うさぎのお口 (エリの最初の示現)

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第1話

『うさぎのおくち』(エリの最初の示現)       柊木 祥


 不幸な女の子が生まれた。分娩台の上で、看護師に抱かれた新生児を見せられた母親はおぞましいものを見たように震えおののいた。「口唇口蓋裂症です。お気の毒です」と看護師は無表情に言った。唇が裂けた状態で生まれてくる病気で、古くはミチクチとか兎口(うぐち)という差別用語で呼ばれていたものだ。兎口とは唇の裂けた様子がウサギの口に似ているという意味だろう。実に悪意のこもった呼び名だった。

 この女の子の不幸はそのような障害を持って生まれたことだけではなかった。ともに未成年の両親が親の情を示さず、養育を拒否したのだ。手術をすれば傷口をふさぎ、目立たない程度にまでに治すことができるのに、両親はその手術代を惜しんで幼子を冷たい世間へ突き離した。

 その後紆余曲折があったが、結局その女の子は一度も母親の腕に抱かれることもなく、手術もされないままに里親を募る施設に引きとられた。


 それからまもなく、一組の老夫婦がその施設を訪れ、里親として育てたいので赤ちゃんを紹介してほしいと申し出た。希望する条件はただ一つ、女の子であるということ。施設の職員が理由を尋ねると、老夫婦には二十歳で結婚した娘がおり、夫と二人の男児に恵まれて幸せに暮らしているのだが、彼女の小さいころからの夢が女の子を育てることだったという。次男が生まれてから数年が経ち、もはや出産はあきらめようと思っていた矢先に、妹のもとにかわいい女の子が誕生した。娘はうらやましがる気持ちを隠しもしないで、用事を作っては遠い道のりを妹の家に通い、幼子をわが子のように抱っこしてかわいがり、あっという間に過ぎていく時間を恨むように家路につくといったことを繰り返していた。老齢の夫婦はそんな娘を不憫に思って見ていたが、ふと里親制度があることに思い至り、娘の人生をもっと幸せに彩る女の子の赤ちゃんはいないかと下見のために訪ねてきたというのである。

 職員が案内した部屋には七人の女の子の赤ちゃんがきれいに並んで眠っていた。ときどき薄目を開けるような仕草の赤ちゃんもいる。みな色々な事情で実の両親から引き離されてしまった子供たちだ。人生の始まりにこれほど不幸なことはない。それを思ってか、老夫婦は終始笑顔で、慈しむように赤ちゃんたちを観察したうえで受け付けに戻り、職員に何事かを告げると帰って行った。


 若い夫婦が少年二人を伴ってその施設にやってきたのは、それから数日後の日曜日の午後だった。若い母親はその両親から、「一目でお目当ての赤ちゃんが見つかるはずだよ。神さまが引き合わせてくださった赤ちゃんだからね。もし他の赤ちゃんを選ぶのなら、その赤ちゃんはわたしたちが引き取って育てるつもりだよ」と言われていたので、心がわくわくしていた。

 部屋に通されると、一人はすでにもらわれていったのか赤ちゃんは六人になっていた。この日はどの赤ちゃんも目を開けていて、まだ見えていないのだろうが視線を感じるのか目をぱちぱちしている。

 若い母親は「あ、ほんとだ」と叫んだ。両親が言ったとおり、本当に一目でお気に入りの赤ちゃんが見つかったのだ。「あなたはどう?」と若い母親は夫に尋ね、「一、二の三で指さそうか」と言った。まだ心は少女のような母親なのだ。目が少女漫画の主人公のように眩しく輝いている。夫も笑顔でうなずき、若い母親の掛け声で同時に指をさした。それが同じ赤ちゃんだった。「ヤッホー」と若い母親ははしゃぎ、「りんくん、れんくん。この女の子に決めたよ」と子供たちに宣言した。兄は少し戸惑った表情だったが、まだ幼い弟は「ウサギのお口みたいだ。かわいい」と言って恐る恐るやわらかそうな頭をなでた。弟は家で飼っているペットのウサギの世話をするのがお気に入りなのだ。純粋な息子の一言に若い母親は感心し、感動した。「そっかぁ、兎のお口ってかわいいって意味がこめられていたのかぁ」


