龘の雲霓
神木
龍歸奔
薄く桃色に染まった
月と夜の気がたっぷり溶け込んだ朧浞桜の夜露は、様々な薬の原料になる。いくらあっても困らない。
広口の陶器の壺の口を、頭上の花に
枝を傾けて、こぼれないように雫を瓶に向ける。わずかに粘性を帯びた雫が花弁を滑っていき、瓶に落ちる。と、と底に露がぶつかってささやかな音が散った。
着物の袖が肩に少しずつ落ちてくる。しかしまだ寒い季節ではない。だから瑛嶺は気にせずに夜露を集めていく。
水滴は陶器の底に当たる硬質な音が、やがて水面を打つ音に変わる。瑛嶺は頬を緩める。まだ十分な量ではないものの、朧浞桜の露が溜まるのは今後の仕事にも有利になる。
薬湯や膏薬、いくらでも使い道はあるのだが、精製の難度が高く、実際に薬として使うにはそれなりの操作が要求される。他の薬師と競って集めなくてもいい。ほかの材料と比べれば、立ち位置としては「あれば仕事がはかどるが、無理して集めるには使いにくい」という程度なのだ。
瓶が満ちるまで、のんびり集めればいい。
そうしたら夜明けまで眠って村に帰る。
楽な仕事である。
手の届く範囲の夜露を取り終えると、瑛嶺は次の朧浞桜に移る。
と。
顔を上に向けた瞬間に、何かが夜空をよぎった。
光に目を刺されて、瑛嶺は目をしばたたかせる。
——ほうき星、か?
しかしただの星にしては眩しすぎる。都で一度見たことがあるが、その比ではない。
ならば龍だ。
瑛嶺は掴みかけた枝から指を離して、夜陰を切り裂いて輝くものを見つめた。
「はあ……」
瑛嶺の唇から、淡い息が漏れた。
目を奪われたのだ。
深く濃い闇を割り開き走る光の流れ、その真ん中に、薄く長い影がある。
真夜中にはありえざる七色の
龍は珍しくはあるものの、朧浞桜の群生地ほど山深いところでは出くわしても不思議ではない。瑛嶺の荷物には龍に出遭ったときのための酒の瓶だってあった。
しかし、この光は別だ。彼らの身体が発散する
でもそれでもいい、と瑛嶺は思った。
これだけ美しいのだ。目が潰れてしまってもおかしくない。そしてそれさえ惜しくない。
瑛嶺は立ったまま、
◇
そして米と漬物の朝食をかき込む瑛嶺をにやにや眺めながら、
「お前の夢はうまいなあ」
と言う。
自然の洞窟に蓙を敷いただけのねぐらだ。一人分の膳に一人分の食器。足を崩している
「夢をおやつにするのはいいけどさ、悪趣味だぜ」
「今日は川に行け」
溜息。
濕灕靇は大抵の場合、会話を成立させる気がない。言いたいことを言って、聞きたいことだけ聞く。最後の米を漬物と一緒に飲み込んで聞き返す。
「水は足りてると思うけど」
「たわけ。汲んでこいなど私は言っておらん。川に行け、と言ったのだ」
「………」
振り向く。
薄く湿った黒い鱗に覆われた蛇体に、鈍色の
龍である。
しかし虹霓龍とは一線を画している。虹霓龍が麗人とするならば、濕灕靇を名乗る黒龍は酒好きの老人である。
「……分かったよ」
機嫌よさそうに濕灕靇は頷き、身体に挟んだ瓶子に細長い舌を浸した。
「何も持っていかなくていいからなあ」
そういう濕灕靇に従って、瑛嶺は何も持たずにねぐらを出る。水場は遠くない。
往復が繰り返されて、瑛嶺に踏み固められた獣道を進んでいくとすぐにせせらぎが聞こえてくる。
そこに、華やかな——華やかだっただろう着物を着た少女が倒れていた。川辺の石の中で紅染めをした絹の着物が鮮やかに映えている。婚礼服だ。しかし袖も裾も破れていた。履物もない。
ない、というか、そもそもその足では履くことすらできなかっただろうけれど。
手も、脚もそれは人の形をしていない。身体の細さからするとまだ年若いが、不釣り合いに太く頑強な輪郭。そして四肢は翡翠色の鱗に覆われていた。
「
そして発呪した者を龍の妻として山に追放するのである。雨を呼ぶ龍に身体が近づくので、むしろ縁起物として扱う里もあると聞く。
彼女に近づくが、意識がない。抱え上げる。凄まじく熱い。龍の体温まで引き上げられるから、熱くてたまらず川に入ろうとしたのだろう。
濕灕靇は、この少女が川に倒れていることを伝えたかったらしい。
口で言えよ、と瑛嶺は思った。
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龘の雲霓 神木 @kamiki_shobou
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