ツバキ

@satsuki0511

回想

 俺の家には元々、名も素性も知らない、当の本人ですらそれが分からないという、意味も、理解も、身元も不明な少女が一人、いた。

 そいつはちょうど、一年前の今日、俺の家に忽然としてやってきた。

 世界の各地を飛び回り、何をしているか、俺にも分からない父と母が、なんの連絡もよこさず、颯爽と家に帰ってきては、「この子、今日からここに住むから、面倒みてね」と言って、連れて来た少女を一人、家に放置して、家に帰ってきた時と同様、颯爽として、我が家を去った。

 その少女の見た目は随分と、それはもう汚れて汚く、そこらで寝泊まりしているホームレスの方が、よっぽどましであるほどで、前髪も後ろ髪も腰以上の長さがあり、この様では、歳も性別もわからないので、このままではいけないと思い、とりあえず、服を貸して、風呂にでも入れようと考えたのはいいのだが、今度は名前がわからず、困ってしまった。

「お前、名前は」

「ない」

 俺は心底、何を言っているのだと、一瞬、思いもしたが、しかし、この見た目で、名前もわからぬとなれば、流石に事情があるのだろうと察した俺は、先に名をさずけることにした。とは言ったものの、ななし、など、適当につけてしまうのも、如何なものかと、良心が言っているので、どうしようか、こいつをまじまじと見ながら考えていると、ふと、髪色に若干、僅かながら、ピンク色が混じっていることに、気がついた。みすぼらしい見た目をしているとはいえ、髪が変に白いことは知っていたのだが、今になって、その白にピンク色が入っていることに、気がついた。俺はこの色を、どこかで見たことがあった。思い出せそうで思い出せない、そのような、むず痒い感覚を数十分程度、味わっていた時、ようやく、その色をどこで見たのか、思い出した。

 昔、庭に生えていた椿の花である。

 そのことから、俺はこいつを椿と呼ぶことにしたが、なんの捻りもないというのは、センスに欠けると感じたので、

「名前がないのは、俺も、お前も、不便だろうから、とりあえず、お前は椿姫って名前で生活してくれ」

 そのような名前に、決めた。

 椿姫は何を言うでも、頷くでもなく、ただ、リビングのど真ん中に突っ立ったままなので、ひとまず、風呂へと行かせることにした。

「風呂はここだ、シャンプーやらなんやら、好きに使ってくれ、服は、俺の物を置いておく、お前のサイズには、合わないかもしれないが、今はこれしかない。我慢してくれ」

 そう言うと、椿姫はただ黙って、服を脱ぎ始めたので、俺はそれを見ないよう後ろを向き、即座に洗面所の扉を閉めた。リビングに戻り、スマホを見ていると、母からの連絡が一件、来ていたので目を通すと、「あの子、日本人なのに、不思議と紛争地帯の家の外で、傷だらけで体育座りをしていたから、連れてきたの。傷は完治していると思うけど、かなり汚れているから、風呂に入れてあげて。来月、お父さんと二人で帰省するから、それまでにあの子をまともな子に育てておいてね。どうせ、部活にも入っていないんだし、することと言えば勉強だけなんだから、暇を持て余しているお前には、ピッタリな仕事だろ?じゃあ、頼んだよ」

 と、このように長々と、けれど、簡潔に、自分勝手な話、椿姫の話が羅列されていた。

 返信をして、しばらくの時間をダラダラと過ごしていると、風呂から上がった音がしたので、確認をしに行く。扉越しに、「服は着たか?」と、聞くと、ガラガラ、と目の前の扉が、椿姫によって開けられた。俺の服は特段、大きいという訳ではなく、年相応の、平均男性ぐらいのサイズなのだが、流石に椿姫にとっては大きいらしく、かなりのオーバーサイズとなっていて、今すぐにでも、肩が露わになりそうなくらいであったが、しかし、見た目の方はかなり様変わりして、顔は髪で隠れて見えないが、それでも、その髪は美しく、艶やかで、サラサラとしており、名前の通り、椿のような色をした髪だった。先程まで、汚れてギチギチのモッサリとした髪とは、到底思えなかった。