 こうして唇に障害を持って生まれた女の子は、このとびっきりに明るくて前向きな若い母親の家族に引きとられることになった。手続きを終え、女の子を連れて家に帰ると、若い夫婦と二人の男の子は話し合って、女の子の唇の手術をしないことにした。両親とも次男がつぶやいた「ウサギのお口みたいでかわいい」という言葉が気にいっており、慣れてくると確かに魅力的でかわいいと思えるようになってもいた。小学一年生の長男もまんざらでもなさそうだったが「学校に上がったらいじめに合うかもしれん」と不安を口にした。子供の世界はある意味で大人の世界よりも残酷なのだ。しかし超ポジティブな若い母親は、そんな不安を吹き飛ばすように言った。「手術するかどうかはこの子が自分で決めればいいんだよ。いつそうなってもいいように、手術代だけはがんばって貯めとこうね」こうして女の子は生まれて初めて家族の温かみに包まれた。

 二人の男の子の名は父親が考えて決めたのだが、その日、この女の子の名は若い母親が「エリ」と命名した。小さいころから最初に生まれた女の赤ちゃんはこの名にしようと決めていたのだ。この名には「わたしの神よ」という意味がある。家族はクリスチャンだった。この女の子は人の何倍も神さまの助けが必要だろうと若い母親は考えて、何の迷いもなくこの名に決めた。


 時は流れ女の子は六歳になった。やや茶色っぽい巻き毛で体はぽっちゃりと愛くるしい。女の子の家族は毎週日曜日に教会に通っている。女の子の顔半分はいつもマスクで隠されていたが、二つの目を好奇心いっぱいに見開いて、いつも笑顔が浮かんでいる。親しい信者の多くが女の子のマスクの意味を知っているが、ほかの信者たちは花粉症対策とでも思っているのか、あるいは何か秘密めいたものを感じつつもあえて尋ねる者はいなかった。

 しかし六歳になった女の子は自分の唇が家族を含め、ほかの誰とも異なっていることに気づいていた。それは女の子が出かける時に、母親があたかも神聖な儀式であるかのように、自分の顔をマスクで覆うたびに思い知らされていた。

 ある日女の子は母親に言った。「お母さん、わたしの口はどうしてみんなと違っているの?」すると若い母親は待ってましたとばかりに、笑顔いっぱいの表情で答えた。六年という歳月をかけて準備し、考えぬいた答えなのだ。


「エリ、それはあなたが神さまの特別な娘であることの印よ。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんたちもみーんな神さまの子供だけどね、エリ・・・」


 そこまで言って、若い母親は女の子をきつく抱きしめた。流れる涙を娘に見られたくないからではなかった。かわいくて、愛しくて、抱きしめていなければ神さまに連れていかれるのではないかという不安に駆られたからだった。「エリはこの世の誰よりもすばらしい神さまの娘なのよ。だから神さまはあなたの顔に特別な印をつけられたの」

 若い母親は女の子を見つめて言った。もう涙はぬぐわれて、いつもの笑顔があふれていた。「でも、エリは自分が神さまの特別な娘ってことがわかったから、もうその印はいらないね。お医者さんにお願いして、その印を消してもらおうかな。どう?」

 女の子は少し考えてから言った。「おかあさん、この口が神さまがつけてくださった印なら、わたしやお母さんが勝手に決めちゃいけないわ。わたし自分で神さまにお祈りして尋ねたいんだけどいい?」若い母親は女の子の思いがけない言葉に驚き、心は喜びでいっぱいになった。(この子は本当に特別な子供なんだ。)若い母親はもう一度娘を抱きしめ、耳元でささやいて言った。「そうだね、そうしよ。お祈りして神さまに決めていただこうね」

 

 その日の夜、子供たちを寝かしつけた後、照明を落とした暗い居間のソファに若い母親は夫に体をあずけるように座って、今日あった出来事を語りかけていた。夫は妻の語る言葉に驚いたり、感心したりしながら楽しそうに耳を傾けている。最後に若い母親が「ほんとにあの子は神さまの特別な娘なのよ。」と言うと、「そうだよ、それは初めてあの子に会った時に君もぼくも、お父さんたちも気づいてたことじゃないか」と夫は答えた。

