第3話
俺は驚き、スマホに向かってあわあわと叫んだが、妻は拍子抜けするほどに平然とした口調だった。行きつけの居酒屋で飲み仲間と口論になって、ひと騒動起こしたらしい。
お義母さんが警察へ向かったというので、俺も急いで車を走らせた。
警察署に着いて受付で吉倉の関係者だと名乗ると、連絡するので待つように、とのことだった。
ロビーの一角にソファがあったので、そこで待つ。壁一面が、交通安全や特殊詐欺に注意、外出時には鍵をかけましょうなどなど、さまざまな啓発ポスターで埋め尽くされている。
夜の十時を過ぎているのに、ときどき人の出入りがある。制服警官もいれば、一般人もいる。俺のような立場の人間もいるのかもしれない。二十四時間体制の仕事なんだなあと、改めて思う。
十五分ほど待つと、奥から浩江さんが出てきた。いがぐり頭の、ずんぐりした男性が一緒だ。制服ではなくスーツ姿だから、私服の刑事なのだろう。年齢は五十代くらいか。俺を見つけると、浩江さんはほっとした表情になった。
「やあ、どうもお疲れ様です。えー奥さん、こちらは?」
気さくに俺に話しかける刑事に、浩江さんが答える。
「娘のつれあいです。涼士さん、こちら担当刑事の橋上さん」
「野川涼士です。このたびはご迷惑をおかけしました」
俺が頭を下げると、橋上刑事は、おっ、という顔をした。
「あ、じゃああなたが『ムコのリョウジ』さんですか。ははあ、ああ、いやいや、そうですか。うんうん」
なにやら
「奥さんにも説明しましたけどね。まあ、あれです、酒の上のちょっとした小突き合いですよ。お互い、飲み友達だそうでね。店の食器を割らしちゃって、それを見てた別のお客さんが慌てて110番したもんだから、警察も出動しないわけにもいかなくなったんでね。ま、反省の意味で、今夜は二人同房で留置場に泊まってもらいます。なので明日、迎えに来てあげてください」
たいした事件ではないとわかり、ほっとする。俺は浩江さんを乗せて、とりあえず吉倉家へ帰った。
留守番をしていた由利に経緯を話すと、由利は、そんなことだろうと思った、と言った。浩江さんもあまり深刻そうではない。夫、もしくは父の性格を知り尽くしているからだろう。
「涼士さん、ご迷惑かけるわねえ」
今夜は泊まって、明日車で迎えに行くと申し出ると、浩江さんは済まなそうにそう言った。それから、刑事に聞いた詳細を話しはじめた。
「相手は隣の町内会の、高校まで主人の同級生だった飲み友達なのよ。普段は無二の親友だなんて言っておいて、ほんと、酔っ払いって嫌よねえ」
「僕も何度かお義父さんと飲みましたけど、そんな酒癖の悪い人じゃないと思うんですけどね」
俺がこの一件を聞いたときから感じていた疑問を口にすると、浩江さんは思わず苦笑した。
「なに、お母さん、なんか知ってるの?」
「刑事さんから聞いたんだけどね。今日、お父さんいないから話すけど、本人には内緒ね」
そう口止めしてから、浩江さんは意外な話をはじめた。
「最初はいつも通り、楽しく飲んでたんだって。ところがそのうち、相手の人が涼士さんをバカにするようなことを言い出したらしいのよ。倒産した会社のヘボ社員だとか、野球で三振したとか、いろいろね。そしたらあの人、うちの
俺はあぜんとした。
こんなところで、自分の名前が出てくるとは思わなかった。刑事の『ムコのリョウジ』と言った言葉はこのことだったのだ。ケンカの原因としては、なんとも可笑しかったに違いない。
「ついでに言っちゃうけどね。うちは由利が一人娘でしょ。もう一人欲しかったんだけど、結局できなくてねえ。特にお父さんは、男の子が欲しかったのよ。涼士さんが結婚の挨拶に来たとき、息子ができたみたいに思ったんでしょうね、そりゃもう喜んでねえ。由利も知ってるでしょ?」
由利は思い出したのか、大きなお腹を撫でながら微笑んだ。
「そう。涼士が帰ったあと、ずっとニヤけてた。茶髪野郎だったらぶん殴って追い出してやれたのに残念だとか口では言いながら、機嫌いいのがバレバレだったよね」
「涼士さんが雇ってほしいって頼みに来たときもそうよ。緊急でもないのに、来やすいようにってわざと求人出してね。照れ隠しで面接なんかして。宮下さん、本当の息子さんみたいですねって笑ってたわ」
知らなかった。
義父が俺のことを、そんなふうに思っていたなんて。
「ああいう、とっつきにくい人だけど、
浩江さんはそう言って、俺に頭を下げる。
俺もまた、浩江さんに頭を下げた。
翌朝、俺と浩江さんは警察署に向かった。
義父は刑事にたっぷり絞られたらしく、ちょっと元気がなさげな、神妙な様子だ。
俺たちの姿を認めると、きまり悪そうな顔で「すまん」だか何か、そんなようなことを口の中でごにょごにょと言った。
帰り道の途中で問題の居酒屋に立ち寄って、謝罪をした。店主は食器さえ弁償してもらえばそれでいいと快く許してくれ、最後に言った。
「あなたが『ムコのリョウジ』さんですか。今度は、お義父さんと二人で飲みに来てくださいよ。それじゃ!」
ここでも不本意ながら、ムコのリョウジは知名度が高かった。
家に帰ると、由利が風呂を沸かして待っていた。
風呂から上がると、義父は俺の前に正座をする。
「迷惑かけてすまなかった。今日だけじゃなくて、いろいろとな」
俺は思った。
この人にこうやって謝罪されるようなことを、俺はされただろうか。
強引に野球に誘われたこと? この人はたぶん、息子と一緒に野球がしたかっただけだ。
警察の厄介になったこと? 車で迎えに行くなんて、たいしたことじゃない。酔ったはずみで口論なんて、誰でもあることだ。
問題なんて、なんにもない。
もうすぐ俺は父親になる。生まれてくる子には、この人たちは大事なおじいちゃんとおばあちゃんになる。
俺はこれからも、由利と、我が子と共に生きていく。由利の家族と関わりながら、迷惑をかけたり、かけられたりしながら生きていくのだ。
「お義父さん、春になったら、野球、教えてくださいよ。来年からは、子供にいいとこ見せなきゃいけないですから」
俺は、自分でも思いもしない言葉を自然に発していた。
義父は俺の言葉にきょとんとしていたが、やがて、二、三度、目をしばたたかせてから、本当に嬉しそうに言った。
「おう。俺の特訓は厳しいぞ。覚悟しとけよ」
「生まれたばっかりの赤ちゃんに、野球なんてわかるわけないじゃない」
そう茶々を入れた妻の声は明るい。
来年はいい年になる。
そんな予感がした。
了
義父 旗尾 鉄 @hatao_iron
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