アニマグラファー

鳥辺野九

アニマグラファー


 大陸横断鉄道の乗り心地はあまりよろしくない。むしろ悪い。重力制御宙航船の浮遊感が快適なせいで、乗り継ぐとその居住性の差を思い知らされるからだ。それでも昨今の異惑星文化ブームのおかげで乗車率はあまり悪くない。むしろ良い。

 影山里帆は車窓に流れる異惑星の黄緑色した丘陵をぼんやりと眺めていた。

 数分おきにレールの熱膨張調整継ぎ目がガタンゴトンと揺れる。地球の電車文化を思い出さずにはいられない懐かしい振動だ。

 窓ガラスに頬を寄せて進行方向へ目を向ければ、広大な大地に敷かれたロングレールの緩やかなカーブが見える。ひたすら長い。カフロル地方は温暖で緑豊かな土地だ。里帆の生まれた田園地方の気候とよく似ている。はるか遠い異惑星だというのに。

 里帆の目的地である第七自然保護区まで、おそらくあと二時間あまり。濃厚な青空の下、大陸横断鉄道の揺れに合わせてもうひと眠りしてもいい。里帆は揺れる車窓を眺めながら思った。

「あのー、すみません」

 柔らかみのある声に驚いて里帆は顔を上げた。まさかこんな異惑星の僻地で日本語で話しかけられるとは。甲高い声の方を見やれば、人型のヤモリが里帆のコンパートメントを覗き込んでいた。

「ここ、いいですか?」

 間違いなく日本語だ。しかもヤモリだ。里帆は思いがけず耳にした母国語を瞬時に理解できなかった。返す言葉すら浮かばない。

 そのきょとんとした彼女の沈黙を、コンパートメントに異惑星人を招き入れるのを逡巡していると思ったか、人型ヤモリ星人は真っ黒くて大きな目をぱちくりとして人懐っこい笑顔でもう一度日本語を繰り出した。

「ここ、空いています? 僕、座ってもいいですか?」

 大陸横断鉄道のコンパートメント客車は小柄な地球人の里帆にとっては十分に広い空間だ。人型生物が三人は座れる長椅子が向かい合い、間に小さなテーブルが据え付けられている。

