天蓋世界のにせ天使
はくし
第1話 にせ天使
今日も空には染みひとつない。
雲を編み出す辺境天使はきっちり彼らの仕事をこなし、からりとした青空に白い浮雲を編んでアクセントを添えている。
マーノは街への買い出しのために、澄んだ空気の森の坂を下っていた。彼の目には、空は前後に伸びるぎざぎざの帯に見えた。
それは断崖の見晴らし台まで彼を導いて、とつぜん一気に開けてその目を驚かせる。
崖からせり出した広いバルコニーの下は、すぐにエヴの町、橙色のレンガでできた建物の寄せ集め。もうこの時刻には、路地も広場も活気づいていることが、遠目にもわかる。
断崖の右手の向こうには、つづれ折の町へと続く階段。そして左手の向こうには土木天使の彫像。
マーノの背丈の5倍はある立派な体躯の天使像は、今日もチュニックからもりもりの筋肉でできた腕を持ち上げて、広い背中からはたくましい両翼を広げている……
はずだった。
天使像の翼は片方しかなかった。
昨日まで、いやたしか今朝窓辺から見たときとも様子が異なる。
エヴの町の創立祭で作られて、十年にわたって眼下の人々のくらしを見守ってきた由緒正しきランドマークが、知らぬ間に無残な姿に変わり果てていた。
マーノの足は自然と本来の行き先を逸れ、異変の現場へと向かう。
粉々に粉砕されて転がる石の翼の破片の中心に、べっとり潰れたトマトが落ちている。遠目にはそんなふうに見えた。
もっと近づくと、落ちているのは血みどろの人間であることがわかった。
実際には、それは胎児の姿勢で転がった小ぶりな天使だった。
背丈はマーノと同じくらいしかない。そのことを確かめるのに、マーノは天使を中心に広がる血の池に足を突っ込まないよう、うまく彫像の破片の上を渡り歩く必要があったし、いま一歩のところまでしか近づくことができなかったので、顔を近づけるためにしゃがんで首を伸ばす格好になった。
一般的に、人と天使が出会うのは死の場面でだ。
死を受け入れる準備が整い、親族に囲まれベッドで息を引き取ると、天から牽引天使が舞い降りて、死者の肉体を優しく抱いて昇天する。
残された人々は感謝の祈りを捧げ、天使がぶち破った屋根の修理を葬儀屋に言付ける。
まさに神聖と世俗が手を取り合う感動的な一幕、オーディエンスはときに通りを埋め尽くすほどになる。
眼の前に転がるズタ袋のような塊に、そんな神秘性は皆無だった。
時々肩やつま先が動こうとするが、痙攣だけしてもとのかたちに戻る。ではこれを天使だと思った理由はなにかといえば、まずは背中からだらりと広がった双翼だ。
すべての天使は翼を持ち、宙を舞うことができる。しかしその翼で空を自由に飛び回ることができるわけではないということは、誰もが知っている。
天使が有する、翼を持つという外見的な特徴と、天地を往復する神秘の機能とは、どこか深い領域で結びついた個別の特性なのだ。
「苦しい……死ぬ……」
天使判定の決め手は、翼だけではない。
翼と同じように血溜まりに広がり顔にもかかった、長い……赤黒い塊にまみれているが、おそらくは純白の髪。それと同じく(おそらく)潔白の袖のないチュニックに脛までを覆う編み上げサンダル。こんな格好をした普通人はいない。
そしてなにより……
「見てないで、助けろよ……!」
行き倒れみたいなことを言うな。そしてなにより、この出血量だ!
