心の氷壁
葉泪秋
なくし物
高校生になって初めての夏休みが、終わりを告げた。
約一ヶ月ぶりに私は自転車のペダルをせっせと漕ぎ、時間を確認しながら住宅街を駆ける。
目印である青いポストまでやってくると、見慣れた立ち姿でスマホを眺めている人影があった。私は「おはよー」と無気力に手を上げ、再び高校生活が始まる苦痛とともに手をだらんと振り下ろした。
「相変わらず朝は弱いみたいじゃん?」親友である真央がスマホをポケットにしまって言う。集合時間は8時ちょうどだが、私がここに着いたのは8時5分。たかが5分、されど5分である。通学における5分の差は大きく、教室に入ってからの心の余裕が全く違う。
そして、私はいつも5分ほど遅れてきている。
「ほんとにごめん、起きたら7時50分でさ」私は額の汗を拭いながら言った。真央は「よく5分の遅刻で済んだね‥とりあえず学校行こっか」と遅刻を気にしていない様子で自転車を走らせた。
「二学期は絶対に彼氏作ってやるんだから」私が自転車のハンドルを強く握りしめて言うと、真央は「それ、中1の1学期から言ってんね」と呆れ気味に呟いた。
私は人付き合いが苦手なタイプではなく、小中ともにある程度友達づくりはうまくやってきた。しかし恋愛に関してはてんで駄目で、彼氏ができたことは一度もない。
「恋愛に憧れはあるんだけど、好きな人に出会えないんだよー」私がこう言うと必ず真央に「出会いって自分で作るもんっしょ」とあっさり返される。
真央は私とは正反対で、友達が多いタイプではない。高校に入ってからも中学時代からの親友である私以外にはほとんど心を開いておらず、本人もそれを望んでいるらしい。でも真央はとにかく男子に好かれるのだ。中学の時から彼氏がいないタイミングなどなかった。高校に入学して早々、5月に彼氏ができたことを聞いたときの絶望感は今でも忘れない。
「多分だけど、物欲センサーってやつだよ。恋愛するのが目的になってると、逆に恋愛から遠ざかっていくんじゃないかな」そう言い放つ真央の横顔には些かな貫禄すら漂っていた。
恋愛って才能だよなぁと思いつつ、学校の門をくぐった。
まだあまり埋まっていない駐輪場に自転車を停め、私たちは1年4組の教室へ向かった。
2学期のスタートで張り切っている人もいれば、夏休みが終わって意気消沈している表情の人も多かった。無論、私は後者である。
エアコンの効いた教室に入ると、ひんやりとした空気が袖の中を通っていった。
「もう9月なんだからここまで教室冷やさなくてもいいでしょ‥」不満げな真央が腕をさすりながら言った。
「咲良、おはよー」直人が私を見て言った。彼はクラスのムードメーカーで、誰とでも気さくに接する典型的な人気者だ。実際は、彼を悪く言っている人はクラス内外を問わず見たことがない。
失礼、真央を除いて。
「真央もおはよ、髪伸びた?」相変わらず高いテンションで直人が言うと、真央は「多分」とだけ返して自分の席に荷物を置いた。そのままトイレに行く真央を見送ると、直人が私のもとへ寄ってきた。
「真央って俺のこと嫌いなのかな‥?」と不安げな表情で言ってくる。肯定しても否定してもいい結末にはならない、どうしたものか。
「いや、真央は誰にでもあんな感じだよ。気にしないでいいんじゃない?」気づけば私はそんなことを口走っていた。
しまった‥勝手に真央のことを気難しい人にしちゃった。違うのに、面白い子なのに‥と後悔していると、直人は「まじか!ならよかった!」とまたいつもの調子に戻った。
サッカー部に入っている彼はこの夏休みでより一層日焼けしており、笑った時の白い歯がより強調されて見えた 。
朝のホームルームの時間になると、教室に担任の村上先生が入ってきた。
「全員席座れよー。お、全員揃ってるみたいだな」村上先生は教室を見渡しながら言うが、クラスには一つの空席があった。
「え、あの席誰?」斜め後ろの席にいる真央が肩をつついてきた。
「私もわかんないよ」ただ、欠席ではないことは分かる。もしかして、転校生?