「ああ、ええ、いいですよ」

 里帆はようやくヤモリ星人に声を返した。日本語を口にするなんていつ以来のことだろう。

「よかった。実は電車に乗る時にちらっとあなたを見かけてまして」

 ヤモリ星人は笑顔のまま遠慮なしにコンパートメントに入り込んできた。ポケットがやたらくっついたアウトドアジャケットをガサガサ言わせてる。

「ぜひお喋りしたいなって思ったんですが、なかなか決心がつかずに無駄に時間を浪費してました」

 手提げバッグを空いているシートにどさり。バックパックを床にごとり。ヤモリ星人は里帆の真正面に腰を下ろして、ぺこり、鼻を突き出すようにお辞儀をした。

「電車に乗る時って、もう何時間も前ですよ」

「お邪魔だったらどうしようか。いきなりヤモリ星人に話しかけられたら怖がるだろうか。いやいや、逆にうるさいって怒られやしないか。悩んじゃいました」

 ヤモリ星人はふるふると手を振った。

「そんな、怒ったりしません。でも今からひと眠りしようかなって思ってたとこです」

 ヤモリ星人は大きな目をさらに見開いて甲高い声をさらに高めた。

「ああ、ごめんなさい! お休みになるんでしたら、僕とお喋りなんていいです!」

 やたら丁寧に慌てるヤモリ星人。吸盤のような指先を広げてぶるんぶるん振るう。そのコミカルな仕草に里帆は笑ってしまった。

「冗談ですよ。私でよければ、暇つぶしの話し相手になりますよ」

「もー。びっくりしました」

 ヤモリ星人は芝居じみた動作で胸を撫で下ろす。

「僕はモケモクラ・ステイリーといいます。ご覧の通り、ヤモリ星人です」

 ご覧の通りね、里帆はヤモリ星人の頭のてっぺんからつま先、そして尻尾の先まで目をやった。たしかにどこからどう見ても、おしゃれアウトドアな格好をした人型ヤモリだ。

「私はカゲヤマリホ。ご覧の通り、チキュウ星人です」

 里帆はモケが差し出した右手を軽く握り返した。大きくてしっとりとした温かい手のひらだ。

「モケでいいですよ。リホと呼んでも?」

「ええ、モケ」

「ありがとう、リホ」

 友好の握手を終えて、少し間が空く。

 私が地球人だから話しかけてきた。そうよね。里帆はモケから目線を外して再び車窓へ顔を向けた。

 ただでさえ辺鄙なこの惑星系に移住させられたチキュウ人類は少ない。日本人ならなおのことレア中のレアだ。

「僕、カメラマンやってるんです」

 モケが手提げバッグからレトロな一眼カメラをいそいそと取り出した。里帆はひと目見てわかった。このカメラはチキュウ製の、しかも日本製のデジタルカメラだ。

 ファインダーの位置、ボタンの小ささ、液晶パネルのタッチ操作、ヤモリ星人にはとても扱いにくい代物だろう。それでもモケはとっておきの宝物のように愛おしく手にしている。傷ひとつない綺麗なカメラボディがいかに大切に扱われてきたか物語っている。

 チキュウの言語すら耳にすることのないこんな宇宙の僻地で、新設された自然保護区へ向かうローカルな大陸横断鉄道のコンパートメントで、こんな化石レベルの年代物の日本製品と出逢えるなんて。

「モケって、すごいカメラ持ってるのね」

「これを見せたかったんです。僕のカメラ、とても古いニホン製なんです!」

 モケがおもむろにファインダーを覗いてレンズを里帆へ向けた。里帆は驚いて、思わず手のひらを差し出してそれを遮ってしまった。

「あ、ごめんなさい。つい」

 一言謝り、それでもレンズを遮る手を下ろさない里帆。笑顔を作ることもなく、目線をそらして、モケがカメラを退けるのを待つ。

「いえいえっ、ごめんなさい。僕の方こそ、無遠慮な行為でした」

 ようやく自分のしでかしたことに気付いたモケは慌ててカメラを下げた。短い脚の膝にカメラを置き、大きくて真っ黒い目をぱちくりとさせる。

 希少なチキュウ星人として、好奇の目に晒されることには慣れているつもりだ。それでも、こんな目の前でカメラのレンズを向けられるのにはどうしても抵抗がある。

 惑星侵略戦争に敗北し、チキュウ星人はことごとく他の惑星系に強制移住させられた。地球は異惑星人の手によって再開発下にあり、地球に暮らすチキュウ星人も数えるほどしかいない。

「僕は動物カメラマンです」

 モケが申し訳なさそうに言う。

「リホが珍しいチキュウ星人だから写真を撮ろうと思ったわけじゃありません」

 デジタル一眼カメラを吸盤の指で撫でながらモケは続けた。里帆はそうっと手のひらを下ろして、それでもモケの顔は見ずに、車窓の丘陵地帯を伏し目で見やった。

「このカメラをリホに逢わせてやりたかったんです。カメラマンとして、ついレンズを向けてしまいました。ごめんなさい」

「いいんですよ、モケ。写真を撮られるのが苦手なだけです」

 ようやく里帆は重い息を吐き捨てることができた。

「僕は、第七自然保護区でカエルの写真を撮ろうと大陸横断鉄道に乗ったんです。そこで、チキュウ星人で、しかもニホンの人を見つけてしまったので、もう、どうしようどうしようってずっとドキドキしていました」

