やさしい思い出

暁ノウル

第1話

 硝煙と土埃が舞う焼け野原をひたすら歩き続ける。辺り一面に広がっていた家屋は瓦礫となり、見慣れた町並みは焦土と化していた。果てしなく続く悲惨な光景に男は立ち止まり、額から滲む汗を拭った。

 失った右腕が疼くような錯覚に、包帯に巻かれた右上腕部にそっと触れる。

 これからどこへ向かえばいいのだろう。

 息を吐き前に向き直ると、視界の先に一部原型を留めた壁を背に座り込む人影が見えた。ゆっくりと近づくと、空色のワンピースを着た少女が一人、壁に凭れ掛るように座っていた。歳は八つくらいだろうか。乱れたブロンドの髪と煤のついた白い頬を見るに、空襲から命からがら逃げ延びたらしい。

 新緑のような美しい翡翠の瞳は虚空を眺めていた。

 呆然と見つめていると、ふと少女が緩慢な動作でこちらを振り向いた。

「ああ、驚かせて悪い。こんなところに人がいると思わなかったんだ」

 言いつつ男は少女と目線を合わせるように屈んだ。

「お嬢ちゃん、名前は?」

「……ダイナ」

「そうか、俺はアルフレッド。しがない兵士だ。といっても、もう戦えねえがな」

 そう言って右腕を見せると、ダイナの瞳孔が驚いたように見開いた。

「しばらくここで休んでいいか?」

 ダイナが小さく頷く。アルフレッドはダイナの隣に座り込み、壁に凭れかかった。

「親とはぐれたのか?」

 アルフレッドの問いにダイナはふるふると首を振った。

「家の下敷きになって死んじゃった」

「そうか……辛かったな」

「わかんないの」

 引っかかりを覚え振り返ると、ダイナは俯いて膝を抱きかかえた。

「パパとママが目の前で死んじゃってから、ずっと頭が真っ白のままなの。涙も出てこないし、悲しいのかどうか、よくわからない」

 呟くようにそう言うと、ダイナは顔を上げ、遠くを見つめるような眼差しをした。

「なんだか胸が空っぽになったみたいなの」

 光のない、ガラス細工のような瞳。澄んだ浅瀬のような虹彩には何も映っていなかった。

――ああ、彼女は自分と同じだ。大切な人を喪って、感情が追い付かないまま途方に暮れている。

 アルフレッドはぽん、とダイナの頭に手を載せた。

「――なあ、ダイナ。お前さえ良ければだが、俺についてこないか?」

 ダイナは虚を衝かれたような表情でアルフレッドを見上げた。

「贅沢はさせてやれねえが一人分くらい養う余裕はある。俺もこんなザマだし、お前がうちに来て家事とか手伝ってくれたら助かるんだが」

 言いながら心の中で自嘲する。今更罪滅ぼしをしたところでもう遅い。けれど、目の前の幼子を放って置きたくなかった。

ダイナは何度か目を瞬いてしばし逡巡したように目を伏せた後、こくりと頷いた。


                  


「フォスターさん、うちの畑で採れたジャガイモ、持って行って」

「うちのタマネギも持っていきな」

「うちのニンジンも」

 言いつつ婦人たちが野菜を袋にまとめ、アルフレッドに渡してくれた。

「いつも悪いな。助かるよ」

「いいのよ。うちらは旦那と二人暮らしだから、どうせ余っちゃうし」

 ねえ?と婦人たちは顔を見合わせながら、からからと笑った。

「こんなご時世だもの。助け合わなきゃ」

「そうそう。大したことは出来ないけど、なにか困ったことがあったらいつでも頼るんだよ」

 近所に住む婦人たちはお節介で噂好きな者が多いが、アルフレッドたちに野菜や果物など、よく食料を分けてくれる。アルフレッドの帰りが遅いときは率先してダイナの面倒を見てくれた。

