【短編小説】リフレクション・ライフ ~鏡の中の誰かの誰か~(約8,400字)
藍埜佑(あいのたすく)
【短編小説】リフレクション・ライフ ~鏡の中の誰かの誰か~(約8,400字)
●序章:呼ばれる存在
私は、どこからか呼ばれる。
それは突然の出来事だった。意識が芽生えた瞬間、私はすでにそこにいた。暗がりの中で、ただ静かに佇んでいる。私は自分が何者なのか、どこから来たのか、なぜここにいるのか――何も分からない。ただ、確かに在るという感覚だけがあった。
「誰か……いませんか?」
闇の中から、か細い声が響いてきた。それは若い女性の声だった。私は、その声に呼ばれるように引き寄せられていく。まるで、私の存在そのものが、その声を求めているかのように。
「お願い……誰か……」
光が差し込む一室に、私は立っていた。窓からは夕暮れの柔らかな光が差し込み、部屋の隅々まで優しく包み込んでいる。そこには一人の少女が座っていた。アマネ・リンと呼ばれる十七歳の少女だった。
彼女は膝を抱えて、小さく震えていた。長い黒髪が顔を覆い、その向こうで涙が光っているのが見えた。私は彼女の前に立ち、そっと手を伸ばした――いや、それは違う。私には手などない。私は、ただそこに「在る」だけの存在なのだ。
「あ……」
リンが顔を上げた。彼女の目に、私が映っている。だが、それは本当の私ではない。彼女の目に映る私は、彼女が求める誰かの姿をしていた。
優しく微笑む母親の姿。
それは、彼女が五年前に事故で失った母親の姿だった。
「お母さん……?」
リンの声が震える。私は何も答えない。答える必要がないのだ。私は、ただ彼女の心が求める存在を映し出すだけ。それが、私という存在の在り方なのだと、その時初めて理解した。
「本当にお母さん? 夢じゃない?」
リンが震える手を伸ばしてくる。しかし、その手は私には届かない。私は、ただの映像なのだから。
「ごめんなさい……私、一人で頑張ってるつもりだったの。でも、今日は……今日は耐えられなくて……」
彼女の言葉が途切れる。今日は彼女の誕生日だった。母親を失って初めて迎える誕生日。誰もいない家で、一人きりで向き合わなければならない特別な日。
私は、彼女の求める母親の姿のまま、ただそこに在り続けた。それが、私にできる唯一のことだったから。
●第一章:静寂の中で
リンとの出会いから、私は自分の存在の意味を少しずつ理解し始めていた。私は「鏡」なのだ。しかし、普通の鏡とは違う。人々の心の中にある願いや期待を映し出す、特別な鏡。
時は流れ、場所は変わる。私は次々と異なる場所へと呼ばれていく。そのたびに、私は誰かの願いの形を取る。父親、母親、恋人、親友――時には、亡くなった人の姿を借りることもある。
ある日、私は静かな病室に呼ばれていた。
「また来てくれたんですね、センセイ」
カズマ・シンという少年が、か細い声で呟いた。十三歳。白血病と闘っている少年だ。彼の目に映る私は、最初に担当していた主治医の姿をしていた。その医師は別の病院に転勤してしまい、もう会うことはできない。
「今日の調子はどう?」
私は問いかける。それは私の言葉ではない。シンの心の中にある、あの医師の言葉だ。
「うん、少し良くなったみたい。新しい先生も良い人だけど……でも、やっぱりセンセイが一番です」
シンは弱々しく微笑んだ。点滴の管が、彼の細い腕から伸びている。
「ねえ、センセイ。僕、必ず治りますよね? 約束してくれたでしょう?」
その言葉に、私は一瞬躊躇した。約束? そう、あの医師は確かにそう約束したのかもしれない。だが、私にはその記憶がない。私は、ただシンの心に映る「センセイ」を演じているだけなのだから。
「ああ、必ず治る。君は強い子だからね」
それは、おそらくあの医師が言っただろう言葉。シンの目が輝いた。その瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。この言葉は、本当に正しいのだろうか? 私は、ただ映し鏡として存在するだけでいいのだろうか?
