06 『一対一』『森羅万象』『ブロッコリー』

 残業を終え、給湯室で紙コップを捨てた時だった。どこからかドタバタとした足音が響いてくる。定時を過ぎているというのに何かトラブルだろうか。巻き込まれないうちに帰ってしまおう。廊下の様子をうかがうためにドアを開けると――

「先輩! こんな時間までお疲れ様です。はあ……はあ……」

 仕事のトラブルよりも厄介かもしれない存在が目の前に現れた。

「いやはや、残っていたのが先輩だったなんて。企画課のフロアの明かりがついていたので一縷の望みをかけて戻ってきて正解でした。森羅万象に感謝ですね」

 独特な言い回しで近付いてくる――否、詰め寄ってくるのは総務課の女性社員。片方の手はドアを掴みもう片方の手は壁について、おまけに物理的にフットインザドアなんて芸当までかましている。さすがパンツスタイルにローファーといういつもの組み合わせは動きが機敏。進路を塞がれ、整った顔面の圧に思わず私は後ずさる。彼女は給湯室に入ると後ろ手にドアを閉め、そのままドアに寄りかかってしまう。鍵をかけられたも同然だ。

 この時間この狭い場所での一対一はまずい。非常にまずい。よくもまあ目ざとく私が一人の時を見つけるものだ。

 切れ長で涼やかな目元はお高くとまっていると勘違いされそうだけど、柔和な微笑みで中和されている。常に笑顔でいるのは彼女なりの処世術だそう。美人も大変だ。

 そしてなぜだか、私はこの美人に懐かれている。

「好きです。付き合ってください」

 というか恋愛的なアプローチを受けている。

 人目がなくなるとすぐこれだ。挨拶代わりに告白してくるから、半年経った今ではうろたえることもなくなった。

「付き合わない」

「えー。私はいつでも本気で、先輩には本当のことしか言わないのに。まあいいでしょう。せっかく給湯室に来たわけですし、私も補給することにします。ちょっと失礼」

 そう言いながら給茶機ではなく私に手を伸ばす。

「ちょ……何で抱きついてくるの! 水分補給は?」

「先輩を補給しています。コーヒーの香りがしますね。仕事終わりの一杯というやつでしょうか。先輩の優雅な雰囲気によくお似合いですよ。まあ私の特権なので、他の方には嗅がせられませんが」

「特権を与えた覚えはないわよ」

 女同士とはいえ距離感がおかしい。人目がないところで体を近付けてくることはあったけど、抱きつかれたのはこれが初めてだ。人目ではなく人がいないから大胆になっているのだろうか。

「はあ……はあ……」

 乱れた呼吸音が耳に届く。私を抱きしめる腕にさらに力が込められ、興奮か緊張かその体は震えている。

 これは本格的にまずいかもしれない。

「さすがに怒るわよ。いくら私があなたの告白を受け入れないからって、無理矢理こんなこと――」

「無理矢理? 何の話ですか?」

 彼女は腕の力を緩めて体を離した。首を傾げて私を見つめる。

「だって急に抱きつくし、呼吸は荒いし」

「呼吸が荒いのは当然です。外から明かりがついているのを見つけて全力で階段を駆け上がってきたんですから。ですが、運動不足でしょうか。ほら、膝がガックガク。いつも笑顔だからといってなにも膝まで笑わなくてもとお思いで? 若いのに情けないですよね。先輩より若いのに」

「二つしか違わないでしょ!」

 反論しつつ彼女を見ると、確かに膝が震えている。ヒールだったらバランスを崩していたかもしれない。思い出してみれば、声をかけられた時もすでに息が荒かった。

「とりあえず座ったら?」

 私は給湯室の端に追いやられている丸椅子を持ってくる。

「ありがとうございます。やはり先輩は優しい人です。好きです」

 全力で走ったのなら水分補給も必要だろう。紙コップに給茶機の水を入れて渡す。

「ああ、女神様としか言いようがありません。好きです。恐れ多いですがいただきます。……おいしいです。おや、いけませんね。ただの人間である私は畏敬の念によって手が震えてしまいます……」