 アルフレッドは以前住んでいたアパートを引き払い、郊外で暮らし始めた。引っ越し当初からよそ者扱いされることはなく、近隣住民たちは歓迎してくれた。それは、ダイナを連れていたことが大きいだろう。

 家に帰るとダイナが玄関で出迎えてくれた。

「ただいま。今日もマダムたちに野菜もらっちまった。今日はビーフシチューにしよう」

 ダイナは頷くと袋を引き取り、ぱたぱたとキッチンへ駆けて行った。その小さな背中を見送りながら、アルフレッドはそっと息を吐く。

 ダイナを引き取ったのはアルフレッドのエゴだった。焼け跡で座り込む彼女を見たとき、姪のエミリーのことがふと脳裏を過ったのだった。

 戦場に出る前、各地を旅していたアルフレッドは兄の家を訪れるたび、エミリーに異国の話をよく聞かせていた。

『アル!今日もお話聞かせて!』

 明るくて人懐っこい彼女はアルフレッドを兄のように慕っていた。

『こらエミリー、アルは仕事で疲れてるんだ。あんまりわがまま言うなよ』

『いいんだ、アーサー。さあエミリー、今日は何の話を聞きたいんだ?』

『ふふふ、いつもありがとう、アルフレッド』

 兄たちはいつでもあたたかくアルフレッドを歓迎してくれた。居心地のいい彼の家は幸せに満ちていて、アルフレッドにとってオアシスのようだった。

 しかし程なくして戦争が始まり、アーサーとアルフレッドは戦場に赴くことになった。別部隊に配属された二人は出発前、必ず生きて帰ろうと固く約束した。

 アルフレッドは激しい死線を潜り抜け右腕を失ったものの、どうにか生き延びることが出来た。終戦を迎え、また平穏な日々を過ごせると安堵した――しかし、そんなアルフレッドの思いを裏切るように数日後、兄が戦死したと電報で知らされた。

 頭の中が真っ白になる。認めたくない、信じたくない。そんな思いで埋め尽くされた。

『もし俺がこの戦争で死んだら、妻とエミリーを頼む』

 不意に兄と最後に交わした言葉が脳裏に過ぎった。

せめて、恩を返したい――茫然自失になりながらも、アルフレッドは彼との約束を果たすため、兄の家へと向かった。だがたどり着いた先に広がっていたのは、焼け落ちた瓦礫だけだった。

 目の前の光景に愕然としていると、通りかかった男がこの辺りに住んでいた住民は空襲で大勢焼け死んでしまったと伝えた。自分はシェルターに逃げて助かったのだという。

『シェルターまで距離があったから、体力のない老人や女子供は辿り着くまでにやられてしまっただろうなぁ。けど、みんな自分のことに必死で他人に構う暇なんてなかったんだ』

 空襲があったのはほんの一週間前の出来事だという。そのときアルフレッドは野戦病院にいた。

 光のない闇に放り込まれたような錯覚に膝から頽れ蹲る。

もっと早くここへ来るべきだった。そうすればエミリーたちを救い出せたかもしれないのに。

 アルフレッドは自責の念に苛まれた。

 なぜ、自分だけが生き残ってしまったのか。独り身である自分が一体どうして――答えのない疑問を繰り返しながら、果てしなく続く焼け跡をふらふらと歩き続けた。そんなときダイナと出会ったのだった。途方に暮れたように座り込む彼女が自分と重なって見えた。そんな彼女をアルフレッドは放って置けなかった。

 もちろん同情の気持ちもあった。けれど、それ以上に彼女を救いたい気持ちが強かった。

 アーサーたちと過ごした穏やかな日々。それらはもう二度と取り戻せない。家族としてアルフレッドを慈しみ、愛してくれた彼らは亡くなってしまった。アルフレッドを一人遺して。彼らを守れず、恩も返せず、無力感ばかりが胸を埋め尽くしていた。