新学期のタイミングだし違和感はないか。と思い、あまり気にしなかった。
「点呼取ったらすぐに体育館へ移動だ。だらだらしてる時間はないぞー」村上先生が言うと、すぐに室長の遠藤さんが点呼を取り報告へ向かった。
彼女は相変わらず真面目で私とは反りが合わない。
体育館へ移動し、列に並んで始業式をした。先生の長ったるい話を微睡みながら聞き流し、礼だけはしっかりとして乗り切った。
教室に戻る途中、廊下で一人の生徒と肩がぶつかった。「ごめんなさ‥」私が口を開く頃にはその男子は離れていってしまい、もやもやした。
見たことのない顔だし上級生かな?だとしたら尚更もやもやする。
ホームルームの時間、村上先生が少し改まった雰囲気で話し始めた。こんなことは珍しいので、生徒たちは自然と先生に注目した。
「単刀直入に言うと、このクラスに転校生がやってくる。家庭の事情による引っ越しで、これからは皆の新しいクラスメイトになる。入っていいぞー」廊下の方を向いて先生が手招きすると、無表情な男子が教室に入ってきた。
顔を見た瞬間に私は気付いた。さっき肩をぶつけたあの人だ。無視されたことから第一印象は最悪だが、まさかうちのクラスの転校生だったなんて。
「ほら、やっぱ転校生じゃん!」真央が私の肩を何度も叩いた。どうしてそんなに盛り上がっているのかは分からない。
「じゃあ、自己紹介してくれるか」先生がそう言って正面からどいた。皆の前に立った転校生は淡々とした口調で話し始めた。
「転校生の相原涼です。これからよろしくお願いします」手短に終わった自己紹介に少し動揺した村上先生が、「漢字を黒板に書いてくれるか?」と聞いた。
涼は「はい」とだけ答え、黒板に綺麗な字で『相原涼』と書いた。手についたチョークの粉を払い、一直線に自分の席まで歩いていった。
「相原、これから1年4組としてよろしく。一つ注意だが、転校生だからと言って相原の席に寄ってたかって話しかけて困らせないように。特に高橋な」笑いながら先生が言うと、直人は「なんで名指しなんすか!?」と言った。
私は終礼のあと、涼に話しかけてみた。
「ねぇ、覚えてる?私、さっき廊下で君とぶつかった人!」涼は表情を一切変えずに「覚えてる」とだけ返した。
「これからよろしくね」私が言うと、「うん」と言って涼は教室を出ていった。
‥‥冷たい。真央がすぐさま私のところへ寄ってきた。
「ねぇ何あいつめっちゃ冷たいんだけど!」私が言うと、真央は「見りゃ分かるっしょ‥」とまた呆れ気味に言った。
「多分、積極的に人と話すタイプじゃない」真央は落ち着いていた。
「なんか悔しいから明日も話しかける」私は涼に興味を持ち始めていた。転校初日だから緊張しているだけかも‥と思ったけど、全く緊張している素振りはなかった。それどころか、極限までリラックスしているような立ち振る舞いだった。
「まぁ、仲良くなれるならなった方が良いしね。私は応援するよ。早く帰ろう」と真央が言った。私は頷き、二人で駐輪場まで自転車を取りに向かった。
駐輪場には涼がいて、自分の自転車の鍵を外していた。
真央が自分の自転車を見つけると、ハンドルに手をかけて引き出そうとした。だが、その瞬間、隣の自転車のスタンドが不安定に揺れた。隣の自転車はバランスを崩し、まるでドミノ倒しのように次々と他の自転車も倒れていった。
「あっ!」驚いて私がのけぞると、次の瞬間、倒れかけた自転車の一台が私に向かって倒れ込んでくる。私は咄嗟に身を引こうとしたが、狭いスペースでは避けきれない。
目を閉じて身を固くしたその時、強い腕が私の肩を掴んだ。
恐る恐る目を開けると、目の前には涼が居た。無表情ながらも、その目はしっかりと私を見つめている。彼は片手で私を引き寄せ、もう片方の手で倒れかけた自転車を支えていた。
私はどうしたら良いのかわからなくなった。ただ、ひたすらにこの場から逃げ出したい。
「ありがとう‥涼くん」涼はそれに対して特に反応を示さず、ただ「うん」と一言だけ返した。彼はゆっくりと自転車を立て直し、隣の自転車たちも元の位置に戻していった。
「ほんとにごめん、大丈夫?」真央が私の方に駆け寄ってくる。
「うん、大丈夫」心の中は全く大丈夫じゃないが、とりあえず怪我はなかった。
私はため息をつきながら、自分の自転車に手をかけると、涼は黙って私の自転車に視線を向けた。少し動揺しながら自転車を確認した私は、自転車のチェーンが外れていることに気づいた。どうやら、自転車が倒れた時に外れてしまったようだ。
「チェーンが外れてる」涼がそう言って、私の元に寄ってきた。私は困惑しながら「どうしようかな‥」と考えていると、涼が無言で私の自転車に近づき、しゃがみこんでチェーンを直し始めた。
「いいよ、涼くん!自分でやるから‥」私はそう言って手を伸ばしたが、涼は「もうすぐ終わる」と短く言って作業を続けた。慣れた手つきでチェーンを元の位置に戻し、数回ペダルを回して確認すると、涼は立ち上がった。
「直った」
「ありがとう‥本当に助かった!」感謝を再び口にしたが、涼は特に表情を変えずに軽く頷いただけだった。
涼は何事もなかったように自転車に乗って去っていった。その後ろ姿を見ていて、私は不思議な気持ちになった。
「‥優しいじゃん、涼」真央が呟いた。どうして私にここまでしてくれたのか、私はその理由が気になった。