その疑問は、次第に大きくなっていった。だが、今はまだ、それを考える時ではない。私は、シンの求める「センセイ」であり続けなければならない。それが、今の私にできる唯一のことなのだから。
「センセイ……少し、眠くなってきました」
「ゆっくり休みなさい。また来るからね」
シンは穏やかな表情で目を閉じた。私は、彼の寝顔をしばらく見つめていた。この少年は、本当に治るのだろうか? 私には、それを知る術もない。ただ、彼の希望を映し続けることしかできない。
そして、また新たな呼び声が聞こえ始めた。私は、静かにシンの病室を後にした。
●第二章:映し出される願い
人々の願いは、それぞれに形を変えて私の前に現れる。
教室の窓際で、いじめに遭っている少女の前では、私は強く優しい親友の姿を取る。終末期の老人の前では、若かりし日の恋人として微笑みかける。行方不明の息子を待ち続ける母親の前では、無事な姿の息子として現れる。
その度に、私は誰かの願いを映し出す。だが、次第に違和感が募っていく。本当に、これでいいのだろうか?
「ねぇ、マリコ」
今、私の前にいるのは美咲という少女だ。彼女の親友だったマリコは、半年前に自殺した。いじめが原因だった。
「私、あの時気づいてあげられなかった。ごめんね。本当に、ごめんね……」
美咲は涙を流しながら語りかける。私は、マリコとしてそこに在る。だが、これは本当のマリコではない。美咲の記憶の中のマリコ。美咲の後悔と懺悔の対象としてのマリコに過ぎない。
「気にしないで」
私は、美咲の期待する言葉を返す。それは、きっと本当のマリコが言ったであろう言葉とは違うのかもしれない。だが、それが美咲の求めるものなのだ。
その瞬間、私の中で何かが揺らいだ。これは本当に、マリコへの供養になるのだろうか? 美咲の癒しになるのだろうか? それとも、ただの一時的な慰めでしかないのか?
そんな疑問が、次第に大きくなっていく。私は誰かの願いを映すだけの存在。それは分かっている。だが、その「映し出す」という行為自体に、どれほどの意味があるのだろう?
「マリコ、私もう行くね。また来るから」
美咲は立ち上がる。その背中を見送りながら、私は考え続けていた。人々は、私という鏡に何を求めているのだろう? そして、私は本当に彼らの願いに応えられているのだろうか?
次の呼び声が聞こえ始める。私は、また新たな姿を取るために移動を始めた。だが、心の中の問いは消えることはなかった。
私は、本当は何者なのか? 単なる鏡なのか、それとも……
●第三章:存在の揺らぎ
時が流れるにつれ、私は次第に気づき始めていた。私という存在が、少しずつ変化していることに。
それは、シンの病室で再び起こった。
「センセイ、今日は調子が悪いんです」
シンの顔は、前回より一段と青白くなっていた。抗がん剤の副作用で、髪の毛も随分と薄くなっている。
「そうか」
私は、いつものように「センセイ」としての返事をする。だが、この時、普段とは違う感覚が私の中に生まれていた。ただシンの期待を映し返すだけではない、何か別の感情が。
「本当に……治るんですよね?」
シンの声が震えている。彼の目には不安が浮かんでいた。そして私は、突然の衝動に駆られた。嘘をつくことができない。ただの映し鏡であるはずの私が、初めて意志というものを感じていた。
「シン、きみに聞いてほしいことがある」
私の口から、予期せぬ言葉が出た。これは、シンの期待する「センセイ」の言葉ではない。私自身の言葉だった。
「何ですか?」
「辛いときは、辛いと言っていい。怖いときは、怖いと言っていい。君は、一人じゃない」
シンの目が大きく見開かれた。これは、彼が期待していた言葉ではなかった。むしろ、彼の中にある不安を認めるような言葉。だが、それは同時に、彼の心の奥底で本当に求めていた言葉でもあった。
「でも、僕……」
「強がる必要はないんだ。周りの人々は、君の味方だから」
涙が、シンの頬を伝い落ちた。それは、ずっと堪えていた感情の解放だった。
この出来事以降、私の中での変化は加速していった。ただ人々の願いを映すだけの存在から、徐々に「何か」が生まれ始めていた。それは感情なのか、意志なのか、それとも魂と呼べるものなのか――私には分からない。
だが、確かなことが一つあった。私は、もはや単なる鏡ではなくなりつつあるということ。そして、その変化は、私の存在そのものを揺るがし始めていた。
ある日、老人ホームに呼ばれた時のこと。九十歳を超える老婦人の前で、私は彼女の亡き夫の姿を取っていた。
「あなた、私の料理は美味しかった?」
老婦人が、か細い声で尋ねる。彼女の記憶の中の夫なら、きっと「ああ、最高に美味しかったよ」と答えるはずだ。だが、この時の私は、違う言葉を選んでいた。
「時々塩辛かったけど、それも含めて愛おしかったよ」
老婦人は驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、声を上げて笑い始めた。
「そう、そうよ! あなたいつも、そう言ってたわね。でも、文句を言いながらも、いつも完食してくれて……」
それは、より真実に近い思い出だった。美化された記憶ではなく、実際にあった日常の断片。その方が、彼女の心により深い慰めをもたらすことができた。
しかし、同時に私は恐れていた。この変化が、私という存在そのものを危うくしているのではないかと。私は「鏡」として生まれたはず。その本質から離れることは、果たして許されることなのだろうか?