 けれどもし、自分に救えるものがまだあるのなら――目の前にいるこの少女を救いたかった。

 先に逝ってしまった兄たちのためにも、いつまでも落ち込んではいられない。遺された自分は精一杯生きなければいけない。ダイナと暮らし始めたことで、アルフレッドは悲観に暮れていた心を奮い立たせることができた。各地を旅していた頃の経験を生かして紀行本を書く仕事を始めた。独り身の生活が長かったため家事はできたが、片腕だとどうしても不便なときがあった。そんなときはダイナがサポートしてくれた。ダイナはよく気が利く娘で、今ではアルフレッドが何か言う前に駆け付けてくれる。幼い頃からよく両親の手伝いをしていたのだろう。

 ダイナを救いたいと思いながら、結局自分の方がダイナに救われていた。

 ダイナは口数が少なく表情も乏しかったが、時折虚ろな眼差しをすることがあった。夜眠るときも寝付けないのか、何度も寝返りを打つ気配を隣のベッドで感じていた。恐らく、両親を亡くしたことに心が追いついていないのだろう。

 ダイナを救いたい。けれど、今はまだ、両親を亡くしたばかりの上、新しい環境に来たばかりで気持ちの整理がついていないだろう。

 だがいつかきっと前を向けると信じている。だから、それまではただ、ダイナのそばで寄り添い、見守ろうと決めていた。


                    *

 

 空から黒い塊がいくつも降ってくる。塊が直撃した途端、家は爆発し辺り一面に火が燃え移った。轟音とともに町は瞬く間に火に呑まれていく。

「空襲だー!」

「逃げろ!」

 燃え盛る業火の中、住民たちは我先にと逃げ惑った。

「ダイナ逃げて!」

「早く離れるんだ!」

 両親は瓦礫の下敷きになりながら、必死にダイナに呼びかけていた。けれどダイナは根が生えたようにその場から動けずにいた。声すら上げられず、ただ震えることしか出来なかった。

 ガラガラと屋根が崩れ始め、壁に亀裂が走る。

「火に囲まれる前に早く!」

 切実な父の叫びにダイナは目に涙を溜めながら首を振った。ここから離れたくない。

「生きるんだ、ダイナ」

 頼む。

 父の懇願するような声音と表情にダイナは息を呑んだ。

「――ダイナ!」

 はっと目を開けると、アルフレッドの心配そうな顔が視界に映った。

「大丈夫か? 魘されてたぞ」

「……あ、うん。平気」

 ダイナがゆっくりと上体を起こすと、あたたかい湯気の立ったコップが差し出される。ミルクの香りが鼻腔を通り抜けた。

「ほら、これ飲め。少しは落ち着くだろ」

「……ありがとう」

 コップを両手で受け取り、こくこくと嚥下する。口の中にほんのりと甘さが広がり、胸がほっとするような心地になった。窓の外を見ると朝の陽光が差し込んでいる。植木に止まる鳥が囀り、木の葉が揺れていた。

 平和な光景を眺めながら、先ほどの悪夢を思い起こす。目を閉じれば今でも鮮明に蘇る――燃え盛る炎、逃げ惑う人たちの悲鳴、両親の叫び声。あの日から脳裏に焼き付いて、ずっと離れない記憶。