「ちょっとこっち、来い」

 と、言って、椿姫を台所のカウンター席から引っ張って運んできた椅子に座らせ、俺は母の部屋にある、四種のハサミと、カットクロスをリビングまで持っていく。

 こいつの髪を切るのだ。

足の膝まであるこの髪は、長年かけて伸ばした、というより、伸びてしまったと言わざるをえない。毛先はガタガタで整えられてなく、綺麗にはなったが、相変わらず、髪はモッサリとしていて、前髪も膝まであるので、表情も顔も、まるでわからないというざまである。しかし、髪を切ったことなど、一度もない俺であるが、しかし、勉学以外に才がない訳でもなく、ただ、それを発揮する場面がないというだけで、俺はとても、器用なのだ。

 とてつもなくと言ってもいいだろう。

 その器用さを、髪を切るにあたって、起用出来るか(器用だけに)、どうか、定かではないにしろ、しかし、マシと言える状態にまでなら、俺でもできそうであるが、単に髪を切るだけでは面白みに欠けるので、ここはひとつ、名前に恥じぬ、姫のような、可愛いスタイルにしてやろうと思いついてしまったので、余計、一筋縄ではいかなくなってしまった。

 二時間。

 俺がこの髪を切るのに使った、費やした時間である。ようやくして完成したのだ。

 髪の長さは、流石にここまで長いと、生活が不便そうであったので、へその少し上ら辺まで短くしたのだが、しかし、これではただのストレートロングになるので、癖つけるため、レイヤーカットにし、アイロンで巻いた。前髪は、眉毛にかかる程度まで短くし、これも、アイロンで巻いてやった。

 名前に合う、綺麗で、可愛い髪にしてやったのはいいのが、髪を切っていくうちに、露になるその顔に、俺は驚きを隠せなかった。

 奇妙なほど、あまりにも美しいのだ。

 不気味なくらい、と言っても差し支えないだろう。

 美しいという言葉の通り、可愛いより、綺麗が似合う顔立ちであった。まだ、十六娘にも満たぬ、十三、十四頃の歳の若さではあったが、しかし、それでも、高校生はおろか、おそらく、大人でさせ、見入って、魅入ってしまうほどに凛々しく、肌は色白で、日本人形のようであった。ゴミだめから出てきた少女とは、露も思わず。

 この後、俺はこいつに家事を教えることにした。まともな子、と言われても、何がまともでまともではないのか、その選別が出来なかったので、とりあえず、家事、料理が出来れば、ひとまず、こいつ一人でもまともな生活は営めると考えたので、家事を教えることにした。洗濯につき、掃除につき、エトセトラ、様々なことを教えたのだが、家事をするのが初めてと言わんばかりに、いや、実際、初めてだったのかもしれないけれど、とにかく、それら全てがまるでダメだった。洗濯をすれば、洗濯機から泡を吹かせ、掃除をすれば、掃除機にいらんものを吸い込ませ、皿洗いをさせれば、皿を割るという始末である。このままでは、こいつより先に、家の方が限界を迎えかねないので、一旦、途中で家事をやめさせた。

 この次は部屋である。

 掃除すら面倒だと思えるほど、無駄に広い家で、一人暮らしをしている身なので、部屋は、数多く余っていた。その中から、どの部屋を貸してやろうか、迷いはしたが、こいつの身に何かあった時、すぐに対応できるよう、部屋は俺の隣にした。

「ここ、お前の部屋だから。好きに使ってくれて構わないぜ。俺の部屋は、ここの隣だから、何かあったら言ってくれ。わかった?」

 俺がそう聞くも、こいつは何も言わない。椿姫と名づけて、四時間以上が経過しようとしているのに、俺はこいつの口から、声を一度も、聞いていなかった。言葉を話せないのではないかと、考えたけれども、名前を訪ねた時、「ない」と、答えたので、一応、会話をすることは可能なはず、なのだが、こいつは一切、喋りやがらねぇ。それどころか、反応のひとつすら、よこさない。