「第七自然保護区で、カエルの写真?」

「うん。カエル。僕に似てるでしょ」

 遠い惑星の両生類とまた違った惑星の人類の顔が似ているなんて、宇宙ではよくある話だ。

「どうせだったらヤモリの写真を撮ったら?」

 少しは言い返してやろうか。里帆は少し意地悪く言ってやった。

「ヤモリだったら鏡で毎日見てるよ」

 そりゃそうだ。里帆は思わず笑ってしまった。言い返してやるつもりが、きれいにカウンターを食らった。

「そんなに笑うことかい?」

 モケも笑った。人懐っこい丸い目を細めて、ケロケロと声を上げる。

「ヤモリが鏡のヤモリの写真を撮るの想像してよ」

「うん。奇妙な写真集が完成しそうだ」

 チキュウ星人とヤモリ星人はひとしきり笑い合った。それから里帆は笑顔を崩さずに呟いた。

「私ね、その第七自然保護区の博物館へ学芸員として招集されたの」

「それはすごい。立派なお仕事だよ」

「例によって強制移住だけどね。戦争に負けたチキュウ星人に選択の余地はないもんね」

 モケは笑っていた。愛想笑いじゃない、楽しいから生まれる本当のにこやかさだ。

「必要だから求められるんだよ。そもそも惑星チキュウの文化を保存、継承するために第七自然保護区は作られたんだ」

 第七自然保護区設営はチキュウの自然環境をそっくりそのまま再現させるプロジェクトの一環だ。

「いいんだよ。私はどこでだって生きてやるって気持ちで大陸横断鉄道に乗ったんだから」

「いいね、その気持ち」

「私は日本の稲作文化を保全するためのお仕事をさせられるらしいけど、むしろ日本のお米の美味しさを全宇宙に知らしめて、全宇宙を私の新米で支配してやるわ」

「そうこなくっちゃ。応援するよ」

「ありがと、モケ。ちょっと勇気湧いた」

「どういたしまして、リホ。僕は幸運だ」

「どうして?」

「だって、稲作環境にカエルは付き物でしょ? 僕はカエルの写真を撮りたいと思ってるんだ。リホはその現地ガイドとして最適じゃないか」

 里帆はモケに負けないくらいケラケラと声を上げて笑った。自然に湧き出た笑い声だった。

「うん、任せて。きれいな田圃仕上げて、立派なトノサマガエルを見つけてあげるよ」

 モケは里帆の曇りのない笑顔にカメラのレンズを向けた。

「とてもいい笑顔だよ。今度こそ、一枚いい?」

 チキュウ星人はヤモリ星人に笑って見せた。

「一枚だけね」




 爬虫類型ヤモリ星人の目玉はとても大きい。そして宇宙みたいに真っ黒だ。宇宙に浮かぶ濡れた月のようで、黒く光を反射させ、見つめていれば、ふと吸い込まれそうになる。

「最初に環境侵略されたのはきれい過ぎる水だったよ」

 里帆は水面に映る空の青を眺めて、大きな目で器用にファインダーを覗き込むヤモリ星人に言った。

 聞いているのかいないのか、モケはまばたきひとつしないで被写体を狙っている。まるで捕食行動だ。

「不純物が一切含まれていない純水では水棲生物は長く生きられなかった」

 空を見上げれば、青く光るソーラーパネル。それは巨大なビニールハウスのようで、ひとつの建築物のように土地を覆っている。

「最初に絶滅したのはカエルだった」

 里帆は再び水面に目をやった。記憶にある田圃とよく似た人口的でミニマムな生態系環境がそこにはあった。

 ようやくモケの真っ黒い瞳がくるりと動く。顔はまっすぐ一眼カメラに向けたまま、

目玉だけが独立した生き物みたいに里帆を捉える。

「私、カエル見る久しぶり。そもそも田圃ももうないからね」

 モケの一眼カメラがキレのいいシャッター音を奏でた。人口的に水を湛えたミニマム生態系に波紋が一つ生まれる。田圃の澄んだ泥水に一匹のカエルが潜った。長い尻尾がぴしゃりひるがえる。