 紙コップを持つ手が震えている。顔色も悪いし、これ酸欠じゃない? ここは二階だ。どれだけ体力がないのか。

「やはり森羅万象に感謝しなくては」

「ねえ、さっきから森羅万象って何よ」

「おや、ご存じない? いいでしょう。先輩のためにご説明します。森羅万象とは宇宙に存在するあらゆる存在や現象のことです。たとえば、その辺に転がっている石であるとか、私が先輩を好きであることとか、明日の天気は朝から雨予報であるとか、自転車のサドルがブロッコリーになっていたりだとか、先輩の仕事に対する姿勢が素晴らしいので私が魅了されていることだとか、防犯カメラの有無であるとか、虫であるとか、私のスマホには先輩の連絡先がお気に入り登録してあることだとか。そういったもの全てのことです。はい、お分かりですか?」

「ええ、まあ……。もういいわ」

 意味は知っている。なぜその言葉を選んだのかを聞きたかったのに、いつにも増して早口なので止めるタイミングを逸してしまった。

 アプローチの仕方も変。言葉選びも変。美人だから許されている節がある。私以外に対しては普通らしいけど、彼女の言う普通の定義も怪しいところだ。私が総務課に行くと彼女がいつもうれしそうに対応してくれるから、他の人と接している場面を見ることができない。別に知りたいわけじゃないけど。

 対応してくれた仕事ぶりを見るに、真面目にやっていることは分かるので評価できる。私にはそれだけで充分だ。私達は同じ会社の社員という関係でしかない。仕事が重要だ。

「ごちそうさまでした」

 彼女は立ち上がり、紙コップをゴミ箱に捨てた。震えも治まったようで一安心。

「先輩ももう帰るんですよね?」

「そうよ」

「もう暗いですし女性一人では危険です。一緒に帰りましょう。一緒に帰りたいです。お願いします! 私にエスコートさせてください!」

「一緒にって言ったって……。私は車で、あなたは自転車じゃない」

「駐車場出るまでいいので! 私が先輩のために社員証タッチして入り口のバー上げますから! あ、その時先輩の代わりに守衛さんに挨拶しておきますね。先輩の麗しいお声をそばで聞けるのは私の特権ですので!」

「挨拶は自分でするわよ」

 今までこんなに懇願されたことがあっただろうか。交際の申し込みよりも気合が入っているような気がする。でも、考えようによっては一番まともなアプローチだったかもしれない。

「待ってて。電気消して荷物取ってくるから」

「はい女神様!」


 エスコートとは何だったか。彼女は私の左腕をがっしりと掴んでいて、どちらかというと私が引っ張っている形だ。階段でも足取りは危なっかしかったし、彼女の体力が尽きる前に帰れればいいんだけど。

 ドアに社員証をタッチして解錠する。社屋を出ると駐車場が広がっていて、私の車以外にもまだ何台か残っている。見上げれば窓から明かりが漏れているフロアがいくつかある。というか、私のいた二階以外は明るい。いやあ、お疲れ様です。お先に失礼します。

「さて。先輩の車はどこでしょうか?」

「それより先に自転車でしょ」

 社屋に隣接する駐輪場に向かうため方向転換する。彼女が少しよろめいた。

 駐輪場には自転車が一台だけ残っていた。彼女のものだろうそれに近付くと、私は思わずつぶやいてしまう。

「嘘でしょ……」

 サドルがブロッコリーになっている。

「私は先輩には本当のことしか言いません」

「サドルは?」

「あればもう帰っています」

「それもそうね」

 自分の声から温度が失われるのを感じた。指先が一気に冷えていくのが分かる。痺れを感じるほどに。

 ここは会社の敷地内にある駐輪場だ。社員証がなければ、守衛さんに止められて駐車場にすら入ることはできない。私は周囲を見渡す。今まで気付かなかった。駐輪場には防犯カメラがない。

