サイコパス診断
珍宝島
第1話
布団から出るのが億劫になるような冷え冷えとしたこの季節に、世の子どもたちはこの日だけは早々と起きて、枕元や飾ったツリーの下を躍起になって探る。今日はクリスマスだ。だけれど、僕にとっては、今日も相変わらず億劫な日々のうちの一日にすぎなかった。うちのサンタクロースはもういないのだ。
三年前父が亡くなった。交通事故だった。初めはあまり実感がなかったというか、それ以上に、現実に起こる変化の方が、僕がその死を受け止めるよりも早く、深刻だった。その昨年から住み始めた一軒家のローンは母のパートの収入だけでは到底払いきれなかった。僕はそれまで通った学校の友達にさよならを伝える間もなく、聞いたこともない街へ引っ越すことになった。幸い、保険が降りたおかげで、ローンのほとんどは払い終わったけれど、残りのローンと固定資産税を払い続けることは厳しいらしかった。いずれにしてもそのまま住み続けることはできないと聞かされた。
父との思い出はあまりない。父は仕事が忙しくて帰ってくるのも遅いし、中々遊んでもらえることも少なかったからだ。ただ、幼い頃、夕方まで自転車に乗る練習に付き合ってくれたこと、リフティングのコツを教えてくれたことだけは、やけに鮮明に覚えている。でも、それだけだ。僕は次第に、父に対して恨みに似た感情を募らせていった。それが謂れのないものであることは自分でも分かっている。それでも、夜になると今の生活の厳しさやこれからどうなるのかという不安が押し寄せてきて、ふつふつと言いようもない感情が沸き起こってくる。そのぶつけどころのない感情の波をどこかにぶつけなければ、自分の精神が危うかった。今はサッカーボールも自転車も持っていない。欲しいと思わないでもないけれど、いつもガス料金の請求書を前に苦しいとぼやく母にモノを要求することは憚られた。実際、父が亡くなって以来、サンタクロースが来なくなったのは、それほど生活が困窮しているということの証左だった。
僕はほんとうに億劫だった。できればずっと布団の中で目を瞑って寝ていたかった。それで、起きたら全てが夢であってくれたならどんなにいいかと、いつも思う。
それでも僕は起きる。起きなければならない。もし僕まで起きてこなくなってしまったら、母さんがすごく悲しむと思うから。
僕は勢いよく布団を跳ね除けた。瞬間、冷気が身体を浸して、ぶるぶると身体が震える。そして心中は、清々しい気持ちで満たされる。この冷気が不安も気怠さも、全て払い去ってくれるのだ。カーテンを開くと、まだ暗かった。
居間で朝食の準備をする。油を引いたフライパンに卵を落とすと、ジュワジュワと鳴りながら卵の焼ける良い匂いが辺りを漂い始める。僕は腹の虫がギュルギュルと唸るのを意識しながら、うっとりとしていた。すると、
ガチャリ
と、玄関の鍵が開く音がした。初めは、母がどこかに出かけたのかと思って気にしていなかったけれど、しばらくして母が寝返って壁をドンと蹴る音がしたから、違うとわかった。僕はキッチンから恐る恐る玄関を覗いた。するとそこには、玄関からはみ出るほど大きな何かが、キレイにラッピングされた状態で置いてあるのが見えた。僕は急いで駆け寄った。そこにあったのは、自転車だった。ただ自転車だけではなかった。その横に、これまたキレイにラッピングされたボールが置いてあった。僕はなぜだか父のことを思い出した。よりにもよってこの2つが置かれているというのはどこか恣意的な感じがした。なにか胸からこみ上げてくるものがあった。高揚感や気恥ずかしさ、これまで飲み込んでしまってした感情が喉元まできたのを必死でせき止める。混乱のせいもあったのかもしれない、ある確信が僕の中に芽生えた。その確信は、玄関の開く音と目の前のプレゼントと僕の中にある父の記憶とを結びつけるものだった。
気がつくと僕は、玄関を飛び出していた。鍵は開いていた。裸足で階段を駆け下りる。足に感じるコンクリートの冷たさも気にならなかった。なぜ飛び出したのか、なぜ起こるはずもない馬鹿げた妄想じみた確信にここまで必死になるのか、自分でも分からなかった。もしかしたら、クリスマスという日付のもつ神聖な感じが、そのような奇跡めいた出来事の可能性を信じさせたのかもしれない。
道路に出て、左右に広がる道路を見回した。目を細めて遠くまで見たけれど、結局誰もいなかった。