「ああっ、逃げちゃった。ごめんよ、驚かせちゃって」

 モケが田圃のカエルにぺこりと謝った。カエルは長い脚で泥をひと掻きふた掻き、水面にかすかな波を立ててモケに抗議する。

「聞いてた?」

「聞いてるよ。リホのチキュウはもう滅んでるんでしょ。それはとっても残念なことだけど、惑星開発ってそういうもんだよ」

 第七自然保護区は崩壊した地球文明の再生プロジェクト関連施設だ。ニホンエリアにある環境博物館の学芸員として働く里帆は10メートル四方の小さな田圃を再構築する企画に参加している。

 ドーム型ソーラーパネルで土地ごと覆い尽くし、閉鎖的ではあるが光に溢れた擬似的な生態系を再生するプロジェクトだ。

 このミニマム生態系再生計画が成功すれば、いよいよ本格的な田植え計画が実行される。里帆の宇宙逆侵略の第一歩だ。

「そういうもんって、軽く言わないでよ。故郷の環境が破壊されるって、けっこうメランコリックな気持ちになるものだよ」

 やや冷たい田圃の水に細い指を浸す。水温はまずまず。光に温められ過ぎず、乾燥した空気に蒸発し過ぎず。いい水だ。

「チキュウ星人の特性だね。それならリホの大事なものをカエルみたいに持ってきちゃえばいいのに」

「それよそれ。なんか複雑な気持ち。チキュウって一個だけじゃないなんて、誰も教えてくれなかった」

「カエルのいない多次元チキュウは動物カメラマンやってる僕にはとってもつまんなそうだけど」

「私のいたチキュウの大絶滅前にモケも来ればよかったのに」

 里帆はモケの後ろに回り込んで、一眼カメラの液晶パネルを覗き込んだ。田圃の水面から顔だけを出している一匹のカエルをファインダーに捉えている。

 水面は上空パネルからの澄み切った青を反射させ、表面張力に捕まったカエルがまるで青色に溶けかかった緑色みたいに、水とカエルの境目がわからなくなっている。

 カエルの写真が撮れればそれでいい。チキュウ環境が崩壊して別次元宇宙から連れてこられたカエルだろうが、自然保護区で再生されたカエルだろうが。写真に撮れれば、モケにはそれでいい。

「はい、写真撮影はそこまで!」

 ミニマム生態系に新たな上位種が現れた。背の小さな、でも耳の大きさの分だけ里帆と背丈が並ぶ白ウサギだ。

 哺乳類型ウサギ星人のマルマルマは作業ブーツの大きな足の裏で人口的な畦道をどんと強く踏み抜いた。田圃に波紋が走る。水面に浮いていたカエルは振動に驚いてぷくんと沈んだ。

「ああ、また逃げちゃった」

 モケが残念そうにマルマルマをひと睨みする。あのウサギ星人はいつも不機嫌そうで、偉そうで、ちょっと苦手だ。

「ここは研究施設。部外者は立ち入り禁止よ。リホが身元を保証してくれてるから撮影許可を出しているにすぎないの」

 マルマルマは里帆の隣にぺたりとしゃがみ込み、手のひらが一枚入るくらいの大きさのタブレット端末を畦道に直置きした。

「何これ?」

 里帆がマルマルマに尋ねる。マルマルマは頭の上の大きな耳を楽しげにゆさゆさ揺らして腕まくりをした。

「リホはブラックホール通信知らない? じゃあ見ときなさい。ニホン固有の植物を採取するよ」

 マルマルマの細い腕がタブレット端末の画面に触れる。もわん。田圃の波紋みたいに画面が波打つ。

「宇宙座標はリホの生まれたチキュウにセットしといた。まだ田圃文化が破壊される前の時間軸のね」

 宇宙は多元的だ。重力の作用で時間軸は多重にぶれて幾つもの像が露出される。そのひとつの座標が人間に認識できる時間軸にすぎない。

「撮ってもいい?」

 モケがいそいそと一眼カメラを向けてファインダーを覗き込んだ。無遠慮に距離を詰めるモケにマルマルマは前歯を見せてきっと睨む。

「ダメ。宇宙座標が流出したら、リホの生まれ故郷が悪い奴らに再侵略される」

「ええ、それはダメだ。リホのカエルたちがかわいそうだ」

「私のカエルじゃないけどね」

 里帆はマルマルマとモケの間に割って入った。ブラックホール通信は里帆も初めて見る。何より、タブレット画面越しとは言え、生まれ故郷の惑星の風景が久しぶりに見えるのだ。モケには悪いが特等席を譲ってもらう。

