて、蛇たちの行軍に支障はなく、サナも一度雷を放ったきり、それで満足してしまった意識が消えていこうとするのを引き止めるのに必死で、忍び寄る魔の手への対処が出来なくなっていた。
蛇触手は束になり、より巨大な蛇を形作ってサナに飛び掛かった。サナは為す術もなく飲み込まれてしまい、触手によって四肢を強固に拘束されて体の自由を奪われた。骨を軋ませるほどに強く巻き付く触手のおかげで意識は戻ってきたが、全身に感じる痛みを味わうだけだった。
激痛に抗うようにして雷が自ずと漏れ出るも、触手は頑としてサナの体から離れなかった。痺れて拘束が緩んでも、他の触手がすぐに纏わりつくので逃れられない。それでも解放されるには雷を使う他なく、痛みの耐えながら絞り出すようにしてか弱い雷を発生させ続けた。
酷く大きな音がした。それが不意に途絶え、ちりちりと小鳥の囀りのような音がする。ガーティは節々に感じる鈍痛と気怠さを感じながら目を覚ました。仄暗い闇の中、星と見紛う青白い発光が空にあり、その光によって異形の獣がいることに気付く。それに驚く間もなく、鋭い光を放つ雷が弾けて気を逸らされる。おどろおどろしい大蛇の塊の中から雷光が漏れていたが、あまりに弱々しい。ただ、あの中にサナがいて、しかもかなりの窮地に陥っていることは分かった。
地中に引きずり込まれて何処かへ連れ去られた記憶はあるが、それ以降は覚えていない。どういう状況かもはっきりとしなかったが、サナを助けなくてはならないのは間違いない。抗う術を探そうと辺りを見回してみると、傍にはロバが倒れていた。
ロバは微動だにせず、括りつけていた鞄が破れて中身が散乱していた。その荷物の中に匂いを放つ木片を見つけた。これだ、と思い、ガーティは木片を掴み取り、大蛇に向かってそれを投げつけた。木片は大蛇の塊の隙間に挟まると、ちょうど雷がそれに命中した。木片は勢いよく燃えて独特の匂いを発生させると、大蛇は一斉に散らばり、滑るようにしてサナが落ちてきた。
サナは受け身を取ろうとしたが、上手くいかずにぐしゃりと地面に体を打った。それでも、すぐに膝を突いて立ち上がる姿勢を作り、右手を目玉に向けた。荒い息を吐きながら呼吸を整え、早急に落ち着かせた終えたかと思うと、掌から雷が迸った。四つ、五つと枝分かれした雷はそれぞれ異なる道筋で目玉に向かっていき、そして其処に突き刺さっている剣を一様に帰結とした。
束だった雷は鉄の刃から目玉の中に侵入し、また葉脈のように広がって目玉を怪しく輝かせた。天井に張り付いていた蛇たちが剥がれていき、球状の体が地鳴りと共に落ちた。魔物は蛇共々、びくびくと強い痙攣を起こした後に全く動かなくなった。
香の強い匂いの中に、微かに焦げた臭いが混じっていた。どちらにしても、ガーティの鼻にはよろしくないもので、我慢できずにえずくようにして咽てしまった。激しい咳に、サナは漸くガーティの存在に気付いたようで、ふらふらとした足取りで近付いていき、丸まったガーティの背中を軽く叩いた。
「ご、ごめん。これは別に香の匂いが嫌だから咽てるわけじゃなくて………」
ガーティは咳の合間に弁解した。サナは呆れたように溜め息を吐きつつも、ガーティが落ち着くのを待ってくれた。
咳が止まると、サナはガーティの背中から手を離し、魔物に向かっていった。魔物の充血のような火傷痕がある目玉にはサナの剣が刺さったままだ。魔物は死んでいるようだったが、それでもあれほど巨大な生き物に近付くのが怖くないのかと、ガーティは思いつつ、遠目から見守った。
魔物との攻防が余程苛烈だったのか、サナの後ろ姿は今まで見たことがないほどに小さく見えた。それは遠ざかっているからそう見えるのではなく、彼女の持つ気迫というか、振る舞いが持っていた元々の身体以上の迫力が全く萎えてしまっているようだったから感じたことだった。
頼りない少女の背中に不安さえ覚えてしまい、何気なく魔物を観察した。球状の体の上から無数の蛇がだらりと垂れ下がっている。見ようによっては一つ目の怪物に長髪が備わっているように見える。地面にまで伸び切ったそれは乱れて絡まり、みすぼらしささえ感じる。サナはその汚らしい蛇たちを蹴散らしながら、目玉へと近付いていった。
そうして道を切り開いていき、目玉に到着すると、突き刺さった剣の柄に手を掛けた。深く刺さっているのか、なかなか抜けずに苦心していた。両手で握り力を込めて抜こうとするが、それでも抜けない。一心になって剣の回収を試みるサナの背後で、もぞもぞと動くものが見えた。ガーティはそれを見つけた瞬間に、サナの方へ駆けだした。
サナは剣を抜くのに必死で気付いていなかった。死に絶えていた大蛇の中に一匹だけ、生き残ったものがいて、それが今、サナの背後に忍び寄っていた。ガーティは息を切らしながら走り、サナに飛び掛かろうと鎌首を上げた蛇に自分が飛び掛かった。
ガーティは蛇を捕まえたものの、彼にどうにかできる相手ではなかった。押さえつけることも出来ずに力負けし、あえなく胴体に巻き付かれて強く締め上げられた。
騒ぎに気付いたサナは振り向きざまに剣を抜き、的確に蛇の口に切っ先を突っ込んだ。右手で刃に触れ、そこから雷を流すと、大蛇の体内へと雷が流れていき、ガーティを締め上げる力が弱まっていった。ガーティの体と蛇の間に出来た隙間に手を入れて蛇を引き剥がすと、ガーティの体を受け止めながら蛇にとどめを刺した。
「平気か?」
そう聞くサナの顔は険しかった。余計な真似をするな、と表情が言っているのをガーティは感じた。
「助けようと思ったんだけどね」
「だったら、まずは声で知らせろ。味を占めて格好つけたつもりだろうが、もうお前に助けてもらうことはない」
怒っているのだろうが、声に覇気はなかった。サナに余裕がなくなっていることはガーティの目にも明らかであり、だからこそ、新たに急襲してきた蛇の気配にもサナは気付けず、ガーティは気付けた。
ガーティはサナを抱き寄せながら体を翻した。それで漸く気付いたサナはガーティを突き飛ばして大蛇を斬り伏せた。
飛ばした頭から、肉片が落ちる。それを認めた後、サナはすぐさま振り返ってガーティを見た。ガーティは蹲り、右手を押さえていた。流れ落ちる血は尋常ではなかった。
「見せろ」
サナはガーティの手を確認した。血塗れのその手は、人差し指と中指を根元から失っていた。
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