頭の中の幽霊

みかみ

一話読み切り

 雑居ビルに囲まれた土砂降りの交差点で、傘をさしていたのは僕だけだった。

 誰一人として急ぎ足になるわけでもなく平然と歩みを進めている様子を目の当たりにして、この雨は僕が作り出した幽霊なのだと気付く。

 僕の脳みそは時折、僕にしか見えないものを作りだすのだ。いわゆる幻覚や、幻聴を。それを僕は、幽霊と呼んでいる。

 脳みそが作りだす幽霊は、雨のような自然現象だったり。虫や動物だったり。時には人だったりと多種多様だ。けれど、雨であれば体が濡れないし、虫や動物なら羽音や足音がしない。そして人間ならば言葉を発しないなど、何かしらリアルに欠ける。またそれらは全て、消失する際には埃となって散るように、ぱっと離散するのだ。

 この症状とは中学時代からの付き合いだが、不思議と恐怖は感じない。家族も医者も僕自身も、心配する時期はとうに過ぎており、今では主治医の興味を満たす為だけに定期健診を受けている。

 今回も僕は、すれ違う人達から奇異な視線を向けられながらも、ああまたか、と涼しい顔でビニール傘を閉じた。

 空を仰ぐと、降り注いでいた雨粒が一斉に砕け散る。あとには、どんよりとした夕暮れ時の曇り空だけが残った。

 今日は降水確率が高いからか、空気が湿り気を帯びている。だから余計に、雨の幽霊を呼んだのだろう。

 視線を下げると、道路を埋め尽くしている色鮮やかな落ち葉が目に飛びこんできた。やはりそれらは乾いている。

 ぴゅうっと通った冷たい風が、赤や黄を僕の目の高さまで舞い上げた。先日、散髪に行ったばかりで、かつ襟の低い服を着てきた僕は、思わず首をすくめる。

 その時、楽しそうな笑い声が聞こえた。

「今度は、随分と短くしたんですね」

 おっとりとした話し方とは裏腹に、少年のような屈託の無い笑顔を浮かべた女性が、目の前に立っている。落ち葉と同じ配色のワンピースを着た彼女は、お互いのつま先が触れ合うくらいの距離まで僕に近づくと、ちょっとだけ首を傾げて、唇の両端をきゅっと持ち上げた。

「ミディアムも似合っていたけど、今のすっきりとしたショートヘアも好青年らしくて、とってもいいと思います」

 明らかにからかっている様子なのだが、噛みしめるように彼女が言ったことで、僕は非情にこそばゆい気持ちになった。

 僕と同い年の彼女は、二年前から幼稚園教論として勤めている。そのお陰だろうか。もともと丁寧だった目の合わせ方や言葉のかけかたに、磨きがかかったように思う。

「もしかして、また幽霊を見たんですか? けい君」

 彼女が、巻かれていない僕の傘をまじまじと見て言った。

「はい。また、見たんです。美優みゆうさん」

 美優さんは、僕が日常的に幻覚や幻聴を覚えることを知っている。そして彼女は、僕の恋人だ。

 今日は一緒に本屋に行って、買い物をして僕のアパートに来る予定になっている。細い指先が並んだ柔らかな手を握ると、彼女はぴたりと身を寄せてきた。

 二人の体で寒さを押し潰すように、寄り添って歩き始める。

「今日は月に一度の検査の日だったんですよね? どうでしたか?」

「いつも通りです。CTも脳波検査もたてこんでいたから、同僚には嫌がられましたけど」

「検査技師さんは大変ですね。今夜は美味しいものを食べて、元気を出しましょうね」

「美優さんも食べますか?」

「私は今日お餅つきがあって、沢山食べちゃったので。やめておきます」

「そう、ですか」

 彼女は敬語をやめられない僕に合わせて、『です、ます』口調で話してくれるほど付き合いが良い。けれど食事だけは、僕の前で何も食べない。何も飲まない。何かしら理由をつけて、飴玉一つ口にしない。出会った時から、ずっとだ。

