死を目指す旅へ

 最初に神が降臨してから、ちょうど一四〇〇年。星々が映える冷たい闇空に、前触れもなく光の柱が現れた。光の柱は地上に突き刺さるようにして落ちてきて、一際強く輝きを放った後に夜の闇に飲まれていった。


 ガーティは宿屋の裏手で犬に残飯を与えている最中に、その一連の現象を目撃した。この異常な光景が幼い頃に祖母からくどいほどに言い聞かされていた神の降臨だと理解するのに、少々の間が空いた。そして、そうと気付いた途端に彼の中で一つの決意が生まれた。


「よし、決めた! 神様に会いに行ってくる!」


 ガーティは犬に向かって高らかに告げると、宿の中に駆け戻っていった。夜通しで荷物を纏めて、使っていた部屋を綺麗に片付けた後、世話になった宿屋の主人への手紙を残して宿を出た。うっすらと地平から顔を覗かせる太陽を目標にしながら、ガーティは軽い足取りで死への路を歩み始めた。




 ガーティには家がなかった。家族もいなかった。故郷もなかった。五年前までは全て持っていたのだが、魔物の襲撃によって、ガーティ以外のあらゆるものが消し潰されてしまった。それ以来、ガーティは各地を放浪して、親切な老夫婦の家に居候したり、旅芸人の一座に加わったり、酒場で奢ってもらうだけの日々を過ごしたり、宿屋の仕事を手伝ったりして、定住地を持たずに様々な場所を彷徨って生き続けてきた。ガーティは人に恵まれていると自覚していた。何処へ行っても自分を温かく迎え入れてくれる人がいたので、それに甘えてしまう。それ故に罪悪感を覚えてしまって、彼らから離れてしまう。しかし、それで満足だった。何もない自分は、このまま何にも依存せず、誰からも悲しまれずに死んでいった方が迷惑にもならないと思っていた。


 しかし、神の降臨を目の当たりにして、新たな考えが芽生えた。どうせ自分には何もない。死んで悲しむ人もいない。ならば、死んで何かを成し遂げよう。神にあって、願いを叶えよう、と。ところが、そこまでの考えには至ることに成功したものの、肝心の神への願いは思いつかなかった。神の幽谷を囲んでいるという山脈の方へ続いている道を歩きつつ、願いごとに悩まされていた。


 考えることに没頭しすぎていたため、野盗に囲まれていることに気付かなかった。あまり頭を使うことをなかったために、疲弊した頭は垂れている。地面に続く人の足跡と馬車の轍、それにぼってりとした影が被さった時になってやっと頭を上げた。


「よう、兄ちゃん」


 逞しい体をした男が目の前にいた。男の手には刃こぼれが目立つ剣が握られている。ガーティはそこで漸く野盗の存在に気付いた。周囲を見回して、野蛮な風貌の男たちに取り囲まれていることが分かった。しかし、ガーティは恐怖も緊張も薄く、これはまずいことになったな、としか感じず、それをすんなりと言葉にして野盗たちに示した。


「そりゃあ、野盗もいるよな。困ったぞ、神に会うまでは死ねないのに」


「神に会うだあ? ふははは! 面白いこと言うじゃねえか!」


 目の前にいる首魁らしき男が笑い出すと、周りの野盗たちも下品な声で笑った。


「わざわざ死ぬほどの苦労をして神に殺されに行くなんて馬鹿にも程がある。いくら願いが叶ったって、てめえが生きてなけりゃ意味がねえってのによ。どうせ死ぬんだろ。今死のうが後で死のうが変わんねえからよ、此処で身ぐるみ剝がされて死んどけ」


 首魁の男はガーティを足蹴にして倒した。ガーティは腹に強い衝撃を受けた上に、腰を地面に打ちつけたので、身動きが取れなかった。首魁は剣を大仰に振り回してから、ガーティを叩き斬らんと頭上までに振り上げた。その瞬間、空気を引き裂くような轟音が響いた。