「気に入らない」

「先輩?」

 誰がやったかは関係ない。やった人間が存在することが問題だ。

「ねえ。私には本当のことしか言わないんじゃなかった?」

「もちろん。ですから――」

「本当は怖かったから戻ってきたんじゃないの? また足が震えてるじゃない」

 指摘した途端、私の腕を掴む彼女の力が弱まり、へなへなと崩れ落ちてしまった。子供のように地面に座り込んでしまう。

「だって、ブロッコリーごときに怖がる大人がいますか?」

 彼女は微笑んだ。

 サドルがないこと。ブロッコリーを使うことでという印象を与えていること。確かな悪意があるのに、ユーモアや冗談と言って済まそうとしている者がいる。

 彼女に悪意を向けている不届き者がいる。

 気に入らない。真面目に仕事をしている人間に対してすることか。

 痺れる指先で拳を握る。

 まったく、何が運動不足だ。毎日自転車通勤しているのに、二階まで階段を駆け上がったくらいであんなに息切れして震え続けているわけがないだろう。そうだ。給湯室に来た時からずっと何かに体を預けていた。そうでもしないと立っていられなかったから。どうしてもう少し気遣ってあげられなかったのか。顔色も悪かったのに。

「先輩? ……え?」

 私はしゃがんで、震える彼女を抱きしめた。

 彼女はきっと、私に会うために来たわけじゃない。ただ会うためであれば、私に連絡して所在を聞けばいい話だ。

 怖くてどうしたらいいか分からなくて。とにかく誰かに助けを求めたかっただけだと思う。でも、守衛さんのもとへは行かなかった。見上げた窓が明るかったから思わずそこへ走った。明かりのついている一階を通り越して二階まで一気に。

 私に会うためじゃない。

 そうしたら、そこにたまたまいたのが私だったってだけ。でも――

「私で良かった」

 聞き返されないので、彼女には聞こえていないだろう。

 体を離して彼女に向き合う。

「怖い時は怖いって言っていいのよ。いつでも笑顔でいる必要ないんだから」

「……先輩のそういうところが好きなんです」

 彼女から何度も聞いた言葉なのに少し動揺してしまう。柔和に微笑んでいるけど、目に涙を浮かべているから。

「怖かったです、とても」

 涙が頬を伝う。それを指で拭ってあげると笑顔は剥がれ、迷子になった小さい子供のような情けない表情になった。

 彼女の頭を胸元に抱き寄せる。誰かに見られているわけではないけど、彼女が処世術としている笑顔も今はない。だから隠しておこう。この私からも。

 声を出さずに静かに泣いている背中をゆっくりとさすりながら、私は自分の手に温度が戻ってくるのを感じた。


「失礼しました。もう大丈夫です」

 泣き止むのにそれほど時間はかからなかった。

「立てる?」

「はい」

 彼女は私に続いて立ち上がる。足にはしっかり力が入っている。もう大丈夫そうだ。

「先輩。あの、帰りなのですが」

「家まで送ってあげるわよ。仕方ないもの」

 駐輪場を離れ、私は自分の車に向かって歩き出す。彼女は急いで後をついてきた。

「それはありがたいのですが、このまま家に帰ると通勤用の自転車がありません。ここに置いてしまうので」

「じゃあ公共交通機関使いなさいよ。タクシーでもいいし」

「えー? 私被害者なのにお金使わないといけないんですか? おかしいと思います」

「じゃあ早く起きて歩けば?」

「ちなみに明日は朝から雨です」

「分かったわよ! うちに泊めればいいんでしょう!?」

「やはり女神様は慈悲深くて素晴らしい。好きです。付き合ってください」

「嫌」

 いつもの調子が戻ってきてうれしい。

 彼女はまた私の腕をがっしり掴み、感慨深そうに言った。

「森羅万象に感謝ですね」

「そこは私に感謝でしょ」

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百合三題噺 前野十尾 @too_maeno

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