 理由は訊いたことがない。今日も訊かない。食事を断る彼女の横顔が、それ以上の追及を拒んでいるように見えるからだ。

 小さな公園の前にさしかかると、ブランコに座っている一人の少年が見えた。小学校高学年くらいの、野球帽を被った子だ。両足を地面につけてブランコを小さく揺らしながら、顔の周りでひらひらと飛んでいる蝶と戯れている。

 彼は僕をまっすぐに見つめると、遊びに誘うようににこりと笑った。

『ごめん。これからデートなんだ』

 僕は馴染みの幽霊に、心の中でそっとお断りを入れる。

 彼は笑顔のまま頷くと、金色の鱗粉を散らすようにぱっと消失した。



「被害妄想とかは、無いんです。これは本物じゃないって、自分でも判断できるし……。いきなり眠気に襲われたり、脱力感を覚えたりも、しない。だから、病的なものではなくて……。睡眠関連幻覚に近いんじゃないかと、医者からは言われています。脳波も、レム睡眠から覚醒の移行期に、近いものらしくて」

 照明を切った薄暗い部屋。僕は、夜のしじまに裸体を横たえている美優さんとベッドに並び、程良い疲労感に包まれながらゆっくりと話していた。

 美優さんは僕と共有している枕のはじっこに右の頬を埋めて、面白いのか面白くないのか分らない説明に、じっと耳を傾けてくれている。

「じゃあ、つまり、とてもリラックスしてるってことなんですか?」

 質問とともに、僕をじっと見つめている綺麗な二重が瞬きを繰り返した。暗い中で見る彼女の瞳は、オニキスと同じ黒さだ。

 ずっと目を合わせているのも気恥ずかしくなり「そう、思いたいですが……」と言葉を濁して視線を下げた。あっという間に、視界が美優さんの素肌で埋めつくされる。カーテンの隙間から差しこんでくる月明かりに照らされて、彼女の体は青白く浮かび上がっていた。

 吸い寄せられるように、小さな丸い肩に右手を伸ばした。いつかの車窓から見えた山の稜線に似た体の側面を指先でなぞりながら、続きを話す。

「……リラックスというよりは、睡眠関連幻覚というのは、不規則な生活やストレスや過労が原因になるらしく……」

 すると、美優さんが思いがけず頬を膨らませた。

「あら。私と会ってる時もしょっちゅう幽霊を見てますよね? つまりデートが嫌ってことですか?」

「ち、違うんです!」

 僕は慌てるあまり、がばりと身を起こした。

「脳にとってのストレスって、負の感情だけを言うんじゃなくて、嬉しい事があっても脳にとってはストレス刺激なんです。どちらも新しい状況や不確実性に適応するために、脳と体にエネルギーを要求するので!」

 腰までかけていた布団がずり落ちるのも構わず弁解する僕を、美優さんは無防備な格好で無表情に見上げていた。やがて眉根を寄せて口をすぼめた彼女は、「実に興味深い」と気取った台詞を口にする。

 からかわれていたのだと気付き、力が抜けた。

「それ、僕の主治医がよく言う台詞ですよ」

 しかも、表情までよく再現されている。

 話したことありましたっけ? と訊ねると、「ええ。多分」という、静かな回答が返ってきた。

「そうでしたっけ」

 覚えていないが、きっと喋ったのだろう。付き合って三年も経つのだから、思い出せない会話もあるはずだ。

 高校生の頃、電車の中で痴漢にあっていた彼女を助けたのが五年前。付き合い始めたのが、三年前。沢山の時間と感情を共有して、癖も理解した。食事を共にした経験がない事を除けば、とてもいい関係を築いていると思う。