 マルマルマの白い産毛に覆われた細腕がブラックホール端末に沈む。音もなく、肘のあたりまで画面に溶けるように消えていく。その白い毛の向こうに、里帆にとっては懐かしきチキュウの田圃の原風景が見えた。

「はい。採取成功」

 タブレット画面から引き抜かれたマルマルマの手には、ひと束の稲が握られていた。みずみずしくぴんと張った緑色の尖った葉っぱは、里帆のよく知った田圃の光景そのものだ。

「もう終わり?」

 モケが聞く。たしかに一瞬の出来事だった。里帆は首を傾げて美しい色した稲に魅入った。

「チキュウ終末の一ヶ月前、正真正銘最後の稲作田圃の稲束よ。この後、稲作文明は再起不能な壊滅的なダメージを受ける」

 この宇宙時間軸に現存する最後の稲束がマルマルマの細い指に握られていた。

「これが最後の稲」

 里帆がまだ未熟な、しかし生命力を感じられる稲に手を触れた。皮膚が切れそうなくらいぴんと張り、それでいて柔らかく里帆の指を躱す稲葉だった。

「さあ、田植え実験しましょうか」

「ねえねえ、なんでカエルも一緒に連れてきたの? 写真撮ってもいい?」 

 モケがマルマルマの指先を見ながら呑気に尋ねた。

 見れば、稲の束に紛れて一匹のカエルがマルマルマの指に小さな手をかけていた。まるで初めて会う宇宙人に握手を求めるかのようで、カエルは真っ直ぐにウサギ星人を見上げていた。

「きゃあっ!」

 慌ててマルマルマは手をぶるんぶるん振るう。カエルも慌てて稲束からジャンプし、小さな田圃にぽちゃんと飛び込んだ。

「あたし、毛のない生き物苦手!」

 何故かモケを睨みつけて怒鳴りつけるマルマルマ。モケは毛のない生き物の代表であるかのように丁寧に謝罪した。

「僕も毛がなくてごめんなさい」

 里帆が笑いながら泳ぎ去るカエルを目で追った。あれ? あのカエル、尻尾がない。里帆は自分の記憶を辿ってみた。

 里帆が知るチキュウのカエルには尻尾がない。幼生期にはオタマジャクシから変態し短い尻尾があるが、成長するにつれて尻尾はなくなるものだ。

 そういえば、さっきモケが写真に撮っていたトノサマガエルには立派な尻尾があったような。

 あのカエルは、どの時間軸のチキュウから連れてこられたものだろうか。

「ま、いいか。カエルはカエルだし」

 別次元の宇宙で姿形を変えるカエルたち。宇宙ではよくある話だ。




 おにぎりを握るのにあまり握力は関係ない。里帆は手のひらに美味しい熱を味わいながら思った。むしろ手のひらの大きさ。たっぷりとした物理的包容力が不可欠なのだ。

 先輩学芸員のマルマルマが小さな手でおにぎり作りに苦戦している。手助けしようか。

 哺乳類型ウサギ星人は全身に輝く産毛のような体毛が生えている。手のひらや指先には毛は生えていないが、おにぎりに彼女の体毛が混入しないか、少し不安になる。

「せっかくのコメなのに、ショウユをつけて焼くなんて意味がわからないよ」

 ドーム型ソーラーパネルの下、モケは一眼カメラのファインダーを覗き込んだ。循環換気扇のそよ風は温かく、畦道として固めた土の匂いを運んでくれた。土に直で座るのは心地いい。