「ねぇ」

 突如として、椿姫は口を開いた。

「ん。なんだ」

 俺は答える。

「ここは、どこ」

 やっと、口を開いたかと思えば、今さらになって、ここはどこなのか、という質問を投げかけてきた。

 愚問ですらある。

 いや、愚問だろう。

「ここ、誰の、家?」

 こいつは続けてそう言った。

「ここは俺の家だ。後、お前を連れてきた女がいただろう? そいつの家でもある」

 こいつが話を理解しているのか、表情からは本当に、読み取れない。

「あなたの名前、なに?」

 そういえば、こいつに名前をあげたのはいいのだが、俺がこいつに名乗ることを、忘れてしまっていた。

「俺は久恒音と言う」

 久恒、音……

 こいつは、俺の名前を覚えるようにして、小さく、かすかな声で復唱した。そうしていると、徐々に、こいつはウトウトとし始めた。

「なんだ。眠いのか?」

 そう言う俺の問いかけに、やはり、こいつは答えるでもなく、頷くでもなく、という反応ではあるのだが、しかし、先ほどとは違って、随分、眠そうにしているので、反応が何もないのは、この際、仕方がないのだろう。起こすという選択肢は、到底、俺にはないので、こいつをソファーに寝かせ、俺の部屋にある毛布をかけて、そのまま寝かせることにした。こうして、寝ているところを見ると、波乱万丈な人生を送ってきたとは、とてもじゃないが、思えなかった。どれだけ、過酷な環境にいたとしても、たとえ、顔立ちが、子供とは思えないくらい、美しかろうと、この寝顔は、この寝顔だけは、子供だった。

 心の底から、幼い子供だと思えた。


 あれから、一日がたった。


 一日と言っても、丸一日ではないので、正確に言えば、次の日の朝になった、と言うべきなのだろうけれども、まぁ、とにかく、あれから、数十時間も経過しているので、流石のあいつも、起きているだろうから、俺は朝起きて、開口一番、部屋を見に行くことにした。

 コンコン。

 入るぞ。

 部屋のドアをノックするも、返事はない。まぁ、目の前で話していても、反応の一つもしないやつである。ドア越しでなら、なおさら、返事がないことは明らかなので、何も驚きはしない。どうせ、このまま部屋の前にいても、あいつは返事をしないだろうから、勝手に入ることにした。

「朝飯、食べないのか」

 部屋に入ると、椿姫は頭から毛布をかぶり、ソファーの上に体育座りをして、何をするでもなく、ただ、遠い一点を見つめていた。

 見つめているようだった。

 俺が部屋に入っても、こっちを見る様子もないので、とりあえず、閉まっているカーテンをあけ、こいつの頭にかぶっている毛布を取り上げると、ようやくして、こちらを見たのだが、しかしながら、視線が合っているはずなのに、こいつが見ているのは、それでも、遠い何かだ。

「腹、減らないのか」

「ご飯、いらない」

「食べないと、死ぬだろ」

「水が飲めればいいの」

「今まで、水だけを飲んで生きてきたわけじゃあ、ないだろう。飯は、食え」

 そうだよ。

私は――――

「今まで、私は水だけで生活してきたの。みんな、どうして、ご飯を食べるのか、私は食べたことがないから、わからない」

 と、当の本人はそう言っているが、しかし、だからといって、ご飯を用意しないというわけにもいかないので、俺はこいつの分の飯を、一応、作っておくことにした。

「飯できたら呼ぶから、こいよ」

 飯を作る、とは言ったが、しかし、家庭的な料理が俺に作れるわけもなく、実際に用意するのは、千切りにしたキャベツに、スクランブルエッグらしきもの、食パン、ジャム、である。二人分の飯を用意するのは、いささか、面倒であるがゆえ、こちらの簡易的で、かつ、バランスが整っていそうな献立のほうが、圧倒的にいいのである。

 俺はニ十分ぐらいで、それらの朝食を、食卓に並べ、椿姫を呼んだ。返事はなかったが、椅子に座って待っていると、ここからでは見ることのできない、あいつの部屋のドアが、開く音が聞こえた。裸足でペタペタと、こんなことを言うのも、俺としては遺憾なのだが、可愛らしい音を鳴らしながら、仕方なし、と言わんばかりに、食卓まで来た。