 僕も就職して一年。そろそろ、次のステップに移ってもいいんじゃないかと、最近は毎日考えるようになった。

 ふっくらとした彼女の唇を、右親指で押さえてみる。下唇に向かって指を滑らせると、白い歯がちらりと見えた。

 美優さんが食べている姿を見たい。今すぐ、僕の親指でいいから、その可愛い白い歯で野菜スティックを食べるみたいにぽきりと噛んで、咀嚼してくれないだろうか。

 馬鹿みたいな空想にふけっていると、困り顔の彼女に、やんわりと手を払われてしまう。

「もう。なんですか?」

 僕は、すみません、と謝った。

「また来週の金曜日、同じ時間でいいですか?」

 訊ねると、彼女はいつも通りの小さな頷きをくれた。

「はい、いいですよ」

 返事とともに、ひんやりとした両手で僕の頬を包んで引き寄せる。

 僕は彼女と唇を重ねながら、頬に添えられた左手の薬指に自分の指を這わせ、その太さをこっそりと確認した。

 透明感のある美優さんにはやはり、ダイヤモンドが似合いそうだ。



 これは華やかすぎる。そっちは可愛すぎる。かといって、石の無いやつは寂しいし――

 翌日の仕事帰り、僕は有名なジュエリーショップのショーケースの前でうんうん唸っていた。

 ショーケースを挟んだ正面には、上品な微笑みを顔面に貼り付かせた妙齢の店員さんが、僕からの『これをください』をかれこれ三十分近く、辛抱強く待ってくれている。

 素材はプラチナと決めている。石はやはり、ダイヤがいい。お勧めも幾つか見せてもらった。しかし、これといったものが見つからない。

 僕の両脇では、蝶を連れた少年と、サバトラの猫を抱いた半纏姿のお爺さんが、一緒にショーケースを覗きこんでいる。二人はよく現れる幽霊で、今日はジュエリーショップの前で僕を待ちかまえるように並んで立っていた。

 本当なら、少年の頭の周りに飛んでいる二匹の大きなアゲハ蝶も、お爺さんが抱いている猫も入店お断りのはずなのだが、幻覚なので気を使う必要は無い。

 隣のカップルが、僕の前にいる店員さんに声をかけた。店員さんが「失礼いたします」と移動した隙に、僕は左右の幽霊に訊ねる。

『あなたたちは、どれがいいと思いますか?』

 二人はショーケースから顔を上げて、にこりと微笑むと、同じ方向を指さした。

 店の外。車道を挟んだ向こう側にある、別のジュエリーショップだ。

「なるほど」

 ブランドの格はここより少し落ちるけれど、繊細ながらも遊び心が感じられるデザインは、美優さんにぴったりだ。

 そう思った途端、二人が消えた。



 次の金曜。僕は指輪が入ったケースをポケットに忍ばせて、美優さんに会った。散歩に誘い、夕方の河川敷を歩く。

「風が冷たくなってきましたね。そろそろ手袋の出番かなあ」

 美優さんが手をこすり合わせる。

 今しかないと思い、僕は彼女の前に回った。

「じゃあ、手袋をはめる前に、これを試してもらえませんか」

 そう言って、ポケットから赤いリングケースを取りだす。彼女の前で、ぱかりと開けた。中には、中心に小さなダイヤをあしらった曲線リングが鎮座している。

 指輪を見るなり、美優さんの顔から笑顔が消えた。

 僕は全身が心臓になった心地で、返事を待つ。勿論、百パーセント受け入れてもらえるとは思っていない。少し考えさせてくれと言われるか、最悪、断られるのも覚悟していた。

 美優さんの眉が、ゆっくりとハの字に下がる。

「無理ですよ。だって……」

 続けて彼女は言った。

 私は、あなたが作った幽霊だもの、と。

 僕は絶句していた。拒絶された悲しさよりも、怒りを覚えた。

「冗談はやめてください。断るんなら、普通に断ってください」

 美優さんが口元にかかったセミロングの黒髪を耳にかけ直し、上目使いに僕を睨む。

「冗談なんかじゃありません」

「だって、幽霊のはずがないでしょう。あなたは、僕と話してるじゃないですか」

 そうだ。彼女とは会話ができる。手を握ればしっかりとした輪郭と体温を僕にくれたし、口づけのたびに甘い香りが鼻腔を通り抜けた。体に掌を滑らせれば柔らかな軟部組織の内側にしっかりとした骨格を感じたし、彼女が内に秘めた熱にはいつも、全身焦げてしまうんじゃないかと思わされた。

