不思議な缶コーヒー

菜乃ひめ可

珈琲


「行ってきます」

 誰もいない部屋。


 僕はいつも通り、決まった時間に家を出て仕事へ出掛ける。満員の電車に乗って、ほぼ同時刻に会社近くの駅に着くといつも通り、足早に改札口を出た。


 避けられない人混みをすり抜け、ようやく会社へ到着。同僚に挨拶をして席に座り、パソコンの電源を入れ数十秒――僕は少しだけ目を閉じる。


(今日は何時に帰れるだろう)


「はぁ」

 そう思う毎日が同じ繰り返しのようで思わず、溜息がでていた。



 大手珈琲ブランド会社に入社してからはや十年。

 これまで様々な仕事をこなし今は、商品開発部署の主任だ。


――とにかく一生懸命、頑張ってきた。


 目を開けいつもの一言ひとこと「さて、今日も頑張りますか」と自分を鼓舞し、業務開始。


 しかし今日、そんな僕のすさんだ心を呼び覚ますような出来事が、起こった。


「主任! おはようございまぁす、新商品企画見ました!?」


「おはよう、メールで確認した」


 嬉しそうに話をする後輩は、実家が茶屋なのになぜか珈琲会社に就職した、新入社員である。周りの目も優しい一年目、まだ世間の荒波にもまれたことのない彼女は、毎日が新鮮だとワクワク仕事をしている。


「それで?」


「えっと……え?」


「え? じゃなくて。新商品、どう思った?」


 僕が聞いたのには訳がある。

 この会社は珈琲一筋で創業五十周年を迎える。しかし最近、代替わりした息子が継いでからというもの、会社のイメージが変わりつつある。


――僕はそれが、あまり好きではない。


 そんな後輩の答えは。

「画期的だなって感じです!」


「画期的……感じ?」


「あ、なんていうか挑戦って思うんです!」


 挑戦――!

(その瞬間、僕は何か忘れていたものを思い出したかのように、胸が鳴った)


 その気持ちを隠すように目線をパソコン画面に戻すと「お茶どうぞ」と何かが横に置かれた。


 見るとまだ何のパッケージもない缶コーヒーだ。


「これ!! 新商品味見♪」


 あの上手い珈琲豆の味が、缶コーヒーで出せるはずは――。


 ゴクッ。

「え?!」


「え!!」

 彼女の表情はキラキラと、どこか希望に満ち溢れている。


「香りが……いや違う」


「違うって?」


「何というか……まぁ良い」


「えー!? 何ですかそれぇ」


 僕はこの時、思い出したのだ。


 自分がなぜ? この会社を選んだのか。

 十年で忘れかけていた、珈琲への情熱。


「この味は、研究チームの努力だな」


 その思いが結集した缶コーヒーは、豆を挽きドリップしたコーヒーとはまた違う、不思議な上手さを味わわせてくれた。

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不思議な缶コーヒー 菜乃ひめ可 @nakatakana

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