 同時に稲光が迸り、辺りは強い光に支配された。ガーティが眩さに目を閉じている間、男たちの悲鳴と怒声が聞こえた。だが、それも程なくしてなくなり、異常な静けさだけが残った。瞼の裏に焼き付いた光が消えるのを待ってから目を開けた。見上げた先、いるはずの首魁はおらず、代わりに若い女が立っていた。


「阿呆め」


 この辺りでは珍しい黒い髪に、ガーティは目を惹かれた。後頭部で結わえた髪は垂れてうなじにまで到達している。小さな口と切れ長の目は女に冷たい印象を与えているが、一言だけ発した言葉から、その印象は彼女の性格と一致しているものなのだと思わされた。


 女は剣を握っていた。片刃で細いその剣もまた珍しい。その剣に見惚れそうになったが、刃に付いて血を見て我に返った。周りを見ると、野盗たちが倒れ伏していた。斬られて血を流していることから、この女が助けてくれたようだが、首魁の男だけは様子が違った。女の足元にいる首魁は、雷に打たれたかのような筋の走った火傷を負って息絶えていた。


「用心もなくこんなところで何をぶらぶらとしているんだ。私のような物好きが通らねば、お前の命はなかったぞ」


 女が剣を鞘に戻す時、手首に黒い十字の傷跡のようなものが見えた。ガーティは思わずそれを指さして言った。


「天恵の印だ!」


 女は呆れ顔を作ってガーティを見下ろした。


「今さっきまで死の危機に瀕していたというのに、呑気な奴だ」


 天恵の印。それはある英雄の命と引き替えに民草に与えられたものである。それを刻まれた者は神の力の一部を授かり、雷を操ることができたり、灼熱の炎を吐き出したり、類まれな膂力を得たりなど、非常識な力を使えるようになる。天恵の印は神の気まぐれによって与えられると言われており、それを持つ者は極めて少ない。小国であれば、その中に一人か二人しかいないとまで言われている。そんな希少な天恵の印を目の当たりにして、ガーティは興奮せずにはいられなかったというわけだ。


「あれは君の雷だったんだ! 勿体ないなあ、目を閉じずに見ておけばよかった」


 立ち上がって女に詰め寄る。女は後退さるものの、ガーティがそれよりも早く近付くので、距離は簡単に縮まった。ガーティは無遠慮に女の手首をまじまじと観察する。


 女の手首に刻まれた天恵の印は黒い。黒い印は雷の力を持つことを表している。酒場で仲良くなった傭兵から聞いたとおりだ、と思った。もっとよく見ようと、手首に指が伸びたが、それは叩かれて阻まれた。


「いい加減にしろ。仮にも命の恩人だというのに、無礼を働きおって」


「ああ、ごめんごめん。初めて見たから、興奮しちゃったよ」


 ガーティは軽い調子で謝った。


「助けてくれてありがとう。俺はガーティっていうんだ。君の名前は?」


 女は首を小さく振った。


「名乗るほどの者ではない」


「そうはいかない。これから雇おうって人の名前くらい知っておかないと」


「雇うだと?」


 女は眉根を寄せて言う。ガーティは急いで荷物を詰めた鞄を漁り、革袋を取り出す。じゃらじゃらと軽い音が鳴るその革袋を女に渡す。


「俺の全財産を上げるから、神様の所まで護衛をお願いします」


 女は革袋を開き、中身を見る。それを見てますます顔を顰めた。


「言いたいことがありすぎて、何から言ったものか……とにかく、場所を変える。ついてこい」


 女は革袋を投げ返して道に沿って進んでいく。ガーティも後を追って暫く歩くと、小さな集落が見えてきた。そのまま集落に入り、こぢんまりとした酒場へと連れていかれた。


 客は少なく、静かな酒場だった。隅のテーブルへと引っ張られ、そこに座らせられる。女は店主らしき男に慣れた様子で二人分の酒を頼んだ。


「この村の人なの?」


 ガーティはそう聞いたものの、女の容姿から、違うだろうとも思っていた。黒い髪は大陸東方の人間の証であり、このシュリンという国は大陸南西にあるので、その距離の隔たりから女も旅人なのではないかと予想していた。