その日以来、私は涼のことを意識し始めた。彼の無表情の奥に隠された何かを知りたい。
気になった私は、村上先生に涼について尋ねてみることにした。
「先生、涼くんについてのことなんですけど」すると、先生は「どうした?」と顔をこちらに向けた。
「涼くんって全然感情を表に出さないじゃないですか。あれって何か理由があるのかなと思って‥あと、先生なら何か知ってるかなと思ったんですけど」すると、先生は「なるほど」と言い、腕を組んで考え込み始めた。
「確かに、理由はある。しかし、それを勝手に君に話すわけにはいかない。今度、俺が三浦に伝えてもいいかどうか相原に聞いてみる。それまでは待っていてほしい」先生が言った。
「ありがとうございます」私が礼をすると、「最近、相原とよく話しているみたいだな。正直、転校生というのもあって馴染めるか不安だったが、大丈夫そうか?」と聞かれた。
私は「はい、問題なくやってると思います」と適当に答えておいた。
ある日の放課後、先生に呼ばれた私は「先に帰ってていいよ」と真央に伝え、話を聞いた。
「相原の件だ。彼の保護者にも許可を取っていたら遅れてしまった」先生が言った。
「大丈夫ですよ」私は早く本題に入って欲しかった。
村上先生は深い息をつき、机の上に置かれた書類を一瞥し、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「彼が感情を表に出さなくなった理由について、話しても良いと彼の保護者から許可を得た。だが、これを聞くと、君も少し重く感じてしまうかもしれない」
私は静かに頷いた。先生の口調から、何か深刻なことがあるのだと察した。
「相原は、去年の夏に大きな事故に遭ったんだ。家族全員がその事故に巻き込まれて、彼は一人だけ生き残った」
私は息を飲んだ。突然のことに、何も言葉が出てこない。
「家族を一度に失う辛さは想像を絶するものだろう。彼は、そのショックを一人で抱えていたんだ」
私は、彼の見せる無表情な顔の裏に隠された苦しみを思い、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「事故の後、彼は感情を表に出すことをやめた。悲しみも、怒りも、喜びも。全ての感情が彼の中で凍りついてしまったんだ。それが、彼にとって唯一の自己防衛手段だったのかもしれない。感情があるから辛いのだと考えたのだろう」
私は涙が頬を伝うのを感じたが、何も言えなかった。ただ、涼がどれほどの痛みを抱えているのか、その一端を知るだけで、心が痛んだ。
「相原は今も、その傷を癒すことが出来ずにいる。ただ、君が彼に興味を持ち、彼と関わろうとしていることは、大きな支えになるかもしれない」
私はゆっくりと頷き、涙を拭いた。私は、涼のことをもっと知りたいと思う気持ちがさらに強くなった。しかし、それと同時に、彼の傷にふれることがどれほどの責任を伴うかも理解した。
「先生、ありがとうございます。私、涼くんのことを‥もっと知りたいです。彼の力になれるなら、私に出来ることをやりたいです」
先生は静かに頷き、微笑んだ。
「三浦なら、彼の心に少しずつでも触れることが出来るかもしれない。彼の心を塞いでいた氷の壁を溶かし、彼が感情と取り戻す日が来るよう、彼のそばにいてあげてほしい」
「もちろんです。私、涼くんのこと‥好きなので」
「やっぱりか」と先生は笑い、私を送り出した。
彼は感情を失ったけど、優しさは失っていない。私がずっと一緒にいれば、いつか私と一緒に泣いて、私と一緒に笑って、私のために怒ってくれるかもしれない。
ただ、私のその考えを彼に悟られないようにしないと。
家に帰って私は真央に電話をかけた。すぐに電話に出た真央は「どうしたん」と気だるそうに言った。
「私、涼くんのこと好きになっちゃった」それを聞いて真央は「ほんとに!?」と急に盛り上がり始めた。
「始まったね、咲良の恋が」電話越しでも、真央のドヤ顔が容易に想像できた。
今月は大チャンスの文化祭がある。ここで仕掛けよう。
「直人ー?」私が話しかけると、間抜けな声で「どうしたー?」と直人が言った。
「相談があるんだけどさ、学園祭でうちのクラスが作る劇の台本決まったの。それで、直人もキャストとして参加してくれないかな」
すると、直人は二つ返事で「いいじゃん面白そう!」と言った。こういう時の直人は本当に頼りになる。
「で、実は涼くんにもキャストをやってもらいたいんだけど‥直人から声をかけてもらうことって出来る?」
またしても直人は「おっけー!任せて」と言った。
「ありがとう」私は礼をして直人の元を離れた。
後日、直人に聞いてみると、涼はキャストの参加を承諾してくれたそうだ。
涼に「劇の話って聞いた?準備も結構手伝ってもらうかもしれないんだけど大丈夫?」と聞くと、「大丈夫」とだけ答え、そのまま席に座った。私は、その反応に内心喜んでいた。
学園祭の準備が始まり、毎日のように放課後に集まることになった。涼は最初こそ無言で控えめに参加していたが、直人がいい具合に話を振ってくれるおかげで、少しずつその存在感が増していった。
「この台詞、どう思う?」と真央が脚本の一部を持ち出すと、涼はそれを読んでから「ここはこうした方が良いと思う」と指摘した。