 若い母親はあの日のことを思い出していた。(エリの前に立った時、神さまの思いが心にあふれて、「この子を預かり、育てなさい。わたしはこの子が幸せな人生を送ることができるようにあなたを選んだ。この子を幸せにできるのはあなただけである。そしてわたしはこの子を通してあなたの家族を祝福する」と言われるのを聞いたのだわ。)


 若い母親と夫が幸せな思いに浸りながら語り合っていると、二階にある子供部屋に通じる階段が、照明が灯ったように明るくなった。異変を感じた若い母親と夫が、あわてて階段を上って二階に達すると、女の子の部屋の扉の隙間から、まぶしすぎるほどの光が廊下にほとばしっていた。若い母親は「エリーッ」と叫んで小走りに女の子の部屋に近づき扉を開けようとしたが、後に続いた夫がその肩を抱いて思いとどまらせた。   

 夫には女の子の部屋でいま何が起こっているのか察せられたのである。そしてそれはすぐに若い母親の心にも伝わった。

 それは若い母親には一瞬のことだったようでもあり、非常に長い時間がたったようにも感じられたが、やがて廊下にあふれていた光は少しずつ扉の隙間に吸い込まれるように消えていった。

 そして光が完全に消えてなくなる前に女の子がクスッと笑う声が聞こえ、光が完全に消えたと同時に部屋の扉が勢いよく開いた。そして女の子が両手で顔を隠したまま飛び出してきて、驚く両親に背伸びするように顔を近づけ「バァーッ」と言って両手をひらいた。それは若い母親そっくりの振る舞いで、天使のようにまぶしい笑顔だった。


 やがて廊下の騒ぎに眠りを邪魔された兄たちが姿を現し、振り向いた妹の顔を見て「うおっ」と言って驚いて見せた。兄はいそがしく頭を回転させて、妹に何が起こったのか答えを見つけようとしたがわからなかった。弟は金縛りにでもあったようにぴくりとも動かない。

 

 家族五人は居間に移り、神妙に女の子の話に耳を傾けた。「祈り始めるとすぐに天井から光が差しこんできたの。教会で先生から聞いたお話といっしょよ。すぐ天使が来てくださったってわかったわ。でもすぐにそうじゃないって気づいたの。」「じゃイエスさまだ。」と小さい兄が口をはさんだ。「そうよ、お父さんとお母さんが聖書のお話をしてくれた時に、心に浮かんだとおりのイエスさまが空中に立っておられたの」「マジか、凄すぎる。」大きい兄がため息をついて言った。「それで?」と若い母親はせかした。「わたし、イエスさまに、神さまがつけてくださった顔の印を、お医者さんに消してもらおうと思ってるんですけどいいですかって聞いたの。するとイエスさまがすぐそばまで降りてこられて、わたしの口に触れて、お医者さんに頼むまでもないよ、これは大切な印だからわたしがもらって神さまに返してあげようと言われたの。」

 若い両親と兄たちは小さな女の子の話に圧倒され、それぞれがそれぞれの思いで神を賛美し、感謝した。


 女の子が話し終えてしばらくして、若い母親は思い出したように言った。「エリちゃん、さっきドアを開ける前に笑ったよね。あれは何?」それを聞いて女の子はまたクスッと笑った。「イエスさまが、あなたのお母さんがわたしの父の名を呼んでいる、って言われたの。お母さん、さっきエリーッて叫んだでしょ。」それを聞いて両親は思わず大爆笑したが、兄たちはただポカンとし、小さいほうの兄が「ぼくはウサギのおくちのエリのほうがかわいいと思うな。」とつぶやくと、あらたに真夜中にはふさわしくないほどの笑い声が、幸せな家族の明るい居間に響き渡った。若い母親はいまのままでじゅうぶん幸せなのに、神さまはこれ以上どんな幸せをわたしたち家族にくださるのだろうかと考え、そっとエリの肩を抱いた。     (おわり)


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