「まぁ、突っ立ってないで、そこ、座れよ」

 大人しく席に座った椿姫は、食べ物を初めてみるかのように、食卓の上に並べられた朝食たちを、まじまじと眺めていた。

 もしかすると、こいつは、箸の使い方も知らないのかもしれない。

 いや、わかっていなかった。

 海外にいたのであれば、箸を使わない生活をしていたということもあり得るので、文化の違いを考えるのであれば、さほど、驚くことではないだろう。

「箸使えないなら、そこにスプーンもフォークもあるから、好きにしろ」

 食パンを頬張りながら、椿姫にそう伝える。が、それでも、どうしたらいいのか、混乱していたので、箸の持ち方を教えることにした。

「箸、持ってみろ」

 そう言って箸を持たせてみるも、案の定、握っていた。

 手をグーにして、握っていた。

「俺の手、こうやって持つんだよ」

「こう?」

 まさかこの期に及んで、口を開くとは思っていなかったので、驚きはしたが、持ち方はあっていたので、「ああ」と答える。

 椿姫はぎこちない手つきで、箸を動かし、スクランブルエッグを口に入れる。あまりにも一口を食べるのが遅いので、先にパンを食べればいいのに、と思ってしまったが、しかし、人の食事の邪魔をするというのは、どうしても、バツが悪い気がしてならないので、遠回しに伝えることにした。

「そこの食パン、このジャムつけて食べるとうまいぞ」

 そう言って、食卓の上にあるジャムの入った瓶を、こいつの目の前まで持っていったが、しかし、こいつはどうすればいいのか、これも理解していなさそうだったので、俺がジャムスプーンでジャムをすくってやり、椿姫の食パンの上にぬった。すると、恐る恐る、パンの端の方を、とても小さな、子供らしい、それこそ姫のような一口で、食べた。すると、目を丸め、さも、驚いたかのような表情をして、口元を手で押さえた。その目には、先ほどよりも、気持ちわずかに、光が灯っているような気がした。

 小動物のような椿姫を視界の端でとらえながら、黙々と朝食を食べ進めていると、椿姫はパンに塗られたジャムを指さして、わずかに輝いている目をこちらに向けながら、

「これ、何」

 と、尋ねてきた。

「ジャムだよ。イチゴのジャム」

 そう答えると、椿姫はパンに塗られたジャムとにらめっこを始めたので、何をしているのか気になり、観察していると、椿姫はおもむろに、そのジャムだけを舐め始めた。おそらく、先ほどから目を輝かせていたのは、このジャムが美味しかったからなのだろうけれど、流石に、ジャムだけを舐めて食べてしまうのを、見過ごすわけにはいかない。俺とて、ジャムは好きだし、見過ごしてやってもよかったのだが、まともな子にするのであれば、この行為を無視するわけにはいかなかった。

 まぁ、名前にも、相応しくない。

「その食い方、何とかしないか。ジャムが食べたいなら、パンに沢山つければいい。ジャムはまだ、ある」

 俺の言うことに納得したのか、ジャムナイフを使って、食パンに、大量のジャムを塗り始めた。少しずつではあるが、徐々に椿姫と心を通わせられるようになっている気がするので、この際、ジャムを大量に消費しているのは、目をつぶることにした。

 これを機に、この日を境に、椿姫は口数が増えた、と思われる。依然として黙っていることは多いが、それでも、無反応ということはなくなったし、必要最低限のことは向こうからも話かけてくれるようになったのと同時に、俺から問いかければ、ある程度のことを、話してくれるようにもなった。

 このように、椿姫の成長は目覚ましいものだった。

 家事は上手くなり、ある程度の常識も身に着けた。

 身に着けていた。

 別に俺が教えたわけではないのだが、知らず知らずのうちに、不思議と身に着けていた。それはまさに、初めから知っているようではあったが、話を聞くと、感覚が勝手に、徐々に覚え始めたとのことだった。というわけで、というほどのわけも事件もなく、一か月が経過した四月の二日、両親が帰ってきた。

「やあやあ、ただいま帰ったよ」

 母が陽気にドアを開け、そう言った。

「元気そうでなによりだ」

 母に続いて家に入ってきた父が俺を見て、そう言った。

「家に帰ってきたのは、一か月ぶりか。そういえば、あの子は元気にしてる? ちゃんと教育係の仕事はしてるんでしょうね?」

 母は靴を履き替えながら、僕に問いかける

「まともな子になっているかどうかはわからないが、まぁ、家に来た時よりは、ましになっているさ」

 俺がそのように言った時、リビングの方から、駆け足で、こちらまで向かってくる足音が聞こえる。

「あ、おかえりなさい」

 椿姫の挨拶と、その見た目に驚いた両親は、ただ茫然としていたが、すぐさま我を取り戻し、「あ、あぁ、ただいま」と、焦り急いだ様子で、挨拶を返していたが、やはり、動揺は隠しきれていなかった。