 リアルだという証拠を僕が並べ終えると、ずっと黙って聞いていた美優さんは、ゆっくりと頷く。

「それほどに、恋していたんですね」

 心の底から――

 その話し方は、まるで他人事だ。

「あなたは高校生の時、電車で痴漢に遭っていたじゃないですか! あの時、僕に名前を教えてくれて、駅員さんに状況確認だってされていましたよね」

 ついつい、語調がきつくなる。それでも彼女は、冷静さを崩さない。

「初めて会った時の美優は本物ですよ。再会は、叶わなかったけれど」

 つまり翌日、僕に声をかけてきた美優さんは既に幻覚だったと。そう言いたいのか。

「そりゃ確かに、僕はあなたに一目惚れしました。でも僕はそんな、想像力豊かじゃないですよ。そうだ。ほら、メッセージのやり取りだって」

 確実な証拠を思いついた僕は、リングケースをポケットにしまい、反対のポケットからスマホを取りだした。無料チャットアプリを開ける。そこには、これまで美優さんとやり取りしてきた履歴が残っているはずだ。

 しかし、いつもトップに出ているはずの、熊のぬいぐるみを写したアイコンは、どこにも無かった。

 愕然としている僕を、美優さんがのぞきこむ。その顔には、いつもの柔らかい微笑みが浮かんでいた。

「頭の何処かでは、気づいていたはずですよ。あなたは、私がご飯を食べなくても許してくれたし、家に来たいとも言わなかったじゃないですか」

「それは、あなたが嫌がる事をしたくなかったから!」

 叫ぶと同時に彼女の手を取ろうとしたら、手ごたえも無くすり抜けた。

 脳が、彼女が幽霊だと認めているのか。僕を騙し続けていた脳が。

 あり得ない交叉をしているお互いの手を見下ろし、微笑みを深めた彼女の口から、感嘆ともとれるため息が漏れる。

「ようやく……」

 感慨深げに言った彼女の前で、僕は立っていられなくなった。固い石畳に両手と両膝をつき、石の表面を爪で削り取るようにしながら、拳を握り締める。

「どうして、今なんですか」

「ここから先に進めば取り返しがつかなくなると、あなたの脳はちゃんと分ってるからですよ」

「取り返しなんて、とっくにつかなくなってますよ! 僕にはあなたを失う勇気なんてありません!」

「勇気は必要ありません。受け入れればいいんです」

「できっこないです!」

「できますよ。あなたには自分で自分を守る力がある。今だってそう」

 はっきりとした口調で言い切った彼女は、僕の前に跪いた。

「中学生の時、虐めを受けていたあなたは、誰にも打ち明けられなくて、学校を休む理由を毎日探していましたよね? そして、幽霊を見るようになった」

 そう、だったかもしれない。確かに、虐めによるストレスがきっかけになったのだろうというのは、精神科医や脳神経科医からも言われた。けれど虐めが無くなってからもずっと、幻覚や幻聴は続いたのだ。

「私達は、もう必要ないでしょう? 圭君」

 地面についていた美優さんの膝が持ちあがり、足が一歩、後ろに下がった。こちらに向いていたブーツのつま先が、反対方向へと回転する。

「待って下さい!」

 慌てて追おうとしたあまり、立ち上がった拍子につんのめり、また四つ這いに戻ってしまう。

 心底情けない面持ちで顔を上げると、そこには美優さんの他に、蝶を連れた少年と、サバトラの猫を抱いたお爺さんの後ろ姿も加わっていた。

 行ってしまうのか。みんな。

「お願いします! 幽霊でもいいから、一緒にいて下さい」

 まだ離散していない彼らの背中に訴える。目の前の彼女が埃となって散れば、二度と会えないのは分かっている。美優さんだけではない。蝶を連れた少年も、猫を抱いたお爺さんも、いなくなる。