「なるほど」真央は感心しながら脚本に書き足す。
放課後の練習が続く中で、涼の表情は変わらないものの、次第にクラスメイトとの距離が縮まっていくのを感じた。
ある日、準備の合間に、涼についていろいろと聞いてみた。
「好きな漫画とかある?」
「漫画読まない」彼は無表情で答える。
「普段何してるの?」と聞くと、涼は「いろいろ」と言った。
「そりゃあそうでしょ」と私が笑うと、彼は「特別なことは何もしてないかな」と呟いた。
少しずつ、私の質問に長く返してくれるようになってきた。
「涼ー!ここのシーン練習したいから来て!」直人が呼ぶと、涼は「わかった」と言って私のそばを離れた。
彼は演技がすごく上手で、普段は全く出さない感情を完璧に登場人物として表現していた。
本当は感情があるんじゃないかと疑ってしまうほど、自然な笑顔だった。
「演技うまいね‥涼くん」私が声を掛けると、「みんなが笑うときの顔を真似したら、できる」と涼は言った。
やっぱり、心から笑うことはないのだと少し寂しくなった。
学園祭が始まり、まずは2年生の開催するリレー大会が行われた。
涼は運動神経が良いので、ランナーとして選ばれている。
「涼、頑張れ!」真央が元気よく声をかける。涼は無表情で「うん」とだけ返し、スタート地点に向かった。
「涼くん、いけるよね?」と私は訊ねる。彼は「うん」と短く答え、いつも通りの涼に私は少し安心した。
リレーが始まると、私のクラスは順調に走り出した。涼は最後の走者として、その瞬間が来るまで静かに待っていた。
「涼、がんばれ!」とクラスメイトの応援が響く中、涼の目は冷静にレースを見守り続けていた。自分の順番が近づくにつれて、彼の目線は段々と前へ移っていった。
ついに、涼にバトンが渡された瞬間、彼はスタートラインから一気に加速した。
涼の足取りは安定していて、ペースの落ちる気配はなかった。競技場の中、他のクラスが追い上げてくる中で、涼は一歩一歩を確実に踏みしめていった。
ゴールが近づくにつれ、4組の熱気はどんどん高まっていく。私も息を飲んで見守っている中、彼は一瞬だけ目を閉じ、全身全霊でゴールに向かって走り抜けた。
「頑張れー!」という応援の中、涼は一番でゴールテープを切った。
走りきった彼のもとにクラスメイトが集まり、ひたすらに称賛の声を浴びせていた。
「涼くん、すごかったよ!」私が声を掛けると、涼は初めて見せるような微かな笑みを見せ、「ありがとう」と短く答えた。その言葉に、私は胸が熱くなるような思いがした。
学園祭2日目の劇も成功に終わり、クラスの一体感は直人を中心として日に日に強まった。
学園祭が終わり、1年4組で打ち上げを行った。
「みんな、本当にお疲れ様!」直人がそう言うと、四方八方から「おー!!」という声が飛んだ。私は涼の隣の席を選んだ。
「昨日、リレー終わったあとさ、ちょっと笑ってたよね」私が聞くと、「劇で笑う練習したから、実際に笑ってみただけ」と涼が言った。
「初めて見たよ、劇以外で涼くんが笑ってるの」
「笑ったら、幸せになれるらしいから」涼が呟いた。
私はその言葉を聞いてハッとした。確かに彼には感情がない。でも、感情表現はできる。
なんとなく、感情の本質に触れたような気がした。
赤ん坊が悲しいから泣いているのではなく、呼吸をするために泣いているのと同じように、彼は楽しいから笑うのではなく、幸せになるために笑っている。
それは、感情を手段にするという彼ならではのものだった。
「私、すごい素敵な考え方だと思う」衝撃を受けた私は、涼の顔を見て言った。
「そうかな」涼が言う。「だってさ、笑う門には福来たるって頭では理解してても、感情があるから笑えずにいる人もたくさんいるわけでしょ。でも涼くんは、笑おうと思えば笑える。まぁ、心から出た笑顔ではないかもしれないけど‥感情がないということは、自分で完全に感情をコントロールできるってことだし、私からしたらすごい憧れるよ」
言い切ってから私は気付いた。しまった、彼が感情を持たないことは知らない体で話そうと思っていたが、思わず口にしてしまった。
「あ、ごめん‥感情の件、先生から聞いちゃって‥」私がおどおどしながら言うと、涼は「大丈夫。知ってる」と答えた。
「‥でもね」私が口火を切ると、彼はこちらに目を向けた。「私は、涼くんに心から笑って欲しいんだ。好きな人には、笑顔でいてもらいたい」勇気を振り絞った私の告白に、涼は「好き、とかよくわからないけど、ありがとう」涼が言った。さらに、「でも、もし君が僕のことを好きなら、僕も君のことが好きなんだと思う」と続けた。
「どうして?」私が聞くと、「家族が死ぬ前、僕はいつも家族と一緒に話してた。昔の僕は家族が好きだった。人って、好きだからたくさん話すんでしょ?」と涼が言った。
「恋愛って感情の百貨店だからね。恋をしていると、常に言語化できない感情が頭の中でとぐろを巻いてるんだ」涼は「そうなんだ」とだけ返した。
彼に、心の底から私を好きになってほしい。
ある日の放課後、教室が夕陽に染まる頃、私はふと涼がいないことに気づいた。彼がいつもより少し早く教室を出たのが気になって、急いで鞄を持ち、校舎の外へと向かった。
駐輪場の近くで、涼を見かけた。だがその光景は私の胸を締めつけるものだった。
