誰にも言えない恋をした

東 里胡

第1話

 冬の匂いがした。

 吐いた息は、白くグニャリとした形になってボワリと消える。

 かじかむ指先に、ほうっとそれを吹きつけてから夜空を見上げた。

 この大都会まちでは雪はあまり降らない。

 それなのに見上げた空には、鉛色の厚い雲が広がり、月を隠していた。

 まるで今にも雪が落ちてきそうな気がして、スンとひとつ鼻先で息を呑む。

 懐かしい冬の冷たい匂いに鼻孔が反応すると同時に、胸の奥までツンと切なくなって――。

『冬の匂いがする』

 私を見つめてくれた優しい笑顔。

 あれから幾度めの冬が来る。



「冬の匂いがする」

 クンクンと鼻をひくつかせて夜空を見上げる彼に習って、同じようにあたりを嗅ぐ。

 土やアスファルトが凍てつく前の予兆みたいな鼻の奥がツンと冷たくなる独特の匂いに、なるほどと頷いた。

「夏の匂いとは全然違うんだよね。雨が降る前の匂いとも」

 またこの時期が来た。

 明日の朝には、白い世界が広がってるかもしれない。

 子供のようにワクワクするのはほんの一瞬で、その後はひたすら長く本格的な冬が訪れるのだ。

 早く春になれ、いつもならすぐにそう思うだろうに。

 今年に限っては春なんか来なければいい、永遠に冬の始まりのままで、今という時を止めて――。

 そう願ってしまえば涙が零れちゃいそうで、首に巻いたマフラーを鼻の上までひきあげた。

「見えるか? 冬の大三角形」

「大きい三つの星? 右上のがベテルギウスでいいんだっけ?」

「正解! ベテルギウスと右側にある小さな星たちで形成されたのがオリオン座だ」

「さそり座嫌いの?」

「そ、さそりの毒で死んだって言うね」

 並んで星空を見上げるふりをして、彼の横顔を胸の奥に焼きつける。

 春までしか一緒にいられないこの時間が一瞬一瞬、大切で苦しくて。

「寒い?」

 私の視線を感じたように見下ろした彼が差し出してくれたのは片方だけの手袋。

 受け取って左手にはめると、素肌のままの右手を温もりが包み込む。

 つま先に視線を落とし、自信なく寄り添うのは誰かに見られたら、なんて罪悪感からかもしれない。

 不安な思いをからめた指先に少しだけ力を込めると、同じように握り返してくれる大きな手のひら。

 だけど、何度告白したって、いつも笑ってはぐらかされてきた。

 曖昧に笑って、だけどこんな風に私の手をしっかり握りしめてくれるから、離れられずにいる。

 私のこと、どう思ってるの?

「こんなにたくさんの星、東京では見れないよね」

 まるで宝石箱をひっくり返して散りばめたようなこんな星空は、夜も明るい街じゃきっと見られるわけがない。

 苦笑した彼は余裕ぶって笑う。

「星が見たくなったら、たまには帰ってくればいい」

 ずるい、ずるい、ずるい。

 会いに来い、じゃなくて、帰ってくればいいだなんて。

 いっそ行くなって言って? 私のことを、ここに繋ぎ止めて。

「ねえ、好きだよ?」

 いつものように口をついて出るのは、彼への想い。

「ありがとな」

「また、それだけ」

 あと何度言葉にしたら思いは伝わるのだろう?

 いつもと同じ答えに不服そうに唇を尖らす私に目を細めて。

 いつもなら「それだけ」って、クスクス笑っているだろう彼が不意に真面目な顔をして。

「天野が大学受かって、卒業してこの町を離れる時に」

「え?」

「その時に必ず返事をする。それじゃダメか?」

 強く強く握ってくれる指先から伝わる体温。

 ダメじゃない、と頭をふった私に、あなたが――、担任せんせいがまた微笑んでくれた。

 