天使の落下地点を中心に広がる半径十歩の血の池は、その広がりだけでなく深さも驚異的だ。
粘土質の地面に、おそらく陥没、亀裂によって生まれた深みはそこに溜まった血液を乾くままにはさせず、風がそよげばその表面にさざ波が立ちさえした。
普通人がこの量の血を吹き出せばカラカラに干からびるか、その前に失血死してしまうだろう。しかし眼の前でうごめく落下物は、まだ死にかけの状態に留まっている……
〈ズズズズ……〉
「!?」
そのときにわかに、どこからか低い唸りが轟いた。その不吉な響きは、まるで龍の歯ぎしりのよう。
マーノが驚いて飛び上がると、周囲の赤い水面は不規則に、絶え間なく揺らいで禍々しい乱舞を演じている。
「もういい……どっか行け……!」
死にかけの天使が苛立ちの言葉を絞り出すと、ズン!と決定的な衝撃が空気を震わせ、重力の感覚が薄まった。
マーノと天使を道連れに、ひび割れた地面が、すなわちボロボロになっていた崖が、崩れ落ちていく……
マーノは信じられない俊敏さを発揮して、崩れゆく地面の切れ端を飛び移りつつ、一目散に崩落の只中を駆け抜けた。
本当に、信じられない身軽さだった。
その背中に、自分と同じ背丈の血まみれの天使を背負っているとは、とても思えない動きだった。
森の坂を登った先に、木造の大きな家がある。その敷地のまわりにめぐらした、低くて古い貧弱な柵は正面部分で途切れていて、短い小道で観音開きの扉へとつながる。
いま、その扉は開け放たれていて、小道に点々と続く血痕を家の中へ迎え入れている。
マーノは町に背を向け、家へ取って返していた。
ぐったりとした天使を背負ったまま、エントランスを通り、廊下を曲がり、重い足取りで食堂へ入っていくと、家主のベグルはいましも床にかがみ込み、子牛のように大きなリュックに荷物を詰め終えて苛立たしげに留め金をかけたところだった。
リュックにはピッケルやランタンを始め、手斧やフックやダガーなど、物々しい装備が雑然とぶら下がっている。
いかついブーツと頑丈なジャケットを身に着けた男は動きを止め、マーノを見ることもなく唸る。
「いま帰ってきたということは……」
そしてすっくと立つと、彼の背丈の大きさが明らかになる。
窓から差し込む逆光で、その印象はより際立つ。顎のたくましさや、眼光の鋭さによる威圧感も一段と増す。
「……買い物はしてないな。どうだ?」
マーノがかぶりを振ると、大男は深い溜息をついた。
「ピクルス……チーズ、挽肉、バンズ……それにケチャップ。お前は何も買わないで、手ぶらで帰ってきた。約束を守ると思って、俺は待っていたのに」
そう言って、ベグルは片手をそばのテーブルにつく……厚い天板と無骨な脚でできた屈強な食卓が、不安げなきしみを上げる。
「お前はハンバーガー抜きで行けっていうんだな……俺をあの野蛮の世界へと!」
ベグルはもう一方の手で背後の掃き出し窓から見える裏庭の更に向こうを指し示す。
生け垣も塀もない庭は、入口同様枯れた柵で区切られて終わり、その先の、材木の転がる空き地はどんどん荒れながら、背後の森に溶け込んでいく。
裏手の森は、まだ昇って間もない陽の光を受けながらも鬱蒼としていて、近寄り難い雰囲気をたたえている。
しかし、彼が指しているものはもっと別のものだった。
「言ったよな。俺は今日こそあの千年杉を討伐に行くと……」
彼の指さす先には、森の木々の作るぎざぎざの稜線から飛び出す巨大な一本の針葉樹があった。
それは天を引っ掻くほど高く屹立し、まるで人びとの営む全世界を見下す巨人のようだ。
「あれのせいで、この一帯の科学力は乱されているんだ。俺が文明の先鋒となって、魔の力に果敢に挑戦をする……お前はそれを、ささやかな奉仕の心で送り出す!約束したじゃないか!!ハンバーガーに含まれる科学力の豊富さを知らないわけじゃないだろう?それが冒険において、生死を分かつ要因だってこともだ!ああ、そうか……お前は俺に死んでほしいんだな。俺が冒険の最中で倒れたら、それはお前のせいだからな!!」
ベグルは言いたいことを一方的にまくしたてると、立ちすくむマーノを尻目に乱れた呼吸をゆっくりと整えた。