段々と身体に熱が戻ってくるのを感じた。ゴツゴツとしたアスファルトの冷たさがいやに染みる。喉が震えた。口から吐き出される白い息と一緒に、さっきまで堰き止めていたものがいまにも溢れ出ようとしていた。
ぐっ……ひぐっ……
初め、その咽ぶ声が自分から出ていると分からなかった。歯を食いしばって必死に耐えようとしても、その分涙として目からぼとぼとと零れ落ちていってしまう。泣いている自分が恥ずかしくて、上を向いて袖で目を覆った。現実のあまりの速さに追いつくのが精一杯で、受け止められなかったものの全てが、今ここに呼び戻されてきたようだった。必死で目を拭っても、次から次へととめどなく涙が溢れ出てくる。
気がつくと、奥に見える住宅の群れの後ろが微かに明るくなっているのが見えた。早く泣き止まないと。そう思うものの、その場から動くことすらままならなかった。今ここですべてに向き合わなければならないのだと悟った。住宅の群れの屋根々々の輪郭が段々と白い光で縁取られてゆく。ああ、もう日が出てしまう。すでに焦げてしまったかもしれない卵焼きのこと、冬休み中に嫌いな算数のドリルをやらなければならないこと、沖縄に行くと自慢していた友達のこと、取り留めのない考が次々と頭に浮かんできた。もう手放さなければいけない。いままで自分を苦しめてきたもの、それでいて自分を守ってくれてもいたもの。重さを。再来してくるものたちの重さを。
少しすると、目の前がピカリとして光で溢れた。それはほんとうじゃない。目に膜のように張った水滴のレンズ越しの陽光が、そう見えたのだ。僕は、また袖で目を拭った。もう涙は出て来なかった。ふいに冷えた緩やかな風が傍を通り抜けて、熱の籠もった身体から熱を奪っていった。熱だけではなく、すべて、父の死のすべてを。ながい映画を観ていたようだった。事実、それはながい葬式だったのだろう。ひどく迂遠で象徴的な葬式が今終わったのだ。終わったことを告知されたのだ。終わった。終わってしまった。それは喜ばしくも一抹の切なさを孕んだもの。人生のほんの断片にすぎないもの。いつか終わるべくして終わるものが、今終わったのだ。苦しさはなかった。明日からは、普通に起きることができるような気がした。
*
言いしれぬ不思議な脱力感から、ぼーっと立ち尽くしているところを母に見つかってしまい、「なにやってんの!」とどやされた。朝起きるとどこにも僕がいなくて、外に出た形跡があったから、びっくりして玄関を飛び出したら、すぐそこの道で僕が泣いているのを見つけたらしく、吃驚したやらなにやらと言っていた。僕は玄関に置かれた自転車とボールのことを恐る恐る母に聞いてみた。「サ、サンタ……なんじゃない、知らないけど。」とぎこちなく言ってから、「早くご飯食べましょ、今日は私も休み取ったからゆっくりできるわ。」と誤魔化すように言った。僕はなんだかがっかりしたような、むしろ嬉しいような、若干の気恥かしさも混じった曖昧な気持ちになって、家に入って落ち着くまでずっとモジモジしてしまった。その日の夜は、母がピザを頼んでくれて、ちょっとしたクリスマスパーティーをした。お風呂に入ったら母が買ってきてくれたケーキを食べようと楽しみにしていたけれど、風呂に入る前に眠たくなってしまって寝てしまった。次の日の朝、母、もといサンタさんから貰ったサッカーボールで久しぶりにリフティングをしてみると、自分でもびっくりするほど下手くそになっていた。
*
視界が光りに包まれたあとのほんの一瞬、人が見えたような気がした。目の前に真っ直ぐに伸びる道の先に、目を細めないと見えないくらい遠くの方に。ぼんやりと。それで、とても遠くにいるのに、髭の一本一本や顔のシワまでもが、やけにくっきりと見えた。縁が白くてモコモコしている赤い服を着ていて、同じような感じの帽子をかぶっていた。それに加えて、大きな白い袋を手にもっていて、中には何も入っていないようだけれど、おおきなものを無理やり詰め込んでいたようなシワがあった。別に、太ってはいなかった。手をズボンのポケットに突っ込みながら、僕の方を見てにっこりと笑っていた。その姿は、自転車に乗れるようになってはしゃいでいた僕を、後ろで眺めていた父の姿に似ていた。
サイコパス診断 珍宝島 @chintakarazima
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