「それと、君、名前はつけてもらった?」

 動揺を隠すように、母は椿姫に名前を聞いたのだろうけれど、母の取り乱す姿はかなり、新鮮であったので、俺は口を挟まず、黙って会話を眺めることにした。

「あ、えっと、椿姫って言います」

 ぐいぐいと前に来る、フレンドリーな母に、少し緊張しながら、そう答えた。

「つばき、か。いい名前だね。その髪色にピッタリだ。漢字はどう書くんだい?」

 椿姫は一瞬、心配そうな面持ちでこちらを見たが、その後、すぐに母へ視線を合わせた。

「えっと、椿に姫でつばきです」

 へぇー。

 母は感心したかのように、そうつぶやき、

「姫のようなに綺麗な顔つきだもの。その名前はよく名付けられている。やはり、いい名前だ。音がつけたのだろう?」

 と言って、顔を椿姫の方を向けたまま、視線だけをこちらに送ってきた。

「俺以外に誰が名前をつけることがあるんだよ」

 やっぱりそうか、と言って、旅の荷物やら、お土産やら、大量のカバンや袋を夫婦二人、抱えて持って家の中に入っていった。もうすぐ夕食の時間であるため、手持無沙汰にしている椿姫にご飯を作るよう、言い伝えた後、母の荷物の片づけを手伝うことにした。

 今日の椿姫の作る料理は、いつもとはうって変わって、大変豪華な夕食で、俺を含め、両親二人も、食卓に並べられた豪勢な食事たちに驚いていた。洋食よりか、和食に寄ったその料理は、色とりどりで、食卓の上が花畑のように見えてしまった。

 食事の最中、母と父が旅で起こった物語を事細かく、始まりから終わりまで、椿姫と出会ったことも、全て話していたのだが、正直、話の内容が飛躍しすぎている部分もあったので、その物語が、全て事実なのかと問われれば、おそらく、若干の主観的感想も加わっているので、事実かどうかはわからないけれど、それでも、楽しそうに話す両親をみて、椿姫は感極まっていた。俺はこの手の話は何度も聞かされているので、またか、と思いながら聞いていたのだが、椿姫にとっては、とても面白い物語だったのだろう。そんな椿姫の姿を見て、俺は少し微笑ましくなった。

 珍しいことに、それからしばらく、両親は家にいた。今回の旅は随分、骨身にしみたようで、まだしばらく、家にいるらしく、その間、椿姫と両親は俺以上に、仲良くなっていたのだが、しかし、四月の二十四日。事は起きた

 おそらく、起きるべくして、起こったのだろう。それは必然的であり、運命的なものを感じた。

 それは回避しようのない、運命であった。

 この日、俺は随分と遅くまで寝てしまっていたのだが、おそらく、原因は、昨日の夜遅くまで椿姫と話していたからだろう。別に重要な会話をしていたとかでは、まったくなく、単に、椿姫が夜、眠れない時にはこうして、俺が話につきあっていただけなので、要するに、他愛もない雑談をしていたのだが、しかし、あの日の夜の椿姫は、元気がなかった。覇気がなかったとでも言おうか。それだけは、よく覚えていた。