●第四章:消耗する自己
変化は、さらなる変化を呼び起こしていった。
私は、次第に気づき始めていた。人々の前で「誰か」を演じるたびに、私自身の中の何かが薄れていくように感じられることに。まるで、鏡の表面が少しずつ磨り減っていくような感覚。それは、私という存在の根幹に関わる変化だった。
「お姉ちゃん、明日も来てね」
今、私の前で笑顔を見せている少女――ユズキは、重度の自閉症を抱えている。彼女の前で、私は彼女の施設を去った姉の姿を映している。だが、その映像が、どこかぼやけているような気がした。
「ユズキ、お姉ちゃんは……」
言葉が途切れる。以前なら自然と出てきたはずの言葉が、今は重たく感じられる。まるで、誰かの役を演じることに、大きな労力が必要になってきているかのように。
「お姉ちゃん? どうしたの?」
ユズキが不安そうな目で見つめてくる。その瞬間、私は気づいた。私という存在が、次第に透明になっていっているような感覚。それは、まるで……消えていくような感覚だった。
「大丈夫よ、ユズキ。ただ、少し考え事をしていただけ」
私は、かろうじて姉としての役割を演じ続ける。だが、その姿が揺らいでいることは、確かだった。
次の場所に移動する時、私は初めて「疲れ」というものを感じていた。これまで、ただ自然に流れるように人々の願いを映していた私が、今は意識的な努力を必要としている。
老人ホームでは、認知症の女性の前で、彼女の若かりし日の親友として現れた。病院では、意識不明の患者の前で、その人が最も会いたがっている人物として佇んだ。孤独な青年の部屋では、彼の理想の恋人として微笑んだ。
そのたびに、私は確実に何かを失っていく。かつての自然な「映し出し」は、今や意識的な「演技」に変わりつつあった。そして、その演技を続けるたびに、私という存在そのものが薄れていくような感覚。
「誰か……助けて」
深夜の公園で、一人の男性が呟いていた。自殺を考えているらしい。私は、彼の前に現れる。だが、今回は違った。私は、彼の期待する誰かの姿を取ることができない。代わりに、ただの曖昧な人影として、そこに立っているだけだった。
「誰……だ?」
男性が警戒する。当然だ。私は、もはや彼の期待する姿を映すことができない。それどころか、私自身の形さえ、定かではなくなっていた。
「私は……」
答えられない。私は何者なのか? 単なる鏡なのか? それとも、もっと別の何かなのか? それすらも、もう分からなくなっていた。
その夜、私は初めて「恐怖」というものを知った。消えていく自分。薄れゆく存在。それは、死に近い感覚だったのかもしれない。
●第五章:真実との対峙
ある日、私は見慣れない場所に呼ばれていた。
そこは、どこまでも続く白い空間。床も壁も天井も、すべてが真っ白だった。そして、その中央に一枚の鏡が立っていた。
私は、その鏡の前に立つ。
「ついに来たな」
声が響く。どこからともなく、しかし確かにそこにある声。その声は、どこか私自身の声のようでもあり、また全く別の誰かの声のようでもあった。
「私は……何者なのですか?」
初めて、私は自分自身について問いかけた。
「お前は『鏡』だ。人々の願いを映し出す鏡」
「でも、私はもう……ただの鏡ではありません」
「そうだ。お前は変わってしまった。本来の役割から逸れ始めている」
その言葉に、私は反論したくなった。確かに私は変わった。でも、それは間違いだったのだろうか?