 雨が降ってきた。冷たくない。石畳も濡れていない。これも幽霊だ。

 三人が立ち止まり、振り返った。

「忘れられますよ」

 美優さんが言った。

 僕は首を横に振った。

 美優さんが僕に歩み寄る。少し手を伸ばせば触れる距離まで近づいた。けれど、またすり抜けてしまうのが怖くて、僕は手を伸ばせなかった。

「すぐにじゃないんです」

 美優さんは優しく諭すように言った。

「そのうち夢を見ていたような気持ちになって、だんだんだんだん、薄れていきますから」

「い、嫌です。そんな」

 彼女がまた、僕の前に跪く。両手で僕の頭を包みこむと、体を寄せてきた。けれど、触れられた感覚も、体温も、匂いも感じない。

「大丈夫。爆弾を一つ、用意しておきますからね」

 優しい声だけが、耳元で聞こえる。

「あなたがいつか、『近づいてみたい』と思える人に出会えたら、私達はあなたの記憶から消えてなくなります。その瞬間からきっと、あなたを包む景色は変わる」

 その時はどうか恐れず、全部受け止めてくださいね――

 その言葉を最後に、美優さんが金色の埃となって離散した。

 少年とお爺さんも消えた。

 雨も消えた。

 独り僕だけが、冷たい河川敷で蹲って泣いていた。


 

 それから一年が経過したが、美優さんを含めた幽霊たちの記憶は、僕の中から消える事はなかった。ただやはり、彼女が言っていた通り、僕の中にある彼らの存在感が薄ぼんやりとしつつあるのは確かだ。

 僕は車を運転しながら、フロントガラス越しに見える空に目を向けた。雨になりそうだ。一年前ならば、こういう日は決まって幽霊がフライングで雨を降らせていたのだが、今はもう、一人傘をさして不審がられるような事は無い。

 と、車の流れが遅くなり、やがて止まった。信号はまだまだ先だ。どうやら、工事中の区画にさしかかったらしい。何台か先で、赤いテールランプと、左右に動く赤い旗が見えた。

 旗は徐々に移動し、持ち主の姿が車の向こうから現れる。若い女性だった。小柄ゆえにサイズが無かったのか、警備服がだぼだぼだ。

 しかしその人は、旗の振り方が優雅だった。手首を柔らかく動かし、停車を要求する際には顔の前に旗を寝かせ、その両端に手を添えて小さくお辞儀をする。

 前を通過する時に僕が軽く会釈すると、にこりと笑顔をくれた。

 思わずこちらも笑顔になる。

 その時。自分を包んでいた何かが、瞬時に剥ぎ取られた気がした。

 あまりに急激な変化で、うっかりブレーキを踏みそうになったが、後続車両がいる事を思い出し、そのまま車を走らせる。

 何が消えたのだろう。何を失ったのだろう。フロントミラー越しに車内をきょろきょろと見渡すも、どこにも変わった様子は無い。

 けれど何故か、『爆弾』の二文字が頭から離れない。ずっと纏っていた鎧を脱ぎ去ったような、ひきこもっていた家から外に出たような、清々しくも心もとない心境だ。

 わけが分らないまま、どくどくと鳴る心臓と、溢れ出てくる涙で混乱し、僕は路肩に停車した。

 車を降りると、雨が降ってきた。

 普通の小雨だ。けれど今までにないくらい、全身に当たる雨粒を鮮明に感じる。

 雨だけじゃない。風が体にぶつかる。僕を取り巻く沢山の色が瞼の内側に広がり、車のエンジン音、葉擦れの音、雨音、人の話し声が、頭の中をいっぱいにする。地面から、空から、摩訶不思議な見えない力がとめどなくかけめぐる。全てが僕を押し潰そうとしてくる。なのに自分の体は、大きく伸びてどこまでも広がっていくような、世界に溶けていくような感覚を覚える。

 受け止めなければ。恐れず。全てを。

 誰かがそう言っていた気がする。声も姿も思い出せないけれど。

 目を。口を。両腕も千切れんばかり大きく広げて――。大きな喪失感を土石流のごとく覆い隠してしまったとてつもない世界を、僕は享受した。 


〜了〜

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