「阿呆め。私のどこを見てそう言っている? 私は流れの浪人だ。そんなことよりも、先程の話の続きをしよう。お前の目的はなんだ?」


 ガーティはとても単純な質問だと思い、何も考えずに答えた。


「神様に会って、願いを叶えてもらおうと思ってる」


「何を願うつもりだ?」


 野盗に考えを中断させられたので、まだそれは思いついていない。今ここでその答えを出せとなると、中々に困難だった。


「分からない」


 なので、こう答えるしかなかったのだが、それに女は唖然とした。ガーティが悩んでいる問題なのに、女の方が苦悩している様子を顔で表現していた。暫く絶句した後、女は恐る恐る唇を動かした。


「願いも定まっていないのに、死にに行くというのか?」


「そうだよ。どうせ俺は死んでも困る人いないし、せっかくだから神様に願いを叶えてもらって死のうかなって」


 ガーティは自分がそう思うに至る経緯を話した。先日、神の降臨を目にして思い立った。家族も故郷を失くしているから、死んでも悲しむ者はいない。他人との関係も紡いできていないから一層、死に易い、と。女はそれを聞いている内に表情が変わった。ガーティに真剣な眼差しを向け、それを崩すことなく、最後まで話に耳を傾けていた。


「動機は理解できた」


 いつの間にかテーブルに置かれていた酒を口にしつつ、女は言う。


「目的云々は一度、隅に置こう。お前はそれを熟考する前に、考えなければならなかったことがあった。それは、どうやって神の幽谷に行くか、だ。見たところ、着の身着のままで飛び出してきたようだが」


 ガーティは大きく頭を振って、荷物を詰めた鞄をテーブルに置いた。


「ちゃんと準備してきたよ。俺の持ってる物全部、これに詰めたから」


 ぱんぱんに膨れた鞄をこれ見よがしに見せつけるが、女は蔑みか哀れみか、またはその両方を込めた目でそれを見ていた。


「その程度の備えであの山を越えて、谷を進めるはずがないだろう。劣悪な環境に加えて魔物までいるんだ。お前ひとりなら、間違いなく入山して五歩の内に魔物に食い殺される」


「つまり、君と二人なら神様のところまで行けるということだね」


 計画性のなさを自覚させるための言葉であっただろうに、ガーティは前向きな捉え方でそれを受け取っていた。


「怖気付かなかったことは褒めてやれるが、底なしの阿呆でもあったようだ。少しお前を見くびっていたぞ。本当に私がお前の護衛を引き受けると思っていたのか? ただ世間知らずの阿呆に説教をくれてやるために此処に連れてきたというのに」


 その言葉すら、ガーティの気持ちを沈ませることは出来なかった。


「優しいな。見ず知らずの人間の命を救うだけでなくて、諭してくれまでするなんて優しすぎるよ。君に出会えて良かった。君になら、俺の命を預けられる。まあ、その命も神様にはあげちゃうんだけど」


 いよいよ、女は頭を抱えてしまった。あからさまに長い息を吐いて、切れ長の目を更に細めて、ガーティを睨む。ガーティはにこにこと笑みを浮かべて女を見つめ返した。この人がいれば困難を乗り越えて神様に会えると思うと、嬉しくて堪らないのだ。全財産をあげても惜しくはないし、それで足りないのなら彼女のどんな願いでも、神様ほどの力はないにしても、叶えてあげたいとすら思った。


「私の負けだ。お前の言う通り、首を突っ込んだのは私の方だ。最後まで面倒を見る責任が生じているんだろう。お望み通り、神のいる所まで送り届けてやる」


 諦観したかのような口ぶりでそう言った後、酒を一息で飲み干して立ち上がった。


「そうと決まれば、こんな所で油を売っている暇はない。旅支度をしなくてはな。金なしの主のおかげで、私が身銭を切ることになりそうではあるが。ほら、お前も来い」


 女に急かされて、ガーティも席を立つ。女の後を追って酒場を出た後、横に並んで顔を覗き込む。


「まだ聞いてなかった。君の名前、もう教えてくれるよね?」


「サナと呼べ」


 サナはガーティには一瞥もくれずに、そう呟いた。

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