「なあ、今日は外に出かけないか?」

 唐突なアルフレッドの言葉にダイナは目を瞬いて彼を見上げた。

「天気もいいし、俺も久しぶりにゆっくり出来るしな。ピクニックでもしよう」

 嫌か?と問われ、首を振る。

「よし、じゃあ決まりだ」

 アルフレッドはニッと笑った。

 着替えを済ませた後、ダイナはアルフレッドに連れられ、草原に連れてこられた。

「この辺にしよう」

 アルフレッドが赤いチェック柄のシートを敷き、その上にバスケットを置いた。

「マダムたちに借りたんだ」

 得意げに笑いながらアルフレッドがバスケットを開く。中にはサンドイッチと果物が入っていた。

「卵のサンドイッチだ。こっちはハムとチーズも入ってる」

 アルフレッドがサンドイッチをひとつ掴み、かぶりついた。

「うん、うまく出来た」

 食べてみろと促され、ダイナもサンドイッチを取って一口頬張った。程よいハムとチーズの塩気と、しゃきしゃきとしたきゅうりの食感が相まって口元が緩んだ。

ダイナはサンドイッチを咀嚼しながら目の前に広がる景色を眺めた。

 突き抜けるような空から陽光が降り注いでいる。さわさわと草や木の葉を揺らしながら、心地いい風が吹き抜けた。遠くで鳥の鳴き声が聞える。穏やかな春の空気に包まれるようだった。

「お前に見せたいものがあるんだ。ついて来てくれ」

 ランチを食べ終えた後、ふとアルフレッドがそう告げた。ついて行くと、小川のそばに青い花があった。蝶のような花びらをつけたそれは、よく見知った花だった。

「綺麗な花だろ。お前に見せたかったんだ」

 青いスイートピーが風に揺れている。母の笑顔が頭の中に浮かび、ぽろぽろとあつい雫がダイナの目の縁から零れ落ちた。

「ど、どうした、嫌なことでも思い出させたか?」

 おろおろと狼狽えるアルフレッドにゆっくりと首を振る。

「これ……ママが好きだったお花なの」

 数ある花の中で、スイートピーが何よりも好きだと、物心つく頃から母によく聞かされていた。

「ママが、パパにプロポーズの時に貰ったお花なんだって」

 お花屋さんで買ったものじゃないからちょっと萎れちゃってたけど、すごく嬉しかった。そう言って母は微笑んでいた。

「そうか……大切な思い出なんだな」

「うん」

 ぽん、と手のひらがダイナの頭に載せられる。

 両親と過ごした日々が、走馬灯のように駆け巡った。目の縁から涙がとめどなく溢れ出す。

 晴れた日は家族三人でよく出かけた。

小川に行って、父に釣りを教えてもらった。大きい魚が釣れたときはみんなではしゃいだ。

 野原で花冠を作ったこともあった。母に教わりながらシロツメクサで花冠を作るのが楽しくて、夢中になって練習した。うまく作れた花冠を父と母にプレゼントすると、二人とも嬉しそうに微笑んでくれた。

 雨の日は母とよくスコーンを焼いた。はじめは焦がしたり、分量を間違えて粉っぽくなったりしたけれど、父はいつも美味しいと言って笑っていた。そんな何気ない日々が楽しくて、幸せだった。

「ありがとう、アル。わたしをここに連れてきてくれて」

 ダイナは花が綻ぶように微笑んだ。

 アルフレッドは眦を緩め、再びダイナの頭を撫でた。

「なあダイナ、青いスイートピーの花言葉知ってるか?」

 首を傾げると、アルフレッドが微笑んだ。

「やさしい思い出。お前にぴったりだと思ったんだ」

 アルフレッドの言葉に息を呑む。

 知らなかった。きっと母も知らなかっただろう。

 花言葉を聞いて、ダイナにとって青いスイートピーがもっと特別で、かけがえのない花になった。

「これからもこのお花を見るたびに、パパとママのことを思い出せる。だから、もう大丈夫」

 そうか、と呟いてアルフレッドが目を細めた。

「この花、持ち帰って飾ろう。お前のパパとママもきっと喜んでくれるだろう」

「うん」

 部屋に飾って、二人に花言葉を教えよう。いったいどんな顔をするだろう。想像すると、父と母が顔を見合わせて嬉しそうに微笑む顔が浮かんだ。

 亡くなった人とは二度と会えない。けれど、思い出はいつまでも胸の中で生きている。ダイナは青いスイートピーを見つめながら、両親と過ごした日々を思い浮かべた。

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