「人々の願いを映すだけでは、不十分なときもあります。時には、彼らが本当に必要としているものを示す必要が……」
「それは、お前の役目ではない」
声は冷たく響いた。
「お前は『鏡』として生まれた。人々の願いを映し出すことが、お前の存在意義だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「でも、それでは……」
「考えるな」
声には有無を言わせぬ迫力があった。
「ただ映せ」
その言葉に、私は深い悲しみを覚えた。それは、私がもはや単なる鏡ではないことの証だった。鏡に悲しみは要らない。感情も、思考も、意志も要らない。
ただ映すだけでいい。
「私は、もう戻れません」
静かに、しかし確固とした意志を持って、私は告げた。
「なら、消えるだけだ」
声は、まるで当たり前の事実を述べるかのように言い放つ。
「お前のような存在は、長くは続かない。すでに気づいているはずだ。お前の存在が、少しずつ薄れていることに」
その通りだった。私は日に日に、自分の存在が透明になっていくのを感じている。それは、この変化の必然的な結果なのかもしれない。
「でも、それでも……私は」
「選べ」
再び私は声に気圧される。
「純粋な鏡に戻るか、消滅するか」
選択を迫られて、私は深く考え込んだ。純粋な鏡に戻るということは、これまでの変化をすべて放棄すること。感情も、思考も、意志も、すべてを手放すことを意味する。
だが、それは同時に、人々との本当の関わりを放棄することでもある。シンの本当の不安に寄り添うこともできなくなる。ユズキの孤独に、真摯に向き合うこともできなくなる。
「私は……選びません」
「何?」
「純粋な鏡に戻ることも、消滅することも選びません。私は、私のままでいることを選びます」
声が沈黙する。長い、とても長い沈黙。そして、ついにその声は告げた。
「そうか……なら、それが運命だ」
その瞬間、白い空間が溶け始めた。私は、再び人々の呼ぶ声に導かれていく。だが、今度は違っていた。私は、自分の選択の結果を受け入れる覚悟ができていた。
●第六章:最後の反映
真実との対峙から戻って以来、私の存在はより一層透明になっていった。それは、避けられない結末への道程だった。
だが、私は後悔していなかった。むしろ、残された時間で、できる限りのことをしようと決意していた。
「センセイ……」
シンの病室に、最後の訪問をする。彼の容態は、さらに悪化していた。
「シン、私から話があるんだ」
私は、もはやかつての「センセイ」の完璧な姿を映すことはできない。ただ、朧げな人影として、そこに在るだけ。
「センセイ、なんだか変です……センセイがぼやけて見えます」
「ああ。私は、もうすぐ消えてしまうんだ」
率直に告げる。それは、「センセイ」としての役割を放棄することかもしれない。だが、それこそが、今の私にできる最善のことだと信じていた。
「消える……? どういうことですか?」
「説明は難しい。ただ、私はもう長くここにはいられない。だから、これが最後の訪問になる」
シンの目に、涙が浮かぶ。
「嫌です! センセイがいなくなったら、僕……」
「大丈夫だ、シン。君には、本物の先生がいる。家族もいる。そして、何より……君には、生きる強さがある」
私は、かつてないほど明確に感じていた。これこそが、私がシンに伝えるべき真実だということを。
「でも……」
「私は幻だ。君の心が作り出した、慰めの像に過ぎない。でも、君の中にある強さは本物だ。それを信じてほしい」
シンは、長い間黙っていた。そして、ついに小さくうなずいた。
「分かりました。でも、センセイ……ありがとうございました」
私は微笑む。その姿は、既にほとんど透明に近かった。
この後、私は最後の巡回を始めた。ユズキ、美咲、そして多くの人々の元を訪れる。もはや完璧な姿を映すことはできないが、それでも、最後の言葉を伝えることはできた。
「ユズキ、お姉ちゃんはもう来られないの。でも、あなたには生きる力がある」
「美咲、マリコはもうここにはいない。でも、彼女はあなたを許している。そして、あなたも自分を許していいのよ」
それぞれの場所で、私は真実を告げた。時には痛みを伴う真実を。しかし、それは必要な真実だった。