数人の上級生が、涼のことを取り囲んでいた。
「おい、無愛想野郎。いっつも顔に仮面でもつけられてるみてえに無表情なお前が気に食わねえんだよ!」と、一人の不良が涼の胸ぐらを掴んで押し付けた。周りの仲間たちは笑いながら、口々に暴言を吐いていた。
涼は何も言わずにただその場に立っているだけだった。その無抵抗な姿が、私は見ていて辛かった。
心臓が早鐘のように打ち、私の体は自然に動き出した。
「やめて!」と、私は震える声で叫びながら涼の方へ駆け寄った。不良たちは振り返り、私に目を向けた。
「なんだお前?」不良の一人が冷たく言い放つ。だが、私は恐怖心を押し殺し、涼の前にたちはだかった。彼の背中を守るように、自分が盾になった。
「涼くんのこと何も知らないくせに、好き勝手言ってんじゃねぇ!」私は全身が震えていたが、その目は決して逸らさなかった。
「ハッ、こいつの女か。無愛想野郎のくせに一丁前に彼女は作ってんだな。気持ち悪い」と、不良たちは呆れたように肩をすくめ、一人が「行こうぜ」と呟くと、次々にその場を去っていった。
私は立ち尽くしていた。涼もまた、無言のままその場に立っていた。だが、彼の体はどこか震えているように見えた。私はそっと涼に近づき、その手を優しく握った。
「涼くん、大丈夫‥?」私は慎重に尋ねた。
軽く頷いた彼の顔を見ると、目から一粒の涙が流れ出ていた。私は只事ではないと思い激しく動揺した。
「え、涼くん泣いてる!?大丈夫!?」涼は手で涙を拭き、いつもの調子で「わからない」と答えた。「悲しいわけじゃないの?」と聞くと、またしても彼は「わからない」と答えた。
そのまま二人はしばらくの間、何も言わずに立ち尽くしていた。
夕陽が校庭を赤く染め、影が長く伸びる中、涼は初めて自分から口を開いた。
「ありがとう」
私の手が、彼の心の中に残っていた氷の壁を少しずつ溶かしていくようだった。
「君がいてくれると、少しだけ楽になる。今まで気づかなかったけど、君がそばにいると、何かが変わる気がする。‥って、ちゃんと伝えておきたかった」
照れもせず、笑いもせず、いつもの無表情で彼は言った。
「私も涼くんにとっての『何か』が変わったら良いなと思ってる。それまでは、そばにいるよ」
2学期の学校生活は至って平凡だった。テストの出来も普通、友達付き合いも変わらず順調。真央は彼氏と幸せそうにしている。
概ね予想通りの二学期を過ごしている。一点だけを除けば。
「そろそろさ、二人で遊んでみなよ」登校中、何気なく真央が言った。
「ふ、ふたりで!?」自転車の軌道がブレブレになった。「そんなに驚くことでもないでしょ。恋愛、してるんだから」真央はやはりどこか達観している。
「勇気を出して誘ったほうが良いと思うけどね。断る気配もないし、あの人」と真央が言ったので、私は「うーん‥誘ってみるよ」と返した。
ただ、教室に入って涼の姿を見るとやっぱり言えない。無表情で「無理」と言われたら私はきっと立ち直れない。
「ほら、いってみんしゃい」真央が私の背中を押した。
「涼くん、ちょっといい?」私が声を掛けると、本を読んでいた彼がこちらに視線を向けた。「あの、よかったらなんだけど‥今日の放課後とか空いてないかなと思って」私は手を後ろで組みながら言った。
「空いてる。‥家に来ていいよ」と彼が言ったので少し驚いたが、すぐに頷いた。「うん、行く!」
放課後、真央に遊ぶことを伝えると「よくやった」と親指を立てて帰っていった。どこまでもクールな親友だ。
二人で学校を出て涼の家へと向かった。夕暮れの光が差し込む道を歩きながら、私は涼の家で何が待っているか想像を巡らせていた。
涼の家に着くと、涼の祖母が出迎えた。顔がそっくりだが、祖母はとても温かみのある表情をしていた。「咲良さんね。話は聞いてるわ。さぁ、入って入って」と、優しい笑みを浮かべて迎え入れてくれた。
家の中は落ち着いた雰囲気で、おばあちゃんが大切にしているであろう和風の調度品が並んでいた。私は少し緊張しながらも、おばあちゃんが注いでくれた熱いお茶をふーふーと冷ましていた。
「涼ちゃん、一回、部屋に戻ってもらっていいかい。咲良さんと少し話がしたい」おばあちゃんが言った。無言で頷いた涼は自分の部屋へ静かに歩いていった。
「涼ちゃんと仲良くしてくれて、本当にありがとねぇ」とおばあちゃんは穏やかに話し始めた。
「とんでもないです、涼くんはあまり話さないけど、彼と一緒にいるのが楽しいんです」と少し緊張しながら答えた。おばあちゃんはその言葉に微笑みながら、ゆっくりと続けた。
「涼はね、昔すごく元気な子だったんです。何かあると『みてみて~!』と駆け寄ってきて、描いた絵を見せてくれたり。ただ、去年の事故から本当に感情を表に出さなくなってしまってね」
何度聞いても心が痛くなる。
「最近では、たまに笑顔を見せることもあるんです。今まではそんなこと全く無かったんですよ。咲良さん、あなたが彼にとってどれだけ大きな支えになっているのか、私にはよくわかります」とおばあちゃんは、少し感慨深げに語り続けた。
「でも、私‥何も特別なことはしていません。ただ、一緒にいるだけで‥」と私が口にすると、おばあちゃんは穏やかに首を振った。