「君は部外者なんだ。興味がないなら外で虫の写真でも撮っていろ」

 マルマルマはけんもほろろに言ってのけた。モケは真っ黒い目をさらに大きく黒く見開いてびっくりした表情を作った。炭火の煙が大きな目に染みる。

「そんな仲間はずれにしないでよ。僕だってちゃんとコメの写真を撮って機関誌に発表してるよ」

 涙目になって訴えるモケ。

「稲作実験の専属カメラマンとしてお仕事依頼してるから、ちょっとだけ関係者かもね」

「そうやってリホはモケを甘やかす。良くないぞ」

 マルマルマはひと仕事やり終えた満足げな顔で不恰好なコメの塊をお皿の上に転がした。ころりと半回転して、里帆が握ったきれいに丸みを帯びた三角形のおにぎりに寄り添う。

「仕方ない。モケ、君も握り飯を握るか?」

「いいの?」

「自分の握り飯ぐらい自分で作りなよ」

「僕はリホのおにぎりが食べたいよ。とてもきれいな形してる」

 里帆は二人のやりとりを笑って見ていた。

「あら、ありがと。じゃあ私のおにぎりはモケが握ってくれる?」

「ええっ、僕が?」

 モケはカメラ越しに自分の手のひらを広げた。指先が潰れた吸盤状で、しわしわの深い手相が刻まれている。指は長く、手のひらはぷっくり。相当大きなおにぎりが製作できるだろう。




 里帆の稲作文明再生プロジェクトはいい感じで進んでいた。

 田圃ドーム内には完璧にコントロールされた光、温度、湿度、気圧、そして栄養たっぷりの水がある。

 稲を収穫した後は土壌を洗浄し、新たな栄養を与えて、すぐに二期目の稲作を継続できる。田圃のカエルたちに休む暇はない。田圃ドーム外から侵入する虫を食べる重要な任務があるのだ。

 収穫したコメを早速味見してみよう。里帆の提案にマルマルマも賛成した。マルマルマにとって初めてのチキュウの食べ物だ。

 ツヤツヤとしたコメの集合体に刷毛で褐色の液体ショウユを塗る。もっちりとした塊は一粒一粒が適度な圧で吸着していて、それでもそれぞれのコメのわずかな隙間に毛細管現象でショウユが染み込んでいく。

 それを炭火で熱し、でんぷん質にメイラード反応を発現させる。香ばしく焦げる寸前まで熱を加える。これがニホンの焼きおにぎりの技だ。

「写真撮るなら、サンプルとして理想的な形の方を撮りなさいよ」

 マルマルマは刷毛で追いショウユを這わせた。ブラックホール通信で過去のチキュウ、それも里帆の故郷から取り寄せた調味料だ。里帆のコメに合わないはずがない。

 ころり、里帆がおにぎりをひっくり返す。ショウユが炭火の熱に爆ぜた。焼ける音すら美味しそう。

 丸みを帯びた三角形と歪で小さめな球体、そして力任せに握ったような大きめのやや細長い楕円形。それぞれ二個ずつ焼けている。マルマルマの言う理想型とははたしてどれだろう。