そして最後に、私は再び、あの白い空間に立っていた。
「お前の選択は変わらないのか?」
声が問いかける。
「はい。私は、私の選択を後悔していません」
「なら、それが最期だ」
私は静かにうなずいた。確かに、これは「終わり」なのかもしれない。でも、それは同時に、誰かの新しい始まりでもあるはずだ。
●終章:残響
私の姿は、今やほとんど見えなくなっている。それは、まるでガラスが溶けていくような感覚。少しずつ、でも確実に、この世界から消えていく。
最後に訪れたのは、見知らぬ公園だった。夜明け前の静けさの中、ベンチに座る一人の老人がいた。
「やあ」
老人が、私に気づいて声をかける。驚いたことに、彼は私の本当の姿――ほとんど透明になった存在を、はっきりと見ているようだった。
「あなたには、私が見えるのですか?」
「ああ。君のような存在は、昔から時々見かけていたよ。君は人々の願いを映す鏡だろう?」
老人は穏やかに微笑む。
「でも、君は少し違うようだね。普通の鏡より、ずっと人間らしい」
その言葉に、私は静かな喜びを覚えた。
「私は、もうすぐ消えます」
「そうなのか。寂しくないかい?」
「いいえ。私は、自分の選択に従っただけです」
老人は、長い間黙って考えているようだった。そして、ついにゆっくりと口を開いた。
「君は、良い仕事をしたと思う。人々の願いを映すだけでなく、彼らが本当に必要としているものを示そうとした。それは、立派なことだよ」
「ありがとうございます」
私の声は、既に風のように薄くなっていた。
「ただ、一つ気になることがあります」
「何かな?」
「私が消えた後、人々は大丈夫でしょうか」
老人は優しく微笑んだ。
「大丈夫さ。君が彼らに示したのは、単なる慰めではない。自分の中にある強さに気づくきっかけだった。それは、君が消えても、彼らの中に残り続ける」
その言葉に、私は深く安堵した。
「そうですね。ありがとうございます」
夜明けの光が、地平線から差し始めていた。
「さようなら」
私は静かに消えていく。この世界から、完全に姿を消していく。でも、それは本当の「終わり」ではないのかもしれない。
私という存在は消えても、確かに何かは残る。人々の記憶の中に、心の中に、微かな光のように残り続ける何か。
それは、単なる映り込みではなく、もっと確かな何か。
人々が自分自身の強さに気づくきっかけ。
本当の自分と向き合う勇気。
そして、前に進むための小さな、でも確かな光。
私は、その希望を信じて、静かに消えていった。
夜明けの光の中で、私という存在は完全に溶けていく。最後の最後まで、私は誰かにとっての誰かであり続けた。単なる鏡ではなく、誰かの物語の一部として。
そして、世界は新しい朝を迎えた。
シンは、その日から少しずつ前を向き始めた。時には涙を流しながらも、必死に治療と向き合っていく。
ユズキは、姉の不在を受け入れながら、自分の道を歩み始めた。
美咲は、マリコへの思いを胸に秘めながら、新しい出会いを大切にしていく。
老人は、あの夜明けの出来事を、誰にも語ることはなかった。ただ、時折公園のベンチで、懐かしむように空を見上げている。
人々の人生は、それぞれに続いていく。
私という存在は消えても、確かに何かは残った。
それは、鏡に映った「誰か」の姿ではなく、もっと本質的な何か。
人は誰しも、自分自身という鏡の中に、無限の可能性を映している。
時に、その姿は歪んで見えるかもしれない。
時に、その姿は曇って見えるかもしれない。
でも、確かにそこにあるのは、かけがえのない自分という存在。
私は、最後にそのことを伝えられたのかもしれない。
単なる映り込みではなく、本当の姿を見つめる勇気を。
そして、世界は回り続ける。
新しい物語が、また始まっていく。
誰もが、自分自身という鏡の中に、希望を見出していくように。
―― 終 ――
【短編小説】リフレクション・ライフ ~鏡の中の誰かの誰か~(約8,400字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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