「それが、何よりも大事なことなんです。涼ちゃん、ずっと心を閉ざしていたの。だから、『普通』に関わってくれる友達ができなかったの。でも、咲良さんのおかげでクラスにも友達ができて、少しずつ外の世界に目を向け始めたように見えます」
おばあちゃんの言葉に、私の心はじんわりと温かくなっていった。
「本当に、ありがとうございます。涼ちゃんのこと、これからもどうかよろしくお願いしますね」とおばあちゃんは、深く頭を下げた。
その後、私は涼の部屋に入った。彼が無言でゲームの準備をしている姿を見て、私は何故かすごく愛おしく感じた。同時に、これからも、彼のそばにいたいと思った。
「ゲーム、やる?」涼が私に尋ねてきた。でも、その声には、ほんの少しだけど、以前とは違う温かみを感じた気がした。
「やりたい!」私は笑顔で答えた。そして、二人で並んでゲームを楽しみ始めた。
無表情の彼の中にも、確かに心の変化があるのだと知った。それだけで、私の心はいっぱいになった。
涼の変化に気づいたのは、12月のとある朝。みんなが冬服に変わる季節だ。教室に入ると、彼がクラスメイトと話している姿が目に入った。表情こそ無いけれど、その目には確かに確かに相手の話を聞いている意志が見えた。
「おはよう、涼くん」と声をかけると、彼は無言で頷いてくれた。普段なら、それで終わりだった。でも今日は違った。
「昨日の課題、終わった?」彼が少しぎこちなく聞いてきたのだ。
私は驚いて「うん、終わったよ」とだけ答えた。涼が自分から会話を始めるなんて、本当に珍しいことだった。私はその変化がとても嬉しくて、冬の寒さも忘れるくらいに心が温かくなった。
体育の時間にはさらに彼の変化が明らかになった。バスケットボールの試合があり、男女交互に試合を行っていた。
涼はプレー中も常に冷静で、全く感情を見せない。でも、やっぱり今日は違った。シュートを決めた時、わずかに口元がほころんだのを私は見逃さなかった。
「やったね涼くん!」と私がコート外から声を掛けると、彼は一瞬こちらを見て微笑んだ。ほんの少しだけど、それでも確かに微笑んでくれた。
試合が終わった後、真央が涼に話しかけた。「涼、今日のプレー良かったよ!あとさ、普段からそうやって笑ってみたら?」
涼は一瞬困ったように見えたけれど、やがて小さく「ありがとう」と言った。その声には、いつもより少しだけ感情がこもっているように感じた。
「涼くん、最近変わってきたね」とクラスの誰かがぽつりと言った。その言葉に、涼は少し照れたような表情を見せた。無表情だった彼が、照れくさそうにするなんて。
次の日の昼休み、クラスメイト数人が涼の周りに集まっていた。話題は、今週末に公開される映画の話だった。私も誘われており、真央・直人・美咲・健太と5人で行く予定だった。
美咲は直人の幼馴染で、おっとりとした直人の女房役といった人だ。健太は私と真央の幼馴染で、バレー部に入っている。
「涼も来る?」と誘われた涼は、最初は少しだけ迷っているようだった。でも、私と目が合った瞬間、彼は静かに「行くよ」と答えた。その言葉を聞いて、私の心は踊った。彼がこんな風にクラスメイトたちと自然に過ごす姿を、私はずっと見たかったから。
週末、映画館の前に集合したのは、私を含めて六人。皆のテンションは高く、笑い声が絶えない。普段、無表情な涼も今日はどこか柔らかい雰囲気をまとっているように見えた。
「チケット買ってくる!」と直人が張り切って窓口へ向かう。その間、私たちはポップコーンや飲み物を選んでいた。
「涼くん、ポップコーン食べようよ」私は涼に尋ねた。彼は一瞬迷ったようだったけど、「うん。塩味がいい」と短く答えた。
「じゃあ、二人で一つにしよ!私一人じゃ食べきれないから‥」私が提案すると、涼は無言で頷いた。ポップコーンを買うというただそれだけのやり取りが、私にとっては特別な瞬間に感じられた。涼が少しずつ普通の高校生としての楽しみを受け入れている、その一端を見た気がしたからだ。
しばらく待っていると、直人が息を切らしながら私たちのところへ戻ってきた。
「公開初日だから行列だったよ‥はい、俺に感謝!」と言って私たちにチケットを渡してくれた。「褒めて遣わす」と美咲が微笑みながら言う中、涼は「直人くん、ありがとう」と素直に感謝していた。彼の純粋さを見てみんな笑っていた。すると、涼は照れくさそうにした。
映画が始まる前、私たちは座席に座り、各自準備を整えていた。涼は私の隣の席に腰を下ろすと、じっとスクリーンを見つめていた。彼がどんな風に映画を楽しむのか気になったけれど、彼の横顔を見ていると映画に集中できないと思い私は前を向いた。
映画はコメディーだった。館内では笑い声が絶えず、何度もクスクスと笑いがこぼれた。私は涼がどんな反応をするのか気になって、思わず彼の方をチラチラと見てしまう。
涼は無表情のままスクリーンを見つめ続けていたが、映画のコミカルな場面で、ほんのわずかに彼の口元が動いたのを私は見逃さなかった。それは笑顔とまではいかないものの、彼が映画を楽しんでいる証だった。
ポップコーンをつまみながら、私も映画に集中しようとしたが、何度か涼の横顔に目が行ってしまった。すると、涼も同じタイミングでこちらに目を向けた。お互いに視線がぶつかり、思わず二人で照れ笑いのような微妙な表情を交わした。その瞬間、なんだか彼との距離が一気に近づいたような気がした。