 動物カメラマンは貴重な小動物の生態をカメラに収めるように、レンズも焼け焦げる勢いで接写した。コメの表面が焼け、ショウユの水分が蒸発する様子を捉える。

「さあ、いただきましょ。お好きなのをどうぞ」

 里帆にとって十数年ぶりのニホンのコメだ。しかも新米の、炊き立ての、焼きおにぎり。形なんてどうでもいい。宇宙に数少なく生き残ったニホン人の血が騒ぐ。

「それにしてもずいぶんと原始的な調理法を選んだものね。せっかく炊いたおコメをさらに焼くなんて」

 マルマルマが興味津々の様子で長耳をぴんと張って言った。普段は無関心で無愛想な先輩学芸員がそんな仕草を見せるなんて。先輩の意外な反応に里帆は笑って答えた。

「プリミティブって言おうよ。土に直接座って、火と水でお米を炊いて、風でシメて、また火を使って焼く。自然と一体化してる。これ以上ないくらい食事の基本だよ」

 そんな女子たちの他愛のないおしゃべりの間に、モケが申し訳なさそうに割って入る。

「あのね、ブラックホール通信端末借りてもいい?」

 真っ黒い目をうるうるとさせてモケが言う。ショウユが焦げる煙に目が染みたのだろう。

「研究部外者の君に特別に貸してあげてもいいけど、何をする?」

「秘密だよ」

 モケは真っ黒くて大きな目で愛用のデジタルカメラを覗き込んだ。液晶パネルの中に、里帆が微笑んでいる。




 宇宙は多元的に回っている。そのため宇宙の重力座標を特定できれば、いつでもどこでも宇宙を旅することができる。

 写真を撮る。それは宇宙全般で行われている普通の記録行為だ。写真を撮ることは宇宙重力座標を固定させることである。それに気付いている宇宙人は少ない。宇宙地図から重力座標を読む。他の宇宙人類よりも何十倍も色彩豊かな視力を持つ爬虫類型ヤモリ星人だけが持つ特殊能力だ。

 宇宙の写真は宇宙の地図。写真の画像を解析すればその重力座標を読み取れる。写真一枚あれば、宇宙のどこでもいつでも旅ができる。チキュウのニホン製のデジタル一眼カメラが重力座標固定との相性が抜群にいい。それは宇宙でモケだけの秘密だった。

 モケは旅人。重力と時間を旅するヤモリ。




 大陸横断鉄道の乗り心地はあまりよろしくない。むしろ悪い。

「うん、任せて。きれいな田圃仕上げて、立派なトノサマガエルを見つけてあげるよ」

 モケは里帆の曇りのない笑顔にカメラのレンズを向けた。

「とてもいい笑顔だよ。今度こそ、一枚いい?」

 チキュウ星人はヤモリ星人に笑って見せた。

「一枚だけね」

 キレのいいシャッター音。遠い宇宙で、再びこの音に再会できるなんて。写真に撮られた里帆は懐かしさを覚えた。

 モケはカメラの液晶パネルをじいっと見つめていた。真っ黒くて大きい目で、まばたきもせず、里帆の画像から何を読み取ろうとしている。

「モケ? 写真、変?」

「ん? いや、すごくいい写真が撮れたよ。今ね、重力座標を読んでいたの。僕だけの秘密の情報旅行だよ」

「何それ?」

 不意にモケの頭上に黒い穴が開いた。ぽっかりと浮かぶ四角い黒。空間そのものがねじれて穴が開いたようで、黒の周囲の色も滲んでいる。

「この出会いを祝しまして、宇宙で一番美味しい食べ物をご馳走するよ」

 モケの頭上の極小ブラックホールからにゅるりと一本のヤモリの腕が伸びた。おしゃれなアウトドアジャケットの袖を歪ませて、同じジャケットを羽織るモケに何かを手渡す。

 楕円形の塊が乗ったお皿。焦げた醤油の匂いが何とも香ばしい焼きおにぎりだ。

「何なの、この現象は」

「気にしないでいいよ。それよりも、リホがこの宇宙で成し遂げることの方がよっぽどすごいことだ」

「モケって実はヤバい宇宙人?」

「かもね。リホもヤバいよ。この焼きおにぎりを見てよ。このお焦げ!」

 里帆は目をまん丸くして驚くしかなかった。こんな辺鄙な惑星で、大陸横断鉄道のコンパートメントの一室で、変なヤモリとニホン製一眼カメラと焼きおにぎりに再会するなんて。

「宇宙ではよくある話だよ」

 モケは人懐っこい笑顔で言った。そして一個の焼きおにぎりを見つめて、思い出したように付け加える。

「焼きおにぎり、半分ちょうだい」

 誰かが握った醤油焼きおにぎりはホカホカと湯気を立ち上らせていた。

 宇宙ではよくある話だ。

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