「ハンバーガー……ないのか……」
そう言って歯を食いしばると、乱暴にリュックを背負って裏庭に飛び出した。そのまま別れの言葉もなく、庭を横切り、柵を跨ぎ、空き地を直進し、ズシズシと裏手の森に消えていく。
そうして家には、血みどろのマーノと天使が残された。
調理場の魔法瓶に残っていたお湯をたらいに張って、タオルと一緒に運んできたマーノは、なにより先に片付けるべき問題が残っていることに気づいていた。
居間の真ん中には天使が横たわっている。それを中心とした赤黒い血溜まりは、またじわじわと広がりつつあった。
この際限のない流血の原因を突き止めないといけない。
冒険者であるベグルのねぐらには、回復のための道具はいくらでもある。どのキャビネットをかき回すべきかを見極めるためには……気は進まないがやるしかない。
マーノは天使を引きずってまだ汚れていない床の上に動かすと、上半身を起こして跪かせた。
外見上は、つまり四肢には大きな裂傷はない。長い髪をかき分けてみるが、頭に傷口があるわけでもない。
天使はもう憎まれ口も利かなくなっていたが、ぼんやりと意識は保っていた。
その証拠に、風変わりな服の脱がせ方に戸惑うマーノに、自分の肩の革紐を引っ張ってみせた。ただその動きは緩慢だった。
「……ありがとう」
マーノは言って紐をほどいた。礼を言うべきは天使の方じゃないか、とも思うには思った。
ひとまず、前面と背面を紐で縫い合わせた単純なつくりの衣服はそうやって半身剥がすことができた。
その構造は有翼の種族にとって実際合理的だった。背中側の布地は腰から肩に向かう途中で3パートに分かれていて、その隙間が翼を伸ばすための袖口となっていた。
これらは肩の革紐によってついでに固定できるようになっている。マーノは一応感心したが、やはり気になるのはここだ。
翼と背中のつなぎ目……鳥と人間の境目の部分。
彫像でも図像でも、うまい具合に誤魔化されて表現されてきた部分であり、マーノにとっては僥倖だった。
いや……そうであるはずだった。
血みどろで、すべてがてらてらした赤色になっているためそう思えるのだろうが、羽毛と地肌は意外にあっさりと接続していて、ただそれだけのものだった。
問題は翼と翼の付け根のあいだ、つまり背骨に沿って延びる、畝のような稜線。
それは正中で明確に窪んでおり、実際のところ……切れ込みになっていた。
マーノは出血の原因を突き止めた。しかしそれは傷口ではなかった。
まずその裂け目はほとんどピッタリと密着していたし、また不慮の事故でできたものではないことも明らかだった。もっとはじめからある、人為的なものだ。マーノには確信を持ってそう言えた。
裂け目は首筋近くの終端部で少しだけ開いていて、そこからだらだらと血が流れ出していた。
その洗礼を真っ先に受けるのは、閉じきっていない隠しジッパーの綴じ金具だった。
マーノが背中のジッパーを上げきると、
「痛てッ!!」
天使は叫んで身をすくめたが、逆に言えばその瞬間に体は機敏に動かせるようになっていた。そして天使の流血は嘘のように止まった。
天使はしばしの混濁からめざめ、あたりをきょろきょろと見回した。
そして傍らのたらいにホットタオルが浸かっているのを見つけると、迷いなく引っ掴んで自ら髪と体を拭い始める。
「いやー、助かったよ。ずいぶん手際がよかったけどきみ、
そんなふうに背後のマーノに喋りかけるが、相手がいっこうに反応しないのが気になって振り返った。
「なあ!……」
天使を見下ろすマーノの目は冷ややかだった。九死に一生を得たかっこうの天使の、脳天気な笑顔が固まる。
「……おまえ、天使か……?」
「……天使ですが……?」
その証拠を示すように、天使は元気よく翼を広げてみせる。
まだ羽に滴っていた血がしぶきとなって、飾り気はないが温もりを感じさせる木造の内装へ凄惨に飛散する。
天使はマーノにタオルを渡し、
「後ろ、お願いしていい?」
自分の都合だけを押し付けた。
天蓋世界のにせ天使 はくし @haxsie
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