映画が終わると、私たちは外に出て、それぞれ感想を言い合った。真央が「めっちゃ面白かったー!」と話し始め、健太も「あのシーン最高だったな」と盛り上がっている。
「どうだった?」私はドキドキしながら涼に尋ねた。彼は一瞬考えるように黙った後、「面白かった」とぽつりと答えた。
涼はそれ以上何も言わなかったけど、彼の『面白かった』が私にとっては十分だった。彼がこうして普通に楽しんでくれている、それが何よりも嬉しかった。
帰り道、私たちはみんなで歩きながら話していた。真央と咲良が一緒に写真を撮っていたり、健太と直人が映画の話題で盛り上がっていたり。
「今日は楽しかったね」と私が言うと、涼は少しだけ歩を緩めた。「うん」とだけ言った彼の声には、どこか穏やかな響きがあった。
涼のそばにいて、私は彼が少しずつ変わってきているのを感じた。無表情で感情を表に出さない彼だけど、その内側には確実に何かが芽生えている。
2月初頭、2月末に行われる体育祭の開催日が発表された。
校内は明るく、どこか浮き足立った雰囲気に包まれていた。誰がどの競技に出るのか、リレーのオーダーはどうするのか、そして一番盛り上がるクラス対抗リレーに向けての作戦会議が行われていた。
私もクラスメイトたちと一緒に話していたが、この頃には涼も自然と会話に混ざるようになり、以前の無愛想な姿はほとんど見なくなった。
「涼くんリレー出なよ!クラスで一番速いんだし」私が声を掛けると、「他に出る人がいないなら‥出るよ」と答えた。クラスから代表は二人出場し、一人は既に健太が出ると決まった。「一緒に出ようぜ、涼!」健太が誘うと、涼は「圧がすごいね」と苦笑した。初めて見る様子だ。周りから笑いが起き、少し健太は驚いていた。
「健太と一緒ならいいよ」笑いが収まってから、涼が呟いた。健太は「まじかよ!頑張ろうぜ」とかなり喜んでいた。
その夜、私は家に帰ってからも涼のことが頭から離れなかった。彼が感情を取り戻しつつあることは、最近の彼の行動や言葉から感じ取れる。しかし、まだ何かが彼を縛り付けているような気がしてならなかった。
感情を出すことに、まだ恐怖を感じているように見える。
体育祭当日、冬の終わりを告げるような透き通る青空が広がり、校庭には鮮やかな旗が風に揺れていた。
そして、この日は私にとって忘れられない日になる。
クラスメイトたちは、朝から熱気に包まれた校庭で汗を流し、競技に奮闘していた。私も、自然と高揚感が旨を締め付けるのを感じながら、涼の姿を探していた。
種目は次々と行われていき、私たちのクラスは3位だった。悪くない位置につけている。
「クラス対抗リレー、勝ったら総合1位らしいぞ!」直人がみんなに向かって大声で言い、さらにクラスの熱気が上がった。
「健太、涼!頑張れー!!」みんなは全力で二人を送り出し、リレーが始まるのを待った。
合計6チームで、4組は2レーン目。1人100メートルで4人が走る。
男子2人と女子2人で、男子は健太と涼、女子は真央と美咲だった。クラスでも特に速い四人なので、クラスの期待は高まっていた。
そして、ついにスターターピストルが鳴らされた。
各クラスの選手たちは一斉にスタートを切った。次々とバトンが渡される中、4組は一位をキープしていた。「頑張れー!「いけるぞー!」応援の声が止まらない。
しかし、アンカーの涼にバトンが渡される直前、突然の強風が吹き荒れ、砂埃が舞い上がった。視界が一瞬奪われ、前走者である美咲が足を滑らせ、バトンを落としてしまった。校庭が一瞬静まり、全員が息を呑んだ。
涼はすぐにバトンを拾い上げ、何も言わずに走り出した。現在、4組は4位まで転落している。巻き返せるのか‥?
走り出した瞬間、彼の心の中で何かが弾けた。まるで今までに閉じ込めていた感情が溢れ出すように、その走りには強い決意と焦燥が混じり合っていた。無表情だった彼の顔に、初めて苦悶の表情が浮かび、その瞳には激しい感情が宿っているようだった。
「涼くん!!!!」私は胸が熱くなるのを感じた。涼の中で、何かが確実に変わっている。
彼はもう無表情ではいられないのだ。
ラストスパート、現時点で3位の涼は一気に他走者を抜き去り、ギリギリの1位でゴールテープを切った。
その瞬間、涼が跳び上がるのが見えた。拳を天に突き上げ、健太たちと抱き合っている。
クラスからもかつてない歓声が湧き上がり、盛り上がりは最高潮に達した。
それ以上に、私は全身で喜びを表現する涼の姿が目から離れなかった。
走り終えた彼のもとへクラスメイトたちが駆け寄っていく中、彼の顔には、抑えきれない笑顔が広がっていた。
「涼くん、おめでとう!!!」私が声を掛けると、涼は笑顔で「ありがとう」と言った。
これまでの彼にはなかった、心の底から溢れ出た感情。私はその姿を見て涙ぐみそうになった。涼が感情を取り戻し、そしてその瞬間を共に過ごせたことが本当に嬉しかった。
体育祭の閉会式のあと、真央が私のもとへ寄ってきて言った。
「今なんじゃない?伝えるの」と、真剣な表情で私を見つめる。
「そうだね」私も真剣に頷き、涼のもとへ向かった。周りの称賛を嬉しそうに受け取る涼の肩を後ろからトントンと叩き、彼を呼んだ。
「どうしたの?」涼が言った。尋ねる時に語尾が上がる彼は初めてだったので、私はより一層彼を愛おしく感じた。