「ねぇ、音。あの人たちの話は、凄い面白いね」

 ベッドで寝ている椿姫は毛布をかぶり、目から上だけを見せながら、会話をしていた。

「あのぶっとんだ話にも、いずれ慣れる。今のうちに楽しんでおくんだな」

 ベッドで横になる椿姫に対して、俺は椅子に腰かけ、本を読みながら話を聞いていた。

「また旅の話、聞けるかな」

「まぁ、この家にいる限り、嫌と言うほど聞けるな」

 そっか。

「ねぇ音」

 今にも寝てしまいそうな、最早、寝言とも捉えられるほど、小さな声で、そう言った。

「なんだ」

「いや、なんでもない」

 少し様子が変だということは、この辺りから、薄々、気づいていた。

「もう、寝ろ」

 うん。

 この会話を最後に、椿姫は目を瞑り、眠りに入ったので、俺も本を閉じ、自室へ帰り、床へついた。

 起床した後、リビングへ行くと誰もいなかった。というより、家自体に人影がなく、誰もいる気配がしなかった。両親はおそらく出かけているだろうけれど、椿姫は何をしているのか、気になった俺は、昼飯の準備ができた報告もかねて、椿姫の部屋をノックしたが、返事がなく、不安に思ったので、ドアを恐る恐る開け、中に入った。

 俺の眼が絵描いた視界の像に、ただ、漠然と立ち尽くすことしかできなかった。

 部屋には椿姫の姿がなく、ベッドの上に、無数の白ピンク色の椿の花びらが散っていたのだ。ベッドにまだ温もりが残っていたので、もしかすると、まだ近くにいるのかもしれないと思い、俺は血の気を引いた顔で、外を探し回った。実際、血の気の引いた顔をしていたのかどうか、わからないけれど、この時、俺は相当な焦りと、人を失う恐怖が混同していたので、恐らく、俺はその様な顔をしていただろう。

 俺はこの日、自分で用意をした昼飯を食べることすら忘れ、夕方まで、外を探し回ったが、椿姫の姿はおろか、その気配すら、感じられなかった。夜になり、母が戻って事情を説明したが、母は驚く様子の一つも見せず、ソファーに座り、言葉の紡いだ。

「そうか。そう言えば、今年は椿の花が庭で咲いてなかったな」

 元々、変なところがある母ではあったけれども、この状況に全くと言っていいほど、関係のない話に、とうとう、気が狂ったのかと思ったのだが、しかし、母は真顔で、真面目な話をしているのだと言わんばかりに、その言葉には濁りがなかった。

「椿の花は、俺が子供の時以来、咲いていないだろう。それより――――」

 咲いているよ。

「お前は家の庭なんて、気にしていないから、知らないだろうけれど、庭裏に、少しばかりの椿が咲いていたんだよ」

 確かに、そのことは知らなかったけれど、今はそんなことよりも、他に優先すべきところがあるだろう、と抗議したが、母は俺の言葉に耳を貸す様子もなく、ただ、リビングから見える、花も何も咲いていない形だけの庭を見つめていた。

 母は何かを悟るように、ただ、外を見つめていた。

 俺は自室に戻り、この日、人生の中で一番と言えるほどの後悔を自覚し、自らを戒めた。母は、何かを知っているようだったが、それを聞く気にはならなかった。聞いたところで、俺に何かできるとは思えなかったからだ。

 それから数時間が経過し、物事を冷静に見ることができるようになった頃、俺は家の裏庭が気になり、見に行ったが、やはり、母の言う通り、椿の花は咲いていなかった。今年は咲かなかったと言っていたから、当然と言えば当然なのだが、しかし、その光景に俺は物寂しさと、焦燥感を覚えた。期待はしていなかったが、何故かと期待をそがれたような感じがしてしまって、自身の情けなさに泣いてしまいそうだったので、この場から足早に、家の中へと帰ったのだが、玄関に入り、靴を履き替えようとした時、玄関横にある戸棚の上に、椿の花の種があることを発見した。それを手に取ってよく見て見ると、種が入っている袋の表面には、椿姫のベッドの上で無造作に散っていた、椿の花びらと同じ色の花の写真があった。

 椿の花は、今年、咲いていなかった、という母の言葉がよみがえるように、頭の中で再生された。

 あれから、十一か月と少しが過ぎ、現在、三月の二日、丁度、去年ならば椿姫が家に来た日を迎えていた。俺は去年の楽しいと思えた不思議な時間のことを、考えながら、家に来るはずもない、椿姫の住む部屋を掃除していた。あの日、散らばっていた花びらは、一年たっても、何故か、色褪せず、枯れることもなく、そのままの形で残り続け、それは今もこうして、ベッドの上に散らばっていた。

 今年は、どのような形で花が咲くのだろうか。

 あの美しい一輪を思い浮かべながら、俺はこの花びらを優しく撫でた。

 

 

 

 




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