 イケナイ恋をした。

 二年生になって、先生が担任になて。

 進路や友達のこと、家族や部活や色んなことを打ち明けてきた。

 いつの間にか、学校のどこにいても彼を捜していた。

 見つけた視線の先で絡み合う視線。

 あなたも同じように私を捜していてくれた、きっと気のせいじゃなかったよね。

 去年の冬、塾の帰りに偶然出会って、寒さを理由にして初めて手を繋いだ。

 それから塾の日は、帰宅途中にある神社の境内で待ち合わせて、こうして内緒で手を繋ぐだけの関係。

 寝ても覚めても、想いは募って決して消えることなく、少しずつあふれ出す。

 沸騰した鍋から零れてしまったような彼への想いを口にしては、ずっとはぐらかされてきたというのに――。


「返事、期待してもいいの?」

「え?」

「え――? 違うの?」

 またからかわれたのかと泣き出しそうになる私の手をひいて彼は神社の前にある仄暗い間接照明の前に立ち、指をさす。

 その先には神社の壁に映る二つの影。先生と私のもの。

 私の肩に両手をおいて、影を見ながら首をかたむけた先生。

 二つの影がキスをするみたいに重なる様に、胸の奥にあふれ出したものを堪えきれずに。

「期待しちゃうんだから」

 泣き笑いをした私の頬に触れた指先が、そのまま唇に降り優しくなぞる。

 はじめて、先生の指先が私の手以外に触れてくれた。

 ただ、それだけ、本当にそれだけ。

「また明日な」

 家の近くまで送ってくれた先生の背中に手を振って見送る。

 角を曲がり見えなくなるまで何度も振り返ってくれた先生のくれる返事は、きっと、そう――。

 甘い予感に包み込まれて、約束の日を夢見て眠りについたその夜。

 今年初めての雪が静かに降り積もり、町を覆った。

 雪なんか生まれてから何度も見ているはずなのに、登校途中に手のひらで溶けた雪の結晶のはかなさに、心がギシリと音を立てる。

 見上げた空には分厚く広がる雪雲、果てしなく果てしなく広がっていく白い世界に、なぜだか胸騒ぎがして。

 早く先生の顔が見たくなって学校へと急いだのに。

 その日、先生はいつまで待っても教室に現れなかった。

 しばらくして青ざめた顔をし教室に飛び込んできた副担任が発した言葉に、私はまだ夢の途中なのではないかと耳を疑う。

「夕べ、坂本先生が赤信号を無視した車に撥ねられて……」

 

 ウソだ、ウソだ!

 絶対にウソだよ、ウソだって言ってよ!

 何度も何度も先生に会いに、一人神社への階段を上った。

 もう忘れてしまいそうな温もりを捜して、あの笑顔に会うために。

 私を見つめてくれる微笑みに、もう一度逢いたくて――。

「返事、くれるって言ったじゃん……、ウソつき、先生のウソつき」

 明けない夜に持って行き場のない悲しみを無理に飲み込ませた日々の中、春になり私はあの町を離れた。

 彼の返事を聞くこともできないまま、あの頃の自分はまだどこかで泣き崩れたままで。


『冬の匂いがする』

 ベランダから見上げた空から、たった一粒ポツリと落ちてきたのは、雪なのかもしれない。

「雨降りそう? 中に干そうか?」

 洗濯物を干しに来たまま、いつまで経っても部屋に戻らない私を、心配して来てくれた夫が顔を覗かせた。

「雪になるかもしれないよ? 冬の匂いがする」

 そう笑う私に、南の生まれの彼は苦笑いをして。

「冬になる度に絶対そう言うよな」

 共有しえないその匂いを必死に嗅ぎ取ろうとして。

「わからん」

 という呟きと小さなクシャミをした。

「今夜は中に干すよ、寒いしね」

 さあさあ、と夫の背中を押して一瞬振り返った夜空。

 雲の切れ間に見えたベテルギウス。

 都会でもベテルギウスは見えるんだよ、先生。

 冬の匂いの中で、あなたの笑顔が見えた気がして、胸の中何度も焦げついた場所がジリッと痛む。

 今もまだ、この季節だけは――。

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誰にも言えない恋をした 東 里胡 @azumarico

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