「このあと、駐輪場に来て欲しい」と伝えると、涼は「うん、わかった」と言って教室に戻っていった。それをさり気なく見ていた直人が、「頑張れ、咲良」と言ってくれた。
私と涼にとって思い出の場所である駐輪場で伝えること、それはたった一つだけ。
駐輪場に行くと、彼は少し汗ばんだ額に、心なしか照れくさそうな表情が浮かんでいる。彼がこんなふうに表情を変えるなんて、以前の彼からは想像もできなかった。彼は無表情で無感情だった。でも今、私の目の前に居るのは、笑みを浮かべた涼だった。
「待たせてごめん」と私が言うと、彼は「ううん、大丈夫」と首を軽く振った。
何を言うべきか、何度も頭の中でシミュレーションしていたはずなのに、実際に彼を前にすると言葉が詰まってしまう。
胸の奥で熱いものがこみ上げ、心臓がドキドキと鳴り続ける。
「涼くん、私‥ずっと伝えたかったことがあるの」その言葉を絞り出すように言った。涼は私の言葉を静かに待っていた。
「涼くんのおかげで、私、すごく学校が楽しくなったんだ。君が少しずつ心を開いてくれるのが、すごく嬉しくて‥だから」私は言葉をつなぎながら、彼に感謝と自分の気持ちを込めて伝えようとした。
でも、涼はそっと手を前に出して私を制した。
「その続きは、僕から言わせて」
彼の言葉に、私は少し驚きながらも黙って頷いた。
「咲良、君がそばにいてくれたから、僕は変わることができた。君が何も言わずにずっと僕の隣にいてくれたから、僕は自分を見つけることができたんだ」
彼の言葉を聞いていて、私は目頭が熱くなった。
「今まで、感情を出すのはもちろん、感情を持つこと自体が怖かった。でも、君はそんな僕を無理に変えようとしなかった。君が、そばにいてくれるだけで、僕は安心して少しずつみんなに心を開くことができた」
涼の目は私をまっすぐに見つめていた。その瞳の奥に、彼の気持ちが詰まっているのを感じた。
「君に出会えて、本当によかった。僕は‥君が好きだ。君のことが大好きなんだ」
その言葉が、夕焼け色の空に溶け込むように響いた。涼の告白に、私の心は激しく揺れ、同時にとても熱くなった。
「咲良、これからも、君の隣にいたい。僕のまだ知らない感情を、君と一緒に見つけたい」彼は涙を堪えるように笑いながら言った。
「‥ありがとう。私も、涼くんのことが大好きだよ。まだ見たことがない表情の涼くんを、ずっと隣で見ていたい」
私の言葉に、涼は微笑んだ。そして、優しく私の手を取り、力強く握り返してくれた。
私たちは確かに互いの気持ちを確認し合った。駐輪場に二人だけの世界が広がり、夕焼けの中で新しい一歩を踏み出す決意をしたのだった。
期末テストが終わると、素点確認の翌日に涼が先生に呼び出されていた。
「涼が呼び出されるって、何があったんだろ」真央が不安そうに言った。
浮かない顔をした涼が私たちのもとへ戻ってきた。
「どうしたの?」私が聞くと、涼は「急に点数が下がったから‥何があったのか聞かれた」と呟いた。
「確かに、涼くんってすごい勉強できるイメージだったけど‥今回は駄目だったの?」美咲が尋ねた。
「前までは何も感じないでずっと勉強できてたんだけど‥感情が戻ってから、『面倒くさいなぁ』とか、『今日はサボっちゃおうかな』とか思うようになっちゃって、勉強できなくなっちゃった」と涼が苦笑いしながら言うと、周りから笑いが起きた。
「感情の悪い部分が出てるじゃん」真央が笑いながら言った。
「でも、それって普通のことだよな」と直人が安心させるように言った。「感情が戻ったからこそ、そう思うんじゃないかな」
「そうだよ。涼くん、今まで頑張りすぎてたんだと思うよ」と私も頷きながら言った。「人間らしくなった証拠だよ」
「そうそう、テストなんてたまに失敗しても大丈夫だって!」健太が涼の背中を軽く叩いて笑った。
「毎回失敗してる健太は大丈夫なの?」と美咲が言うと、みんなが思わず笑い出した。
「次はちゃんと頑張るからさ、今度は一緒に勉強しようよ」と涼が言うと、みんなは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、涼の家で勉強会するか?」健太が提案すると、「いいね!」と直人も乗り気になった。
「みんなでやれば、涼くんもきっとまた勉強に集中できるよ」と美咲が優しく微笑んだ。
「うん、それなら僕も頑張れる気がする」涼は少し安心したような表情で答えた。
「じゃあ、次のテストに向けて、春休みは涼の家で勉強会決定だね」真央が宣言すると、みんなが同意して、楽しそうにその計画を立て始めた。
楽しそうに話すみんなを見て、私は少し思考を巡らせていた。
廊下で肩をぶつけた人が転校生で、駐輪場で助けられて、先生から辛い過去を教えてもらって。ずっと見たかった彼の笑顔を、今こうしてすぐ隣で見られていることが何よりも幸せに感じた。
友達を超えて彼女になっても、彼の好きなところは変わらない。
生きる意味とか、哲学的なことは私にはわからないけれど、一つだけ思うことがある。
この世で一番幸せなことは、一緒に笑い、泣き、怒ってくれる人がそばにいることなのだと。
心の氷壁 葉泪秋 @hanamida
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